第一話 赤い蛇は嫁になりたそうな目でこっちを見ている⑤
転がる
『お主らの責任ではない』
『ブァカだね。格好付けすぎなんだよ』
虚ろな目をした双子の横で、カボチャとカブが悼みを口にする。
すると、倒れている怜生の胸部から、赤い蛇が飛び出した。
花蓮は悲痛な鳴き声を発して宙を飛び、双子の間にある怜生の顔へ近寄る。
鼻先で彼の頬をつつく。ときおり、朝に寝過ごした彼をそうして起こすように。
彼の髪を噛んで引っ張る。構って欲しいとき、彼の注意を引くのと同じように。
それでも、彼はいつものように微笑んで、自分の頭を撫でてはくれなかった。
『――――ッ!』
花蓮は遠吠えのように声を上げた。
その姿は、不幸な死を迎えた親の隣で泣く幼児と、まったく同じものだった。
胸を抉るような光景をしばし見て、
「「――――殺す」」
溶岩のように煮え滾った憎悪の眼を、川辺の方へ向けた。
直後、二人の体が、魔力光を引いて流星のように走り出す。
『おい待たんか! いま殺されかかったのを忘れたか!』
『ブァカだね無駄死にするだけだよ! なによりとっくに逃げちまってるよ!』
「うっさい黙れ役立たず! アイツよくもおじさんを!!」
「絶対生かしておかない! 一番のお気に入りだったのに!!」
過剰運用された魔力を火の粉のように散らした姉妹は、逃げてきたときを上回る速度で道を駆け抜け、建物をジャンプ台にして夜景に舞い上がる。
『落ち着けぃ! 魔力を止めよ! 体を浸食しておるぞ!!』
『お止めブァカども! 体が人に戻らなくなるよ!!』
「知るか!」「殺してやる!」
燦と燐の目は火の如く輝き、髪からは燐光が散っていく。
侶魔が化けたものである武器や服も発火して、双子の姿は炎の化身となっていた。
燦と燐の体が直接燃えているわけではないが、鬼火たちの制止からして、これが二人の体に無害な現象ではないことは明らかだ。
「おじさんがいないなら!」「もう――」
それでも双子は、仔を奪われた獣のように牙を剥き、吠える。
「「――人間でいる意味なんてない!!」」
ドクン――と、心臓の鼓動めいたものが、天地に響き渡った。
燦と燐は足を止めて、発生源の方角に振り返る。
既に遠く離れた二人の目は届かなかったが、その発生源は――花蓮だった。
花蓮の蛇体に、赤い魔力が揺らめき、緋色の炎となっていく。
緋色の炎に溶けた蛇の体は、急激に拡大していった。
頭部と思しきところから髪のような炎が流れ出る。蛇の体から女の両腕と思しき形が枝分かれすると、浮かび上がった怜生の頭と体を抱き寄せた。
そうして花蓮と怜生が、諸共に緋色の光へ溶けていく。
緋色の光は中空で膨らんで、卵のような形状へと変化した。
鼓動はいまだそこから響き続けており、間隔が縮まるほど、卵が罅割れていく。
そして卵が砕け散る。
赤枝宮大魔学院の一角に、赤い光の柱が天まで立ち上った。
――怜生が目を覚ますと、果てしない緋色の空間にいた。
(どこ、だ……ここ……)
夢の中で意識が確かになったような心地で、怜生は周囲を認識する。
火の海だ――夕焼けより生々しく、血にしては輝かしい色が、世界を満たしていた。
肉の森だ――血管とも樹木とも付かぬものが、景色の中で立体的に絡み合っている。
(ものすごく、大きな……心臓の、中だ……)
思い浮かぶイメージは、惑星のように巨大な心臓。
死んだ命が帰り、生まれる命が旅立つ所、輪廻のUターン地点、そういう場所だろう。
(ああ、そっか……死んだのか……)
この場が『死後』であることを、怜生は驚くほど抵抗なく理解した。
慣れた寝台で、疲れきった体を眠りに就かせるような安心感がある。
(なにもかも、世界に溶けていく……)
自分が、温かい紅茶に落とされた角砂糖のように溶けていくことが、心地よかった。
生者には恐怖でしかない現象が、いまは一切の憂き辛みから解放される快感しかない。
ああ、だとしたら人は世界に愛されている。たとえどんな辛い人生を送っても、最後の最後にはこんなに安らかな眠りが準備されているのだから。
(…………嫌だ!)
それでも怜生は死を恐れた。
もがく。目も手足もありはしないが、意思だけであろうとも足掻く。
(死にたくない……死にたくない……死にたくない……っ!)
