第11話 幸運に彩られた皇帝フリードリヒ三世
退屈かと思いますが、主役が出る前に時代背景を少し。今回は全部で7000字ほどあります。長いです。
フリードリヒ三世を見る前に、それ以前の皇帝から見てみたいとおもいます。
前帝がアルブレヒト二世というあまり名前を聞いたことがない皇帝でした。
この皇帝はかの有名なハプスブルク家というオーストリアの名門の一家の出身の皇帝で、彼以後神聖ローマ帝国の皇帝はずっとハプスブルク家が独占することになります。
その前に、彼の先代の神聖ローマ皇帝を見てみましょう。
●ジギスムント・フォン・ルクセンブルク(1368-1437)
ルクセンブルク家とは、現在のルクセンブルク市を発祥とした伯爵家で、11世紀には伯爵号を抱き、ルクセンブルク伯となる。神聖ローマ帝国の封建的臣下になるとともに、フランスにも近かったためにフランス王の封建的臣下にも列せられた。
その後、ドイツの皇帝権力の強化を望まない大諸侯たちは、当時弱小だったハプスブルク家やルクセンブルク家から皇帝(傀儡になるような勢力の弱いとこから選ぶということですね)を選出していた。
しかし、ルクセンブルク伯ハインリヒ7世(1275-1313)という皇帝が優秀な皇帝で、彼の時代に皇帝権力の拡大とともに、ルクセンブルク家は、ハンガリー・ポーランド・ボヘミア王を兼ねたヴァーツラフ3世との婚姻政策に成功し、ボヘミア王の地位を獲得した。
こういう経緯もあって、14世紀にはルクセンブルク家はドイツにおける最有力の勢力に成長したのだった。
そんなルクセンブルク家のジギスムントの肩書きは、神聖ローマ皇帝・ルクセンブルク公(このころは公爵)・ブランデンブルク選帝侯・ボヘミア王と見ただけでどれだけすごい勢力をほこっていたかわかる。
このジギスムント皇帝が統治した時代は、東ヨーロッパは困難を究めた時代で、オスマン帝国の脅威とボヘミアの宗教戦争が最も皇帝の頭を悩ませた。(オスマンについては、またいずれ)
また、世界史の教科書だけで彼のことを学んだ人なら、オスマンにやぶれたハンガリー王としての記憶が残ってるかもしれない。
ジギスムントは、結果的にはオスマン帝国とのニコポリスの戦いで破れ、ボスニア宗教戦争(通称フス戦争、これも面白いのでいつか)に破れ......といいことなし治世に終る。
しかし、彼は決して凡庸な君主ではなかったとここではっきりと述べたい。ジギスムントの最大の誤算は、ボスニアのフス勢力軍がオスマン以上に精強であったことだろう。
少数の軍隊だったが、このフス軍団は当時オスマンも含めたヨーロッパ世界最強の軍隊だったのだ。
そんなことは戦争して初めてわかることなので、彼をせめようはないだろう......
彼が凡庸ではない証拠として、フニャディ・ヤーノシュを見出したことがあげられる。彼は、後のオスマンから恐れられ、ハンガリーの英雄と称される人物で、彼がハンガリー最盛期の基盤を築いたといわれている。
さて、長々とジギスムントとルクセンブルク家を見てきたのは、彼の治世のあとに、後のヨーロッパを形つくるいろいろな後継を残しているからだ。
彼は息子がいなかったので、ルクセンブルク家は解体し、以下のようにルクセンブルク家の勢力は分散された。
1、ブランデンブルク辺境侯はホーエンツオレルン家(ドイツ騎士団を勢力下に置いた。後の強国プロイセン)
2、ボヘミア王・ハンガリー王はハプスブルク家へ。
3、フニャディ・ヤーノシュがハンガリーへ。
4、ルクセンブルク公領はブルゴーニュ家へ。後にブルゴーニュ家の断絶のためハプスブルク家へ。
といった感じで、後のヨーロッパに多大な影響を与えた。
●少し捕捉
◆ボヘミア王って?
