第二章 世界五分前仮説
16年前の自分に遭遇
気づくと暗闇の中に俺はいた。
母親の胎内のような、ぼんやりとした光を感じる暗闇の中である。
しかしどういうわけか、体の表面が熱く背中だけが冷たかった。ここは一体どこなのか。と、気をもみかけたところでスズメの声を知覚した。そしてそれを覆いかぶせるように聞こえてきたのはセミの声。ぎらぎらにぃにぃと耳障りな声で「いい加減に目を覚ませ」と俺に訴えている。寝ていたことに気づき、苛立たしげに目を開けてみる。視界に飛び込んできたのは、白みがかった青の世界だった。
「う、あったま痛てぇ……アン、どこだここ?」
起き上がって確認するのが面倒で、仰向けのまま首を振って辺りを確認する。視界はいまだぼやけているが、ここがどこなのかは理解した。顎が外れんばかりの欠伸をしながら体を起こす。
「神社のど真ん中で寝るとか何やってンだ俺は。チッ、ウチに帰ったらまたお袋の説教だ。あーメンドクセーなぁ」
意識朦朧としたまま鳥居をくぐり抜け、まだ誰もいない早朝の道を千鳥足で歩いていく。
「そういや今日は七夕イベだな。確かログボはオーブ50個、帰ったらソッコーで10連回すか」
そんなこんなで家にたどり着く。
「たでーまー」
誰に言うでもなく気だるげにそう言って玄関で靴を脱ごうとした。
「あれ、おれ靴履いてなかったっけ? てことは神社か、あー取りに行くのメンドクセー」
いまだおぼつかない視界に苛立ち、目を擦りながら玄関を上がろうと片足をかけた。とそこで、爪先から20センチほど先にある兎の刺繍が施された桃色のスリッパに目が留まった。その先には白い素足が生えている。
「お袋……」
朝食の支度をおいてわざわざ出迎えにきてくれたのか、細い指先から水滴がしたたり落ちている。
――あれ、いつの間に散髪したんだ? てか若返った? まさか。
まだ寝ぼけていると合点をつけ、
「あーその、なんってか……昨日の俺は、その、どーかしてたンだ。つまりその、あんなヒデーこと言って、すすすま」
お袋が突然、俺の言葉を遮って叫び出す。
「キャアアア! あ、あ、あなたなんなのッ?」
耳をさすりながらお袋を恨めしげに睨み、
「朝っぱらからギャーギャー喚くンじゃねえ! ……ン? なんだこの声? ゴホン、あーあー、チッ、風邪でも引いちまったか」
喉の具合を確かめていると、お袋がこう言ってきた。
「あなた、なんて格好してるのよ……」
「はあ? なんだよそれ、当てつけかよ? 周りくでンだよ、端から謝れって言やいいじゃねか、たくメンドクセーなぁ……ゴホン、あー、昨日はついカッとなっちまって、どーもスミマセンでした。はい、ちゃんと謝ったからな。これでブチブチ言うなよ」
とそこで、今度は洗面所から歯磨きをしながら親父が出てきた。普段は物言わぬ親父だが、なんら連絡もなく外泊したこの俺に、ここぞとばかりカミナリを落としてくるかもしれない。ここは物を言われる前に先手を打って謝るべきだ、と判断して襟を正した。
「親父、その、き、昨日は黙って外泊して、わわ悪悪悪……」
するとなぜか親父は俺を見た途端、目をむいて口から歯ブラシを落下させた。お袋に続いて親父までもこの始末。もはや怒りを通り越してため息しか出ない。
「朝っぱらから夫婦揃って一体何がしてンだよ? そんなに俺が悪いって事が言いたいのかよ、アー?」
続いて今度は二階から、思わずつられそうになる欠伸をしながら、ひとりの少年が階段を下りてきた。
「母さん、朝から一体何の騒ぎ……うわっ!? うわあああッ!!」
と、そいつは俺を見るなり驚天動地に驚き、尻餅をついて階下で着地をきめ、俺を見たままあんぐりと口を開けて硬直した。
「誰だテメー? てかなんで俺の部屋から……んんッ?」
――はて、どこかで見覚えが。
俺はいまだ覚醒しきらぬ脳に苛立ち、こめかみ辺りを叩いたり、頭を揺さぶったり、目を何回も瞬かせる。そして、改めてそいつを見た。
「お、オメエ……」
校則ギリギリの長さでセンター分けにしてあるこのダサいヘアスタイル。ベビーフェイスとからかわれ、あの世代の女子にはまったくウケなかった憎らしい童顔。声変わりは一体いつなんだ、とお袋に抗議した忌まわしきユニセックスボイス。そしてトドメはチンチクリンのダサダサで、市内中学の中で一番酷評され続けていた懐かしの学生服。
俺の脳がある結論に達した。
――俺がいる。
厳密にいえばあの頃の俺。間違いない。これはまさしくあの頃の、激しく青く、そして有り余った力を燻らせるだけでどうすることもできなかった中学時代の、
「俺だ……」
驚愕で微動だにしない三人を前に、とうとう俺にお鉢が回ってきた。
「はああああ!? な、なんでお前がここに、って俺は? ど、どういうことだこれーッ!?」
俺は押っ取り刀で玄関から上がり、いまだ放心状態のそいつを掴んで頭の旋毛から白い靴下の先までじっくりと嘗め回すように観察した。だが、何度見ても結果は同じだ。紛れもなく過去の俺そのものだ。
「コイツがここにいるってことは俺は一体誰だ? いや俺はお前だ! あれ? あーわかったぞ、コスプレか。やいてめえ、なんで俺の中ボー時代のコスプレしてンだッ!」
いまだ硬直が解けぬこいつの首をもぎ取らんとばかりに揺すっていると、お袋が喉から絞り出すような声でこう言ってくる。
「あなた、自分で何を言っているのか分かってるの? あなたこそ一体、誰なのよ……」
実の母親とは思えぬような言動が混乱に拍車を掛けた。
「誰って、テメーの息子に決まってンじゃねえか! 笑えねえ昭和ギャグかましてンじゃねえ!」
「あなたの言ってることが全然理解できないわ。だってあなたは……ちょ、ちょっと、そのハンカチ見せなさいッ!」
「理解できねーのはテメーの脳ミソ――、ってハンカチ?」
そう言われて、ハンカチを握っていたことを思い出した。目の前にかざしてみる。赤糸でイニシャルを施したお袋手製の白いハンカチ。あれから16年が経過してだいぶ古ぼけてはいるが、片時も離すことがなかった俺の大切な宝物のひとつである。
俺は今、こともあろうに自分の母親から正体を疑われている。
なぜ? こっちが聞きたい。
一夜にして記憶をなくしてしまったのか、あるいは昨日の一件をまだ根に持っていて、その意趣返しをしようとしているのかは分からない。だがいずれにせよ、これで事態は収束する。なぜなら、このハンカチの所持者だという事実が、俺の存在証明に他ならないからだ。
俺は一転勝ち誇った顔で、葵の御紋を掲げるかの如く彼らに向かってハンカチを突き出した。
「やいやいやい、目ン玉ひん剥いてよく見やがれ! これは正真正銘オメーに貰ったハンカチだ! まだ根に持ってンのか知ンねえが俺を困らそーたってそうはいかねえ。ガキまで仕込んだのは流石の俺もおったまげたが、出来の悪ィ家族コントはこれで終わりだ! さっさと朝飯もってこいッ!」
と、叫びざまお袋に向かってハンカチを投げつけた。お袋は恐る恐るそのハンカチをつまみ上げ、しげしげと眺めたあと、昔の俺を忠実に再現したコスプレ野郎に向かってこう言った。
「翔。昨日貴方にあげたハンカチ、見せなさい」
「チッ、性懲りもなくまだ悪足掻きしようってか……」
軽々しく俺の名に反応するコスプレ野郎はそう言われると、おもむろにズボンのポケットから真新しいハンカチを取り出してきて、お袋に手渡した。
「な、なんでテメーがそれを……?」
焦りを覚える。
姿かたちはおろかハンカチまで仕込むという高次元コント。どこの馬の骨を雇ってきたのかは知らないが、このコスプレ野郎の芸はどうみても一級品だ。
――そうか、わかったぞ。
お袋はこの一連の茶番劇に乗じて、こいつを本気で息子として迎える気なのだ。俺と冷戦中の親父にとってはむしろその方が都合がいい。このガキを迎え入れ、社会のゴミになり果てた俺を家から追い出し、人生をやり直そうという魂胆なのだ。
お袋は真剣な眼差しで二つのハンカチを交互に眺め、
「あなた、これを誰に貰ったの?」
使い古してる分、圧倒的に不利なのは俺の方だ。
「だ、だからオメーに貰ったって何度も言ってンだろ!」
「とにかくこの事は保留にして後で話し合いましょう。そんなことよりもあなた……」
お袋が震える指で俺をさしながら言い淀む。
「な、なんだよ? もったいぶってねーで早くその先を言――」
「なんで……、裸なの?」
「は?」
お袋は間髪入れず、
「それに、女の子なんだから、裸で歩いちゃだめじゃない」
――え、裸? て、俺が女だと!?
