第51話 英雄ヘラクレイオス
今回の主人公、ヘラクレイオス(在位610-642)が生きた時代は、596年から867年まで続くことになる暗黒時代でした。
かのユスティニアヌス帝の戦費がかさみ、その反動で帝国の国力が極度に落ち、滅亡寸前まで追い詰められたこともあった時代です。
そんな激動の時代を生きたヘラクレイオスについて見てみるまえに、まずはこれに至るまでの歴史を見てみましょう。
●栄光の時代は終った!
ユスティニアヌス帝という皇帝が、「ローマ帝国の復活」を夢みて、ゲルマン民族に支配されたイタリア南部、アフリカ北部、スペイン沿岸地域などを次々と支配。
これができた要因として優秀なヴェリサリウスやナルセスなどに支えれたからでもあった。しかし、ユスティニアヌスの地中海帝国は無理のうえに成り立った帝国で、彼の死後たちまち経済は破綻。
悪く言えば、まきちらかした広大な帝国を統治することになったユスティニアヌス以後の皇帝、ユスティヌス2世(在位:565-578)、ティベリウス2世コンスタンティヌス(在位:578-582)、マウリキウス(在位:582-602)はきっと、途方も無く荒れ果て、財政破綻した帝国の現状に胃が毎日痛くなったことであろう。(一時ローマの人口が500人ほどになってしまったと書く文献もあるほど)
このような内部事情なので、3人の皇帝も何もしなかったわけではないのだが、次々に領土を失って行く・・・・。
イタリアの大半地域を失い、北からはアヴァール族が侵入し領土を次々に失い、さらには、宿敵ササン朝ペルシア(ヴェリサリウスが黙らせていた)との戦いも再開され・・・・・。
皇帝マウリキウスは、侵入したアヴァール族を撃退しようと打って出るが、軍隊の反乱にあい殺害される(602年)。その軍隊によってかつがれたのが暴君フォカスであった。
フォカスの政治によって国は、ますます荒れ果て、急速にビザンツは衰退していく・・・。そんな中立ち上がったのがヘラクレイオスの父であるカルタゴ総督ヘラクレイオス(同じ名前・・・・ややこしい・・・)であった。
●フォカスを倒せ!
カルタゴ総督ヘラクレイオス(父)はフォカスを打倒しようという動きを見せると、それに貴族や一部市民が賛同し、ヘラクレイオス(父)は、ビザンツの穀倉地帯エジプトの制圧にとりかかる。
それと同時に彼の息子ヘラクレイオス(子)は、フォカス帝を直接討つべくコンスタンチノープルに歩を進めるのだった。
権威が地に落ちた皇帝を相手にしたため、ヘラクレイオス(父)は、あっさりとエジプトを制圧。
一方のコンスタンチノープルでは、対抗策の一つとしてフォカス帝がヘラクレイオスの婚約者エウドキアを人質にしたが、これは逆効果でヘラクレイオスは愛する婚約者を救うためにやる気アップ!したのだった。
そのかいあってか?わずか2日で、ヘラクレイオス(子)はコンスタンチノープルに入城、フォカス帝を処刑し、愛する人を取り戻したのだ!
こうしてヘラクレイオス(子)は皇帝に即位し、皇后にはエウドキアを立てたのだった。
●愛がないと燃えないよ?
610年現在の帝国は、北はアヴァール族・イタリアではランコバルド族・そして東方ではようやく内乱を抜け出し安定させたササン朝ペルシアの強力なシャー(王)ホスロー二世が次々に領土を侵食し、国はフォカスによって荒れ果てていた。そんななか即位したヘラクレイオスは救国の英雄として迎え入れられたのだが・・・・・・。
「愛がないとやってられねーー?」とでもいったかどうかは謎なのだが・・・・。
それはともかくとして、あれほど精力的にコンスタンチノープルまで攻め上がってきた皇帝の気力が全くなくなっていたのだ。そうこうしているうちにも、ササン朝ペルシアは長年の復讐を晴らそうと帝国に本格的な侵攻を開始。
611年アンティオキア征服。614年聖地エルサレム征服。619年最大の穀倉地帯エジプトを制圧と、旧アケメネス朝ペルシアの最大領土を再現させんが勢いであった。
特にエルサレムの征服は、ビザンツ国内に最大の屈辱と精神的な大打撃を与えることになった。
もうペルシアが首都コンスタンチノープルに迫ろうとしている・・。皇帝ヘラクレイオスは和睦の使者を出すが、受け入れられず、ヘラクレイオスはカルタゴへの逃亡を図ろうとたくらむ・・。
しかし!このとき愛があったのだ!
姪のマルティナと再婚し、ヘラクレイオスは愛のパワーを補充!そして市民のとどまってくれとの声。こうして土壇場になってヘラクレイオスはササン朝ペルシアのホスロー二世と戦うことを決意したのだった。
余談ではあるが、このときヘラクレイオスが逃げ出していれば、コンスタンチノープルは占領され、ビザンツは滅亡していたかもしれない。
まさに滅亡寸前にようやく立ち上がったヘラクレイオス。しかしながら。国内の兵はわずかしかなく、軍隊から立て直す必要がありました。
はたしてホスロー二世を叩くことができるのでしょうか?
●軍を立て直せ!
当時のビザンツ帝国はすでに財政が破綻していたので、ヘラクレイオスは軍備を整えるためにどうしても軍事資金が必要だった。そこで彼のとった手段はこうだ。
1、穀倉地帯エジプトを失ったので、「パンとサーカス」を廃止し、出費を抑える。
2、神のために、聖地エルサレムをペルシアから奪還せねばならない。そこで、総主教セルギオスに資金援助を受ける。
「パンとサーカス」は古代ローマ以来ずっと市民に施されてきたものであったが、ここにきてヘラクレイオスは古代ローマの伝統を捨てる。また、セルギオスは聖地奪還のためならと、喜んでヘラクレイオスに教会財産を差し出したのだった。
こうして軍事資金を手にしたヘラクレイオスは、兵を集めることに成功。しかしながら、皇帝の親衛隊以外の部隊は、コンスタンチノープルや小アジアなどから急遽呼び集めた新兵であった・・・。
ヘラクレイオスは、この新兵の訓練からはじめねばならなかったのだ。
こうしてようやく軍備を整えたヘラクレイオスは、妻マルティナを伴ってペルシアとの戦いに向う。
●まずは小アジアを取り戻せ!
ヘラクレイオスはまず、首都目前にまで占領されたアルメニア・小アジアを取り戻さねば安定はないと考え、軍隊にカッパドキアで訓練を積ませたあと、アルメニアに皇帝自ら侵攻。(皇帝自ら戦場に赴いたのは、古代ローマのテオドシウス帝以来)
皇帝は、そこで見事ペルシア軍を討ってみせた!そうして小アジアを回復したヘラクレイオスは、ホスロー二世に和平を提案するが、ホスローはこれを拒否。
そのため、ヘラクレイオスはさらに軍を進めねばならなくなった。
ペルシアに占領された土地、メソポタミアのペルシア領土・・・・。敵の領地は広大である・・・。
これにヘラクレイオスが出した答えは、ペルシアの本拠地メソポタミアを攻めるというものだった。実は、エジプトなどは長年に渡る宗教の教義上の問題でもめていたため、この穀倉地帯からの搾取が激しかった。
なのでペルシアに占領された時には、逆にペルシアを歓迎するほどである。(こういう風潮だったので、後にあっさりとイスラムに寝返る。)
目指すは敵の本陣!
こうしてヘラクレイオスはメソポタミアに兵を進める。
小アジアを回復し、和平を望んだヘラクレイオスでしたが、ペルシアのホスロー二世に拒否されてしまいます・・・・。
このことが、後に最大の不幸となって両者に降りかかることになります・・・。ともかく、和平を拒否されたヘラクレイオスはホスロー二世と徹底的に戦わねばならなくなります。
他の元ビザンツ帝国領土は、ビザンツに対して印象がよくありませんでしたので、ヘラクレイオスはペルシアの本拠地を叩くため計画をすすめます。
その間、北からまたしてもアヴァール族が攻め込んで来ますが、ヘラクレイオスは上手く彼らを説得し、いよいよ決戦に赴くのでした。
最後に付け加えておきますが、ササン朝ペルシアのホスロー二世は優れた君主で、それゆえヘラクレイオスとの和議を拒んだのでしょう。(事実ササン朝は、ホスローの登場まで内乱続きで、彼によってようやく一つにまとまりました。)
●死闘
623年にアゼルバイジャンに攻め込んだヘラクレイオスは、激しい戦いの末に、ここを占拠。この地で現地のキリスト教徒を取り込み、現イランのタブリーズを破壊することに成功。
624年になると、イベリア半島の帝国領がゲルマンの西ゴート族に占領されるが、ヘラクレイオスはそちらには目もくれず(といっても対ペルシアに全力投球をしているため、イベリアまでいっていられない)、アルメニアでペルシアとの戦闘を再開するが、ここではペルシアが優勢でヘラクレイオスは撤退を余儀なくする・・・・。
625年に黒海まで撤退したヘラクレイオスに対し、翌年ホスローは反撃に打って出る!ペルシア側もヘラクレイオス同様、ビザンツの首都を叩こうと侵攻を開始。
首都に直接攻めるのは悪くない作戦だ・・。しかし!コンスタンチノープルの難攻不落さと、海軍のものすごさをホスローは考えに入れてなかった。
アヴァール・スラブ・ペルシア連合海軍は、ビザンツ帝国海軍に惨敗。一方首都に攻め入ったペルシア陸軍も難攻不落の城壁と総主教セルギオス(聖地奪還のためヘラクレイオスに資金援助した人)の奮戦のため、敗退。
さらには、ペルシアがヘラクレイオスを討とうと黒海に差し向けた軍隊は、ヘラクレイオスの弟テオドロスが迎え撃ち応戦。
その間にヘラクレイオスはペルシア本拠地を叩こうと南下を開始する。
翌627年には、メソポタミアの古都ニネヴェでペルシア軍を破ったヘラクレイオスは、その勢いのまま628年ペルシアの首都クテシフォン(バグダード近郊)に迫った。
ところがここにきて、ペルシアの悪癖が出て(しょっちゅう反乱を起こす)しまい、ホスロー二世はクーデターによって殺害されてしまう。
ビザンツと徹底抗戦の構えを取っていたホスロー二世がなくなったことで、ペルシアは一気に和平を受ける動きを見せる。
こうして、ホスローの後を継いだカヴァード二世とヘラクレイオスは和平を結び、ペルシアの占領地からの全面撤退と捕虜の変換をすることで、戦いは終結したのだった。
その後、すぐに病気でなくなってしまったカヴァード二世の後を継いだアルダシール三世の後見人にヘラクレイオスが指名され、長きに渡ったペルシアとローマの戦いはローマの勝利で幕を閉じたのだった。
こうして、イベリアや多数の犠牲を払って余りある勝利をヘラクレイオスは手にしたのであった。
古代ローマのパルティア以来のペルシアとの戦闘の歴史に終止符を打ったヘラクレイオス。彼はコンスタンチノープルに凱旋すると歓呼の元国民に迎えられます。
●「我こそは、キリスト教徒のバシリウスなり」
ペルシアとの戦いに勝利し、首都コンスタンチノープルに凱旋帰国したヘラクレイオスは、民衆の前で、こう宣言します。
「我こそは、キリスト教徒のバシリウスなり(諸王の王。ペルシアのシャーと似た意味を持ち、キングオブキングスの意)。」
このときをもって、古代ローマ以来使われていたラテン語ではなく、実質的なビザンツの公用語であるギリシア語が王の名につくようになる。
これは、東ローマから完全に脱却し、ギリシア人国家ビザンツを象徴する出来事であった。
630年には、ペルシアより「聖なる十字架」の返還を受け、帝国はこれをもって長い戦いに完全に別れを告げたのだ。
●「シリアよ。さらば」
しかし・・、ヘラクレイオスの栄光の時も長くは続かなかった。彼が一生かけて築き上げた、ほかの全てをかなぐり捨ててでも達成したペルシアへの勝利が無に帰す瞬間が刻々と迫っていた・・・・・。
ヘラクレイオスが遠征中の622年・・・、今後の世界史に大きな影響を与える一大事件がアラビア半島で起こっていたのだ。
それは、イスラム教の開祖「預言者」ムハンマドが、メッカからメディナに移った年である。(ヒジュラ、聖遷という言葉で示される)
これを機に、ムハンマドらは、瞬く間にアラビア半島を制圧。この背景には、ペルシアがビザンツとの死闘で完全に国力を失っていた背景がある。続いてムハンマドはシリアに侵入し、いよいよビザンツとの戦闘に入る。
それでもヘラクレイオスは、最後の力を振り絞りムハンマドの軍を撃退。しかし、ムハンマドが亡くなっても彼の遺志を継ぐイスラム教徒たちが再び押し寄せてくる・・・。
このときもはやビザンツにはイスラム教徒たちと戦える力がわずかなりとも残っていなかった・・・。635年にはあっけなくダマスカスを占領される。
これにはヘラクレイオスも黙ってはいれなかった・・。ビザンツに残された力はもはやないと知りながらも・・・。
しかし、ヘラクレイオスはあきらめなかった。もてる全ての兵をかき集め、シリアでイスラム軍と交戦する!
予想どおりではあるが、ヘラクレイオスはこの戦いで惨敗し、シリアを捨てざるを得なくなる・・・。この敗戦で皮肉にもヘラクレイオスの中で最も有名な言葉が残されている。
「シリアよさらば。なんと素晴らしい国を敵に渡すことか!」
●失意の中で・・・・・
一転して悲劇の皇帝になってしまったヘラクレイオス。彼の晩年は悲惨なものであった。一生かけて達成したペルシアから取り戻した領土は、全てイスラムに占領(シリア、パレスチナ、メソポタミア、エジプト)され、642年にはササン朝ペルシアもイスラムに滅ぼされる・・。
不幸中の幸いだったかは本人にしか分からないが、ヘラクレイオスはペルシア滅亡の前年641年に失意と絶望の中死去・・。
彼の死後皇室は乱れ、長く苦難の帝国の歴史が再びはじまるのだ・・。
しかし・・・帝国はいずれ不死鳥のように世界の強国としてよみがえる・・。一人の不世出の天才によって・・この話はまたいずれ・・。
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