第5話

【第5夜・クリスマス・チキン】

 

 「あったまるね、お家でチキン」

「今年も家族で」

テレビから、クリスマスのフライド・チキンのコマーシャルが盛んに流れてくる。明るくて楽しくて美しいクリスマスパーティがそこで繰り広げられている。見る人もそれを買うだけで家族全員が揃う幸福なクリスマス・パーティを実現できる気になる心弾むコマーシャル。煌めく音楽と効果音。

 詠子は思わず足を止めた。大手家電量販店のウィンドウ越しに、大画面から子供の笑顔とフライド・チキンが迫ってくる。

――なんて幸せそうな。

詠子はいつも思う。なんて幸せそうなクリスマス。優しいお母さんがいて、仲のよい兄弟がいて、元気でくりくりした瞳の犬がいて、雪も寒さすらも美しく演出され、カッコよくてすらっとしたお父さんがステキな笑顔でチキンの大きな箱を抱えて帰ってくる。家はオレンジ色の光で満たされて、世界は輝いている。

 詠子には遠い話だった。子供の頃から遠く、そして今も遠い話。大人になると、さすがに「作ったような幸せなクリスマスを迎える家庭」は幻想だと分かっているが、今でもこの時期になると、この世のどこかに存在するような気がしてしまう。寂しいわけではなくて、詠子は自分はそこにはいないのだ、詠子はそういう世界に生きていないのだ、と思うのだ。

「どうして、僕の言うことを聞かなくなったの、前は言うことを聞いていい子だったじゃない」

チキンを持った笑顔にかぶさって、詠子の耳に男の声がよみがえる。上司の声だ。(どうして、って、前から賛同してたわけじゃない、ただ仕事だから「おかしい」と思っても致命的なミスじゃない限り表立って反対しなかっただけで……)

 詠子は心の中で、上司の叱責と詠子の反論を繰り返した。不健康だと思いながら、考えるのを止められなかった。大画面では幸福そうな家族がチキンを持って笑ってる。それに上司の声がかぶさる。

「どうして、僕の言うことを聞いてくれなくなったの」

「東京出張は許可しないよ。勝手なことは許さないよ。君のためだよ」

「あの日からずっと君が気に食わなかったんだ、反抗的な目つきでね」

「あーあ、君のせいで週末が台無しだ。僕は紳士だからね、週末は家族で妻のピアノを聞いたり、息子のガールフレンドを家に招いたり、娘が焼いてくれるセミプロ級のお菓子でお茶を楽しんだりするんですよ。なのに、君のミスの後始末だよ。まったく」

「謝りなさい。あなたのせいで、他の人がみんなこんなに残業してるんですよ?」

詠子は頭がぐらぐらしながら「美味しいねチキン」「楽しいね」と弾ける笑顔を見つめていた。自分にはちゃんと理由がある。これが言いがかりだって分かってる。でも、誰も味方してくれない状況で絶望的な気持ちになっている。みんな、課長の怒鳴り声や突然けたたましい笑い声を上げたり、電話をかけまくってまくし立ている状況が怖くて、見ない振りをしている。ターゲットは詠子一人だからだ。

「チキン美味しいね」

チキンが幸せの象徴のように見えて、自分にはもう笑うことなど一生ないような気持になって、その場から足が動かせなくなった。

――やばい。

 詠子は、自分はもう限界かも知れない、と思った。上司は、所長が詠子に直接仕事を振った1週間前から徐々に、声が大きくなり、喋り続けたり、怒鳴ったり、突然笑いだしたりするようになった。そして詠子の一挙手一投足に口を差し挟むようになった。望んでもいない東京出張に「許可しない」と言う。「みんなの残業はあなたのせいだから、フロア全体に謝れ」と言い出す。

詠子はひとつひとつ「違います」「こういう理由で、こうなった」と説明しても、課長は全く引かなかった。この不毛さに詠子は疲れていた。

――もうダメかも知れない。

 こんなところで泣いてはいけないと思うのに、大画面のクリスマス・チキンを見つめて涙がこみあげるのは、課長の怒鳴り声を反芻するのを止められないのは、どうしてだろう。チキンを笑顔で頬張る美しい子役に、課長の声が重なる。「妻が家庭的な女だからね、クリスマスや正月、イベントの度にすべて手作りでプロなみのものが出て来て……子供たちなんか却ってコマーシャルのフライド・チキンなんかが良いって言ってさ……また妻が優しい母親でさファミリーパックなんか買ってくるわけ――」