ポーランドの南部からチェコの北部にかけての地方を指し、当時神聖ローマ帝国内では稀有であった王号を持つほどの重要度の高い(権威の高い)地域だった。ボヘミアを制するものはヨーロッパを制すとまで言われた。
◆フス戦争って?(また詳しく記事を投入するかもしれません)
ウィクリフという宗教学者の影響を受けたフスが、異端とされ火刑にされると、彼の支持者たちが結束して神聖ローマ帝国に反抗した一連の戦争。ヤン・ジシュカという優れた軍人が、火器を使った近代的な戦術(世界初)を編み出し、フス派の圧倒的勝利に終わる。
また、フス派を追い詰めるため、当時軍事兵器として一番の戦力だった軍馬の輸出を差し止め、フス派に歩兵中心の軍隊を組ませるのに成功するも、新しい兵器である火器と防御用の戦車(鉄板などを重ね、馬に引かせる)によって強力な軍隊を作り上げられたのは歴史の皮肉である。
続いて、フリードリヒが皇帝になるまでも見ます。
●アルブレヒト二世(1397-1439)
ジギスムントの後に神聖ローマ皇帝になった人物。ハプスブルク出身で、1404年にオーストリア公爵になって、オーストリアを支配する。
その後ジギスムントの娘と結婚し、ハンガリー・ボヘミア王の相続権を得る。ジギスムントが1438年に亡くなると、その跡を継いでハプスブルク家の勢力範囲を拡大するも、わずか一年で急逝してしまう。
●ラディスラウス(1440-1457)
アルブレヒト二世とジギスムントの娘エリザベートの息子。生まれたときにはすでにアルブレヒト二世が亡くなっていたので父の顔は知らずに育った模様。
そのため、生まれてすぐに、オーストリア公爵とハプスブルク家の当主になる。ただ神聖ローマ皇帝は自身が幼かったこともあり、遠縁のハプスブルク家のフリードリヒ三世が就任する。
また、ハンガリーではポーランド王ウラースローを新たな王に選出していたが、彼が1444年にオスマン帝国との戦いで戦死してしまうと、ラディスラウスが4歳にしてハンガリー王に選出された。
また、ボヘミアも順当に13歳のときに正式に即位した。
さらに、フランス王シャルル7世の娘との政略結婚も内定していて、フランスとの友好関係のきっかけになるはずだったが(もし、これが成立していたら、大航海時代におけるスペインとフランスの争いもなかっただろう)、17歳にして白血病で亡くなってしまう。
この結果、彼の統治していた国は以下のようになる。
1、オーストリアは、ハプスブルク家のフリードリヒ三世(神聖ローマ皇帝)へ。
2、ハンガリーは、ハプスブルク家を蹴って、マーチャーシュ(フニャディの息子)を王に選出。
3、ボヘミアはフス派による内乱と混乱が続き、フス派の王が選ばれた。
●シャルル7世
百年戦争を終結させた王。勝利王と呼ばれる。これをきっかけにフランスが統一されることに。詳しい説明はここでは不要なので割愛。
さて前置きが長くなってしまいましたが、ここからが本編。いよいよ登場です。
簡素だが、しっかりとした外観で歴史ある建物とはっきり分かる洋館に出迎えてくれたのは、品のいい執事風の初老の男性だった。
彼は、私に上品な紅茶を淹れながら、フリードリヒ三世のことについて語り始めた。
さて、陛下についてお聞きしたいということですが、何から話せばいいものでしょうか......
陛下は、1415年にハプスブルク家の傍系に生誕され、あまり政治に感心を示さずに、庭のお手入れが大好きでした。
しかし、陛下の下にある日訃報が届きます。現神聖ローマ皇帝アルブレヒト三世が急逝されてしまったのです。
彼の息子のラディスラウス様がまだ幼かったので、白羽の矢があったったのが陛下だったというわけです。
そのときの陛下のお言葉......
「んー。皇帝ってうまいの?」
うまいですとも! 陛下! 一国の主ですよ! しかも歴史と権威ある皇帝ですよ!
