2-4
時計の針が真上を指し、今日が昨日になり、明日が今日になった頃、寝静まった住宅街を一人の青年が歩いていた。
スーツを着た若いサラリーマンで、残業が終わりようやく帰ってきたといった所か。
しかし、良く見れば不審な点に気付く。会社帰りにしては書類を収めるべき鞄を手にしておらず、残業を終えた後にしては顔に疲労が見られない。
青年はまるで気ままな散歩でもしているように、当てもなく路地を歩いていく。
そして、公園の前を通った時、遊具の片隅に動く影を見つけ、青年は足を止めて近付いて行った。
穴の空いたドーム状の遊具に、隠れるように縮こまっていたのは、髪留めを付けた十四、五歳の少女だった。
「お嬢さん、こんな所でどうしたの?」
「……っ!?」
青年が優しげに声をかけると、少女は恐怖に目を見開き、遊具に縋り付いて震え出してしまった。
その時、街灯の微かな光で見えた、少女の青い瞳と擦り切れた服装で、青年は事情を即座に理解した。
「安心して、僕は警察じゃないから、君を捕まえたりしないよ」
「…………」
そう告げても、少女は何も言い返さない。
日本語を喋れないのだろうか。そう思った青年は、しゃがみ込んで手を差し伸べ、笑顔で害意が無い事を示した。
「良かったら僕の家に来ないかい。一晩くらいなら泊めて上げるよ」
「…………」
その申し出にも、少女はやはり無言。
だが意図は通じたらしく、おずおずと青年の手を握り返した。
それにもう一度笑みを浮かべ、青年は少女を背負って歩き出した。
「疲れているだろう。大丈夫、僕の家は直ぐそこだから」
「…………」
背負われた少女は何も言わず、大人しく青年に身を任せた。
そうして、高級住宅街の一軒家に連れて行かれ、少女は温かなご飯を差し出された。
「レトルトでごめんね、時間があったら手作りするんだけど」
「…………っ!」
謝る青年にも答えず、少女はがむしゃらにご飯を胃の中に掻き込んでいく。
それを微笑ましく見守りながら、青年は提案する。
「今日は泊まっていきな、僕一人しか居ないから心配しなくていいよ。おっと、それは逆に安心出来ないかな、あはははっ」
「…………」
「良かったらお風呂だけでも入っていきなよ。流石に女物の服は持ってないけど、Tシャツくらいなら貸せるからさ」
優しく告げられ、少女は暫し迷った末に頷いた。
そうして、青年の手で風呂場に案内される。
「じゃあ、僕は着替えを持ってくるから」
そう言い残して青年が去ったのを確認し、少女はボロを脱ぎ捨て、置いてあったタオルで身を隠し、ただ髪留めは付けたまま、脱衣所の扉を開けて風呂場に入る。
広く豪華な風呂場に感動しながら、少女は浴槽に歩み寄り、お湯が張られていない事に気付く。
そして、蛇口のハンドルを回そうとして――弾けるように後ろへ飛び退いた。
何かがあると確信した訳ではない、ただ勘が、彼女の窮地を何度も救ってきた第六感が、警戒のサイレンをけたたましく鳴らしたのだ。
裸の背中を粟立たせ、少女は後ろ手で脱衣所への扉を開けようとする。
しかし、それよりも早く扉が開き、大きな掌が彼女の両肩を握りしめてきた。
「どうしたの、お風呂の使い方が分からないのかな?」
振り返ったそこに居たのは、彼女を招いた親切な青年。
だが、その顔は優しげな笑みが消え失せ、邪悪に歪みきっていた。
「レディーの風呂に押し入ってくるなんて、とんだ変態野郎ね」
「喋れたんだ。でも、もう関係ないかな」
青年は罵倒も意に介さず、少女の脇に手を回して持ち上げる。
そして、暴れる少女を浴槽の上まで運ぶと、実に優しげな顔で空っぽのそこに向かって告げた。
「今日はご馳走だよ、若い女の子の肉なんて滅多に手に入らないからね」
そうして、手を放し少女を浴槽に放り込もうとし――
「そこまでにしておけ、ロリコン」
背後から頭を掴まれ、凄まじい力で壁に叩き付けられた。
「があっ!」
「ナイスタイミング、九十点を上げるわ」
呻き声を上げる青年の手から解放され、赤銅の腕に受け止められた少女ことU・Dは、現れた柘榴に抱きついて歓声を上げる。
「ご褒美に私の裸体をじっくり観賞する権利を上げるわ」
「いらん。それより何でもっと早く助けを呼ばなかった」
元々囮作戦に反対だった柘榴は、U・Dが頭に付けた髪留め型盗聴器を小突き、不満の声を上げる。
「物証にせよ状況証拠にせよ、何か根拠が見つからないうちに押し入ったら、ただの強盗になってしまうじゃない。まぁ、アタシみたいな可愛らしい少女を連れ込んだ時点で、十分有罪とも言えるけど」