「詠子」

突然肩を叩かれた。詠子は、息をのんで振り返った。全身で身構えているのだった。

 振り返った詠子の目の前には、驚いた女性の顔があった。温かい顔。詠子が驚いているのを、元気な状態でないことも汲み取って、自然に心配してくれている顔。

「――若ちゃん」

詠子は、5年以上も会っていない高校の同級生の名前がすぐに口をついて出てきたことに驚いた。

「久しぶりやなぁ」

地の人らしい方言で、若山直子はのんびり喋った。

「あ、若ちゃん、ちゃうな。篠塚さん、やもんな。ごめん」

詠子もつられて地のイントネーションで、結婚で姓の変わった友人を呼び直した。

「ああ、それな、もう若山になるし」

若ちゃんは苦笑いしながら言った。、

「え」

詠子は、高校の同級生の顔を見つめてしまった。

「ちょっとな~聞いてよ、なあ、酷いねんで」

若ちゃんは笑いながら、うなじの髪をかきあげた。赤い大きな痣があった。

 あっ、と息をのんで何も言えない詠子に、若ちゃんは笑って言った。

「酷いやろ?ほんま……殴る男やってん。ほんでな、今は実家に帰って、離婚の裁判の準備中やねん」

詠子は、久しぶりに会った高校の同級生の状況についていけず、促されるまま、若ちゃんの家についていった。

  

 若ちゃんの家は高校の頃から変わってなかった。お母さんがいて、お父さんがいて、妹がいて、犬がいる。それぞれにみんな年を取ったけれど、変わらずにゲラゲラ笑いがあふれてる家だった。

 「いや~!久しぶりやな、詠ちゃん。あらまあ、キレイになって~」

詠子が若ちゃんの家を15年ぶりに訪れても、若ちゃんのお母さんは詠子を見分けた。おまけに「あらあら、キレイになって」というお決まりのセリフもちゃんと言ってくれたのだ。詠子だって、自分が「キレイだとか、キレイじゃないとか」そういう話題の対象になるような人間じゃないということを知っている。「キレイになって」が「元気にしてる?」と同義語だと分かってる。ただ、詠子のことを、その場にいる人間の気持ちを気遣い、明るくしようとしてくれようとする、若ちゃんの家族の在り方に詠子は胃の底に温かいものが広がっていくような感じを覚えた。

「お母さんたら、もう。詠ちゃん困ってるやん、そんなしがみついたらさ~」

若ちゃんが、お母さんを詠子から引き離そうとする。

「やだ、何泣いてんねんな、お母さん。詠子、困ってるやん、ほんまに」

若ちゃんが言う。

「そやかて、あんた……あんた、こんな形で帰って来たとこに詠子ちゃんと会うて」

「こんな形って」

「あんたが可哀そうで、そやけど、詠子ちゃんも変わらへんの見たら、あんたも高校生の頃からなんも変わってへんねんな、って思えて、そや、こうやって……そらうまく行かへんこともあるけど、またやっていけるて、お母さん思えて」

「いや~もう、お母さん、そんな泣かんといてよ」

そういう若ちゃんの声も涙に滲んでいる。笑いながら泣いている。若ちゃん家が、みんなが聖人みたいによい人たちだから若ちゃん家が羨ましかったんじゃない。詠子は、そんな絵に描いたような「温かい」家庭などないのだと、もう大人だから知っている。どこの家にも問題がある。避けられない不幸もある。不運が重なることもある。真面目に生きていれば、最終的には必ずうまくいく、というものでもないことも分かってる。だって、若ちゃんの何が悪かった?

 でも、それでもよい方向に行こうとする気持ちがある人たちなのだ。良いとか悪いとかではなく、そういう人たちなのだ。それが若ちゃん家を救っていた。


 「なんかさ、がんばっちゃったんよね~。この人を立ち直らせてあげるのは、あたししかいない!って。あたしまで見捨てたら、この人、どうなってしまうんやろ、って」

若ちゃんの部屋で二人になると、若ちゃんは顔をくしゃっとして笑った。鼻の頭に皺を寄せて笑うのは、高校生のときと変わってない。

「でも間違ってた。あたしちゃうねんな、あいつが求めてんのは。あいつの中の理想の人間になれへん自分を受け入れられへんから、腹が立って殴るねん」

若ちゃんは殴られては治った傷を、見せてくれながら言った。

「私が支えな……ってガマンすればするほど、あいつはあかんようになるねん。でもな、あたしは、一緒に居たらあの人のためにならへんから、って思って、離婚調停を申し立てたんとちゃうで?そんなキレイごとと違って。あいつの声色ひとつ、目の動きひとつ、物の置き方の音で、あいつの望みを全て察して、あいつの満足するようにしてやらへんと、殴られる……っていう人生は絶対に嫌やと思ったからやで」

笑って話す若ちゃんの体験が、詠子にはとうてい想像もつかない重さを持っていた。

「お前のために、って言うねん。お前が悪いから、って言うねん、あいつは」

――君のために言ってあげてるんだよ?

――君が悪いんだよ?それをかばってあげてるのに。

上司の声が詠子の耳のなかで蘇る。詠子の心の中でずっとくすぶり続けていたもやもやが、一気に広がって胸が苦しい。詠子が言葉に出来なかった思いが、目の前で紡がれていく。

「ちゃうよなあ。私のため、ってことにしておいて、私が悪いからオレはこんな酷いことをさせられてるねん、って……ちゃうよなあ。自分が気に食わないから、人を傷つけて、それも人のせいにしてるねん」

詠子の真剣な表情に、若ちゃんは自嘲気味に顔を歪めた。笑おうとして上手く笑えず、崩れて泣き顔になった。

「詠ちゃん、そんな、そんな悲しい顔せんといて」

「そんな……若ちゃん」

「あたし、あたしが悲しいのは、殴られたことだけと違って……、もちろん、殴られたことで、自分が生きてる価値がないと思うようになって……。それよりも、あたしは、あたしがあんなに好きやと思ったあいつが、こんな人間やったなんて。いい思い出も、あいつが優しかったことも何もかも、全部ウソやったんか、と思ってしまって、結婚するまでの何年も……あれは全部全部、意味の無かったことなんか、あたしの人生は無駄やったんか、ってことが、ものすご悲しいねん」

若ちゃんは顔を覆って嗚咽をあげた。若ちゃんの全身から発される悲しみが、背中に添えた手から詠子の全身に流れ込んでくるように感じられた。 

 あんなに、あんなに幸福そうな二人やったのに。詠子も泣きながら若ちゃんを抱きしめた。きっと、若ちゃんの両親も妹もみんな、若ちゃんを抱きしめて泣いたんだろう。


 「ごめんね……」

しばらく泣いた後、若ちゃんは照れ笑いをしながら言った。

「そんな、謝るようなことしてないよ、若ちゃんは」

詠子は慌てて言った。若ちゃんは、ふふって笑って続けた。

「うん、詠子はそう言ってくれると思った。そうじゃなくて」

詠子はぽかんとしてると

「ほんまは、詠子が今にも死にそうな顔をして電気屋さんに突っ立ってたから、私が詠子を慰めなきゃと思ったのに、って話」

と、若ちゃんは続けた。詠子は虚を突かれた。そんなに暗い顔をしていたのだろうか。自分では平気なつもりで、少なくとも、何でもないように見えるようにできていると思っていた。

「そんな、顔してた……?」

詠子は、自分が死にたいと思ってるような顔をしていたか、と本当は訊きたかった。

「……心配になったよ」

若ちゃんは正面から答えずに、詠子の気持ちを思いやりながら、言葉の真意を汲んで答えてくれた。若ちゃんのその配慮に、抑えていた気持ちが決壊した。

 たまらず手で顔を覆った詠子の背中を、今度は若ちゃんがぽん、ぽん、と叩いてくれる。詠子はその優しさに、高校時代に引き戻されていく感じがした。高校の時も、こうやってただただ安全な繭の中にいるような時間を若ちゃんは与えてくれた。詠子は、どこにいてもしっくりと馴染めないで浮いているような感覚がある。そういう詠子に、若ちゃんは、詠子がすっぽりと丸まっていられる繭を与えていてくれたのだ。誰もが、こうやって逃げ込む繭が必要なのだ。

(――私は、ひとりじゃなかった)

詠子は温かな繭の中で思った。家族じゃなくても、一時的なものでも、寄り添いあって休むことができるのだ。

  

 「――ありがと、若ちゃん」

詠子が顔を上げると、若ちゃんはまたくしゃっと笑った。

「んん?何もしてないよ?……話せることなら言ってくれてええねんで?」

「うん――もう、決心がついたし。次に会ったときに話すわ」

そうなの?大丈夫なの?と言いたげな表情を若ちゃんはする。若ちゃんは、いつも「すべてを言わない」でくれる。そのことが詠子にはありがたかった。

「わかった」

若ちゃんは詠子の顔つきをじっと見てから言った。

「なぁ、若ちゃん、クリスマスにチキン食べへん?」

「へっ」

詠子の唐突な申し出に、若ちゃんは変な声を出した。詠子は明るい気持でもう一度言った。

「クリスマスにチキン食べよう」

「昔、食べたよね、高校生の時」

若ちゃんが弾けるような笑顔で言った。

「そう、高校生の時!女子だけで」

「――うん、食べよう。クリスマスにチキンを食べよう、詠子。一緒に」

若ちゃんは、一瞬、遠い目をしてから、一言一言はっきりと言った。若ちゃんも、あのコマーシャルを思い浮かべてから、言っているのだ。詠子は若ちゃんの目を見て頷いた。

「クリスマスに会おう」


 詠子は、若ちゃんの家を辞して街を歩いた。夕暮れの街中にクリスマス・ソングがあふれる。そこら中がイルミネーションで飾り立てられている。うっすらと雪が降り始めるほど湿度が高いせいで、電燈もイルミネーションも滲んで光る。  

ゆっくりと歩く詠子は、さっきのテレビ画面に差し掛かって足を止めた。やっぱりクリスマスのフライドチキンのコマーシャルを繰り返している。胸をしめつけられるようなほど幸福そうな演出で。

 詠子の胸はざわつかなかった。少しだけ画面に目をやり、ゆっくりと通り過ぎる。すれ違う人は、冬の夕暮を急ぎ足でショーウィンドウには目をやっていない人がほとんどだ。

「別においしないねんなー!」

小学校高学年くらいの子どもたちが、騒々しく通り過ぎて行った。詠子は苦笑する。そうかもしれない。あの光り輝くコマーシャルでかきたてられた期待ほど、美味しいものではないのかも知れない。苦笑しながら顔を上げると、雪模様の中に辻立ちしている托鉢僧が詠子の目に飛び込んで来た。京都ではよくある光景なので、普段は目にも止まらない。しかし、詠子はふとおかしくなった。

(こういう人たちも、クリスマスに家族でチキン……なんて思うのかな)

笠を目深にかぶってお経を唱え続ける姿を見ながら思った。歳末の托鉢修行なのだろう。

 辺りを見渡すと、行きかう人々はさまざまだった。托鉢僧、塾へ急ぐらしい子供たち、楽しくて仕方なさそうな高校生カップル、携帯電話で忙しく話をしながら通り過ぎるビジネスマン、楽しそうに笑い合う年配の女性たち、路上で毛布をかぶっている人……。

 詠子は、頭をガンと殴られた気がして、思わず足を止めた。開けた駅前の土地が、急に回りだして全てが混じり合い、詠子の上に世界が落ちてくるように感じた。一瞬のことだったが、世界が混沌となって詠子の内側になだれ込んでくるように思えたのだ。

 詠子が驚いて頭を振ると、駅前は何事もなかったように元の風景に戻った。チキンは……家族で食べるだけではないのだ……。チキンを食べることすらも、当たり前ではないのだ。


 クリスマスの前夜、詠子は台所にいた。最初はパーティ仕様のフライドチキンのファミリーパックを買って行くつもりだった。「ファミリーパックをください」と言う自分を想像までしたが、やめた。笑いのある小さな復讐のつもりだったのだが、クリスマスが近づくに連れて自分で作るのが自然に思えてきた。もう復讐はしなくていいと思えた。

 詠子は、月曜日に課長に言ったのだ。

「謝りません。同僚のみなさんが残業しているのは私のせいではありません。この件でミスをしたのは私ではありませんから、私は謝る理由がありません」

詠子は、本当は「ミスをしたのは課長で、課長のせいで残業しているんだ」とまで言いたかったが飲み込んだ。自分が責任を取ることでは無い、とだけ明確に意志表示することだけで十分なはずで、課長がミスをしたか否かを糾弾するのは自分の役目ではないはずだからである。感情的な言い争いになるのと、もっと酷いことになると上司の表情を見て悟ったからだ。出来るだけ冷静であるように努めたが、声も足も震えているのは分かっていた。自分に対して権力を持つ人間に「あなたが間違っているから、あなたの命令には従わない」と表明することは、とても勇気のいることなのだ。それでも、足が震えても、声が震えても、手が震えても、どんなに小さな声でも、「嫌です」と言うのだ、と思った。若ちゃんの顔が浮かんだ。

 詠子が「謝りません」と表明したとき、部署は静まりかえった。誰もが息をのんで息を殺して、次の展開を見守っているようだった。立ち上がって詠子を制止する者は誰もいなかった。誰も課長の味方でもなかったのだ。

 息を吐く音すら響くほど静まりかえった中、詠子は課長の顔から視線を外さなかった。視線を外したら心が挫ける、と思った。これ以上、彼の暴言に神経を削り取られる毎日は嫌だった。

課長の顔は絵に描いたように変化した。呆けたように口を開いた後、どす黒く変色し、般若のような表情になった。詠子が視線をそらしたいのを踏ん張っ、見つめ続けていると、課長は周囲が自分の動向を窺っているのに気付いて、急に表情を和らげてへらへらと笑いながら言った。

「……まあ、そうしたいならそうすればいいんじゃないですか。無能って言われますけどね、あなたが」

ははは、と余裕の笑いをつくろって、目を合わせずに下を向いている周囲を笑顔で見回す。

「無能と言われても構いません」

詠子は静かに言ったあと、自分の席に戻った。そして、自分の仕事を淡々とこなした。上司は椅子を蹴って立ち上がって戻らず、同僚たちも何も言わなかった。仕事のことで話をしても誰もこの件については触れなかった。詠子はずっと身構えていたが、何もないまま、上司との会話もないまま5日が過ぎて週末を迎えた。クリスマスが過ぎて、一日出勤したら年末休暇になる。

 台所で、詠子は冷蔵庫から鶏のもも肉を取り出す。真っ白な美しい琺瑯のバットの中で鶏のもも肉は、岩塩、ローズマリー、ニンニク、オリーブオイル、ブラックペッパーの漬け汁に漬かって艶々と光っている。

 詠子はフライド・チキンにこだわらず、ロースト・チキンにした。冷めても美味しい、温め直しても美味しいのはローストした方だからだ。

バットを調理台に置いてラップをはがすと、ローズマリーが香った。押してみると、フォークで開けておいた穴から漬け汁がぷつぷつと出てくる。よしよし、よく漬かってる。ほくそ笑みながら、詠子は180度に温めておいたオーブンを開けた。熱せられた空気が流れ出て、た詠子の額に汗の玉を浮かべさせる。これから、この熱い熱い中で美味しいものが出来上がるのだ、という期待に胸が高まる熱。オーブンの温度が下がらないうちに、チキンを鉄板の上にそうっと置いて扉を閉めた。詠子はしばらくオレンジ色のオーブンの中を見つめていた。ジジ……とチキンが焼けはじめる音がする。熱を持ったオレンジ色の空間を見つめていると、無心に見つめていたくなる。

 詠子の心は、時間を自在に横切って折りたたんでいく。微かに聞こえるラジオでは、クリスマス・イブの大騒ぎの中継がとぎれとぎれに流れてくる。

 こんな風に過ごした夜もあった。どこからかクリスマス・イブの喧騒と音楽が流れてくる夜。小学校に上がる前と思われる少女は、こたつに入って誰かを待っている。廊下もその先も暗闇に沈んでいて寒い。少女を見ている自分がいるのに、詠子はその少女が自分だと知っている。本当にあった記憶なのか分からなかった。祖母の気配がないこともおかしかった。ただ、こういう感じを確かに体験した、と詠子は確信していた。

 幼い詠子は待っている――。少しの不安と寂しさと大きな期待を持って、こたつで待っている。少女は知っている――その期待が裏切られずに、扉が開くことを。その突き抜けるような幸福な一瞬を待つ気持ちで、記憶の中は光に満ちていた。  

 ジジッ。

 肉汁が滴って蒸発する音に、詠子は記憶の海から引きずり上げられた。慌ててオーブンを扉越しに覗き込む。大丈夫。焦げてはいない――むしろ、いい具合に焼けている。贅沢に入れたローズマリーもじっくりと炙られて青い匂いと、チキンの焼ける香ばしい匂いとが、台所を黄金色に彩って行くように感じた。その匂いは、台所からマンションの廊下へ、さらに外へ広がって行く。雪になりそうな空へ上がって行く。どこかでチキンを待っている少女は、玄関が開く音に向かって駆け出しただろうか。家族であっても、家族でなくても――。

 そんなことを思いながら、詠子は小さな台所で黄金色の空気に包まれていた。窓に落ちてきた雪の結晶は、あとからあとから溶けて消えて行った。 

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真夜中に台所で 日向 諒 @kazenichiruhanatatibanawo

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