至極単純に、死にたくなかった。
仮にここが一切の苦痛から解放された天の国でも、死ぬということそれ自体を、怜生に残された最後の意思が拒否していた。
死ぬのは怖いことなのだ――どんなに冴えない人生でも、大嫌いな自分に舞い戻ってしまうのだとしても、それでも人は死にたくないのだ。
それは、もう自分の名前すら薄れている彼が出した、魂の答えだった。
「――さん」
そして、風前の灯火であった命が燃え尽きようとしていたとき、声が届いた。
「怜生さん!」
こちらに手を伸ばして呼び掛ける、裸身の少女が見えた。
長く波打つ赤い髪を広げる、緋色の瞳と可憐な顔立ちの少女だ。
どこか馴染み深い存在だったようにも思えるが、上手く思い出せない。
ただ一点、確実に言えることがある。
こんなときになんだが……結構、好みだった。
――そして現世では、緋色の光が柱となる。
光から現れたのは巨大樹だ。高層建築めいた幹が、景色に君臨した。
瞬く間に広がっていく枝は、空が罅割れて血を流すように、枝垂れていく。
伸びていく枝に花が咲く。蓮に似た宝石の花が、桜のように密集して咲き誇る。
花からは花粉のように金色の火花が零れ出て、夜空の下で巨大樹を煌々と輝かせた。
「これは……」
初老の司書が、半人半紙の侶魔を連れて、図書館から巨大樹を見ていた。
司書は穏やかだった顔を引き締めると、両目を一瞬だけ白色に光らせる。
すると、巨樹の根元から白い光が生じて、その姿を透明化させた。
「何が、起きている」
魔術で隠しはしたが、いまだ進行中である事態に、司書は目を凝らす。
巨大樹の根元では、心臓のように脈動する『球根』が膨らんでいた。
樹に比例して巨大な球根が、罅割れる。するとそこから、炎の蛇が這い出てきた。
炎によって構成される、長い髪の女性と、蛇の下半身からなる、半人半蛇だ。
巨樹から脱した半人半蛇は、右手だけを球根の中に残しており、それを引き抜く。
すると、半人半蛇の掴んでいた、男の腕が現れる。
球根の裂け目からもう片方の腕が出て、自ら動き、裂け目に指を掛ける。
そうして、いまやっと意識が定かになったように、男は両目を見開くのだった。
――かくして、鬼柳怜生は、彼女の手を掴んでいた。
怜生が目を開くと、手を握っていた半人半蛇から炎が吹き払われる。
緩く波打った長い赤毛から、枝の角が伸び、蓮のような花を咲かせていた。
白皙の美貌に開く緋色の瞳、豊かな乳房の先に可憐な朱色、惑わされそうな曲線の腰、そこから続くのは――紅玉のような鱗に包まれて、魚のような尾に繋がる、蛇の半身。
美女と魔獣が入り混じった、人にして人ならざる姿がそこにあった。
「お前、は……」
固まっていた喉を動かして、怜生は問い掛けを途切れさせる。
「はい」
それに対して蛇女は鷹揚に微笑み、素直に問いを待つ。
「……なん、なんだ?」
どうにか言葉にした風情のない問いに、彼女は再び「はい」と微笑んで、
「私は、あなたの妻です」
――と、他の何よりも予想していなかった名乗りを、はにかみながら自らに添えた。
怜生は呆然とした後、引き攣った笑みを明後日の方向へ向けて、こう呟く。
「……誰か、説明してくんね?」
◆
日付は既に変わっていた。
魔術経済の最前線である
そうした摩天楼の一つ、魔術企業〈ミズチ〉の支社ビルに、彼はいた。
彫りの深い顔立ちに
「
上階の執務室から外を眺めていた鳴海が、自分の他に誰もいない部屋で、誰かを呼ぶ。
「なぁに、ダーリン♪」
――海月のような、異形の童女が現れた。
透き通るような白い肌に、薄紫の瞳と同色の髪を伸ばしている。
薄紫色の髪は、よくみれば毛髪というより細長い海月の触手が群を成したものであり、色も根元から毛先に掛けて、紫や青へと微妙に変化している。
身にまとうのは、透明感のあるドレスだ。
両肩と背中が露出して薄く肌に張り付いており、下は花の如く波打つスカート。見ればそれも海月のような、半透明の生体で織り上げられている。
スカートからは、光る触腕が紐飾りのように流れており、足はない。
そういう衣服を着ているのではなく、皮膜がドレスのように見えている妖魔だった。
「端的に問うが、何か気付いたか」
「それはもう――少なくともこの街にいた神霊なら、肌で感じたことでしょうね」
乙姫の口調はおしゃまな少女だったが、童女には不相応な厳かさもあった。
遊泳するように虚空を移動して、乙姫は語る。
「水の中で響くように、どこか遠かったけど、間違いなくこの近くで、何かがこの世へと現れた……きっと私と同じ、妖魔界から降りた貴い御霊が」
鳴海は、乙姫の託宣を耳にしながら、彼女の目線を追う。
目線は摩天楼の林を超えて西に、赤枝宮大魔学院がある方に。
「至急〈大図書館〉周辺に密偵を送れ。最優先に、最大の結果を持ち帰らせよ」
鳴海は机の装置に触れると、重苦しい口調で部下に命じる。
「そこに、新たな〈王〉が現れた可能性がある」
同時刻、その〈大図書館〉でも、異形を連れた男が動いていた。
六十前後の司書と、半人半紙の侶魔だ。
司書の名を
「
史紀が訪ねた半人半紙の侶魔は、詩乃といった。
「分からぬ。素晴らしいぞ夫よ、この私に『分からぬ』と言わしめることが起きたのだ」
歩く史紀の傍らに浮いた詩乃は、恍惚とした声音で言う。
「それはまた、厄介なことになりそうだ……」
「なにを言う」
史紀が気苦労を顔に出すと、詩乃はその発言を否定する。
「喜ぶがいい人の子よ、この世界は、また一段と、我ら異界の神に愛されたのだ」
詩乃が記号の瞳を笑みに歪めると、史紀は唸るような息を吐いた。
奇しくも別の場所では鳴海滝徳が同じような顔をしており、どちらも『現場』の確認を急いでいる。
彼らの眼光が自分に向いていることを、鬼柳怜生はまだ知らない。
彼らは〈王〉――
妖魔界の神霊を侶魔として、この世に
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