第9話「頭洗ってあげるね」
「頭洗ってあげるね」
そう言って、僕は妻の髪を洗ってあげた。
「ねえ、私がおばあちゃんになっても、髪洗ってくれる?」
と、妻が言った。
「もちろん!」
僕は美容師だし訳もない事だと、その時は、ただそう思い答えたのだった。
妻は元々、僕が下働きで働いていた美容室でのバイト仲間だった。一緒に独立し、そして結婚。仕事は順調だった。妻が事故に合うまでは。
ピッピッピッ……
電子音の鳴る病室。妻は一命を取り留めていた。そう、命だけは。
それから日々の生活が一変した。僕は、家と店と病院の往復の生活になった。
「今日さあ、面白い客が来てさあ……」
「…………」
僕は、妻に話しかけた。
「今日の夕飯、何にしようかな?」
「…………」
意思の疎通が出来なかった。
そんな生活が、1年ほど続き僕は、妻を自宅に引き取った。僕だけでは大変なので、妻の親類や自分の親に助けてもらっての生活が始まった。
「どうだい?美味しいだろ。」
僕は、妻の好きなニンジングラッセの流動食を口へ運んだ。
「…………」
夜になると時々、何もかも投げ出したくなった。
「うわあああああああ!」
深夜、車を飛ばしながら叫んだ事もあった。
この先、どうなるか分らない不安。どうにもならない現実に潰されるように、酒に溺れていった。仕事が終わり深夜の帰宅。妻の様子を見る。そして酒だった。
そんな生活の中、身体はボロボロになっていった。それは、売上にも響いて行った。
自暴自棄。一日中、酒の日々になった。シラフが怖かったのだ。それでも、握り返す事などないのだけど、妻の手だけは何故か、毎晩握り締めていた。
ある日。酒と一緒に薬を飲んだ。妻の手を握り僕は、起きない眠りについた。
ピクッ
手が引っ張られた。ピクピクっと手が引っ張られたのだ。ハッと目を開ける。妻の手が、僕の手を引っ張っていた。
僕は、確かめるように妻の手を見た。本当に引っ張っていた。僕は起き上がった!しかし、急激なめまいと立ち暗みが襲った。
『マズい!死ぬのストップ!!』
僕は、痺れた足で何度も転びながら、キッチンに向かった。喉の奥に指を突っ込む。出せるだけ、とにかく吐き出した。そして、たくさん水を飲み、また吐き出し、119へ電話した。
電話し終え妻の元へ行く。頭が割れそうにガンガンする。妻を見ると……
私がいるのに死ぬな!
妻の目が怒って言っていた。
その後、店はバイトが頑張ってくれたりして、順調に大きくなっていった。来年には、2店舗目を出す予定だ。僕は、いつかのように妻に言った。
「頭洗ってあげるね」
そう言って、僕は妻の髪を洗ってあげた。
ねえ、私がおばあちゃんになっても、髪洗ってくれる?
と、妻が言った気がしたので……
「おばあちゃんになっても洗ってあげるよ」
と、言うと……
妻の目は笑っていた。
おしまい
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