第3話 妓楼・亀伊勢屋の花魁・紅葉
磨き抜かれた板敷の廊下を、幼女の軽い足音が通り過ぎていく。静まっていた妓楼も、そろそろ起き出してくる気配がそこここに漂っている。吉原一の威容を誇る妓楼・亀伊勢屋も、女たちが湯からぼちぼち帰り、提燈に灯を入れようとする頃である。秋の夕は足がはやい。植えられた紅葉が、早くも夕陽を透かしながら、夜の暗さを葉の端に漂わせている。
佐吉は、上半身裸でうつぶせになって煙管を吹かしていた。煙管から吐き出される煙が、夜の暗さがしのんできた部屋に漂う。遠目を放って考え込んでいる佐吉の横で、寝間着ながら豪勢な絹を着た女が佐吉の着物を畳み直していた。女の絹の寝間着には、細かい紋様がかすかに浮きだしている。わずかずつ紅の色を替えた糸で、全面に紅葉の文様を折りだしている豪勢なものである。衣桁には片方の肩口から裾まで紅葉を金銀赤黄緑の糸で刺繍で仕上げた打掛がかけられ、黒光りする床の間には菊を浮き出させた青磁の花入れ、掛け軸の中では細かい紅葉に小鳥が寄る。亀伊勢屋の誇る、いや、吉原の誇る花魁紅葉(もみじ)の季節にふさわしく、これでもかと紅葉(こうよう)の演出を施した部屋だった。
よけいな口を聞くこともなく、かいがいしく自分の脱ぎ散らかした着物を畳む紅葉をぼんやりと眺める。世間では「観音様の顔に仁王様の気風」と人の口に上らない日は無いと言われる女だが、佐吉にとっては可愛らしくおとなしい女だった。紅葉の白魚のような指が、しなやかに着物のふちを押さえて反るのが、煙管の吐き出す煙に滲む。ここが妓楼の豪勢な部屋の中でなければ、それも女郎の金で居残っているのでなければ、ただ静かな晩秋の夕暮である。
たっ、たっ。軽い足音が廊下に聞こえた後、襖の向こうに人が座る気配があった。
「紅葉姉さん、藤代屋さまがお店へ上がられました」
幼い声で、しかしそれなりにもの慣れた口調で姉女郎の密室での時に割り込んでくる。紅葉付きの禿の蝶矢である。紅葉と違って廓生まれの廓育ちで、ここの水に馴染んでいることが、時にやけに大人びて見え紅葉を苛立たせる。
紅葉は佐吉の着物を畳む手を止めはしたけれど、案の定、返事はしなかった。佐吉も煙管をふかしたまま、天井を見ている。紅葉は瞼を閉じて、うんざりしたように小さく息を吐いた。
―――ああ、いつもの。いつもの夢の終わりみたいだ―――。
紅葉は、室内のそこここに飾られた絢爛豪華な紅葉が、一気に色を失っていくように感じる。いつもそうだ。佐吉さんがいるときだけ、この世は鮮やかな色に輝く。
「紅葉姉さん、藤代屋さまが、お待ちです」
蝶矢の声に掟を守らない女郎を罰するような響きが混じるのを、紅葉は敏感に聞き取った。禿の大方は、幼くして田舎から親に売られてくる。不安な中で、姉女郎について仕込まれる。禿の方にも姉女郎と辛さを分かち合う気持ちがある。しかし、蝶矢はたった九歳でも、たいていの女郎よりは古参で、売られるまでの想い出に苦しむことはない。幼さゆえの残酷さで、どの遣り手婆よりも掟に厳しいのであった。
「うるさいねえ、いっぱしの禿さんよ。寝小便はなおったのかい」
着物から手を放して、すっと立ち上がり髪の乱れに手をやりながら、紅葉は尖った声を出した。常ならば黙って返事をしないところを今夕は苛立ちを抑えられず、蝶矢のいちばん言われたくないことで、からかいをせずにはいられなかった。
―――こんなしょうもないことに苛立って……花魁の名が泣くと、佐吉さんもきっと思っている。
紅葉は佐吉の方を見ることができずに、苛立ちで弾んだ心臓を押さえた。
蝶矢が泣きながら遣り手に訴えに行く声が聞こえるかと思ったら、襖の向こうではかすかな息遣いと足音が聞こえ、人の気配はするものの、ひどく静かな気配だった。
「もし、紅葉花魁」
二十歳あまりの男の柔らかく静かな声が、襖の向こうからかけられた。あまりの静かさに、世界が静かになったのかと思えるほどの威力のある声だった。声の若さと老成ぶりがひどく似つかわしくなかった。
「藤代屋様がお待ちです」
つとめて気持ちを抑えた声が、苛立ちを恥じている紅葉の神経をよけいに逆撫でする。惣太の気持ちの波立たない声は、佐吉のふたりきりの甘い世界を、突然、着物を脱ぎ散らかしただらしない世界に変えてしまう気がして、紅葉は肩に力が入った。
「ええ、うるさいねぇ。今は大事な大事なお人が上がってらっしゃるんだよ!」
紅葉は、寝乱れた布団を視界から振り払うように強い口調で惣太に言い放った。いつもそうだ。紅葉は、禿で入ったときから惣太に苛立たせられる。
「お言葉ですが、花魁。藤代屋様はもう八百両も使ってくださっている太客でござります」
惣太はあくまでも静かに話す。紅葉は、襖の向こうに男衆姿で端然と正座し、何があっても穏やかに誠実に対応する惣太が見えるようで、声を荒げている自分を辱められているような気がした。
「八百両でわっちの心が買えるたあ、安く見られたものよなあ。なにが悲しうて御職を張っているものか。女郎は間夫がなけりゃつまらねえ、言わずと知れた話じゃないか。藤代屋のジジイには好きなだけ待ってもらいな!待ちくたびれて朽ち果てたって構いやしないよ」
きっと、惣太は思いつめた顔で襖越しにこちらを見つめている。紅葉はそう思った。紅葉は惣太の息をのむ気配が感じられないか、と全身で探った。が、たじろぐ気配は何も感じられず、ため息ひとつ聞こえず、禿のごく小さな足音が去っていくのが聞こえただけであった。惣太は足音も気配もなく去ったのだ。
紅葉は詰めていた息を吐いて、佐吉の方を気づかわし気な笑顔で振り返った。佐吉は、紅葉の啖呵など上の空な様子でうつ伏せで煙管を吹かし続けている。
「すまないねぇ、佐吉さん……。とんだヤボ天だ。紅葉が女郎稼業を務めているのも、佐吉さんあってのことと知らぬ者はいないと言うに……」
紅葉は佐吉の裸の背中に頬を寄せた。白くひいやりとした肌が、紅葉の上気した頬に冷たく当たった。
「……女よりもきれいな肌して」
紅葉は佐吉の背中に、小さく爪を立てた。じわりと血の筋が浮く。
「うるせいなあ」
佐吉はぞんざいに寝返りを打って、紅葉の手から逃れた。
「アレ、そんなつれない態度を」
ふくれる紅葉に背中を向けて佐吉は続けた。
「藤代屋とは、また豪華な顔ぶれだな。日本橋本町の大店の米問屋じゃねえか」
「米だろうと油だろうと、佐吉さんの前には霞も同然」
紅葉の気風の良さに、佐吉はあくまで冷めた顔で床から起き上がりながら言った。
「大店の旦那衆から金を引っ張る、それが花魁のさだめじゃねえのかい」
「そんなつれないことを、そんなお顔で仰るとは」
「そんな顔たあ」
「そのきれいなお顔のことでございますよ。紅葉は、あなた様の御器量に惚れてござんすが、その美しいお顔、お声……アレ、 佐吉さん、こんなところにまた傷が」
背に着物を羽織っただけで胡坐をかいた佐吉の右目の上に、紅葉は小さな傷を見つけ、思わず手で触れる。
「うるせいなあ」
佐吉は今度は心底うるさそうに、紅葉の手をのけた。
「またケンカをしなさったのか、まだあの刀を探して喧嘩を吹っかけていなさるのか」
紅葉が真顔になって問い詰めるのに、佐吉はにやりと笑った。
「美しい顔って言いやがるが、オレの顔には既に傷があらあなあ」
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