第56話 「ローマ史上最悪の皇帝」カラカラ

市民のために大浴場をつくった皇帝として知られるカラカラ帝ですが、彼は多くの歴史家からローマ史上最悪の皇帝と言われています。

あの悪帝として名高い、コンモドゥス、カリグラ、ネロをも凌ぐというのですからたいしたものです。


●カラカラ帝の政治

 ローマ五賢帝(後述)の最後の皇帝マルクス・アウレリウス・アントニウスの死後、これまでの譲位という形で帝位が移っていたものが、息子のコンモドゥスに帝位を譲ったことで、賢帝時代は終焉を迎える。

 コンモドゥスは史上に名高い暴君で、彼の治世にローマは荒れるのだが、その後をついだセウェルスが帝国を立て直す。しかし、セウェルスの死後、彼の二人の息子カラカラとゲダは非常に仲が悪かった。父の崩御後、二人は共同統治したのだが、後にカラカラはゲダを暗殺しただ一人の皇帝となる。

 彼は皇帝になるとまず何を思ったのか、ローマ軍をアレクサンドロス大王のマケドニア風に改め、膨大な資金を使って装備まで改める。

 それによって出てくる不満は、将兵の給与を上げること(アントニウス法)によって解消されると考えたのだ。これは、後の軍人の権力の肥大の遠縁になる。

 また有名な大浴場を建設し、そこで淫楽にふける・・・。


 カラカラ帝の時代のローマは、軍人の権力が拡大するとともに、ローマ帝国の領土の拡大によって戦費がかさみ、財は決して余裕のあるものではなかった。コンモドゥス以後近衛兵に暗殺される皇帝も増えており、皇帝としては、出費を抑えるとともに、軍人の権力を抑制しなければ自分の命さえも危うい時代であった。

 そんななかカラカラは、軍人の給与をさらに拡大したことによって国庫を圧迫・軍人の権力も増大してしまい、後の混乱期(いわゆる軍人皇帝時代)を招いてしまう。

そんなことは露知らず、カラカラは放蕩にふけっていたのだが・・。


●カラカラ東へ

 215年にカラカラは軍を東に進め、アルメニアなどを偽計によって見事奪取するも、すぐさまアルメニア人の反撃を受ける。手痛い反撃を受けたローマ軍は、地中海東岸の都市アンティオキアに入った皇帝は、パルティア(ペルシア人の当時の王国、メソポタミア地域をおさえていた)王ヴェロゲセス5世に和平を呼びかける。

 パルティア王ヴェロゲセスは、カラカラ帝の呼びかけに答え、首都に招き入れる。

 このとき実は、カラカラ帝は和平を結ぶ気などなく、祝宴にまぎれてパルティア要人を皆殺しにしてしまおうとたくらんでいたのだ。

 そうして、双方は祝宴を催して和平を喜び合う。そのとき、ローマ軍将校がパルティア王以下要人を一網打尽にしようと乱入。

 不意をつかれたパルティア陣営は、偶然に逃れることのできたヴェロゲセス5世を除き、他のほとんどが殺害されてしまう。

 当時のパルティアは、東をヴェロゲセスが、西をアルタバヌスが王位継承の関係で分割統治していたのだが、この事件をきっかけに協力しあい、ローマに復讐すべく兵力を結集する。

 だが、カラカラ帝はとまらない。その間にもアレクサンドリアに入城すると、些細なことで皇帝の怒りを買ってしまったために、アレクサンドリア市民の一大虐殺を命じる。それによってアレクサンドリアは、人口50万(当時としては世界最大クラス)の市民が半数にまで減ってしまった。

 これらの一連の大虐殺と、対パルティアとの戦争のやり方に不満をいだいた将軍マクリヌスは、217年カラカラを殺害し、自ら皇帝を名乗る。

 こうして悪帝カラカラはこの世をさったのだった・・・。


 ローマのこういった皇帝の末路はいつも側近からの殺害ときまっているのだろうか・・・。カラカラも例に漏れず暗殺されて生涯を閉じる。



 続いて五賢帝について


●五賢帝登場前

 尊厳者(アウグストス)と称されたオクタビアヌスが初代ローマ皇帝となり、元老院との調停につとめ、「ローマ内乱の一世紀」に終止符を打ち、ローマは安息につつまれる。

 彼の統治により、人口100万人を超えたローマ市は栄え、ヴェルキリウスをはじめとした文人が活躍した。

 また、対外的にはゲルマン人にトイトブルク森の戦いで破れ(9年)、ゲルマニアから撤退、以後ライン川・ドナウ川を北境とした。東方はパルティアと講和し、ユーフラテス川をローマの東端とした。

 対外的に国境が決まり、以後200年に渡ってローマの平和が保たれたため、この200年をパックスロマーニャと呼ぶ。

 オクタビアヌスの死後、カリグラやネロといった暴君を出し、ネロの死後68-69年にかけて、4人の皇帝が入り乱れた内乱状態に陥る。

 ドミティアヌスという皇帝が暗殺されると、穏和で名門出身のネルヴァが元老院に推され、即位する。ここから五賢帝時代が始まるのだった。


●ネルヴァ(位96-98)

 68歳で病におかされていたが、元老院に推され皇帝となる。元老院との調停に努め、国内の混乱をおさめる。

 また、子供がおらず、軍の支持を得られなかったことから、当時軍に人気のあったゲルマニア総督のトラヤヌスを養子として、トラヤヌスに皇帝を譲る。


●トラヤヌス(位98-117)

 彼は寛容・質素な性格で軍・民ともに人気のあった人物で、ネルヴァの養子になると翌年即位する。また、元々軍人であったため、対外政策には守勢から攻勢に転じ、ルーマニアを征服。一時的ではあったが、アルメニア・モロッコ・ブリテン島南部などを征服し、ローマ帝国の最大版図を築き上げた。


●ハドリアヌス(117-138)

 トラヤヌスの死後、元老院に推され即位。内政を重視し、ローマの平和に勤めるとともに、帝国全土を二度巡回し、防壁を築いた。


●アントニウス=ピウス(位138-161)

 ハドリアヌスの養子となり、ハドリアヌスの死後即位。彼は穏健で慈悲に富んだ人物とされている。ピウスという名が与えられたのだが、その意味は「敬虔な者」である。

 ハドリアヌスの意向に従って、養子を取り、マルクス=アウレリウス=アントニウスとヴェルスに帝位を譲る。


●マルクス=アウレニウス=アントニウス(位161-180)

 スペインの名門貴族の出身。11歳にしてストア派の哲学者になった天才。69年にヴェルスが死ぬと単独皇帝となる。

 彼は「哲人皇帝」と称され、寛仁な性格で善政を敷いたが、パルティアやゲルマン人の侵入に悩まされ、ウィーンの陣中で没する。

 彼が歴代の賢帝の戒めを破り、不肖の息子コンモドゥスを帝位につける。コンモドゥスはネロ以来の暴君といわれ、ローマは再び混乱に陥る。


 五賢帝は血で後継者を選ぶのでなく、優れた人物を養子にとり、帝位を譲ることによって成立した治世であった。


※本記事は2006年ごろにブログで書いたものの焼き増しです。五賢帝の見解など、現在の考え方と結構違いますのでご注意ください!

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