第五幕:命を運ぶ

5-1

 最初の狩りの事を、彼は今でも鮮明に覚えている。

 五年前、まだ十七歳ながら富士での訓練を終えて、一人前の狩人とみなされた彼は、先輩の狩人数名と共に、ある海岸沿いの町に送り込まれた。

 時は真夏、海水浴客で賑わうそこに狩人が派遣されたのは、不審な溺死体が幾つも発見されたからである。

 海水を飲み込んで醜く膨れ上がった犠牲者の足に、蛙の水掻きに似た手形がハッキリと残っていたのだ。

 彼らはこれが怪物の手によるものだと断定し、至急捜査を始め、数日の内にその犯人を追い詰めた。

 犯人の怪物は、人の姿をして町の中に潜みながら、魚と人間を足して二で割ったような姿に変身し、海中に犠牲者を引きずり込むモノ。

 半漁人サハギン深き者共ディープワン、それとも人狼ワーウルフならぬ人魚(ワーフィッシュとでも言うべきか。


 それをどんな名で呼ぶべきか、その時の彼は興味など無かった。

 ただ、苦悶の表情を浮かべる犠牲者達の顔に、自分が狩人となる切っ掛けとなった事件がフラッシュバックして、抑えようのない怒りが吹き出していた。

 だから、正体が露見した事を知り、怪物が逃走を始めた時も、先輩狩人の制止を振り切って一人で後を追いかけたのだ。

 怪物は人間への擬態を止め、鱗の浮き出した体で森の中に逃げ込み、海岸に向けて走り出した。海の中に逃げれば狩人とて追う手段が無い事を、この怪物は分かっていたのである。

 だから、彼は当時支給されたばかりの断首刀を渾身の力で投擲し、前を行く怪物の片足を切断した。

 怪物は悲鳴と血飛沫を上げて転倒しながら、なお這い蹲って逃げようとした。

 彼はその背中に飛び乗り、三百㎏を超える体重で背骨をへし折る。

 鈍い音と共にまた悲鳴が上がり、怪物がもはや人とも魚とも言えぬ口から血反吐を撒き散らす。

 だが、それでもなお、怪物は水掻きの生えた手で地面を掻き、必死で海に向かって逃げようと藻掻いた。

 その無様な姿に、彼の中に浮かんだのは哀れみではなく憤怒だった。


 ――あれだけ無惨に人を殺しておいて、まだ生きたいって言うのかっ!


 溺死という、もっとも苦しむ方法で殺された被害者の中には、若い女性もいた、小さな子供もいた。

 そして、その変わり果てた骸に縋り付き、泣き叫ぶ家族や恋人や友人が何人もいた。


 ――あれだけの人々の未来を狂わせておいて、それでも自分だけは助かりたいって願うのかっ?


