第3話

【第三夜・柿なます】


 良子先輩のお見舞いの後、しばらくは、何事もない夜が続いた。夜中に起こされる日は、自然に目が覚めるのだが、それがいつ来るのか予測できないことが気にかかってはいた。起こされる、という感覚が一番近かった。決して眠らせまいぞ、と眠りの海から引き上げられ、台所へ向かわせられるような感覚があった。

 師走の慌ただしい業務が続く中で、睡眠不足は体に応えたので助かった。

 師走も半ばまで来たとき――今年も残りあと半月となった日。また、詠子は夜中に起こされた。3回目ともなると、詠子も慣れたもので、抵抗せずに起きあがった。部屋が冷えている。時計は午前三時を指している。

(少しは眠れたな)

詠子は、夜中に突然起こされることはこれからも続く予感があった。なぜなのかは分からない。

 ホッと息を吐いて詠子はパジャマの上にカーディガンを羽織って冷たい台所へ入った。スリッパを履いていても、十二月頭より更に冷えていた。

 詠子は静かに迷いなくお湯を沸かし始める。詠子は何をすればいいか分かっていた。しばらく目が覚めない夜が続いていたのに、今日という日に目が覚めて真夜中の台所に立たされている理由が、詠子は分かる気がした。

 詠子は、台所の大きな回転窓の下に置いたビニール袋の上にかがみこんだ。古い間取りのマンションは、外廊下に面して台所があり、わずかにだけ開く回転窓が大きく取られている。日中は明るいので解放感があるのだが、冬の夜は冷気がそこから入ってきてずいぶんと冷える場所だった。だから、詠子はそこに果物や野菜を置いていた。

 カサリ。深夜にふさわしいひそやかな音がした。中から鮮やかな朱色の実がのぞく。深夜の台所にそこだけ光が凝ったようだ。さっきまで灰色のビニール袋があっただけで台所の片隅の薄闇と同化していた場所が、とつぜんそこから光を放つような明るさになる。

 人間の目は不思議なものだ、と詠子は思いながら柿を取り上げた。柿がみずから光を放っているわけではない。それでも、台所の灯りを受けて柿そのものが光を放っているように見てしまう。人間が見ることを獲得した時代に、冬の数少ない果物は光そのもののように見えた名残かもしれないな、などとぼんやり考えながら、詠子は取り出した柿をキッチンカウンターに置いた。柿はそこでも艶々と光っている。

 詠子は黙々と手を動かした。大根とニンジンを冷蔵庫から取り出す。既に炒ってある状態で売っている白い胡麻の袋を開けて匂いを嗅ぐ。わずかに油くさいような気がして、詠子はフライパンを火にかけた。胡麻を軽く乾煎りして、油くささと湿気を取るのだ。

 水と酢と砂糖で合わせ酢を作って端に寄せておく。大根の皮を剥き短冊に、ニンジンも同じように短冊にして、塩水につける。

(それから――)

詠子は心の中で手順を呟きながら、柿に手をかけた。途端に詠子の動きは止まった。

(だから、嫌やったんや――)

詠子は心の中で呟きは、いつも関西弁である。標準語で話しているときは、詠子は感情の波にのまれないで済むことを有り難く感じていた。別の言語を使っているようで、いつも生々しい自分からは距離が置けていた。

(こんなん――柿持って来はるなんて――)

生まれ育った地の言葉が出たときは、詠子は取り繕えない。押し寄せる感情の波にのまれそうになりながら、詠子は柿を握りしめて真夜中の台所に立ち尽くす。

 もう分かっていた。今日は、絶対に夜中に起こされると詠子は予感していた。その通りになったし、作らなければいけないものも分かっていた。だから、マンションの玄関ドアのノブにビニール袋が掛けてあるのを見たときに、覚悟を決めたつもりでいた。郊外の顔見知りの多い場所ではあるまいし、街中のマンションで誰かが玄関ドアにビニール袋を掛けていく、という事態にここ十数年も詠子は遭遇したことがなかった。中をのぞかなくても見当はついていたが、ビニール袋の仲を覗いて、柿であることを確かめると、部屋に入らずにその足で柚子を買いに行ったのだ。

 詠子は、ふと自分が息を詰めていることに気付いて、ゆっくりと肩の力を抜いた。仕方ない。どうしても、そうならなければならないということがあるのだろう。詠子は誰に説明しても分かってもらえる気がしない言葉を自分の中で呟いて、包丁を手に取った。

