2. 鴉と悪ふざけのバス
2014年6月19日 外灘区の公園
W**区のメインストリートは、装飾煉瓦で彩られた古めかしい建物が並んでいて、見た目には華やかだ。しかしほんの少し路地の奥へとそれるだけで、殺風景なコンクリートのビルが目立つようになり、煤けた汚れやスプレーの落書きが増えてくる。
路地裏の高架下、金網のフェンスで囲われた薄暗い公園に、少年は足を踏み入れた。雑草が伸び放題になっていて、割れた植木鉢や擦り切れたタイヤが転がり、唯一の遊具であるさび付いたブランコには、頑丈そうな太い鎖が巻かれている。公園の隅には、タイヤを取り外された廃バスが、ひっそりとたたずんでいた。
ベージュとモスグリーンで塗装されたボンネット・バス。随分と古い。ルーフのペンキは剥げて錆びつき、バンパーは蔦に絡まれほとんど地面と同化していた。フロントガラスの真上のパネルは「回送」のまま止まっている。黒く汚れた窓ガラスを覗きこんでも、中の様子はうかがえない。
雑草を踏みしめた跡が一本道になっていて、バスへと続いている。少年はそれに沿って歩を進めた。
「……お邪魔します」
少年は、本来乗客が通る向きとは逆に、運転席の側から折れ戸を押して侵入した。ステップを踏み越えると、そこには、予想だにしない光景が広がっていた。
少年にとって見慣れた内装――臙脂色のシートやつり革、料金箱やバス停の案内図――それらはすべて、バスから取り払われていた。
代わりに部屋を支配していたのは、数々の黒い電子機器だった。運転席の背後から何台ものサーバーが並び、その向こうには樫材のデスクが鎮座し、その上には天井に至るまで、十を超えるマルチモニターが設置されていた。
目を凝らすと、ほんの少しだけ、かつてここがバスであった痕跡が見受けられる。手すりにはS字のフックがついた収納ラックがつりさげられ、一通りの日用品が備わっている。最奥の五人掛けの座席はマットレスが敷かれ、簡易ベッドに改造されていた。
少年はただただ目を瞬かせていた。
――なんだここ?
――何を思って、廃バスをPC設備フル完備の研究室に――こんな住み心地よさそうな家に改装したんだろう――馬鹿なのかな?
「……うさぎ強盗? 何でお前がここにいる?」
突然後ろから声をかけられ、少年は飛び上がりそうになった。
振り返った先にいたのは、黒装束の男だった。長い髪の隙間から、大きなクマやひび割れた唇が覗く。粘ついた視線を投げかける双峰が、じっとこちらを見据えていた。
このバスの持ち主――梟から話は聞いてる――一流の暗殺者であり、数々のマルウェアを開発した技師でもあり、オークションサイトを通して闇市場を牛耳る商人でもある男――。
少年は胸を押さえ、絞り出すように声を発した。
「あなたに……鴉さんに、色々教えてもらえって、言われてきました」
鴉は一瞬きょとんとした顔を見せると、背を丸め、くつくつと陰気な笑い声をあげた。
「……俺が教育係? 相当特殊な選択だぞ、それ」
「梟さんは、適任だって。鴉さんが、一番優秀だから……教わること、多いはずって」
「……優秀、なるほど、優秀。優秀か」
鴉はうつむき、熱のこもった息を吐きだしたかと思うと、突然拳をふるい、窓ガラスに蜘蛛の巣上のひびを入れた。指の付け根が裂け、どろりとした血が指を伝う。
「……俺は……親父や鈴蘭みたいな……力に恵まれた人間に、認められるのが……死ぬほど、嫌いだ」
苛ついた様子で首筋をかきむしると、急に静かになり、少年に暗く淀んだ目を向けた。少年は、射すくめられたように身を縮ませる。
「えっと、嫌いなんですか? その、梟さんと、鈴蘭って人」
鴉は飾り物のダーツボードから手投げの矢を引き抜くと、少年目がけて放った。矢は紙一重のところで少年の頬をかすめ、最奥の座席の背もたれへと突き刺さる。
「……言葉に気を付けろ、新入り。あの二人のことは、反吐がでるほど愛してるよ。憧れだからな」
「えっと、すいません」
「……なあに、俺は心が広い。一度目だからお咎めなしにしてやるさ……ただし二度目は、死にたくなるまで、痛めつける」
少年は冷や汗を流しつつ、何度もうなずき、一歩後ろに退いた。
――何なんだろう、この人?
――肩書を聞く限り、優秀なんて言葉じゃ言い尽くせないほど、才能に恵まれた人――背筋が凍るほど怖い人、不気味で禍々しい人――それなのにどこか、悔しさをこらえられなくて、地団駄踏んでる子どもみたいな――。
ふとした拍子に、少年の手がバスの手すりに触れる。少年は手すりを遠慮がちに撫でながら言った。
「ここは、何なんですか?」
「……俺の城だよ。新型武器やマルウェアの開発所であり、
「どうして、バスなんですか?」
「……秘密基地めいた感覚、お前も肌で感じるだろ? ひっそりとした趣向でありながら、ぞくぞくと冒険心を擽られてくる……これが、好きなんだ」
鴉は胸に両手をあて、無邪気で、それでいてぞっとする笑みを浮かべた。
「……ここは子どもの遊び場なんだ」
鴉の笑みがふっと消え、その目線が上にあがる。
「……子どもの遊びで思い出した、確かお前、チェス強かったよな」
「いえ、別に」
「……チェッカーは知ってるか?」
「ルールは、一応」
チェッカーは簡易版チェスとでも呼ぶべき盤上遊戯だ。8×8にチェスボード上で、12個の駒を取り合う。勝利条件は二つ。相手の駒が全滅するか、相手にとって動かせる駒が一つもない状況を作るか。
「……どのくらい経験がある」
「百回くらいです」
「……戦績は?」
「負けたことは、一度もありません」
「……十分だ」
鴉は少年の肩を引き寄せ、無理やり椅子に座らせた。少年の正面にあったディスプレイがぼうっと青白く光り、白く美しい少女の姿が浮き上がった。某ゲームサイトのプレイ画面の中、少女の姿をしたアバターが、3Dのデザインのチェス盤を挟み、こちらに首を傾げて瞬きしている。
液晶画面にメッセージが並ぶ。
『タークさんがルーム067に入室しました』
『タークさんがチェッカーの対戦を申し込んでいます。受けますか?』
鴉は少年の後頭部を鷲掴みにし、強引にディスプレイに目を向けさせた。
「……今からお前に、このタークと戦ってもらう」
少年は、タークのアバターの姿をまじまじと見つめた。
雪のように真っ白な髪に真珠色の肌。物憂げに細められた眼は、白いまつ毛で縁取られている。空気との輪郭が曖昧になりそうなほどその姿は希薄なのに、瞳だけが、燃えるように赤く輝いていた。
画面の右隅にはタークのプロフィールが表示されている。その戦績を見た瞬間、目を見開いた。
******
User Name “The Turk”
Win “499873”
Lose ”0”
Draw “0”
Rating “------”
******
「何、これ」
――レートの数値バグって――というか、ゼロ敗……ゼロ分け? そんなわけない。チェッカーは性質上、引き分けになるケースが多いゲームのはずなのに。
呆然とする少年をよそに、鴉はキーを叩き、対局の申し込みを受けた。タークが先手で、真っ赤に染まった丸い駒が先陣を切る。タークは駒を置いたあと、まるで眠りにつくかのように、すっと瞼を下していた。
鴉が少年の肩に腕を回し、邪悪な笑みを浮かべながら、正面のディスプレイを指さした。
「……取引だ、うさぎ強盗。俺はお前にとって最高の先生になってやる。その代わりにお前には、このタークと試合して、何百回、何千回と打ち負かされてもらうとしよう」
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