「ああ、そうね。」
さらに幸運なことに、陛下はラディスラウス様の後見人としてハンガリーとボヘミアまで政治を取ることになりました。
しかしながら、陛下は皇帝になって以来、主体的に何もしようとはしませんでした......
このころ、東よりオスマン帝国がアッラーの名の下に急速に勢力圏を伸ばしており、ヨーロッパの人々を震撼させていました......
そんな情勢の中、陛下は一切主体的に政務をこなしませんでした......
おそらく、陛下は下手に動けばよろしくない状況を生み出すとお思いになり、あえて動かなかったと思います......きっと......
そんな時衝撃的な事件がヨーロッパを駆け巡ります!
「ビザンツ帝国滅亡!」
1453年のことでした、この事件はヨーロッパ中に狂乱と畏怖を持って受け入れられました......そのときの陛下は......
庭のお手入れしてました!
そのときのお言葉......
「ふーーん」
へ、陛下! ふーんってなんですか!
............このふーーん騒動の結果、陛下は周囲の誰もから「凡庸!凡庸!」と陰口を叩かれるようになってしまいます......
しかしです! 陛下はきっと大きな思慮がおありになってこういったのですよ......きっと......
1452年のことです。さきほどのお話から一年前に起こったことです。
いよいよ陛下もいいお年頃になり、ローマでポルトガル王のお姫様とご結婚することになりました。
しかし、陛下はけち、いや倹約家で知られるお人......ゴージャスな旅行はたとえお姫様と言えどもさせません!
そのことでポルトガルのかたがたのお言葉、
「ポルトガルへの使者に旅費をほとんど与えず、使者は物乞い同然でポルトガルたどり着き逮捕された!」
いくら陛下でもそこまでけちじゃありませんよ! ひどいですよね陛下! え? 陛下......まさか......
1457年にはラディスラウス様が17歳の若さを亡くなってしまいます。そうなると、後見人の陛下が全てを統治なさるはず!
しかし、ボヘミアは陛下を拒絶し、ハンガリーは優秀と誉れ高いマーチャーシュ・コルヴィヌスを最後の希望として選出しました。
一方、オーストリア・神聖ローマ帝国内では、当時巨大な権勢を誇っていたハプスブルク家にオスマンの防波堤になってもらいたいとのもくろみから、凡庸と誉れ高い陛下をオーストリア公に選びました。
陛下! オーストリアがあなたのものに!
一息ついた後、ハミールは静かにフリードリヒ三世について語り始めたのだった......
陛下の政略結婚と世界情勢については時期が前後しますので、分けてお話しましょうか......
陛下のふーん騒動の後、陛下がやる気がないだの、凡庸だのと騒いでしまったので、陛下の弟ぎみアルブレヒト様が我こそは王たらんとお考えになり、ついに1463年にウィーン(オーストリアの首都)で反乱分子をあおり陛下の妻エレノオーレ様と息子マクシミリアン様を拉致監禁してしまいました。
陛下がウィーンに駆けつけたときにはすでに遅く、人望のなさも手伝って不幸にも城内に入ることができずに、ウィーンをほうり出されてしまいます!
ああ、なげかわしい。そのときの陛下のお言葉、
「青いバラができん!」
へ、陛下、バラなんて今どうでもいいのでございます!
実は、陛下がここまで平静を装っていたのは、きっとこのことを予測していたからです!
陛下がウィーンをほうりだされてまもなく、アルブレヒト様はお亡くなりになってしまいます! バラの心配を陛下がしている間に、陛下は無事ウィーンに戻ることが出来たのです!
ああ、陛下素晴らしいでございます!
ハンガリー王になったマーチャーシュは、それはそれは優秀・勇猛な王様で、うちのやくたたずとはちがいジギスムント皇帝のニコポリスの敗戦から絶望的とまで見られた対オスマンに光を与えたのです。
あまり気が進みませんが、マーチャーシュ王の業績をほんの軽くだけ振れておきます。
1458年にハンガリー王として即位したマーチャーシュは、17歳で即位されるとすぐにその実力の片鱗を見せます。1461年ハンガリー北部(現スロバキアのあたり)を実行支配していた傭兵隊長ギシュクラを破り、国内を安定させました。
さらにマーチャーシュの進撃は止まりません。陛下がめんどくさくててをつけなかった手を焼いていたボヘミアのフス派を一掃してしまいます!(1471年)
これだけで、マーチャーシュがどれだけ優秀な王であったか推測できますでしょうか?
そんな勢いに乗ったハンガリー王を周囲がほうっておくわけはありません......そんな折、陛下に身の危険が!!
今度は錬金術にはまった陛下が賢者の石!とかぶつぶつつぶやいていた日のことでした。
なにやら、マーチャーシュがハプスブルク家よりオーストリアの支配権を勝ち取ったとかいってますよ陛下!
「ふーん」
ふーんじゃないですよ! 陛下! このまま見過ごすんですか?
とかいってるうちに、ついにウィーンを占領されてしまった陛下は、すごすごとウィーンから立ち退きます。
まだ、賢者の石とかいってますが。
陛下、それどころじゃないですよ......
しかしです、陛下がここまで平静を装っていたのは、きっとこのことを予測していたからです!!
ウィーンが占領されてから5年後、マーチャーシュ王が亡くなります!
さらに、マーチャーシュ王は息子がいなかったので、特に有力な諸侯がいなかったため、陛下は無事ウィーンに戻りオーストリアを支配できることになりました!
陛下さすがでございます!
陛下が以前ポルトガル王の娘エレオノーラ様とご結婚したことはお話したとおりでございます。そして、マクシミリアン様がご生誕になり、今度は彼の結婚相手を探すことになりました。
当時のヨーロッパで最も注目されていたご結婚相手は、かのブルゴーニュ公国シャルル公の娘マリーでした。シャルル公には息子がおられず、実質マリーと結婚した者がブルゴーニュを継ぐことができたからです。
これには、陛下だけでなくフランス王ルイ11世も息子のシャルルと結婚させようとやっきになっていました。もちろん、マリーと結婚させようとした諸侯はフランス王や陛下だけではありませんでした。
そして、かんじんのシャルル公はどうお考えだったかというと、ハプスブルク家に興味をもっていたようです。
このシャルル公は、ハプスブルク家の力を利用し、公国の領土を南方に伸ばそうと考えていたからでした。これに待ったをかけたのがフランス王ルイ11世でした。
フランスとしては、直接国境を接し、さらにフランドルという富裕な地域を持つブルゴーニュと神聖ローマ帝国の皇帝を輩出する強力なハプスブルク家との結びつきをなんとしても避けたかったからです。
このフランス王の強硬な姿勢に対し、ブルゴーニュ公も負けじと強硬姿勢を崩しませんでした。
間に挟まれた陛下は、ブルゴーニュと結託するかと思いきや......アワアワしてました......ああ嘆かわしい......
そうこうしているうちに、ブルゴーニュ公が戦死してしまいます。
その後、マリーはマクシミリアン様と結ばれたのですが、領土問題に関してはフランス王の言いなりになり、広大なブルゴーニュ領は全てフランスに併合されてしまいました。
こうして、残ったフランドル(オランダ・ベルギー)のみハプスブルクのものとなりました。(この婚姻政策があったため、ハプスブルク領としてフランドルが編入され、その後にスペイン・ハプスブルク家のカルロスが、この地を世襲し、大航海時代のアントワープがイスパニア領になるというわけですね。)
これが、我が陛下の生涯でございました。
死後陛下は「神聖ローマ帝国の大愚図」という称号をたまわりますが、私は愚図とは思いません。結局、幾度もの危機に見舞われ、政治に関心を示さず、弱腰だった陛下。しかし、ライバルはことごとく死亡し、最終的にはハプスブルク家の基盤を築くことに成功しました。
そんな陛下に与えられる言葉は、競馬からお借りして
「無事是名馬」
この言葉がぴったりくると思います。
今回は、これにて私のお話は終わりです。またお会いできる日を楽しみにしています。
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