第5話


 「おぎゃーーおぎゃーー」


 しーんと静まり返った室内に、もはや恒例とも言える泣き声が木霊した。

 その声に目が覚め、俺はしぶしぶと重いまぶたをこじ開ける。

 寝起きの目に最初に飛び込んで来たのは、まだ日の光が入っていない薄暗い部屋の天井。その天井に朧げと何人かの顔が見える。

 念の為に言っておくが、別に寝ぼけている訳ではない。この部屋の天井には、往年のブルースシンガー達のポスターがいくつも貼られているのだ。


 BBキング、スティーヴィーレイボーンといったブルース界の巨匠たちが、この憂いた状況を体現するかのように渋い顔でギターをかき鳴らしている姿が目に映る。

 そんな姿をぼーっと眺めていると、本来なら聴こえるはずもないスローテンポのマイナーブルースが頭の中に流れ始めるのだから、人間の脳とはまったくもって不思議なものだ。

 ちなみにポスターが貼られているのは天井だけでは無い。この部屋の壁という壁には、ジャンルを問わず、母ちゃんが好きなミュージシャンの顔がびっしりと並んでいた。


 俺は布団からゆっくりと手を伸ばし、枕元に置かれた目覚まし時計を手に取る。

 時刻は午前四時二十三分。そりゃ、まだ部屋も暗いはずだ。

 時計を元の位置に戻し、軽く伸びをしてから隣に敷かれた布団へと目をやった。

 仕事が長引いてるせいか布団の主はまだ帰って来てないらしく、代わりに黄色のふんわりと柔らかそうなベビー服に身を包んだ我が子の姿が目に入った。

 早朝にも関わらず元気いっぱいに泣きわめいている所を見ると、今日も別段変わった様子はなさそうだ。......それにしても。


 ーー眠い。


 この子がうちにやって来てからというもの、連日寝不足が続いていた。

 なぜなら新生児はこうやって三時間置きに目が覚めては、わんわんと泣き出すからだ。

 最初はどこか具合が悪いのかと思い心配したが、どうやら問題はないらしい。

 母ちゃん曰く、産まれたばかりの赤ん坊とは皆そういうものらしいのだ。

 泣く理由は様々だが、だいたいはお腹が減っているか、おむつを替えて欲しいかのどちらからしく、その欲求さえ満たしてやればまるで魔法がかかったようにぴたっと泣き止むから面白い。


 まぁ俺としては、このまま二度寝を決め込みたいところだが、そうも言ってはいられない。母ちゃんがいない間は、俺がこの子の面倒をみなくちゃならないからだ。

 心地よい布団にさよならを告げる決心をした俺は、亀が甲羅から首を伸ばす時のようなのっそりとしたモーションで布団から這い出した。

 そして泣きじゃくる娘を抱き上げ、上下に揺らしながら背中をポンポンと軽く叩いてやる。こういう風にあやしてやると、少しだけだが落ち着くみたいなのだ。

 自分で言うのも何だが、最初は苦戦を強いられた子どもの世話も今じゃそこそこ出来るようになっていた。それもそのはず、ミラ達がうちにやって来てから既に、三日が経過していたからだ。


 あの衝撃的な事件があった翌日、正確に言うと昨日の朝九時半頃、織春が両親を連れて家にやって来た。理由は言うまでもない、ミラ達の事でだ。

 うちと織春の家は昔から仲が良いというか、ほぼ家族同然の付き合いをしている。

 なので親同士もよく互いの家を行き来するため、どうやってもミラ達の事を隠し通す事が出来ないのだ。そんな訳で織春の両親にも事情を話し手おくべきだと、母ちゃんが話し合いの機会を設けたのだった。

 それに織春のおっちゃんとおばちゃんは、小さい頃から俺の事を我が子のように可愛がってくれており、もはや第二の親と言っても過言ではない。

 ゆえに九いちじく家で起こった問題は、八雲やくも家の問題とも言え、今回の件に限らず何かある度にこうやって両家が集まり話し合いが行われていた。


 織春の両親も息子からある程度事情を聞かされていたといえ、ミラの姿を見るなり二人とも腰を抜かしていた。あのオカルト好きな織春のおっちゃんでさえそうなのだから、うちの母ちゃんが気絶しなかったのは本当に奇跡だと言える。

 まぁ、そんなこんなで今回の話し合いはミラとカクタスを含め、三家で行われる事となったのだ。

 議題は色々と上がったが、やはりメインとなったのは産まれた子どもをどうするかについてだ。全ての話を聞き終えた織春のおっちゃんは、記憶を消してもらうのが一番だと力説した。なんせ俺はまだ十六で、親になれる歳じゃない。

 それに、仮にこのままミラ達と一緒に暮らしていくとして、どうやって世間からミラ達の事を隠すのか?それが一番の問題点となる。

 普通の人間ならともかく、ミラは宇宙人だ。もしその事がバレでもしたら、大騒ぎどころの話ではない。それに、子どもにだって危険が及ぶ可能性だってある。

 人間と宇宙人とのハーフって事が公になれば、どこぞの研究所にでも送られモルモットにされるかもしれないのだ。おっちゃんはその事を危惧して、記憶を消す事を強く勧めてきた。だが母ちゃんは『これは夜真十と、そこの宇宙人との問題だ。あたしらがとやかく言う事じゃねー!』と、おっちゃんの意見を強引につっぱねた。


 当然、織春のおっちゃんは激怒した。

 未成年の子どもにそんな大事な事を決めさせる親がどこにいる!と言って、母ちゃんと掴み合いのケンカになりかけた。まぁ、無理も無い.。おっちゃんの言ってる事の方が世間一般では正しいのだから。

 だが、俺には母ちゃんが何て言いたいのか、なんとなくだが理解できた。

 一見、親にあるまじき発言ともとれるが、そうじゃない。

 母ちゃんは俺の事を信じ、俺が出した答えならどんな事でも受け入れてやると、そう言いたかったに違いない。これは長い時間を共に過ごした親子だからこそ分かる事なのかもしれない。口が悪く言葉足らずな所も多々あるが、母ちゃんは誰よりも優しく、温かい心を持った人なのだ。

 だからこそ俺は、今こうやってこの場にいる事が出来るのだから......。


 結局、一日では結論が出なかったので、話し合いは後日に持ち越される事となった。話し合いが終了し、玄関先で織春達を見送っていた時、隣にいた母ちゃんが遠い目をして俺にこんな事を言ってきた。


 「夜真十、誰に何て言われようが気にするな。どうせお前の人生だ、好きなように生きりゃ良い。ただし、ちゃんと悩んで、悩み抜いた上で答えを出せ。いいな?」


 そう言い残し、母ちゃんは自分の部屋へと戻って行った。





 「好きなように生きろ......か」


 昨日の母ちゃんの言葉を思い出し、俺は深いため息を吐き出す。

 実際、どうしたら良いのかまったく検討がつかない。普通に考えれば俺は被害者で、別に責任など取らなくても良いはずだ。それは昨日の話し合いに参加した全員が同じ意見だろう。だからこそカクタスも記憶を消すという提案をしてきたのだ。

 しかし、どうしてもその提案を安易に受け入れる事が出来ない自分がいた。

 おそらくこの子に自分の境遇を重ねているからだろう。


 だが、そうは言っても現実は厳しい。

 子どもを育てるとなれば自分の時間はほとんどなくなるし、それに金銭面での問題も出て来る。うちの家は別に裕福では無いので、はっきり言ってミラとこの子を養うだけの余裕は無い。九家の家計を管理している俺が言うのだからそれは間違いない。それに、俺には花澤さんという心に決めた人がいるのだ。......まぁ、ただ単に俺の片思いなだけなのだが......。とにかく、そんな色々な事を加味した上で、ちゃんと答えを出せと母ちゃんは言いたかったのだろう。 


 だけど......。


 「はぁ......ほんと、これからどうすっかな」


 考えれば考えるほど、出口の無い迷宮へと足を踏み入れた気分になり憂鬱さが増してくる。てか、こんな事どう考えても一高校生が手に負える問題じゃないだろ。

 これぞまさに八方ふさがりと言うやつだ。このままずっと考え込んでいては夜になってしまうと思った俺は、結論を未来の自分へと丸投げし、今できる事をするため我が子を連れ部屋を出た。


 明かりが灯っていない薄暗い廊下に出てみると、一筋の光が床に伸びている事に気がついた。どうやらその光は隣にある俺の部屋から出ているらしく、同時に話し声も薄らと聞こえてくる。まぁ、まだドアを修理していないから部屋の明かりが漏れているだけなのだが、それにしてもあいつら何でこんな時間まで起きてるんだ? 

