第2話

【第二夜・林檎の甘煮】


 詠子は真夜中に呼ばれるように起こされてポトフを作った夜以来、早く寝るように心掛けていた。結局、ポトフは朝の4時半に出来上がり、とても美味しかったが、大変に寝不足でしんどい一日となったのだ。寝不足なのに奇妙な浮遊感もあり、ぼんやりとしがちな一日だった。それ以来、やたらと早く眠くなるようになったのだ。

 そして、ポトフを作った夜からしばらく後、また、夜中に目が覚めた。最初の日と同じように、水面に引き上げられるように目覚め、自然と台所に立っていた。詠子はげんなりしながら、またお湯を沸かした。眠気はなかったが、明日の仕事中のしんどさを想像して、げんなりとすることは止められなかった。

「はあ……なんなの」

詠子は声に出して言った。最初の晩の世界中が静まっているような気配は薄れている。詠子が慣れたせいかも知れない。お茶でも飲んで眠ろうかと思ったが、何かを作らなければいけないような気持になっていることは確かだった。

はあ、とため息をつきながら、詠子は冷蔵庫を開けた。レモンが目に飛び込んでくる。レモンの黄色い鮮やかさに打たれる。

(ああ、これで何かを作らなくては……)

詠子は何かに動かされるようにレモンを取り出した。手に取ったレモンに顔を近づけると、鮮烈な芳香が詠子を打った。同時に詠子の中にはさまざまな情景があふれるように湧き出て、立ちくらみのような感覚を覚えた。

(良子さん……)

 詠子は声にならない声で呟いて、冷たい台所の床に立ち尽くしてレモンをかき抱いた。

――鎌倉の実家でレモンがたくさん取れたから、もらって――

良子先輩の声が詠子の耳に甦る。詠子が大学を卒業して就職した会社で、名物先輩だった良子先輩。実家の庭でレモンが大量になるので、毎年持ってきてくれた。名物先輩として有名だったのは、レモンとは関係ないけれど。すごく仕事ができるとか、美人だとかカッコイイとかそういうことではなかった。マイペースで、今時ビン底メガネで、会社の古ぼけた制服をずっと着てて、「おばあさんみたい」と言われたカーディガンをずっと着てて、全然イケてない先輩。でも、いつも必ず筋を通して、支店長にも堂々と意見を言ってくれた。そういうところが密かにとても人気があったし、詠子も好きだった。入社したての詠子には、当時30代後半で独身だった良子先輩の存在が信じられなかったし、自分とは違う世界の人のように思えていたけれど、気づいたら詠子自身も独身のまま当時の良子先輩の年齢に差し掛かろうとしていた。入社数年のうちに詠子が他の支店に異動したため、良子先輩とは年に数回会う程度の仲が続いていた。それでも詠子にとっては、変わらずずっと良い先輩でい続けてくれた。

 良子先輩は、もう死ぬのだ。

 そのことを思うと胸を抉られるような感じがした。詠子は、昨日それを知らされた。良子先輩が今年五月に退職した支所での同僚が、詠子に連絡をくれたのだ。

「年は越せない、ということだから、お見舞いに行ける人はできるだけ早く行って……。今日、明日にも、という感じらしいので」

それだけを書いたメールが、社内アドレスに来た。だから、詠子は明後日に良子先輩のお見舞いに行くのだ。詠子の胸を、いろいろな思い出が浮かんでは消えていく。

 良子先輩の思い出は、劇的なことは何もなかった。ただ、良子先輩のひょうきんで飾らない人となりが心地よくて、ずっと10年以上なんとなく行き来があった。良子先輩と深い付き合いがあった同僚がいるか分からない。けれど、多くの同僚女性は良子先輩をなんとなく心の中で頼りにしていただろう。ずっと働き続けて、ドラマチックでもなく毎日の仕事をこなし、ぶつぶつ文句を言いながらも、日々を回していく先輩。支所を動かず、支店長よりも誰よりも支所のことを知っている先輩。でも何の役職もついていない先輩。それを淡々と繰り返す先輩。そんな良子先輩は、自分たち働く女性に、ドラマのような人生が送れないことに対する焦りを軽くかわしていく姿勢を見せてくれていた。そういう拠り所であった良子先輩がもうすぐいなくなってしまう、という事実を突きつけられて、詠子も他の同僚たちもみな静かにショックを受けていているのだ。

――甘煮を作ろう。

 詠子はレモンをそっと手で包み込んでから、シンクに置いた。真夜中の台所で黄色い光が輝いている。眩しくて切なくて、詠子はレモンから目をそらしながら、ときおり盗み見るように目をやった。その度に胸が痛み、すぐに目を伏せた。

 詠子は最初の晩と同じく、真夜中のベランダの窓を開ける。予測していたので、この前ほどは驚かなかったけれど、やはり十二月も半ばの夜の空気は凍える。首をすくめながら、小さな木箱をさぐって固い丸いものを取り出した。ベランダは暗く、手に掴んだものが丸いのが何とか見えるくらいだった。

 急いで窓を閉めてほっと一息つく。肩に力が入っていたのがわかる。詠子は手の中の丸い物に目をやる。手に収まるほどの小さな深紅の実が二つ。紅玉という名前にふさわしい美しいリンゴ。酸味が強くて香りがよくて、加熱して使うのに最適なリンゴ。詠子はこのリンゴが好きだった。艶々と輝く赤い肌。命の輝きそのもののような、宝石のような果物。見ているだけで、気持が高鳴るような明るさそのもののようなリンゴ……。

 詠子はリンゴをレモンの横にそっと置いた。深夜の台所でそこだけに世界中の光をあつめたように輝いて見えた。詠子は胸を衝かれ嘆息した。

(こんな生命力そのものみたいなものを、良子先輩に持って行っていいのかな)

詠子は心の中で迷いながら、砂糖を出す。真っ白な砂糖よりも、ふくらみのある甘さを持つてんさい糖がふさわしく思えた。使い込んだ秤を出して針が水平になるのを待つ間も、心が揺れる。それでも、リンゴの甘煮を作らなければいけないという気持ちは消えなかった。

 四十グラム、もう少し、五十五グラム、あとちょっと、……はい、六十グラム。詠子は頭のなかで呟きながらてんさい糖を計量する。続けて冷蔵庫からバターを取り出して計る。二十グラムを切り出す。艶のある黄色い固まりが冷たくコロリと転がった。

 詠子は意を決して紅玉を手に取る。身がつまって固い。鼻を近づけると爽やかで甘い香がした。詠子はいつも調理の前に食材の匂いをかぐ癖があった。

――匂いをかぐと、それの声を聞きたくなるからね。

 これを詠子に言ったのは誰だったろうか。本当に、と思う。匂いをかいでよく見ると、それの声が聞こえる気がする。  

紅い宝石に包丁を入れると、さくっと刃が入り、すとん!歯切れよく紅玉は半分になった。爽やかな香りがふわりと広がる。切り口から白い身と星型の種がのぞいている。詠子の口のなかで、弾ける酸味と果汁が蘇る。すとん!すとん!詠子は小さな赤いリンゴを三つとも、六つのくし切にして皮を剥いた。種のあたりの芯を取る。

 詠子は頭のどこかで良子先輩のことを考えながら、鍋にてんさい糖とバターを入れて火にかけた。強めの中火、強めの中火、と小さく呟きながら、木べらで混ぜる。じりじり、と楽しい音をさせながらバターが焦げはじめる。良質の脂の焦げる甘い匂いが、すぐに台所に満ちはじめる。続けて砂糖がバターと一体となって焦げはじめる。なんとも言えない甘い匂いが詠子の鼻を満たした。

(幸せの匂いだ……)

詠子は心の中で呟きながら、鍋の中で茶色になりかけているバターと砂糖に目を凝らす。リンゴを入れるタイミングを待つ。詠子は、幸せの匂いだなどと思ってる自分が泣けた。こんな単純なことで幸せになり、良子先輩に申し訳なく思えた。

 今だ、という瞬間に詠子はリンゴを鍋に入れた。木べらで返しながらしばらく煮続ける。バターと砂糖とリンゴの香りが混じって台所いっぱいになる。きっと、窓から流れて廊下にも流れているだろう。詠子は、この幸せな美味しい匂いが、深夜の街を満たして、たくさんの人の夢のなかまで満たしていくような気がした。

(良子先輩……)