「……まあいい、それよりあの男を拘束しておけ」
少女の肌から出来るだけ目を逸らしながら、柘榴はU・Dをそっと床に下ろし、手錠を手渡して苦痛に悶える青年を指差す。
U・Dも言われた通りにし、青年を後ろ手に拘束する。
それを確認し、柘榴は改めて空の浴槽を見下ろした。
どれだけ凝視しようとも、そこにはやはり何も無い。
しかし、柘榴も狩人として修羅場を潜り抜けてきた身。そこに異様な気配があるのを確かに感じ取っていた。
そんな彼らを見て、追い込まれた筈の青年が低い声で笑い出す。
「ふっ、ふふふっ、今日は何て良い日なんだ……」
「寝言は寝てからにしなさい。あんたはもう終わりよ」
「はははっ、ご馳走が二つに増えるなんてねっ!」
少女の忠告も無視し、青年は歓喜の雄叫びを上げる。
その瞬間、見えない何かが浴槽の近くに立った柘榴に絡み付いた。
蛇やミミズのようであり、トカゲやサソリのようでもある不気味な感触が、赤銅の肌を這い上がってくる。
「透明な虫の怪、
別名・
様々な虫や蛇を四つ辻に埋め、数日後に取り出して鍋や香炉に入れる事で、この透明な化け物は現れる。
日本の犬神、西洋の使い魔のような、人が手下として操る怪物だ。
「そうさ、こいつのお陰で僕は成功出来たんだ! 邪魔者を蹴落とし、敵を妨害し、この歳で家まで建てられた! さあ、僕の可愛い虫達に大人しく食べられなよ!」
見えない襲撃者にまとわりつかれ、動かなくなった赤銅の男を見て、青年は狂気の声を上げる。
しかし、それを聞いて、少女は深い溜息を漏らした。
「悪いけど、彼って食用には適さないのよね」
その台詞と同時に、轟音が風呂場の中に響き渡る。
見れば、柘榴が自分の腕を壁に叩き付けていた。
ひび割れた壁と赤銅のような腕の間から、ブチュリと肉の潰れる気色悪い音が鳴り、黄色い不気味な液体が周囲に撒き散らされる。
「どういう原理かは知らないが、透明なのは体表だけみたいだな」
そう言いながら、今度は八極拳の鉄山靠の如く、勢いよく背中を壁に打ち付ける。
また肉の潰れる音が、家中が震える轟音に掻き消される。
その現実とは思えない光景に、蠱という怪異を扱っていた青年さえ、驚愕に目を見開く。
「な、何で喰われないんだ?」
今まで餌にしてきた人間達は、蠱に巻き付かれた時点で身動きを封じられ、悲鳴を上げる事も出来ず喰われてきた。
それくらい蠱の力は強く、人間では太刀打ち出来ない筈なのだ。
なのに、目の前の男は蠱の締め付けも意に介さず動き、噛み付かれても肌に傷一つ付いていない。
「ば、化け物……っ!」
「その通りだ」
柘榴は肯定し、足にまとわりついた蠱を踏み潰した。
潰れて出た体液が、透明なその体を露わにし、全ての蠱を潰し終えるのにそう時間は掛からなかった。
自らの成功の礎がいとも容易く粉砕されていく姿に、虫使いの青年は放心して尿を垂れ流す事しか出来なかった。
「汚っ、最悪ねこいつ。で、どうするの?」
狩りを終え、風呂場に残った蠱の残骸をシャワーで洗い流す柘榴を見つめ、U・Dは廃人同然の青年を指差す。
彼が行方不明者を子飼いの化け物に喰わせていた事は明白だ。今ここで同じ運命を辿っても、文句を言う権利は無い。
殺すのか、と目で問う少女に、赤銅の狩人は答えず風呂場を出る。
「帰るぞ。今の騒ぎで目を覚ました近所の住人が、きっと通報している筈だ。後の事は警察に任せる」
「それだけ?」
「言った筈だ、俺達狩人は人間の世界に関与しない。人間には手を出さない」
怪物を扱おうと、青年自体は普通の人間に過ぎない。
それに罰を下すのも、普通の人間でなければならない。
狩人という、半分化け物側の存在には、そこに踏み込む権利は無いのだ。
「心配しなくても、浴槽をルミノールで調べれば被害者の血痕が見つかる筈だ。もしかすると、遺留品が家の何処かに残っているかもしれない。実刑は免れんさ」
「そう願いたいわね」
まだ納得しきれないものの、U・Dも青年を置き去りにして柘榴の後を追う。
そうして、玄関を出ようとした所で、赤銅の狩人は振り返らずに後ろの少女に告げた。
「で、お前はいつまで裸でいるつもりだ?」
「えっ……きゃあっ!」
不敵な彼女には珍しく可愛らしい悲鳴を上げ、U・Dは慌てて脱衣所に駆け込んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます