第8話 ローマを支えたセメント

 古代ローマ帝国の首都ローマには、今でも残るパンテオン大殿堂やカラカラ浴場など壮麗な建築物を作り上げています。

 同時期のガリア(ゲルマン人)らが、土と木で出来た素朴な城を拠点にしていたことに比べると、当時としてはずば抜けて目もくらむほどの威厳を出した建物だったのでしょう。

 これらの偉大な建築を可能にしたのは、ローマ人が開発したセメントのおかげでした。では、ローマのセメントとはどのようなものだったのでしょう。


●ローマのセメント

 紀元前一世紀の建築家ウィトルウィウスの「建築論」には、セメントについてこうかかれている。


 「べスピオ火山(ナポリ近郊の西欧唯一の活火山)の灰土(凝灰石といわれる石の分解したもの)を原料にすると、耐水性を持ったすぐれたセメントができる」


 この文章だけでは、素人には意味不明です。

 ローマのセメントとは、火山から分泌される凝灰石(火山灰みたいなもの)と石灰(理科の実験でやった、二酸化炭素を出す石)を混ぜて水で練ったものである。

 これが我々の今使っているところのコンクリートみたいな物質と同じと考えればわかりやすい......かな?

 ローマン・セメントと呼ばれるこのセメントを使って、パンテオン大殿堂やカラカラ浴場を造り、さらには道路の舗装や港の建設など、ありとあらゆるところでセメントをもちいて、ローマはすぐれた文明を築き上げたのである。

 セメントを使って作られた道路によって、ローマの交通は他の国とは比べ物にならないほど優れたものとなり、長い間帝国を支え続けたのだ。


●アッピア街道

 今もローマに残る偉大で頑丈なアッピア街道。このアッピア街道は、ローマから10本以上の幹線道路が作られた中でも最も有名な街道で、その頑丈さは目を見張るものがある。

 アッピア街道の建築工事は、約1メートルの深さまで地面を掘った後、モルタルや割り石を重ね下地を整え、その上から重い自然石を敷いて舗装する。

 ここまで手の込んだ造りなので、この街道は驚異的な頑丈さを誇っているというわけである。

 ローマから走る街道のおかげで、広大な帝国を使者が行きかうことができたし、通商にも便利で多くの商人がローマに訪れることになる。


●導水橋

 古代の導水橋も古代ローマが残した建物の一つであるが、これらは、ローマの水力工学と土木技術が結集され造られたものであった。

 また、古代の導水橋のほとんどは、水源を供給先の都市よりも高い場所に確保し、くだり勾配になるようにコースを選んで水を自然に流すといった単純なものであった。

 ローマでも、都市部の人口が増加し、水の需要が高まると、導水橋の需要が高まり、カエサルやアウグストスによって工事が着工される。

 この導水橋は、ギリシアの優れたものに習い、飲料水の供給だけでなく、郊外の農園の灌漑用や工業用さらには、公共浴場・公共施設にまで用いられるそれは大規模なものだった。

 特筆すべき技術としてはアーチであった。アーチを使うことによって、工事量を減らし、畑や住宅地を横切る時も交通を妨げずにすんだのだった。


 一方のゲルマンでは、

●ゲルマンの土と木の城

10世紀のドイツで作られた最初期の城砦が建築された時には、土塁や塀に囲まれた盛り土の上に立つ木造の城だった。

 城というと聞こえは良いが、これは城というより我々が想像するところの、辺境の国境沿いの砦のような貧相な小型なものだった。

 一応外敵の妨げになる、小さな柵で回りを囲み、柵の中は半球形になるように土を盛って、その上にヤグラ(と表現したほうがしっくりくる)を組み上げ、遠くを見渡せるようにしたもの......これが最初期の土と木の城を表すのに適した表現だと思う。


 しかしながら、この城は小型ではあったが、混沌とした当時の社会にあっては対外防衛と治安維持の友好な拠点であった。この城を拠点に城主(領主)たちは周辺地域を支配し、農民を保護すると同時に、見返りとして農民に年貢(保護税)を治めさせ、領土を支配することができた。

 この城が各地に出来てくると、力の持った領主に、小規模な領主が主君と仰ぎ、その土地を安著されるようになってくる。やがてこれが、封土となり、封建社会が成立していくのである。


 だいたい10世紀から13世紀半ばにかけて、この「土と木の城」が軍事拠点として、ヨーロッパ社会を形成していく......研究者たちによると、11世紀の半ばのフランスにはおよそ5000余りの土と木の城が建設されていたらしい。

 しかしながら、この軍事施設としての城は城主の住居でもあったので、最も安全な頂上の天守閣に城主の居住空間が作られるようになり、やがて、城の中で生活できるようにまで、城は改築されていくようになる......


●アルドゥル城

 木と土の城は、現在発掘作業が行われても、木造の建物ゆえに柱の穴の跡くらいしかでてこないのが現状で、この建物がどうなっていたかを探るのは極めて困難になっている......

 ただ、この木と土の城についての文書の記録が残っているものがある。それが、タイトルに出ている「アルドゥル城」の構造だ。


 アルドゥル城は、1120年ごろにフランスのカレーの南東120キロメートルくらいのところに建築され、木造の天守閣を持った木と土の城であった。

 この城について13世紀初頭に、ランベールという城付きの年代記作家が、当時もまだ現役だったこの城の間取りについて詳細な説明を残している。


 彼の記述を簡単にまとめるとこんな感じだ。

■1階

◆穀物やワインを保管するための樽やカメ。

◆ふた付きの大箱などを収める貯蔵庫。

◆二階と三階の張り出しのある部分の真下に豚・ガチョウ・鶏などが飼育されて、いつでも食卓に出せるようにしていた。


■2階

◆主要な居住部分

 このなかでも領主夫婦の寝室が中央に置かれていた。ただこの時代、一族全員が住んだわけでなく、領主夫婦とその子供、召使などが住んだらしい。また、領主夫婦の寝室の隣には、幼い子供たちとその世話をする召使の部屋がある。

◆キッチン


■3階

◆大きくなった娘・息子たちの部屋

◆礼拝堂

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