0-3
目覚めたのは、自分の鼓動がうるさかったからだ。
眠りから覚めただけなのに、僕の心臓は何十㎞も走った後のように激しく脈打っていて、そのくせ全身は凍ったように寒く、布団は冷や汗でびっしょりと濡れていた。
前にもたった一度だけ、こんな事があった。
響き渡る叫声と、耳障りな金属音。幾つもの刃が突き刺さった、
強烈な吐き気が込み上げ、僕は頭を振って過去の幻影を払う。
だがそれでも、全身を襲う悪寒は消えず、僕は訳もなく部屋を飛び出していた。
障子を開け、いつも読書に使う縁側を飛び降り、深夜の庭に素足で立つ。
月さえ雲に隠れた闇夜、風も無い黒い空間に囚われ、理由の無い不安はどんどん膨れ上がっていく。
僕は自分の部屋が有る離れに背を向けると、鈴子達が居る洋風の母屋へと駆け出した。
玄関を通り抜けて二階へ上がり、中央にある鈴子の部屋へ赴くと、掛かっていた鍵を無理矢理捻り壊して扉を開ける。
中にあったのは、幼い妹の可愛らしい寝顔。
鍵が壊された音にも気付かず、鈴子は健やかな寝息を立てていた。
その姿を確認して僕は少しだけ安堵すると、次々と他の部屋も確認していく。
時恵さんの部屋、留守にしてる真子姉さんの部屋、亡くなった両親の部屋、食堂、庭で寝ているユメジ、離れの物置、門の周辺……。
屋敷をぐるりと見回してみたが、何の異常も見あたらない。
気のせい? と疑った瞬間、脳裏に彼女の笑顔が過ぎった。
そして同時に、言いようも無い恐怖が全身を駆け巡る。
まるで『正解』と答えるように走った怖気に、僕は堪らず屋敷を抜け出した。
後でこの事がバレれば、時恵さんにきつく叱られてしまうけど、そんな小事を気にしている場合ではない。
分からない、何故かは分からないけど、嫌な予感がして堪らなかったのだ。
素足に小石が刺さる痛みも無視し、僕は全力で彼女が居る町の中心へと走る。
だが、長いこと読書ばかりの生活をしていたせいか、僕の体力は直ぐに無くなり、肺が苦痛の悲鳴を上げる。
僕は荒れた呼吸を落ち着かせようと、一度立ち止まる。
そこで、道の角でぽつんと光る外灯の下に、誰かが座り込んでいるのに気付いた。
まるで光に吸い寄せられる蛾のように、僕はフラフラとそこへ近づく。
座っていた男の人は、警察官の制服を着ていた。
そして、真っ青な顔で、真っ赤な血に染まっていた。
一匹の蛾がその顔に張り付くが、座ったままの警察官は微動だにしない。
死んでいる。脈を確認するまでもなく、その人は絶命していた。
誰もが寝静まった町の中、誰もが気付かぬ内に、一人の警察官が殺されていた。
その異常な光景を前に、僕は叫び出したいのを堪えて、彼女の家へと駆け出した。
本来なら、今直ぐに助けを呼ぶか、周囲の人に異常を知らせるべきなのだろうけど、今はその為に声を出す暇さえ惜しかった。
息を切らせ、古い記憶を掘り起こし、どうにか数年ぶりに訪れた彼女の家は、異様な静けさに包まれていた。
チャイムも押さず、無遠慮に掴んだ玄関の扉は、呆気なく開いた。
鍵の部分が、何か鋭利な刃物みたいな物で破壊されていた。
強盗? でもそれなら、窓とかもっと簡単な場所から入るんじゃ……。
不安と疑問が膨れ上がり、僕は声を押し殺して彼女の家に入り込む。
一見、住人が寝静まっただけの家からは、何の物音も聞こえない。
本当に寝ているだけなら、どんなに良いだろう。
そんな僕の願いは、最初に開いた扉の先にあったモノによって、呆気なく打ち砕かれた。
おじさんかおばさん、どちらかが家を出る為に整頓されていたのだろうその部屋は、滅茶苦茶に荒らされ、赤い血と肉片で塗り潰されていた。
鼻を刺す鉄の臭いと、早くも集り始めた虫共の羽音が響く中、別れようとしていた夫婦は、肉片となって一つに混じり合っていた。
手足はねじ切られて投げ捨てられ、胴体は腹で二つに裂かれて、腸が大蛇のように床を這い回り、頭は潰されて脳漿と骨に分解されている。
彼女の両親は、記憶の中にあった姿さえ思い出せなくなるほど、二度と判別の付かない形に混ぜ合わされて殺されていた。
あまりの惨状に、喉の奥から酸っぱい物がこみ上げくるのを何とか飲み込み、僕は震える足で彼女の部屋へ逃げ込む。
そこは意外にも、何の乱れもなく整っていた。
だが居ない、彼女が居ない。
僕は焦燥に駆られて家中を探すが、彼女の姿はどこにも無い。
ここに至って、僕は一つの場所を思い出し、同時に惨劇の家から飛び出した。
ある事情で、数年前から屋敷の外に出る事を禁じられた僕の、この町にある数少ない思い出の地。
七月には祭りの出店で賑わう、町の中央にある公園。
銀色の約束を交わした、大切な大切な場所。
息を切らし、そこへ辿り着いた僕を迎えたのは、懐かしい思い出を汚す大量の死。
砂場に転がるのは、いくつもの赤く醜い肉団子。
ジャングルジムの上には、マリオネットのように垂れ下がる骨の折れた人型。
ブランコの鎖に垂れ下がる、真っ青な首吊りの群れ。
歪に象られた大量の死、死、死、死、死、死、死、死、死、死、死、死。
あまりに酷たらしい惨劇に、僕が声も無く立ち竦む中、空を覆っていた厚い雲が切れる。
そうして、満月のスポットライトが闇に隠れていた広場を照らす。
月明かりの下には、二人の役者の影。
血の海の中、黒い学生服の少年が、彼女を抱きかかえていた。
赤いプリーツスカートと黄色のベストは、よく彼女に似合っていた。
いつもは編んでいる髪がほどけていたが、それも可愛かった。
左薬指の銀の指輪は、満月の光を受けて黄金に輝いている。
首が真っ赤に染まり、その息が止まっていても。
それでも、幼馴染みの彼女を、美しいと思ったのだ。
見知らぬ少年が、彼女を手から放り投げ、かん高い笑い声を漏らす。
何故とか、どうしてとか、そんな疑問に答えが与えられる訳もなく。
ただ唐突に、理不尽に、僕達の約束は永遠に果たされる事が無くなった。
視界が闇に染まる中、殺人鬼の嘲笑だけが、ただ鮮明に響き続けていた。
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