第一幕:狩人と少女

1-1

 心臓が悲鳴を上げ、肺が停止を叫んでも、少女はその足を止めなかった。

 漆黒に塗り潰された人気の無いビルの間を、荒い息でただ駆け抜ける。

 十分以上も全力で走り続け、本当に死んでしまいそうな激痛に苛まれながら、それでも速度を落とす事は許されない。

 もし立ち止まってしまえば、その時こそ自分は――

 少女は逃げていたのだ、後ろより迫り来るモノから。

 ただその顔に浮かぶ恐怖は、生命の危機に対するものと言うよりも、未知のモノに対する色合いが濃かった。

 そう、追跡者は知らないモノ、有り得ないモノだった。

 より正確には、有り得ないモノになった・・・


 始まりは、公園で眠っていた少女が、酔い潰れたサラリーマンの男を見つけた事だった。

 懐が寂しかった彼女は、財布を頂戴しようとその男に忍び寄った。

 すると、男は突然目を覚まし、月の輝く空を見上げたかと思うと、激しく全身を痙攣させて――

 そうして起きた異変を、少女は信じられぬ思いで見つめ、そして逃げ出した。

 ブラウン管の中でしか見た事のない怪異が、目の前で起きて混乱したという事もある。

 だがそれよりも、数秒前まで男だったそれが、赤く光る目で自分を、獲物を捕らえ、舌なめずりしたのを見て、生物の本能が全力で逃げろと叫んだからだ。


 少女は公園を抜け出し、ビルの谷間に駆け込んだが、それは当然の如く追ってきた。

 長い路上生活で知り尽くした摩天楼の隙間を、彼女は迷路のように駆使して駆ける。

 だが、男だったモノはその努力を嘲笑うように、恐ろしい速度で彼女に這い寄って来た。

 今だって、直ぐ後ろから四足の足音が響いてきて、彼女の体を引き裂こうと迫っている。

 少女は恐怖に折れそうな心を何とか抑え、頭の中に地図を描く。

 後二つ角を抜ければそこは駅前。真夜中でも人気があり、何より交番が有る。

 警察の厄介になるのは出来れば避けたかったが、そんな贅沢を言っている場合ではない。


(後ろのアレに捕まってしまえば、アタシは……)


 最悪の想像を振り払い、少女は息を切らせて残り二つの角を曲がり――そして、行く手をフェンスに阻まれた。


「っ!?  前はこんなの……っ!」


 記憶の中には無かった緑色の金網に、少女は悲鳴を上げて掴みかかった。

 怒りをぶつけて激しく揺すった後、直ぐに思い直し、よじ登ろうと足を掛ける。

 だがその細い足は、毛むくじゃらの手で掴み止められた。


「――っ!?」


 声にならない叫び声を上げ、彼女が振り向いたそこには、人ならざる追跡者の姿。

 赤く光る目、長く伸びた鼻、上に尖った耳、大きく裂けた口には鋭い犬歯が生え、全身は茶色い剛毛で覆われ、そして尻からは尻尾が生えている。

 それは大きな狼のようでありながら、二足で立ち上がり、千切れたスーツを纏い、五本指の手で少女の足を掴む、人間と獣を合成した奇形生物。

 獣人ライカンスロープ狼男おおかみおとこ人狼ワーウルフ

 様々な名で呼ばれながら、虚構の中にしか存在しない生物、しないと信じていた怪物。

 それが現実を浸食し、逃れられぬ捕食者となって少女の前に現れた。


「はははっ……財布なら、返すわよ……?」


 未だ現実だと認められず、特撮か何かだと言って欲しくて、彼女は引きつった笑みで問いかける。

 だが、狼男はそれに答える事なく、長い舌で少女の足を舐め回し、唾液と鼻息を押し付けてきた。

 生ぬるい液体と舌の熱に、彼女の全身に怖気と怒気が湧き起こり、それが一時的に恐怖を塗り潰した。


「放しなさい、この変態野郎っ!」


 少女は叫び、フェンスに掴まったままで、狼の鼻っ面に蹴りを入れる。

 思わぬ反撃に狼男は一瞬たじろぐが、それは捕食者の怒りを買うだけに終わった。


「ワオォォォ―――ッ!」


 身の毛もよだつ咆吼を上げ、狼男は彼女の足を掴み直すと、凄まじい力でフェンスから強引に引きずり降ろした。


「かはっ……げは、げほ……っ!」


 少女は地面に叩き付けられ、背中を強打して苦しみ咳き込む。

 涙を浮かべて這い蹲る少女に、狼男はその剛毛に覆われた体で覆い被さる。

 仰向けで押さえ付けられ、だらしなく開けられた口から覗く牙を見て、彼女はようやく自分の末路を理解した。

 恐れも怒りも無くなり、ただ真っ白な意識で、狼の口が己の首を挟むのを見る。

 そして――頭上のフェンスが、何かに切断される光景を見た。

 金網を紙のように容易く切り裂き、ビルの壁に突き刺さったそれは、まるで大きな鉄板のようだった。

 それぐらい、既存の何とも一致しない、異様な形の剣だった。

 長方形の端に、握り手用の穴が四つ空けられただけの、刃も切っ先もない鋼の塊。

 敵意を持って投擲されたそれに驚き、狼男は少女の上から飛び退くと、油断無くフェンスの向こうと対峙した。


 赤い瞳に睨まれた闇から出て来たのも、またあかい影だった。

 赤銅しゃくどう色の肌を黒いコートで覆い、白い髪をオールバックにし、夜だというのにサングラスを掛けた大柄な男。

 やけに大きな地響きを立て、少女達に近づいて来るその男もまた、明らかに異質なモノだった。

 外見だけならば背の高い二枚目の青年で、スーツを着ていればホストにでも見えた事だろう。

 だが違う、目の前にいる狼男と同様、赤銅の男もまた、人間とは違う怪物だった。

 何故と問われても、肌がそう感じたとしか説明出来ない。

 狼男の変身を見た時と同様に、彼女の本能がこの男は危険だと騒いでいるのだ。

 新たな人外の乱入者に、少女が黙って縮こまっていると、赤銅の男は赤く太い腕でフェンスをこじ開けながら、低い声で呟いた。


「退いてろ」


 愛嬌の無い一言。それが自分を守る為に発せられたのだと認識するのに、少女は若干の思考時間を要した。

 慌てて退く彼女を見る事もなく、男は狼男と向き合うと、無警戒に一歩を踏み出す。

 それを合図に、狼男が大きく跳躍し、赤銅の男に襲いかかった。

 動物特有のしなやかさでゆうに三mは飛び上がり、牙の生えた顎で男の首筋を狙う。

 だが、男はそれを予想していた様子で、左腕を盾にして急所への攻撃を防いだ。

 しかし、狼男はそれに構わず、男の腕を引き千切る為に牙を突き立てる。

 ボキンッと骨の折れる音が――狼男の口から響いた。

 牛の首さえ砕く強力な牙が、男の肌を一㎜も貫く事なく、根本から折れて飛んだ。


 噛み付いたコートの袖から、何か金属の感触があった事を感じながら、狼男は口内に走る激痛にも気付かず、折れ落ちた自分の牙を呆然と見詰める。

 その腹へ、赤銅の拳がねじ込まれた。

 地響きと共に繰り出されたボディーブローに、狼男の体が宙を舞い、十m以上の距離を滑空してビルの壁に叩き付けられる。

 巨大建築物が震え、低い地鳴りを響かせる中、狼男の体が地に伏して痙攣した。

 強靱な剛毛が抜け落ち、膨張した筋肉が収縮し、少女が公園で見た光景とは逆の現象を起こし、狼男は貧弱なサラリーマンの姿に戻っていく。

 映画の特殊撮影技術も顔負けな変貌に、少女が声も無く見入っていると、闇の中からまた新たな人物が現れた。

 波打つ金髪を掻き上げ、豊満な胸の谷間を惜しげもなく晒したセクシーな白人の女性。

 その女は元狼男に近付くと、ベストから手錠を取り出してその両手足を固定した。


「任務完了ね。お疲れ様、柘榴ざくろ


 そう赤銅の男に呼びかけ、女は元狼男を手渡した。

 男がそれを軽々と肩に担ぎ上げるのを見ながら、やはり座り込んだまま立つ事の出来なかった少女に、金髪の女が歩み寄って来て手を差し出す。


「お気の毒様、大変な目に遭ったわね」

「は、はい……」


 親しげに声をかけられ、少女は無警戒に出された手を握り返す。

 その瞬間光が弾け、少女の全身を電撃が貫いた。


「っ……な、ん……」

「ごめんなさい、これも規則なの」


 全身が痺れ、喋る事も出来なくなった少女に、女はあくまで優しい声で告げる。

 そして、ベストから一本の注射器を取り出すと、少女の喉に近付けた。


「安心して、目が覚めた時には全て忘れているから」


 その言葉と針の刺さる痛みを最後に、少女の意識は途切れた。

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