 リンゴが飴色になったのを確認して、火を止めた。詠子は、勢いよくレモンを取って包丁を入れる。金色の光の粒が見えるかと思うほどの香気が、一瞬、バターの焦げる甘い香りを凌駕して広がる。あっ、と声が出そうなほどの香気だった。深夜の台所で詠子は、レモンの香気によろめきながら、なんとかレモンを鍋の上で絞る。

 じゅじじじじ。熱っせられたリンゴとバターの上に、冷たい果汁が落ちて香り立ちながら、音を立てる。できるだけたくさん絞る。食べられなくてもいい、せめて、レモンの香りだけでも。詠子はふたたび鍋を火にかけてリンゴを煮始めた。

 汁気がなくなるまで煮てから火を止めた後、詠子はくたっとなったリンゴを口に入れた。熱々の果汁が口の中に広がり、直後にとろけるような甘さとレモンの香りが広がる。甘酸っぱくて、詠子は泣けた。熱くて涙が出た。美味しくて泣けた。良子先輩が亡くなろうとしているときに、美味しさに震えている自分が泣けた。生きていることの喜びと、申し訳なさに詠子は、深夜の台所に立ち尽くして泣いた。

 翌日、詠子は冷やしたリンゴの甘煮を持って、良子先輩のお見舞いに行った。良子先輩は、思ったよりも痩せていなかったので詠子はホッとしたが、それが浮腫みのせいでそう見えるのだと知ったときにやはり罪悪感に捉われた。

 良子先輩は「もう食べられないのだけれど、お正月を越せないだろうから、毎日一品ずつお節をお母さんに持ってきてもらってる。ほとんど舐める程度だけれど」と詠子に笑顔で言った。

 詠子は、迷いながらもタッパーを差し出した。

「先輩……これ……。いつも先輩がレモンをくださっていたので、何度か先輩に差し上げたリンゴの甘煮です。よければ……いえ、無理して欲しくはないのですけれど……」

詠子はこらえようとしながらも涙声になり、言葉を飲み込んだ。

「わたし、わたし、は、良子先輩が私の先輩で、すごく……」

(自分の思いを伝えること、自分が何か出来ることをすること、なんて全部、自分のエゴで、先輩には時間がないのに、なんで私は自分のことばかり)

詠子はもう何を言っていいのかわからなかった。罪悪感でいっぱいで、そんな自分を恥じた。私が辛いんじゃない。良子先輩の方がずっとずっと辛いのに。

「ありがと、ちょっと開けてよ」

良子は詠子に蓋を開けるように言った。体はだるそうだが、投げやりではなかった。詠子は良子先輩のそばで、タッパーの蓋を開けた。

 病室にレモンの香りが広がる。冷やすとあまり香りがしないのだが、今日ばかりはレモンの香りが強く香った。良子先輩がニヤリと顔を歪めて笑いながら、(あ、先輩の笑顔だ、と詠子は思った)いきなりタッパーの中に指を突っ込んだ。驚く詠子の前で、良子はぺろっと指を舐める。

「うん……いい匂い……」

良子は目を閉じた。甘い、と言いながらうっすら微笑む。

 詠子は、もういい、と思った。良子先輩は本当に匂いを感じているのかわからないけれど、良子先輩は私を気遣って無理して食べてくれたのかも知れないけれど、何が一番よい方法だったのか自分にはわからないけれど、本当のことはわからないけれど、自分が生きることに美味しさを感じることに幸福を感じることに罪悪感を感じても、それも全部、持って生きるしかないのだ、と、詠子は突然に思った。

「うん……良子先輩、ありがとう」

詠子は涙声になりながら、むりやり笑った。良子は薄ら笑顔で頷いて、もう返事をしなかった。

 直後に良子先輩のお母さんが病室に入ってきて、わずか十分ほどの面会時間は終わった。それ以上の時間は痛みと疲労で過ごせないと最初から聞いていた。詠子は促されるままに病室を出ながら良子を振り返ったが、良子は目を閉じたままだった。詠子が良子に会ったのはそれが最後になった。

 詠子が病院を出ると、今年初めての雪が散らついていた。デパートの文房具売り場に寄り、良子先輩にクリスマスカードを買う。その足で郵便局に寄り病院宛てに送った。美しい赤いカードに散らされた星と雪はキラキラと光り輝いていた。その日の雪は、やたらとキラキラと光って見えて仕方がなかった。

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