 ゆっくりと柿の皮を剥いていく。小ぶりの柿は、家でなったものらしく傷がたくさんある。売り物の柿とは違う傷だ。

「詠子。近くまで出張で来たので庭でなった柿を持ってきた」

父が柿の下に折れ曲がった状態で入れておいたメモにはそれだけが書かれていた。メモを見なくても誰が持ってきたのか分かっていた。

 詠子は父とは決して上手くは行っていなかった。いや、詠子は誰とも上手く行ってなかった。母は、詠子の記憶にあるかないかの頃に出て行った。出て行ったのだと思う。詠子は両親が正式に離婚したのがもっと後だと知ったのは、詠子が高校受験をする時だった。詠子は、父と父の母――おばあちゃん――と一緒に暮らした。父は冷たいわけではなく、大学まで学費を出してくれ、生活に困ったこともなかったが、とても無口で、ぎこちない人だった。優しい言葉をかけてもらった記憶はない。詠子にとっては、非常に義務的に生活の面倒を見てもらったという感覚だった。おばあちゃんも詠子にとっては厳しい人で、詠子が逃げるように大学の時に他府県へ出るまで、詠子は一人ではないのに一人で生きた。誰にも思いっきり甘えることの出来なかった詠子は、誰に対しても引いてしまうところがあり、大人になっても父とも祖母ともひどくよそよそしくしか振る舞えなかった。父と祖母同士もよそよそしい感じであったから、もともとそういう性質なのかもしれなかった。

 だから、こういう風に優しさを示されると詠子はひどく狼狽する。どう振る舞っていいのかわからないのだ。優しさを示されて、どう応えていいのかわからない。自分が酷く滑稽な振る舞いをしたりして相手を呆れさせてしまうのではないか、と怖くなって硬直してしまう。

 そういう詠子の気持ちを無視して、父はなぜか柿だけは詠子に毎年届けてきた。毎年送ってくるだけで、手紙の一つも入ってないので、詠子はそういうものだと予測していたのだ。しかし、今年は、詠子が大学に入って初めての年、もう二十年近く前に一度だけ、ビニール袋が寮の玄関にかかっていたことがあった。大学の女子寮だったので玄関の中には入れなかったらしく、みんなが入る大玄関の扉にかかっていたのだ。メモ書きはその時と、全く同じだった。

 詠子は予測しない形で肉親が急に自分の心に踏み込んできたことに動揺した。嬉しく思うよりも心が揺れた。大学までやってもらえて、そこまで養ってもらえて、十分にしてもらったと思う。けれど、詠子の心は「そうではない」と思い足りないと思っているのだ。でも、それが詠子の人生には与えられないことを詠子は知っている。詠子は自分に言い聞かせても言い聞かせても、自分の人生には与えられないものを、求める自分の心が辛い。それを封じ込めている心の防波堤が決壊するのを恐れている。

 今、酷く動揺しているのだ。詠子は何かがやってくるのだと、知った。詠子が乗り越えなけれいけない何か。それが何かは分からない。その時期が来たのだ。封印してきたそれを無理やり開かせようとする何か。それがどういう形でやってくるのかわからない。いつ来るのかもわからない。ただ、今、来ようとしているのだ、と詠子には分かった。詠子が出来ることは、ただ、それを待つことだけだった。出来ることをして、待つだけだった。

 詠子は、柿を剥き終えて、キッチンカウンターに置いた。皮を剥かれて、皮よりは浅い朱色を見せて固く冷たい柿。柿なますが、日常的な食べ物ではないことを詠子が知ったのは、大学生になってからだった。寮の誰もが食べたことがなかったのだ。庭で柿がなると、いつも柿なますが出た。詠子にとっての日常だった。

 いいね、きちんとした料理をしてくれる家庭だったんだね、と同級生に言われ、詠子は初めて外からの目で父と祖母を振り返ったのだ。相変わらずよそよそしい父と祖母だったが、詠子は少なくとも料理を食べさせてもらい、仕込まれたことを有り難く思った。

(柿なますを作れってことね)

 詠子は気を取り直して、柿を短冊に切った。塩水でしんなりした大根とニンジンを引き上げて固く絞って、ひたひたの合わせ酢に入れる。柚子を皮ごと刻んで、大根とにんじんに合わせる。そこへ柿を入れて全体の水気を切って、胡麻を振った。

 深夜の台所で、大根の白にニンジンの赤、柚子の黄緑、柿の朱を一身に装った料理が、小さなボウルの中で合わせ酢に漬かっている。

 冬の色味の少ない季節に目の御馳走やったろうな――。詠子はそれを見つめて、初めてそういうことを考えた。父や祖母の考えがなんだったかは分からない。でも、少なくともこの柿なますを食べさせようと思って作ってくれたのだ、と詠子は、貫かれるように思った。

 喉元に突き上げてくるような熱いものをこらえて、柿なますを一口つまむ。最初に爽やかに甘さ、次に合せ酢の酸っぱさ、次に広がる柚子の香りと苦み、最後にほのかで爽やかな甘みを舌の上に残してつるりと柔らかい柿が、喉に落ちて行った。この味だった。何かわからず詠子はただ貫かれて突っ立っていた。

 十二月十六日の深夜。今年もあと半月。

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