第32話 教皇とアヴィニョン
いきなり教皇とアヴィニョンだけを抜き出して記載しても意味不明になると思いますので、簡単に流れも追っていきます。
その1
●教皇という存在
ここでいう教皇とはカトリックの盟主ローマ教皇のことです。
簡単にローマ教皇の成り立ちはというと・・・、キリスト教の成立後、エルサレム教会とアンティオキア教会が主導し、キリスト教を広めます。
その後、ローマでキリスト教が受容されると、首都ローマにあったローマ教会、東方の重要都市コンスタンチノープル、北アフリカの文化的大都市アレクサンドリア教会も大きな力を持っていきます。
ローマ教会は古代ローマ帝国が健在なうちは、ローマというローカルな地域のみで布教を行った教会で、権威的なものはあくまで名誉的なものとされ、実質的な権力はなかったという説が有力です。
キリスト教成立以来、各派閥は勢力争いの中で対立する勢力を異端として認定し、排除しようと試みるようになります。
派閥争いが激化してくると、当時の宗教的・世俗的な主であったローマ皇帝は、キリスト教徒に介入し、公会議を開きます。初めて開いた会議はニカイア公会議といわれるものです。
(もっとも皇帝は、ローマの求心力・権威の強化のためにキリスト教徒を利用する思惑があったのですが・・・公会議当時皇帝はキリスト教徒ではありませんでした。後に改宗します。)
このニカイア公会議では、アリウス派が異端とされました。ただ、この会議で追い出されたアリウス派、次に開かれたエフェソス公会議で排除されたネストリウス派のおかげで、後のカトリックは生き残った面もあります。
異端とされたアリウス派は、ローマ外の地域に布教することで生き残りを図ろうとします。その結果当時東方地域に居住していたゲルマン民族をアリウス派に改宗させることに成功します。
これが後に、非常に重要な意味を持ってきます。
一方の、ネストリウス派はアンティオキア教会を中心にした派閥でアレクサンドリア教会と争い、エフェソス公会議で異端とされました。ネストリウス派もまた遠く中国にまで布教が及び中国では景教と呼ばれています。
西ローマ帝国が滅亡し、ローマはゴート族などのゲルマン民族の支配を受けます。しかしながら、ゲルマン民族はキリスト教化されていたことと、当時のゲルマン民族の人口に対し披支配地域のローマ人の人口比は5:95くらいだったといわれたこともあり、ゲルマン民族国家はローマ帝国の承認の元国家を建国します。
そのため、ローマ教会は排除されることなく、生き残ります。そして、ローマ帝国(東ローマ帝国)の威光が当初は及んでいたこれらの国家も長い時がたつと次第に及ばなくなってきます。
西欧諸国と東ローマ帝国の文化的・教義的差異も拡大し、東ローマ帝国の衰亡により力関係も等しいものとなってくると、ローマ教会は西欧全域に基盤を置く巨大な組織へと変貌を遂げます。
(教会の上に立つ人物であった皇帝がいなくなるということは、教会が聖の頂点に立つということです。)
この頂点に立ったのがローマ教皇だったというわけです。
東ローマ帝国の国威が衰えてくると、立場は逆転しローマ教会(カトリック)は東方へも進出したりしています。
こうして、聖だけではなく世俗にも絶大な権力を及ぼすようになったローマ教皇の権威は中世にはカノッサの屈辱に代表されるような一国の王をひざまづかせるまでになります。
しかしながら、中世末に絶対王政が成立すると国王の権威は肥大し、教皇を政治の道具にしていきます。
そんな中起こった事件が教皇のアヴィニョン補囚だったのです。
その2
●中世最強国家へ
西ローマ帝国滅亡後、フランク族が強大となり、広大なフランク王国を形成します。フランク王国は現在のフランス・ドイツをまたがる国家に成長しました。
フランク王国はイスラム(ウマイヤ朝)のヨーロッパ大陸への伸張をトゥール・ポワティエ間の戦いで食い止め、キリスト教世界を防衛することに成功します。
当時卓越した力を持っていたフランクにローマ教皇は目をつけ、教皇は東ローマ帝国の楔を取り除くことにフランクを利用します。
ローマ教皇は東ローマ皇帝の許可なく、カロリング家のピピン(カールマルテルの息子)にフランク王号を授けます。
(当時フランク王号はメロヴィング家のものでした。)
その見返りとして、ピピンはラベンナを教皇に寄進しました。これが後に続く教皇領の始まりとなります。そして、その息子シャルルマーニュは、当時イタリアの大部分を支配し、教皇を圧迫していたロンバルド王国教皇の救援に応じ、滅ぼしました。 こうして、フランク王国は、教皇のお膝元イタリアの支配を固めます。さらにはザクセンやアバールなどの諸部族も撃退しました。
その活躍もあり、教皇はまたも東ローマ皇帝には無断でシャルルマーニュに西ローマ帝国の皇帝位を授けます。
このようにして、教皇は東ローマ皇帝の楔から脱出し、独自の権力を握ることに成功しました。
後にフランク王国は相続の結果分裂し、西フランク王国が後のフランスへと発展していきます。
西フランクのカロリング朝が断絶すると、当時伯爵位であったカペー家がフランスの王号を獲得します。カペー家は元々伯爵位(パリ伯)であることからもわかるように当時はフランス国内でも中規模の勢力にすぎませんでした。
これが、ノルマン王朝当時のイングランドから続くノルマン家やその後にイングランド王家を継いだアンジュー家(プランタジネット朝)との争いでの最終的な勝利の 結果、フランス国内で広大な領土と権力を握ることに成功します。
(当時のイングランド王家は、フランス国内の約半分を支配する最大のフランス封建君主でもあったのです。)
http://blog-imgs-24-origin.fc2.com/d/o/l/dolmeke/250px-France_1154_Eng.jpg
↑当時のフランス国内におけるイングランド王家の領土。赤系の部分がそうです。(1154年)
この地図における南部の紫の部分ではキリスト教アルビジョワ派が信仰されていました。これを異端認定後、軍を派遣して滅ぼし、南部地域を支配することにも成功します。
この南部地域にはマルセイユやアヴィニョンが含まれています。
こうして、フランス国内での絶対権力を握ったカペー王家は、富の集中へとまい進します。これはなにも封土に対してだけではなく、当時多額の資金を持っていた教会に対しても行われようとしていたのです。
そのような流れの中、フィリップ4世が即位します。
「ノルマン王朝当時のイングランドから続くノルマン家やその後にイングランド王家を継いだアンジュー家(プランタジネット朝)との争いでの最終的な勝利の結果、フランス国内で広大な領土と権力を握ることに成功します。」
この文章ですが、百年戦争を想像させますね・・・。アヴィニョン捕囚が起こるのは百年戦争前のお話です。
百年戦争前には、フランス王とイングランド王の争いによって元々イングランドが持っていたフランス国内の半分以上に及ぶ領土の大半はフランス王に奪われる形になっていました。
その3
●フィリップ4世
フランス王フィリップ4世が王位につくと、フランス国内の利権を集約しようと動き始めます。彼は特に経済力を持った勢力を取り込み、国庫を充実させようとしました。
時代順に並べると、イングランド王との争い、フランドルとの争い・教皇との争い・テンプル騎士団の解体(参考記事。またいずれ書きます)になります。
教皇との争いは後で述べます・・・・テンプル騎士団の解体は参考記事(またいずれ書きます)を参照にしてください。
他の二つを見てみますと、
フランドル(オランダ・ベルギー地域)は当時フランス王の封建臣下でした。(すなわちフランドルはフランスだったということです)
イングランド王とは、ガスコーニュ地方の獲得とフランス王への封建的臣従(フランス国内の範囲)を確保することで和睦しました。
フランドルはフランドル伯が治める所領で、当時毛織物の生産で経済の中心地となっていました。
この経済力はフランドルの独立気質を強ましたが、フランス王としては多額の収入があるフランドルを手放すわけにはいかずたびたび紛争の種となっていました。
フランドル伯ギーは、毛織物の原料である羊毛の輸入元であるイングランドとの結びつきを利用し娘をイングランド皇太子と結婚させようと暗躍しました。これがフランス王に露見し、フランドルとフランスの戦争へと発展します。この戦いは泥沼となり和睦したり交戦したりの流れとなりました。
●アヴィニョン捕囚
教皇ボニファティウスはフィリップ4世と同じく野心的な人物で、伝統的な教皇絶対主義を踏襲し、教皇によるヨーロッパ支配を強化しようとしていました。
例えば、1300年を聖なる年とし、ローマへ多くの巡礼者を集め教皇財政を蓄えたり、フィレンツェの派閥争いを煽り、フィレンツェの支配をもくろんだりしました。
フィレンツェでは、当時有力な人物であったコロンナ家や「神曲」で有名なダンテを破門・追放したりしました。
そして、ボニファティウスとフィリップ4世はフランス国内の教会への課税問題で真っ向からぶつかります。野心的な二人の人物の争いですが、時は王権が強まった絶対王政の時代でした。
それを象徴するかのように、ボニファティウスの敗北でこの争いは幕を閉じます。
教皇がフィレンツェで破門したコロンナ家は、フィリップ4世と結びイタリアの教皇領に軍を派遣。その結果教皇はアナーニまで追い詰められ、この地で幽閉されることになりました。
アナーニの住民の反対にあい、教皇は解放されますが、一連の事件での過労のためか教皇は亡くなりました。
そして、フィリップ4世は次代教皇の選出に際し教皇庁へ圧力をかけ、フランス人であったクレメンス5世を選出させます。さらに、教皇庁のインフラ周りの収入を全て獲得するため、またフランス王の意向を強く反映するために教皇庁をローマからアヴィニョンに移させました。
この後、約70年間に渡り教皇庁はフランスのアヴィニョンに移りました。
この期間のことを古代バビロンのバビロン捕囚にならい、教皇のアヴィニョン捕囚と後の世で名前がつけられました。
その4
アヴィニョンのある地域は、ローマ時代はガリア・ナルボネンシス地域(これは後に地域の範囲にもなります)の中心都市として位置ずけられます。この地域にはローマの古い入植港であるマルセイユがありました。
その後ウマイヤ朝を支持したため、フランクに討伐され反骨精神盛んなこの地域は、今度はキリスト教カタリ派を支持し、フランス王と対立しました。
そして、またしても討伐され、後のアラゴン王家となるバルセロナ家系列(プロヴァンス家)のおさめる地となりました。
この後、ナポリ王家となるヴァロワ・アンジュー家(後のフランス王家になるヴァロワ家の支流)のものとなり、フランス王家につながる土地となりました。
カタリ派を支持したとはいえ、この地域はローマに古くからある殖民都市マルセイユがある伝統のある土地で、キリスト教の伝来もはやく、なんと紀元後70年には司教座が設置されていました。
これは、キリスト教がローマで国教化されるはるか昔のお話です。
(キリスト教の流れについては、このお話のその1を参照にしてください)
アヴィニョンが後にフランス王の圧力によって教皇庁が置かれた原因の一つにこの長い歴史も一つの理由となっていた可能性は高いと思われます。
その3で述べたような対立の中から、フランス出身のクレメンス5世は1303年リヨンで教皇に即位し、フランス王の意に従いローマへは戻らず、1309年アヴィニョンに居城を定めました。
それと前後して1303年にはアヴィニョン大学が創設されるなど文化的にも南フランスの中心都市となっていきます。
アヴィニョン捕囚期には当時の領主であったプロヴァンス家からアヴィニョン市が売却され教皇領となり、名実ともに教皇の率いる地の一つとなりました。
アヴィニョン捕囚終了後においても、15世紀初頭には大司教区が設置されフランスカトリックの中心都市として栄えることになります。
結構有名な都市なのですが、アヴィニョン市の今の人口って10万人程度みたいです・・さすがヨーロッパは人口少ないですよね。
な、長い。このネタは過去リクエストで書いたものです。
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