第2話

 葵先輩の兄、響さんのことは柔道部の先輩から色々聞いている。

 響さんは自由奔放で「常識? 何それおいしいの?」を地で行く人だったそうだ。

 

 在校中は女子生徒だけでは飽き足らず女性教師まで口説いてみたり、嫌いな男性教師の弱みを握って脅迫してみたり、昼休憩に放送室に乗り込んで好きな音楽を流してみたり、他校の生徒に泣かされた友達の報復に殴り込みに行ってみたり、夏には学校のプールに忍び込んで泳いでみたり、AV室にお菓子やジュースを持ち込んで映画鑑賞会をしようとして大目玉を食らったり、修学旅行では忽然といなくなって大騒ぎを引き起こしてみたり。

 ちなみに彼はその後、修学旅行のコースを大幅に外れた高級料理店で優雅にお茶している現場を押さえられ、教師を通り越して校長先生から直々に怒られたそうだ。


 その他にも余罪はあるが、数え上げればきりがないので割愛。


 彼氏の家で実際に会ったという真白は初対面で胸を揉まれ(!)何度か抱きつかれそうになり、そのたびに彼氏が撃退してくれたらしい。


 とんでもない兄である。まさに破天荒、無茶苦茶だ。

 葵先輩や成瀬くんが何故年齢以上にしっかりしているのかわかろうというものだ。


「中村さんも知ってるんだね、うちの兄のこと……」

「ええ。伝説の人ですから……」

 残念イケメン、というのは彼のためにあるような言葉だ。

 葵先輩はこめかみを押さえてから、右手を振った。


「いや、頭痛がするから兄の話はよそう。とにかく全てが丸く収まって、漣里と真白ちゃんが幸せに踊ってるならそれでいいんだ」

「……それは、本心ですか?」

 どうしても気になって、とうとう私は切り込んだ。


「? うん。もちろん」

 葵先輩はきょとんとしている。何を言っているのかわからないのだろう。

 私は平静をよそいながら、不安でいっぱいだった。

 私がこれから言おうとしていることは、この幸せな時間を根底からひっくり返しかねない。それほどの危険をはらんだ言葉。


 でも、黙っていることなんてできない。

 私は白黒はっきりしないと気が済まないたちなのだ、厄介なことに。

 それが好きな人に関わることなら、なおさら。


「勘違いなのかもしれませんけど……そうであれば良いと思ってますけど……」

 両手を握り締める。

「……?」

 葵先輩は不思議そうな顔。


 最初は優しい言葉をかけてくれたから好きになった。

 でも、彼と関わるうちに、どんどんその内面に惹かれていった。

 本気で惚れ抜いた。


 誰よりも彼を見ていたから、他の子が気づかなくても――たとえ弟である成瀬くんが気づかなくても、真白当人が気づかなくても、気づいた。

 彼が真白に向ける目は、どんな子を見るよりも優しい。

 恋情ではないのかもしれない。恋と呼ぶほど情熱的なものは感じない。たとえるなら父兄が微笑ましく我が子を見守るような目だ。


 でも、それでも――他の子には向けない、特別なものであることには違いない。

 私はその感情が何なのか、知りたい。


「先輩って、真白のこと好きなんじゃないですか?」


 肯定しないでほしい。そう願いながら、じっと見つめる。

 葵先輩が虚を突かれたような顔をして、止まる。

 ふわりと夜風が吹き抜けて行った。


「……随分と難しい質問だね、それは」

 葵先輩はややあって、微苦笑した。


「え、じゃあ……」

 当たり、なのか。

 ショックで頭の中がぐらんと大きく揺れる。


 でも、真白には成瀬くんという立派な恋人がいる。

 真白は一途な子だ。

 たとえ横恋慕したのが石油王であろうと葵先輩であろうと浮気なんてありえない。

 真白の目には成瀬くんしか映ってない。

 葵先輩に振り向くことは絶対にない。

 ……となると、葵先輩は苦しい恋をしているわけなの?


「ああ、勘違いしないで。正しくは『過去に好きになりかけてた』だけだから」

 私はよほど深刻な表情をしていたらしく、葵先輩は片手を振った。

 口調にもその態度にも、無理をしている様子はない……ように見えるけれど、果たして本当にそうなのかどうか判断するのは難しい。


 葵先輩は学校の王子様として、常に完璧に振る舞う癖がある。

 本音など簡単に覆い隠してしまう。


「あくまで過去の話だよ。弟の恋を邪魔するつもりはない。それだけは信じて」

 つまり、弟や真白に余計なことを言うな、ということらしい。

「……わかりました」

 頷くと、ほっとしたように葵先輩は笑った。


「でも、驚いたな。そんなこと誰にも指摘されたことないのに。僕はそんなに未練がましい顔をしてた?」

「いえ。ただ、真白を見る目が優しいな、と思ったんです。女の勘です」

「鋭いんだね、中村さんは」

 まただ。中村さん。

 真白は名前で呼んでいるのに私は苗字。他人行儀な呼び方。


「~~~~~」

 悔しい。真白を好きになりかけた。それはわかる。

 真白は良い子だ。そんなこと私が一番良く知ってる。

 知り合えば誰だってあの子のことを好きになる。


 でも、それはあくまで過去の話なんだよね? 

 だったら、私にだってチャンスが欲しい!

 真白への未練なんて全部吹き飛ばしてやりたい!

 強烈な願望が胸を突きあげ、私は言った。


「鋭いわけじゃないんです!」


 体育館から流れてくる音楽がまた変わっている。

 ノリの良い、アップテンポ曲だ。サビ部分。ちょうどここからクレッシェンド。だんだん強くなっていく。

 私の心臓のように鳴り響く、熱く激しい、ジェットコースターのような曲に後押しされながら、私は勇気を出して言った。


「先輩が好きだから、ずっと見てきたから、気づいたんです!」


 先輩は目を丸くした。

 顔が発火しそうだ。

 でも、目を逸らさない。全部本気なんだから。


「できることなら私も真白みたいに名前で呼んでほしいです! 先輩の彼女になりたいです!」


 言った! とうとう言った!!!

 喉が渇く。そのくせ、握った手は汗びっしょり。

 顔だけではなく、全身が熱い。血液温度が急激に上昇したとしか思えない。


 沸点に達して全身が蒸発してしまうのではないかと思った矢先、先輩が動いた。口の端を緩めて笑ったのだ。


「ありがとう。そう言ってもらえて嬉しいよ」


 ……あ。

 これダメなパターンじゃん。


 顔を撫でる夜風が急に冷たくなったように感じた。


「でも、僕はいま、誰とも付き合う気はないんだ。受験生だしね」

 それは、至極もっともな理由だった。

 先輩が志望しているのは国立大学の中でも最難関の大学の獣医学部。


 いくら先輩が優秀といえど、彼が志望している大学は恋に現を抜かして受かるほどそんなに甘い大学ではない。

 油断すれば容赦なく落ちる。私がその原因になってしまう。


 現実に打ちのめされ、胸の内で破裂しそうに膨らんでいた気持ちが萎んでいく。

 いやいや待って!


 まだ終わってない、と、私は必死で萎えそうな気持ちを奮い立たせた。

 諦めたら先輩との縁はこれで終わりだ。

 卒業すれば先輩との接点は切れる。


 先輩はきっと大学でももてる。

 いまだって先輩は告白慣れしている。


 先輩にとって女子からの告白は特別なことではなく日常茶飯事。

 だから大した動揺もなく「ありがとう」と優しく笑って言える。

 相手を傷つけないよう最大限に配慮し、うまく対処できる。


 私もそうやって片付けられるのか。

 この機を逃せば、私は先輩の記憶に残らない。

 彼女になれなかった女子のうちの一人として処理され、記憶の奥底に葬られてしまう。


 視界がすっと暗くなる。

 嫌だ。そんなの嫌だ!!!


 ――受験で忙しいなら邪魔にならないようにします。こっちから連絡しないようにするし、デートだってしなくていいです。


 私は考えた。彼の心を振り向かせる魔法の言葉を、頭が痛くなるくらいに考え、探し求めた。


 せっかく真白がセッティングしてくれたのに。

 文化祭の夜、屋上で二人きり。

 夜空には月。

 シチュエーションとしては最高であるはずなのに、肝心の距離が縮まらない。

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