第30話 ジェリコーと巨大ないかだ
19世紀初頭、フランスにジェリコーという画家がいました。彼の代表作品は、突撃する近衛竜騎兵士官やメデューズ号の筏というものです。このメデュース号のいかだは実在したもので世界史上でもかなり大きないかだになると思います。
いかだの前にジェリコーについて。
●テオドール・ジェリコー
ジェリコーは1791年にフランスのルーアンで誕生。彼の家族は彼が5歳のときパリに移住する。10代になるとすでに画家を志すようになったジェリコーに、家庭は裕福だったので何人かの師匠をつけてくれた。
しかし、彼は現在の画家にはなじめず、地元ルーアン美術館にあった古い画家たちの絵を見て絵画の技術を高めた。
そして、1812年、ジェリコー21歳のとき「突撃する近衛竜騎兵士官」をサロンに発表。この作品は見事金賞に輝く。彼の絵は実物の描写よりもその一瞬の躍動感をより表現できるよう実物とは違う動きをしている作品もある(エプソンの競馬の馬の走り方など)。
1816年メデュース号事件が起こり(これについては別途後述します)、1819年に「メデューズ号の筏」を発表。そのあまりのリアルさから凄惨すぎる、残酷すぎる、政治的だと批判もあったが絶賛する者も後を絶たなかった。
その後、フランス国内でのこの作品に対する政治的なフィルターを嫌ってイギリスでメデューズ号の筏を展示。ここでは好評を博した。
1923年乗馬中に落馬の事故にあい、それが元で翌年32歳の若さでその生涯を閉じる。これから円熟期に入る矢先の出来事だった。
●メデューズ号事件について
1816年6月メデューズ号は、3隻の僚艦を伴いマルセイユを出向。目的地はアフリカ西海岸のセネガルのサン・ルイ。(シエラレオネよりやや北。カーボの東対岸あたり。)
順調と思われた航海は、7月2日アルギン沖で座礁。目的地まで500キロの地点だった。このとき当時の新聞は航海経験のない艦長の無能さの責任と報じた。(当時の政治的な対立も新聞の見出しに含まれているので鵜呑みにするわけにはいかないが、航海技術の高い船長でなかったことは確か。)
それから4日間、座礁から脱するためにメデューザ号は努力を続けるが、ついに脱出はかなわなかった。そこで、ショーマレイ艦長は脱出をあきらめ、大きないかだを作ることを命令。同日いかだは完成する。
このいかだ、我々が想像するいかだとはかけ離れている。何が違うのかというと、その巨大さだ。なんとこのいかだには149名もの人員が載せることができた!そして、このいかだに乗員・乗客・兵士を乗せ、要人・艦長・総督らは救命ボードに乗り込みさっさと脱出してしまう。
わずかばかりの食料と水を与えられたいかだは、能動的に動くことはできずただ海を漂流するばかりとなる。この環境に錯乱した人、泥酔して海へ飛び込む人、波にさらわれ二度と戻ってこなかった人、このような絶望的な環境で一日後に生存していた人たちはわずか60人ほどになっていた。
その日の晩には、錯乱したある兵士が材木をたばねていたロープを切ってしまい、土台となる材木の支えがなくなり、ひざ下まで浸水してしまう。
漂流から三日目、救命ボードで悠々と脱出した艦長らは無事サン・ルイに到着。一方いかだのほうは地獄のような光景で、食料のなくなった生存者はついにいかだに転がっている死体に手を出す・・・。
漂流12日目。漂流者の捜索にきていた軍船アルギュス号にいかだはついに発見され、漂流者は救出された。
この時生き残っていたのはわずか15人になっていたのだ・・。
当時フランス政府はこの事件を秘密にしていたが、後に全てが明るみに出て、12日間の漂流期間中の凄惨な状況を人々が知る事になった。
●「メデューズ号の筏」
この事件に衝撃を受けたジェリコーは、生存者たちに詳しく取材を敢行。彼は生存者たちが収容されている病院に通いつめ、病人の様子を観察したり、苦悶の表情を写生したりした。
さらには、死刑囚の刑執行後の死体の首を写生したりもした。こうした綿密な取材を元にしたメデューズ号の筏は超凄惨かつリアリティのある作品に完成した。あまりのリアルさから、フランス政府を非難した政治的なものと見られる動きもあったほどだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます