真夜中に台所で

日向 諒

第1話

【第一夜・キャベツのポトフ】


 ふと目が覚めた。何かに呼ばれたように、眠りから自然に引き上げられて、詠子はまぶたを開いた。部屋が暗い。明らかに、まだ起きるべき時間でないことを、カーテンの向こうの色合い、部屋の中の空気、マンション全体を包んでいる音、世界全体を包んでいる気配の静けさから感じ取る。

 枕元の時計を確かめると、まだ夜中の2時過ぎだった。詠子は、寝返りを打って布団にもぐりこむ。十二月の夜中は、暖房をかけても冷えている。肩口まで掛け布団を引き上げながら、詠子は再び眠りにつこうとした。

 しかし、詠子はまったく夢の中に戻れる気がしなかった。数十分も、布団の中で寝返りを打ったが、眠りに落ちる気配もなかった。

 眠りに落ちる努力に疲れた詠子は、時計を確かめる。夜中の三時になろうかとしていた。さっき目覚めたときと同じく、世界は静かで、冬の真夜中の気配が部屋の中にまでしみこんでくるようだった。

 (明日も――いや、もう今日か――仕事なのに)

 あーあ、とため息をつきながら、詠子は寝るのを諦めて、そっとベッドから出た。真夜中に歩きまわるのは、階下の人に気を使う。

三十五歳の詠子は二十歳のときから一人で暮らし、今も一人で暮らしている。ずっとそうだったし、これからもそうだろうと何となく思っている。夜中に起き出そうが朝方に寝ようが、仕事に支障がなければ誰にも気を使う必要のない暮らしだった。集合住宅に住んでいるゆえの、世間の生活時間帯に合わせた物音の気遣いはあった。

詠子は、足音が響かないように気をつけながら、広くもない部屋を横切り台所へ入った。台所の電気をつける。温かいオレンジ色の光が冷えた台所を照らし出す。

 牛乳でも温めて飲もうと冷蔵庫を開けた。牛乳がない。こんな夜中に目が覚めてしまったことも、睡眠不足で明日の仕事が辛いことも、明日も変わらず同じ毎日であることを思い描いて、詠子はとてもツイていない気分になった。スリッパを履いているとはいえ、寒い台所に靴下も履かずに立っていること自体が、とんでもなく不幸に思えたて来た。

 詠子は嫌な気持ちを振り払うように、無意識にもう一度冷蔵庫の扉を開けた。まるで、魔法のように牛乳が現れることを期待するかのように。

当然、牛乳は無かった。それどころか、扉を開けた途端にキャベツが詠子を直撃した。

「ぐっ」

真夜中にかなりの大声を上げそうになりながら何とか飲み込んだ詠子は呻いた。なぜか上段にキャベツを入れていたらしく、それが落ちて詠子の顔面を直撃したのだった。

(野菜室じゃなくて、なんでこんなところに……!!)

詠子は、この不運の連続に、寒さも加わって腹が立ってきた。

(なんでキャベツ……!!)

 完全に目が覚めた詠子は、睡眠不足のせいか、怒りのあまりか、判断力が鈍っているのか、このキャベツを何とかしなければならないという気分に駆られた。そして、詠子は真夜中の台所でキャベツをデン!とまな板の上に据えた。

「ふう」

まな板に鎮座ましましたキャベツを見て、詠子は観念する気持ちになった。こんな時間に目覚めたのも、そして全然眠れる気配がないのも、眠れずに行く仕事のしんどさも、台所での体の冷たさも、なにもかも諦めて受け入れる気持ちになった。

「ふう」

もう一度、ため息をついて、詠子は鍋に水を張った。鍋を火にかけお湯をわかしはじめる。丸のままのキャベツを、上からぐっと押さえ込んで、思い切りよく包丁を入れる。ざくっ。ざくっ。ざくっ。 

 詠子は、慣れた手つきで、いつものポトフを作り始めた。真夜中の台所で。

詠子にとっては、これは「スープ」だった。「ポトフ」という名前を知ったのは、大学生になってからである。友人に「ポトフだね」と言われたのだ。詠子はものごころが付く前から食べ続け、十二歳で炊事をすべて引き受けるようになった時におばあちゃんから教えられた「スープ」が、単なるスープではないことをその時初めて知った。あまりにも長い間それを食べて来たので、それの名前はなくてもよかった。その料理について話題になることはなかったし、料理について感想を言うこともない家庭だったので、せいぜい「スープ」程度だったのだ。

 詠子は、冷蔵庫を覗いてベーコンを取り出す。馴染んだ手がニンジンの切れ端も取り出してまな板に置く。詠子はベランダへ向かう。次はこうして、ああして……と考える必要がないほどに、繰り返した動作だった。ひとりで暮らして長く、詠子以外の誰も物を動かしたり、付け加えたりしないがゆえに、詠子の頭のなかに完全に地図ができあがっている部屋だった。

 詠子はぼんやりとおばあちゃんの手つきを思い出しながら、ベランダの窓を開ける。

(うわっ)

 思わず声が出そうになる。窓ガラスを開けた途端に冷たい風がなだれこんで来たのだ。一気に冷えた体を縮こめながら、出来るだけ体を外に出さないように、ガラス戸の内側から手を伸ばす。ベランダの端を探る。手が籠にあたる。手探りでカゴを覆ってある新聞紙をはがして、中の丸い物を掴む。ひとつ、ふたつ。新聞紙に包まれた小ぶりなものを二つ。詠子は握り、また新聞紙を何枚も籠の上に突っ込み、慌ててガラス戸を閉めた。カーテンを引いて、ほっと息をつくと、がちがちに強張っていた体全体から力が抜けた。

 よく乾いた小ぶりのタマネギは、手の中でカサッと皮を鳴らした。見かけのサイズを裏切る重みと、みっちりと詰まった中身が詠子の手を押し返してくる。冷えた小さなタマネギの持つ力強さだった。

 台所へ戻ると、温かい湿度に包まれた。小さな火でもお湯を沸かしていると、とても温かいのだ、ということに詠子はあらためて気づかされる。

 新聞紙を開いてじゃがいもを取り出してざっと洗う。水の冷たさに思わず顔をしかめるが、子どもの頃は冷たい水で野菜を洗っていたのを思い出して、じっと耐えた。緑色に変色しているところはないか確認して、小さな芽を包丁のお尻でかいて取る。

――じゃがいもの芽には毒があるから必ず深く取りなさい。

詠子の耳におばあちゃんの声が蘇る。じゃがいもを剥くときはいつも思い出す風景だった。

 中身の詰まったじゃがいもを、ほとんど皮つきのまま、おおざっぱに四等分する。ニンジンも適当に乱切りし、タマネギもだいたい八つに切る。沸かした湯にベーコン、タマネギ、ニンジン、白ワイン、固形スープの素、ローリエの葉を入れて弱火でぐつぐつ煮る。煮立って来たら、ごく大きめに切ったキャベツを入れる。このキャベツを入れるのが、詠子の家のやり方だった。「ポトフ」を知った時に同時に、キャベツを入れるのは料理本に載っているレシピではないことを知った。が、このキャベツの甘みがなければ、詠子にとっての「スープ」ではなかった。変わらず入れ続けた。何年もそうして詠子はポトフを作って来た。

 台所でくつくつと湯気をあげるポトフを見ながら、詠子は小さな椅子に座ってぼんやりと考えた。

(どうして、こんな夜中にポトフを作っているのだろう)

 夢を見ているような不思議な感覚だった。ついで、詠子が大学で家を出るまでの間、食べ続けられたポトフを囲んだ光景が浮かんでは消えた。おばあちゃんが台所に立つ姿、まだ若かった父の悄然とした顔、畳に座って食べるポトフ……。会話の無い食卓。柱時計の音。

 その合間にも、詠子の前でポトフはくつくつと柔らかな音を立てながら良い匂いをさせ始めている。くつくつ。思い出の中の情景は、立ち現われては消える。小さな詠子の前で色あせた画面を見せるテレビアニメ。一人で食べるポトフの味。くつくつ。冷えたセピア色の部屋。ポトフはいつも冬の料理だった。

 詠子は、ぽこぽこと泡を出し始めたポトフにジャガイモを入れる。ぽとん。温かく柔らかな音だった。タマネギやベーコンと一緒にジャガイモもくらくらと煮え始める。詠子はまた椅子に腰を下ろしてぼんやりとそれを見ていた。湯気は台所中に満ちて、廊下に面した窓を曇らせていく。

(なんでこんな深夜に私は……)

 詠子はまた考え始める。ひとりで深夜に、息をひそめるように、ひとり分×3日分のポトフを作る。思い出とともに静かに、寒い寒い夜に。詠子は窓を伝う水滴を見ながら、孤独であるけれども豊かな時間を確かに感じていた。

(まるで呼ばれるように、深夜に台所へ来たけれど……)

 ポトフは、スープの表面に金色の脂を浮かせながらいい匂いをさせて、くつくつと言い続けた。

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