何を言っているのか理解できない。が、実は心当たりのようなものを先ほどから感じていた。
確かに、先ほどから薄ら寒い気はしていたし、背中辺りが妙にさわさわしているのも気にはなっていたし、胸の辺りにも違和感を感じる。
発言の真相確かめるべく即刻下を見て、
上げた。
「……なッ!?」
もう一度下を見る、そしてすぐに上げる。
頭の中に火がついたように覚醒した。
「なんだよこれ……」
先端に桃の実がついた雪の丘がふたつ。言わずと知れたアレだ。そして、言われた通り素っ裸だ。
「なんじゃこりゃあああああっ!」
胸にできたふたつのソレを両手で持って揺さ振る。俺が言うのもなんだが、どこのAVに出しても恥ずかしくないほどの双丘だ。胸に生まれたふたつの丘を鷲づかんだままお袋に詰め寄り、
「やいババァ! なんで俺にこんなモンがついてンだ! てかなんで俺がスッポンポンなンだよッ!」
「ちょ、……は、な、れ、な、さいっ!」
お袋にすげなく突き離され、あまりのショックで糸の切れた人形のようにその場にへたり込む。
「さっきから言ってるじゃない。貴女、一体誰なのよ……?」
「俺は……」
誰なのか。
俺は俺であり、他の誰でもなく正真正銘時生翔本人であり、独身ヒキニート齢30才の男性である。
だがなぜ女なのか。
一夜にしてなぜ女になってしまったのか。つまりこのままだと、独身ヒキニートの時生翔齢30才男性である証明ができないということになる。唯一の存在証明となるハンカチはもはや無価値に等しかった。
「そうだッ」
俺は弾かれたように立ち上がり、モアイ像となった親父を押しのけ、洗面所に走った。
「ちょっと、どこ行くのよ!」
一階奥の突き当たり。入ってすぐの鏡に自分を映しだした。
長い黒髪。艶っぽい顔。雪のような肌。そして豊かな双丘。
鏡を見ながらゆっくりと、触診するような手つきでそれぞれの部位をじかに触って確かめていく。
「誰だよコレ。ホントに俺なのか……?」
鏡に映る自分から片時も目を離さないようにしてグーチョキパー。最後に己の頬を思いっきり引っぱたく。頬に残る赤い手の跡と遅れてきた痛みが、これが現実だという事を証明している。
家族の不可解な行動にようやく合点がいった。
「夢じゃねえ。じゃあなんで俺が……女なん、だ……」
電源を引っこ抜かれたように意識が遠のいていく。
……キャアアッ! あなた、翔。どっちでもいいから早く来てっ……
タイミングよく駆けつけたお袋が、洗面所の床に倒れこんだ俺を抱きかかえながら助けを呼んだ。
――耳元で叫ぶんじゃねえっつーの。
家に着いたときから薄っすらと感じていたが、あらためて周囲を見回すと、どこもかしこも懐かしさにまみれている。夏の緑を想起させるバスマット。洗濯機の横に掛けられたうさぎ柄のフェイスタオル。風呂場から流れる石鹸の匂いも、お袋の陽だまりのような暖かい匂いも。この場所に限らず、家にあるものすべてに懐かしさが感じられる。遥か昔に使われていた物が使われており、置かれてないものが置かれている。
――なんでこうなった。
若返った親父とお袋。そして、昔の俺とソックリな少年。
お袋は翔と呼んでいたが、では一体俺は誰なのか。一晩で一体何が変わってしまったのか。
――まさか、過去に?
いや、それだとこの状況の説明がつかない。
俺が女になったことの、説明がつかない。
壊れかけのテレビが明滅するかのように意識が切れかけている。俺は深まる謎を残したまま、目が覚めたときには元の世界に戻りますようにと願いながら、逃げるように深い闇の中へと身を委ねた。
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