 彼はそう絶叫し、拾い上げた断首刀を怪物の頭に振り下ろした。

 そうして、鉄塊が鱗にまみれた醜い怪物の頭を吹き飛ばす瞬間――


「……死にたくない」


 怪物は、邪気の無い声でただその言葉を残した。

 血と骨と脳漿が飛び散り、手にした凶器が初めて命を奪い、最初の狩りが終わりを告げても、彼は決して後悔など感じない。

 だがそれでも、最後に響いた啜り泣くようなあの声は、何時までも耳にこびり付いて消える事がなかったのだ。





「柘榴、こら柘榴っ!」


 大声で名前を叫ばれ、赤銅柘榴は微睡みから目覚めた。

 また嫌な夢を見た。そう思って頭を振りながら、運転席に横たえていた体を起こし、車の外で憤慨しているU・Dを仰ぎ見る。


「すまない、寝ていた……今は何時だ?」

「もう二十三時四十分、あと半時もしないで予定の時間なんだけど」


 U・Dは怒った様子で左腕を突き出し、ファンシーなデジタル時計の文字盤を柘榴の前にかざした。

 柘榴はそれを見てもう一度頭を振りながら、現状を思い出す。

 場所は閑静な住宅街の道路、街路樹が高く並び立ち、街灯がやけに少ないそこは、直ぐ側に人が住んでいるとは思えないほど闇と静寂に支配されている。

 そんな暗闇の中、柘榴達の車から二百m先にぽつんと一つの電話ボックスが建っていた。

 携帯電話が普及した昨今、使う者もいなくなり寂れたそれには、一つの噂があった。

 午前〇時丁度、その電話ボックスの前に自分の携帯電話を置き、そして中の公衆電話から今置いたばかりの携帯電話の番号をコールする。

 勿論、普通ならその電話に出る者は居ない。

 だがもしも、その電話に誰かが出たならば――

 出たのが大人の声だったら大丈夫。その声は貴方の質問に何でも答えてくれる。

 でも、出た声が子供のものだったなら――という、よくある都市伝説フォークロアの一つがその電話ボックスにはあったのだ。


 だが今回、その噂自体は問題ではない。

 噂が噂に過ぎない事はすでに分かっている。もう一週間ほど前に柘榴とU・Dが確認し、狩りの必要無しと協会に報告していたのだから。

 だから、今回の問題は別にあった。

 近頃、都内の有名な心霊スポットや噂話の舞台で、それを模倣するような殺人事件が幾つか起きていたのだ。

 発端は柘榴がケイトと最後に行った調査、廃ホテルの首無し死体遺棄事件。

 それと酷似した、まるで怪物が行ったような、だがよく調べれば人間の手によるものに間違いない猟奇的な殺人事件が、三件ほどだが連続で起きていたのだ。


 本来、それが怪物の関与しない事件なら、狩人協会は絶対に手を出さない。それは国との規約である前に、協会が自らに課した鉄則だからである。

 だが、今回の都市伝説模倣犯は別だった。

 それが偽物だろうと本物だろうと、怪物によるものと思しき事件が起きれば、協会の狩人は早急に現場へ赴き、警察さえ閉め出して怪物の有無を調査しなければならない。

 その為に割かれる人員、時間、費用は決して馬鹿にならない。

 だから、都市伝説を模倣して殺人を犯すような紛らわしい輩は、協会の活動にとって邪魔なのだ。

 狩人協会は守るべき人間には手を出さない。ただし、協会の邪魔をしない限り。

 そのような経緯により、柘榴達狩人は迷惑な都市伝説模倣連続殺人犯を捕まえる為、次の事件が起きそうな心霊スポットを見張っていたのだった。


「午前〇時まで後五分か……殺人犯、現れるかしらね。でも、時間に律儀な都市伝説の本人じゃないんだし、〇時丁度に現れるとは限らないんじゃない?」


 隠密行動の為にエンジンとクーラーを切り、そのせいで蒸し暑い車の中で、U・Dは双眼鏡で目標の電話ボックスを見張りながら問いかける。

 しかし、柘榴は暗い表情で俯いており、U・Dの声も聞こえていない様子だった。


「……すまない、何か言ったか」

「怪物相手じゃないから気が乗らないにしても、やる気無さすぎね。給料貰ってるんだから真面目に働きなさいよ」


 普段とは逆でU・Dに叱られながらも、柘榴は心ここに有らずといった様子で遠くを眺めるだけだった。

 そんな相棒の塞ぎ込んだ姿に、少女は深い溜息を吐く。

 これが今日だけの事なら彼女も気には病まない。だが、柘榴は三日前、稲荷神社の破壊から始まったあの事件から、ずっとこの調子なのである。

 その理由をU・Dは知っている。理解しているつもりだ。

 だがその上で、時間を与えれば直ぐに直ると、彼なら自分で立ち上がれると信じ、放っておいたのだが――


「すまない。三時間後に交代するから、それまで頼む」


 〇時を過ぎても犯人が現れない事を悟ると、柘榴は最初の見張りをU・Dに託し、また身を丸めるようにして目を瞑るのだった。


「……バカ」


 陰気で情けないその背中に小さく呟き、U・Dは唇を噛みながら双眼鏡を覗き続けた。

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