第三幕:狩人の休息

3-1

 一面がガラス張りにされ、夜景を一望出来るその広い部屋で、ひとりの男と女が灯りも点けずに向き合っていた。


「狩りは無事に終了したそうです。貴方にとっては、残念な結果でしょうが」


 耳に当てていた携帯電話を仕舞い、そう皮肉げに告げた女の声に、男もまた余裕に口を歪めて答えた。


「構わんさ。まだ老人達の意向も纏まっていない今、焦る必要はない」


 そう言って声もなく笑う男に、女はまだ顔に疑問を浮かべていた。


「ですが、私は信じられませんね。そのようなおとぎ話の存在、物理的に有り得ません」


 冷たい声でそう告げられると、男はさらに笑みを深くした。


「ははっ、こんな世界に生きる君が、科学なぞという白痴の神を信仰していたとは驚いた」

「科学と物理はまた別です。自分に理解できないモノを容易く容認出来るほど、私はお人好しではありませんから」


 揶揄の言葉を浴びせられても、女は動じず切り返した。

 男はそれを不快に思う事もなく、話題を打ち切る為に手を上げる。


「まぁいい、君には事の詳細をいずれ話す。それまでは自分の仕事に専念してくれ」


 男はそのまま手を横に振り、女に下がるように命じる。

 だが、女は足を動かす事はなく、その妖艶な唇を冷たく動かした。


鳴神なるかみへの調査は構いません。ですが――」


 その先は、男の怒気にまみれた視線で封殺された。

 自らの命令に異を唱える者を、この男は何よりも嫌うのだ。

 それが分かっていてなお、女は口を開かずにいられなかったのだが、それを思いやる寛容さもまた、この男は持っていなかった。

 組織人としては一流でも、人としても、雄としても、まるで魅力を感じさせない男に、女は内心で「つまらないわね」と呟きながら、それを表情には微塵も出さず、足を出口へと向けた。

 その背に、嘲りで怒りを隠した声がかけられる。


「君は、彼奴と別れさせられたのが、そんなに気に入らなかったのかな?」


 自分の物が己以外を見た事を咎める、子供じみた嫉妬にまみれた声。

 男のそんな問いに、女は優雅に振り返って告げる。


「えぇ、興味深い観察対象でしたのに、あんな子守をさせるなんて、人材の無駄使いだと思いますわ」


 邪推を切り捨てるように笑い、女は白い肌にかかった金髪を払うと、狩人協会日本支局ビルの最上階、局長室から姿を消した。



「少々派手にやりすぎたが、良くやってくれたな柘榴、それにU・D君も」


 そう謝意を告げ、髭を蓄えた初老の男こと部隊長の高坂祐司は、部下である柘榴とU・Dの手を取り、握手でもって讃えた。

 柘榴は締まった顔に僅かの微笑を、U・Dは調子に乗った満面の笑みを浮かべ、幾つものシワと傷痕の残る手を握り返す。

 蠱という透明な虫の怪物を使い、己の為に人を犠牲にしていた青年事業家は警察に捕まり、もう行方不明者が出る事も無くなった。今回の狩りは完璧な成功を収めたと言える。


「警察の鑑識が蠱の体組織を発見し、難色を示すかもしれないが、そちらの処理は私が行っておく。後で報告書を提出して貰うが、今日は帰って十分に体を癒してくれ」


 事件が無事解決された喜びに、普段は厳しい高坂も頬を緩めて部下を労う。

 報告書という言葉にU・Dが一瞬、宿題を出された学生のような顔をするが、帰ってよしとの言葉を聞いて直ぐに笑顔を取り戻した。


「良かったわ。残業しろとか言われたら、労働者組合に訴えてやる所よ」

「怪物と戦う非公式組織に、人権なんて有ると思ってたのか」


 初めての狩りを終えた緊張も見せず、冗談を吐くU・Dの頭を柘榴が叩く。

 それこそ、秘密工作員たる狩人に似合わない締まりのない光景に、高坂は叱る事もなく温かい目を向ける。


「少し心配していたが、チームワークに問題は無いようだな。ではこれが報酬だ、少ないが収めてくれ」


 謝辞と共に出された二つの茶封筒を、柘榴は頭を下げて受け取り、一つをU・Dに手渡す。


「報酬ね……ヒュウッ、諭吉さんが三十枚とは豪気ね」


 封筒を開けた少女は、そこから三十万円も出てきて、喜びに口笛を鳴らす。


「良かったな。大した額じゃないが、これで当面の生活費には困らんだろう」

「勿論、月毎に基本給も支払われる。振り込みは先月の分を月末にだから、U・D君の初任給は来月の終わりになってしまうな」


 妙に所帯じみた説明をする高坂に、U・Dは苦笑を返しつつ、柘榴の一言に引っかかりを覚えて聞き返す。


「ちょっと待って、今三十万が大した事ないって言ったけど、どういう事?」

「言葉通りの意味だ。狩りを終えた報酬としては少ない方だぞ、これ。高い時は百万とか一千万とかで、確か最高額は五億でしたか?」

「五億ぅっ?」


 とんでもないその金額に、冷静な少女も流石に驚きの呻き声を上げる。


「任務の危険度によって報酬の金額は増減するからな。確かに柘榴の言う通り、五億にも及ぶ賞金を掛けられた怪物もいるが、捕まえた者はいないよ」

「強力過ぎる事と、今は人に危害を加えていない事を考え、協会の方でも放置しているんでしたか?」

「あぁ、億単位に届くSランクが相手ともなれば、それこそ核兵器の使用も覚悟しなければならない。興味本位で突いていい藪ではないからな」

「…………」


 高坂と柘榴の会話に、U・Dは想像が追いつかず声も出ない。


「まあ、Sランクなんて巨鳥ロックドラゴン吸血鬼の真祖トゥルー・ヴァンパイア天使エンジェル悪魔デビルなんて伝説も同然の存在だ。まず出会う事などありえない、本物の幻想さ」


 青ざめた少女を励ますようにそう言い、高坂はこれで話を打ち切る。


「ほら、今日はもう解散だ。家に戻ってゆっくり休め」

「はい、では失礼致します」


 上官の気遣いに敬礼で返し、柘榴は部屋を出る。

 そしてエレベーターで地下に下り、車の前まで来た所で、まだ後を付いてきたU・Dを振り返った。


「どうした、もう帰っていいんだぞ」

「柘榴、アタシが家無しの浮浪児だって事忘れてない?」


 言われて、目の前に立つ少女の素性をようやく思い出す。


「身分証も無いからホテルは勿論、漫画喫茶にだって泊まれないのよね。けど、こんな見目麗しい少女が三十万円もの大金を持って、寒空の下で寝ていたらどうなるか、考えるまでもないわよね」

「……で、俺にどうしろと」


 遠回しな台詞に、薄々察しつつ柘榴は尋ねる。


「貴方の家に泊まって上げるって言ってるのよ」

「それは物を頼む人間の取る態度じゃないな」


 あくまで上から目線の少女に、赤銅の狩人からまた溜息が漏れる。

 しかし、どうせ断った所で、彼の家を突き止めて無断で押し入ってくる光景が脳裏を過ぎり、柘榴は大人しく後部座席の扉を開けた。


「どうぞお姫様、狭苦しい我が家においで下さいませ」

「うむ、苦しゅうない」


 こういう時だけはノって、U・Dは優雅な仕草で車に乗り込んだ。





 狩人協会日本支局のビルから車で三十分、八階建て新築マンションの一階角部屋が柘榴の住居だった。


「ふ~ん、結構広いのね」


 U・Dは玄関で靴を脱ぎ、2LDKと一人暮らしには広すぎるくらいの部屋を眺め、感嘆の声を漏らした。

 玄関を抜けて直ぐに台所兼食堂が広がり、その横にバスとトイレ、前の扉を開けば居間に繋がり、居間の左にある部屋がベッドと本棚の置かれた寝室で、右の部屋は数点のトレーニング器具があるだけの殺風景な部屋だった。


「あまり変な所を触るなよ、危険な物もあるからな」


 居間の壁にかけられた日本刀を弄くるU・Dにそう注意しながら、柘榴はコートを脱いで寝室の扉に手を掛けた。


「もう寝るの? 夜はまだ始まったばかりよ」

「生憎、俺はお前ほど若くないんでな」

「二十二歳が情けないわね。もう少し若者らしく元気を見せなさいよ」


 柘榴はU・Dの声も無視し、Tシャツとハーフパンツに着替えると、超重量にも耐えられる特注の金属ベッドに体を横たえた。

 ミシミシとパイプがしなる音を聞きながら、赤銅の鬼はその目蓋を閉じる。

 だが、扉が開く低い音と共に、何かがベッドに潜り込んで来るのを感じ、直ぐに怒る事さえ億劫な身を起こした。


「おい、何のつもりだ」

「何って、宿代の代わりに奉仕してやろうと思っただけよ」


 剥いだ毛布の下から下着姿のU・Dが現れ、柘榴は頭痛を覚えて頭を抱えた。


「そんな気遣いはいらん。いいから居間のソファーで寝てろ」

「何よ、処女じゃなきゃ嫌だって言うの。これだから童貞は……安心なさい、初めてじゃないけど膜ならあるわ」

「仮にも女なら恥じらいを覚えろ! ともかく出て行け!」

「つれないわね、女に恥をかかせるものじゃないわよ」


 柘榴が幾ら怒鳴っても、U・Dはベッドから出て行こうとはしなかった。

 遂に堪忍袋の緒が切れ、掴んで放り出そうとした所で、その細い肩が微かに震えているのが目に入った。


「お前……」

「何もしないから、今日一晩くらい一緒に寝てくれてもいいでしょ」


 そう告げる少女の声は、一瞬前までふざけていたとは思えないくらいか細かった。

 どんなに強がっていようと、彼女は短期間に二度も怪物に遭遇し、二度とも命を落とす所だったのだ。恐ろしくなかった訳がない。

 それに気付いた柘榴は、もう無下に少女を追い出す事が出来なかった。


「勝手にしろ」

「……ありがと」


 珍しく素直な礼の言葉に、赤銅の頬に赤みが増すのを感じ、柘榴は頭から毛布を被る。

 そうして、眠れぬまま時間が経った頃、ふと口を開いた。


「起きてるか?」

「寝てるわ」


 ふざけた返事は無視し、そのまま言いたかった事を告げる。


「今日出会った青年のように、ただの怪物ではなく、怪物を匿い、利用するような人間とも俺達は戦わなければならない。その中で、もっとどす黒い人間の業を見せられる事もあるだろう。それでもまだ、お前は狩人になりたいのか?」


 人間の敵は人間。ありきたりな言葉だが、それが事実だった。

 怪物という異端よりも、それを時に狩り、時に利用しようという人間の方が、よっぽど恐ろしい化け物なのだ。

 それを知っているからこそ、柘榴はこの根は優しい少女を、こんな薄汚い世界から遠ざけておきたかった。しかし――


「そんなもの、とっくに見飽きたわよ」


 少女はあくまで平然と、冷たい声でそう言い捨てた。


「そうか……」


 柘榴もそれ以上は何も言えなかった。

 守ってくれる親も家もなく、ただ一人異国の地で暮らしていた少女が、どんな辛酸を舐めてきたかなど、聞くまでもない事だから。

 今度こそ目蓋を閉じ、睡魔に身を任せようとした柘榴の耳元で、U・Dが小さく呟く。


「貴方こそ、こんな世界で生きていたいの?」


 その問に、自分はなんと答えようとしたのか。

 それも分からぬまま、柘榴の意識は眠りに飲み込まれていった。

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