 そんな疑問を抱いた俺は、そっと自分の部屋の中を覗き込む。


 『ほほーなるほど!夜真十様はこういったプレーがお好きなのですね。いやはや、これはまたマニアックな。いいですかミラ様、人間には好みというものがあります。ですから、もし夜真十様とこういったシチュエーションになった際には、こんな風にご奉仕するのですよ』


 「ワカッタ」


 『我々は居候の身、夜真十様や夏鈴様には多大なご迷惑をおかけしております。ですから、少しでも何かのお役にたたなければなりません!』


 目に映ったのは、ベットの上にちょこんと座ったミラの後ろ姿だった。

 ミラは入り口に背を向け、お姉さん座りで腹のカクタスと何やらひそひそと話をしていた。途中からしか会話を聞けなかったので話の全体像は分からなかったが、どうやら俺と母ちゃんに迷惑をかけないよう話し合っているみたいだ。

 なんだ、意外と義理堅い所もあるじゃないか。そう関心した俺は、ミラの背中に向かってねぎらいの言葉をかけてやる。


 「おはようさん。朝早くからご苦労なこったな」


 『ひっ!!!』


 俺のその声にミラの体がびくんと跳ね上がる。

 ミラはあたふたと何かを隠すような素振りを見せた後、すっと俺の方に向き直る。


 『こここ、これは夜真十様!お早いお目覚めで、どうかなされたのですか?』


 ミラの腹に張り付いているカクタスが、明らかに挙動不審な態度を見せる。

 逆にミラはいたって冷静だ。平然な顔で俺の事をまじまじと見つめていた。おそらく、さっきのばたばたとした動きは、全てカクタスのものだろう。


 「あぁ、この子が泣き出したからな。今から下に降りてミルクを飲ませようと思ってたところだ。それにしてもお前ら、何やってたんだ?」


 『いっ、いえ。別に大した事ではありません。この星の情報収集と言いますか何と言いますか......』


 「情報収集?」


 あれ?何か相談してたんじゃなかったのか?俺の聞き間違いか?

 そんな事を考えながらミラの足下へと視線を落とす。

 そこには本棚にあったはずの漫画や音楽雑誌を始め、授業で使う教科書などが布団の上に散らばっていた。


 「はぁ......別にいいけどよー。後でちゃんと片付けとけよ。ちらかすと母ちゃんがうるせーからな」


 『もちろんでございます!しっかりと元に戻しておきます。ねっ、ミラ様?』


 「ソコハダメデス。ゴシュジンサマ」


 「はっ?ご主人様?」


 『ちょっとミラ様!あんた何言ってんの?!せっかくバレてないのに!いいえ!夜真十様、何でもありません!何でもありませんよー!』


 カクタスはそう言って、ミラの体を使いピョンとベットから飛び降りるなり、そそくさと俺の元までやってきて両手で背中を押してきた。


 『ささっ!一緒にミルクをあげに行きましょう!我々も全力でお手伝いせていただきます!』


 「おい!なんだよ、バレてないって!お前らなんか俺に隠してるだろ!」


 『隠してるだなんて滅相もございません。我々は夜真十様の忠実なるシモベ、ご主人様に隠し事なんてするはずないじゃないですかー!さぁ、早く行きましょう!』


 「いや、手伝うって言ったてそんな難しくーー」


 『ーーいいえ。やらせてくだい!我々はこの家にお世話になっている身。何かお役に立ちたいのです。それに、夜真十様は明日から学校という所に行かれるのでしょ?その間は我々がその子の面倒を見る事になるので、今のうちに色々と手ほどきしていただきたいのです』


 「あっ......」


 言われてみればそうだ。ばたばたしていてすっかりと忘れていたが、今日がゴールデンウィークの最終日だった。俺は明日から学校だし、昼間は母ちゃんが家にいるとはいえ、寝ずにこの子の面倒を見させる訳にはいかない。いくら超人的な肉体能力を持つ母ちゃんとはいえ、何日もそんな事が続けばいつか体を壊してしまう事は目に見えている。母ちゃんも所詮は人の子なのだ。

 当分学校を休んでこの子の面倒をみてたいが、そんな事を言い出したら母ちゃんも織春のおっちゃんも猛反対するに決まっている。なら、選択肢は一つしか無い。

 かなり不安は残るが、ここはミラ達の手を借りるしか道はなさそうだ。

 そう思い立った俺は、くるりと体を反転させ二人に檄げきを飛ばす。


 「よし!んじゃお前らに子どもの世話の仕方を教えてやる。だが言っておく、俺は厳しいぞ。生半可な気持ちでやってとぶん殴るからな!」


 『了解しました!』


 「ワカッタ」


 いっちょまえな返事をした二人を連れ、俺は一階にあるリビングへと向かう。

 我が子を落とさないよう慎重に階段を下り、ミラにリビングの扉を開けてもらい中に入る。その足でテレビの向かいにあるソファーへと移動し、その上に娘を寝かせた。


 「んじゃまずはミルクの下準備からだ。ついて来い」


 俺はミラ達を連れ、キッチンへ移動する。

 こじんまりとしたシステムキッチンの上には数々の調理器具の他に、消毒が済んだ哺乳瓶や粉ミルクが入ったボトル、そして適温を維持したポットなどが置かれている。

 俺は手を洗いと消毒を済ませた後、食器棚から銀ボールを取り出し、そこに冷水を貯める。

 本当は母乳を飲ませてやりたいのだが、なぜかミラにはそういった機能が無いらしく、こうして粉ミルクを作るしかないのだ。出産の仕方を見る限り、ケプラス星人も地球人に近い種族だと思っていのだが、どうやらそうでは無いらしい......。


 「よし、じゃあ早速始めるぞ!まずは哺乳瓶に粉ミルクを入れるんだが、量は付属のスプーンの半分ぐらいでいい。んで、ミルクを入れたらそこにポットのお湯を注ぎ込む。でも、今入れるお湯の量は出来上がりの半分くらいでいいからな。その後、火傷しないように清潔なおタオルを哺乳瓶に巻いて、こうやって軽く振りながら溶かしていく」


 『ほーほー』


 「で、残りのお湯を注いでさらによく溶かしたら、蓋をしめて横にある銀ボールにつけて冷ますんだ。ここでの注意点は、だいたい人肌程度にまで冷ますこと。いいな?」


 『はい!了解しました』


 「ワカッタ」


 ミラはこくりと頷き、腹のカクタスもミラの体を使い勇ましく敬礼をした。


 「んじゃ、冷ましてる間に次はおむつの替え方を伝授する。色々と用意する物があるからついて来い」


 リビングの奥にある風呂場へと移動した俺は、棚から洗ってある汚れても良いバスタオルと、おむつの替えやウエットティッシュを手に取り再びソファーまで戻る。


 「まずは、このバスタオルをこの子の下に敷く。そして、おむつを止めてるストッパーをはがして、ゆっくりと開く」


 おむつを開いてみると、どうやら大きい方はしていないようなのでホッとした。

 産まれたばかりの赤ん坊はミルクしか飲まないので当然排泄物も液体だ。

 いくら自分の子であったとしても、朝からビチビチのウンチを拝むのは正直言ってかなりきついものがある。


 「今はウンチをしてないが、もしウンチをしていたら、こうやってウエットティッシュで大事な所を拭いてやる。ただし、ここで重要なのは上から下へと拭く事だ。もし逆にやってしまうとウンチのばい菌が尿道口に入ってしまい、尿道炎を起こす可能性があるからな。女の子は男の子より尿道炎になりやすいから絶対に気をつけろよ」


 「ワカッタ。ウエカラシタ」


 『了解しました。それにしても夜真十様は、よくこんな事を知ってらっしゃいますね』


 「まぁな。母ちゃんから教えてもらったってのもあるが、一応ネットでも色々と調べたからなー。ほんと、便利な世の中になったぜーって、いけね!こんな話をしてる場合じゃなかった!いいか、おむつを替える時は極力スピーディーにだ!長時間お腹を出したままでいると風邪をひかせちまうからな」


 俺は汚れたおむつを近くにあったゴミ箱に入れ、新しいおむつを手に取る。


 「で、こうやって赤ちゃんの膝の裏を手で軽くお腹の方に押し上げてやって、新しいおむつを下に敷く。それからこんな風にストッパーを止めてやれば完成だ。ここでの注意点は、優しく足を持ち上げてやる事。無理にやると股関節を痛めちまうからな。それと、おむつは指が一本入る程度に絞めてやる事。分かったか?」


 二人の元気な返事を聞いた後、もう一度キッチンへ戻り、再び手洗いと消毒を済ませてから哺乳瓶を手に取る。うん。良い感じに冷めたみたいだ。「じゃあ、次はーー」と言いかけた所で、横にいたミラを見て俺は絶句した。

 なんとミラが包丁を手に取り、何を血迷ったのか自分の人差し指の腹にその先端をブスリと差し込んでいたのだ。


 「イタイ」


 「アホかお前!!!何やってんだー!」


 俺は慌てて哺乳瓶を置き、ミラの指を強く握る。ミラの血は人間と変わらず赤く健康的な色をしていたが、勢い良く刺したせいで次から次へと傷口から血が溢れて出してくる。この出血量を見る限り、かなり傷は深いようだ。このままじゃらちがあかないと思った俺は、救急箱を取りに行くまでの間、ミラの指を口に食わえ止血する事にした。


 「エ......夜真十......ナニヲ」


 突然ミラの顔が赤みを帯び始めた。

 病的なまでに白かったはずの頬はキレイな桜色に染まり、やや上目遣いで俺を見る。


 「うるへー、黙って歩へ」


 ミラの指を食わえたまま、そくざに救急箱を取りに行こうと思ったその時。


 「お前ら......何やってんだ?」


 突然、第三者の声がした。

 その声の方へ視線を送ってみると、いつの間にか仕事から帰って来ていた母ちゃんが、呆れた顔でリビングのドアの前に立っていたのだ。


 「ちちち、違うんだ母ちゃん!こいつが指を切ったから止血を......」


 すぐさまミラの指を口から指をすっぽ抜き、弁解しようとした俺に向かって、カクタスが冷静な口調で言う。


 『夜真十様、大丈夫ですよ。ミラ様の体内にはナノマシンが入っておりますから、そんな傷くらいならすぐに治してしまいます』


 「えっ......そうなのか?」


 ミラの方へ顔を向けてみると、ミラは両手を胸にあて、やや顔を背けながら小さく頷いた。


 「何だ......そうだったのか。心配して損したぜ。てかお前!何であんな事したんだよ?!」


 「............」


 ミラは俺を見上げかたと思うと、急にうつむき口ごもる。

 なんだこいつ......こんなしおらしい態度とかもとれるのか?

 怒りよりもミラの意外な一面を見た事に驚いていると、気まずい雰囲気を見兼ねた母ちゃんがミラのフォローに回りだした。


 「まぁ、良いじゃねーか。それより夜真十、お前なんかしてたんじゃねーのか?」


 「はっ!そうだった!」


 母ちゃんのその言葉に自分の使命を思い出した俺は、ミルクを持ってソファーへ舞い戻る。そして娘を抱き上げようと手を伸ばした瞬間、「いい。ミルクはあたしがやるからお前は片付けでもしてろ」と、手を洗って戻って来た母ちゃんに哺乳瓶を取り上げられた。

 自分が促したくせになんて理不尽な!と憤慨しそうになったが、当然母ちゃんの方が手慣れているので、俺は仕方なくキッチンに戻りスポンジを手に取った。

 母ちゃんはどかっとソファーに腰を下ろし、片手で孫を抱きかかえた後、そっとその小さな口に哺乳瓶の先を差し込んだ。お腹が減っていたのか、中のミルクがどんどんとなくなっていく。そんな母性溢れる姿を観察するように、ミラはじっと母ちゃんを眺めていた。


 「そう言えば、さっきの話で思い出したんだが、お前はいつごろ直るんだ?」


 ふいに母ちゃんは、カクタスを見て言った。


 『実は......思っていたより損傷がひどく、最低でも三ヶ月以上はかかってしまうと思われます』


 「はぁ!?三ヶ月!」


 俺は手を止め、思わず大声を上げてしまった。

 三ヶ月だって?そんなに一緒に暮らさなきゃならないのか?

 てか、地球より進んだ科学技術を持ってるんじゃないのかよ。それならミラの傷を治すみたいに、パパッと修復出来てもおかしくないじゃないか。

 そんな俺の疑問は、次のカクタスの言葉で打ち消された。


 『機体を直すのにはそれほど時間はかからないのですが、記憶を消すとなると膨大なエネルギーが必要となります。なにせ生物の脳は繊細ですから、間違って違う記憶まで消してしまわないよう、細心の注意が求められます。それに、記憶を消す方が昨日で二名ほど増えてしまいましたので、それを考えるとエネルギー充電にはおよそ、三ヶ月以上はかかりそうなのです』


 「そうか......」


 カクタスのその言葉を受け、母ちゃんはゆっくりと目を閉じ険しい顔で考え始めた。まぁ、そりゃそうなるわな。三ヶ月もの間、俺を含め三人も子どもの面倒を見なくちゃならないのだ。金銭面はもちろん、あれこれと問題を抱えた状態がそんなに続くと知れば、そりゃ考え込むのも当然だ。


 「なら、仕方ねー」


 数十秒後、考えがまとまったのか、ふいに母ちゃんは俺を見据えてとんでもない事を言い出した。


 「夜真十。何でも良いからこの子に名前をつけてやれ」


 「はぁ?!だって、まだ育てるって決めた訳じゃーー」


 「ーーんな事は分かってる。でも、名前がなけりゃ色々と不便だ。三ヶ月もの間、この子だのあの子だのって呼ぶつもりか?」


 「そりゃ、そうだけどよ......]


