第49話 ギリシャ火

 東ローマ(ビザンツ)を軍事的に支えた最終兵器こそ、ギリシャ火でした。

 ギリシャ火は特に海戦で威力を発揮したと言います。何がすごかったのかというと、一度燃えると水をかけても消えない。今でいうナパームのような効果があったと言われています。ギリシャ火があったため、東ローマの首都コンスタンチノープルは強固な守りとなったのです。


そんなギリシャ火・・いつ使われたのかと言うと・・・諸説があるんですが、初めて使われたと言われてる最も有力な説は、614年から618年にかけてイスラム勢力ムアーウィアのコンスタンチノープル包囲戦で使われたそうです。

 このときの王がコンスタンティヌス4世という皇帝で、614-618年はヘラクレイオスの時以上に滅亡寸前まで追い詰められた時代でした。(ヘラクレイオスについては次記事にでも)


●ムアーウィア(603年?~680年)の侵攻

 ムアーウィアは、後にムハンマドの正当後継者アリーを退けウマイア朝を創始する人物で、ムハンマドの後継者アブー=バクルに彼の兄がシリア制圧を命じられる。

 彼は、兄に従軍しビザンツとの交戦に入るのだった。640年に兄が亡くなると、彼はその跡を継ぎ、対ビザンツ戦を着々と進める。

 このシリア遠征については、ヘラクレイオスの記事を見ていただければわかるとおり、ビザンツ側の大敗北で終結する。

 そして、第二代カリフ・ウマルによって、シリア総督に命じられると、さらにビザンツを追い詰めるべく活動を開始。

 キプロス・ロードス島を制圧し、シリアを磐石のものにしたムアーウィアは、いよいよ首都コンスタンチノープルを落とすべく行動を開始するのだった。

 662年には、小アジアへ侵攻を開始し、669年にはコンスタンチノープル対岸のカルケドンまで軍を進めることに成功。さらにイスラム海軍は、673年にはエーゲ海・マルマラ海を超え、キュジコス半島を制圧。


 こうして、コンスタンチノープルの周辺地域はイスラムに固められることになった。

 しかし、ムアーウィアはかつてのペルシア王と同じく圧倒的なまでの首都コンスタンチノープルの防衛力に苦しむことになるのだ!

 674-678年にかけて、コンスタンチノープルに攻め込むものの、囲い込むにはこの都市は大きすぎ、海軍はギリシア火という新兵器で撃退されてしまった。

 こうして、首都陥落を免れたビザンツは、ロードス島までを奪回するのだった。しかし、ムアーウィアもあきらめず、679年にはロードス島を再占領とあくまでもビザンツと雌雄を決するつもりだったみたいだ。

 しかし、680年にムアーウィアが没すると、イスラム(ウマイア)内で内乱が始まったため、ビザンツとイスラムは講和するのだった。


 元々コンスタンチノープルは世界に類を見ないほどの堅牢さを誇っていました。侵略者はついにコンスタンチノープルを破ることが出来なかったのです。これが落ちるのは帝国が滅亡したときでした。1453年のことです。

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