歩けど荒野は進まない
桜樹 秋人
ある男
ある所に、一人の男がいた。
その男の着ている白シャツは多少よれ、袖丈が長いばっかりにすっぽりと指先までを覆っている。それは男がゆったりとした動きで歩を進める度、パタパタと捲れては戻る。上から二つ開けているボタンは男がシャツを着るときの癖だ。その開いた首元から覗く肌色は、何日も身体を洗っていないせいか、はたまた男の歩いている周囲の荒んだ環境のせいか、色味が悪い。
履いているジーンズパンツは、これまた全体的によれていてダボついている。丈は長すぎて、幾度か靴で裾を踏んでつんのめってしまっているほどだ。このパンツは素地なのか、はたまた周囲の汚れか、煤のようなものが全体的に散らばっている。
「はあ⋯⋯」
男はため息をして、進めていた歩をふと止めた。360度どこを見回しても、景色が一辺倒でなにも変わらない。進めばすぐに変化があるだろうとタカをくくって歩き始めたのはいったい何時間前なのか、それとも、じつはまだ一時間も経っていないのかもしれない。時間の感覚がすっかり無くなってしまっていた。
とりあえずは、踵とつま先の向きが唯一の道しるべであり、足の向きを変えるとどの方角から来たかもわからなくなる、それほどに周囲はなにも変わらない。踵が通ってきた方向、つま先が進もうとしている方向⋯⋯。なんて淡い方位磁石なんだろうと孤独に苦笑する。
ビュオオオオッ
突風が前方から吹き込んできた。
気を抜いて歩いていた男の上体が後ろへと押され、立て直そうと咄嗟に出した右足が裾を踏んでしまい、派手に転げ倒れた。
強弱を気ままに変化させる風は、追い風になったかと思えば向かい風になり、不規則がこじらせすぎて次はどこから吹いてくるかまったく予想がつかない。
男は仰向けになり、ぼーっと空を見上げていた。
転げる拍子に半回転したために、どの方向に進んでいたかがまるでわからなくなってしまった。突風は治まった様子で、まるで何ごともなかったかのように静寂を湛えている。
「方位磁石が無くなったよ⋯⋯」
男は振り出しに戻ったような気持ちで、ひとり呟いた。
——どれくらいの時間が経っただろうか。
男は、何一つ変わらないどんよりとした空を見つめていた。眼前を不規則な動きで動き回る、塵とも煤とも形容しがたいものを気ままに目で追いながら、じっと微動だにせず、大の字に寝転がっていた。
何も変わらない。それ故に、何もわからない。
情報がないということは、これほど脆弱なものなのか。改めて、情報という媒体の大切さを思い知らされる。
どこで知ったのか、ふと、『ビジネスにおいて、情報ほど必要で重要なものはない』という言葉を思い出した。どこかで聞いたのか、あるいは自分自身でそう感じたのか、思い出したというにはあまりに不鮮明な記憶だが、いまやこの言葉こそが真理なのではないかと思う。
情報が欲しい。
西暦何年の何月何日の何時何分か知りたい。⋯⋯いや、そもそも時間などは所詮、現象の経過度合を刻むために人間が創り出したものであって、こんな全てが不確かで判明していない状況においては知ったところで活用できないので、必要ない。なら、ここがどこなのか知りたい。自分が誰なのか知りたい。どこから来て、どこへ向かえばいいのか知りたい。夢なのか現実なのか知りたい。⋯⋯⋯⋯夢であればすべて解決だな。
だが、そうではないのは五感の鮮明さからは明らかで。
⋯⋯おなかが空かない。食欲が沸かない。それは、決して食べ物自体を忘れたわけではない。
おいしいごはんは、想像すればいくらでも浮かぶ。
和食、洋食、中華⋯⋯具体的には、寿司に生姜焼き定食にオムライスにハンバーグに豚骨ラーメンに小籠包に⋯⋯頭の中にはいくらでも料理が食欲を誘うかのように溢れてくるが、絵として認識する以上の現象は何も起こらない。この感覚はなんだろうか。これはひょっとすると、悟りを開いてしまっているのか。虚無の極致に達しているのかもしれない。なにも必要とせず、なにも欲しない。
ふと男のなかで、一つの箴言のようなものが生まれた。
——五感を刺激するべき理由がない——
この際、哲学者にでも転身してみるか。いまならこの世界における真理が見出せるかもしれない。
そう思ってみたとき、以前の自分のことすらわからない自分が何を言ってるのか、馬鹿らしくて微笑した。
相変わらずあたりは薄闇が埋め尽くしており、せいぜい視認できるのは10m先。風はわがまま放題に、そよかぜから嵐ほどに強弱を変え、東西南北(方角はわからないが)から吹きつける。おまけに、薄闇をさらに深刻化させているのが、煤のような綻ぶほどに細かな黒い粉。これが吹きつける風と相性抜群に視界の邪魔をする。
歩けど荒野は進まない 桜樹 秋人 @sasori_za
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