 「お前が決めなきゃ、あたしが決めるぞ。んーそうだな......ポチってのはどうだ?」


 母ちゃんは真顔で言った。


 「はぁ?何でそんな犬みたいな名前になるんだよ!おかしいだろ!」


 「そうか?お前の名前をつける時に考えた候補の一つだったんだがな?」


 「嘘だろ?!もしかしたら俺、ポチって名前になってたかもしんなかったの?!」


 「あぁ。でも薫子に『それだけはやめなさい』て言われたから夜真十って名前にした」


 なんという衝撃的な事実。まさかそんな候補が上がっていたなんて......織春のおばちゃんには感謝しても仕切れないな......。


 「ポチって名前が嫌なら、そこの宇宙人と相談して決めろ。そいつも一応親だからな」


 そう言って母ちゃんは、ミラを顎で指した。

 確かに母ちゃんのいう通りだ。三ヶ月もの間、名前が無いってのは正直どうかと思う。それに、まがりなりにもあの子は俺の子だ。ポチなんて犬みたいな名前で呼ばれるのはなんだか釈然としない。て言うか嫌だ。

 そんな事を考えていると、ミラが急に後ろを振り返り、無表情のまま俺につぶやいた。


 「夜真十ガキメテ」


 「おいおい、ちょっと待て!そんな大事なこと俺だけで決めて良いはずないだろ?それに、俺は記憶を消すかもしんねーんだぞ!そんな中途半端で無責任な奴に、子どもの名前なんて決めさせて良いはずーー」


 「ーーソレデモイイ。夜真十ニキメテホシイ......オネガイ」


 ミラは真剣な顔で俺を見つめ、そう言た。

 まだほんの三日しか一緒にいないが、ミラのこんな顔を見るのは初めてだった。

 それにこいつは今、お願いって言わなかったか?人は何かを願う時、必ずしも何かしらの欲求を胸に秘めているものだ。ならば、こいつにも欲求、すなわち何かしらの感情が芽生え始めたって事なんじゃないのか?


 どんな感情が芽生えたかまでは分からないが、明らかに出会った頃よりも口数も増えているし、心無しか固い表情の中にも感情の色が見え隠れするようになってきている。もしここでこいつの願いを断りでもしたら、せっかく灯った小さな炎を消してしまう可能性だってあるんじゃないのか。そう思い至った俺は、ミラの顔を見つめたまま小さく頷いた。


 「分かった。お前がそれでいいなら俺が決める」


 俺は母ちゃんの腕の中へと視線を移す。ミルクを飲み終えお腹がいっぱいになったのか、母ちゃんに抱かれながらスヤスヤと眠る娘の姿が目に映った。

 その幸せそうな顔を眺めていると、ふと、ある言葉が自然と頭の中に浮かんできた。思いつきも甚だしいが、これ以上は無いと思えるほどぴったりな名だ。

 母親似の美しい容姿と、世界でもっとも尊敬している人物から一文字とって。


 「美鈴みすず。......その子の名前は、美鈴にするよ」


 俺はミラへと視線を戻し、我が子の名前を告げた。

 ミラは無言のままこくりと頷くと、母ちゃんの隣に座り「ダカセテ」と言って、母ちゃんから美鈴を受け取った。


 「そうか、美鈴か。......ははっ、良い名前じゃねーか」


 と、母ちゃんはどこか嬉しそうに美鈴の顔を覗き込む。

 ここ数日、険しい表情が続いていたので、こんな風に笑った顔を見るのはなんだか久しぶりな気がした。現状は何も変わってはいないが、母ちゃんのその笑顔を見ていると、少しだけだが心が軽くなっていくのを感じる。


 「アナタハ美鈴。ワタシト夜真十の子」


 ミラは腕の中で眠る娘の顔を眺めながら、自分に言い聞かせるように何度もその名を繰り返していた。

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