0-2

その日は朝から小雨がパラついていて、猛暑が続いたこの夏にしてはめずらしく肌寒かったけれど、僕は気にするでもなく、いつも通り縁側で本を読んでいた。

 そこへ、水溜まりを踏む小さな音が響いて、僕は本から顔を上げた。

 桜が、傘も差さずに立っていた。

 ずぶ濡れの彼女は何も言わず僕の横に座ると、顔を伏せて黙り込む。


「タオル、持ってくるね」


 そう言って立ち上がろうとした僕の手を、桜は掴んで止め、無言で頭を横に振った。

 僕は黙って座り直し、幼馴染みが口を開くまでただ待ち続ける。

 雨粒が屋根を叩く音だけが響き、どれだけの時間が過ぎた頃だろう。

 桜はその青くなった唇を開き、小さく告げた。


「お父さんとお母さんね、離婚するって」


 正直に告白すれば、僕はその台詞に驚かなかった。

 薄情だと思うけれど、これは何時か訪れると予想されていた事だから。

 ただ、これほど辛そうに歪めた桜の顔は、想像する事も出来なかった。


「もうね、離婚届けにも判を押して、後は届けるだけなんだってさ、あはははっ」


 自虐的に笑う彼女に何も言えず、黙ってその嘆きに耳を傾ける。


「何の相談も無しでね、もう決まった事だって言うの。私に尋ねた事と言えば、お父さんとお母さんのどっちを選ぶのか、なんて嫌な二択だけ」


 そこで桜は顔を上げ、乾いた瞳で僕を見つめる。


「私は何て答えたと思う? 正解はね『この町に残る方と一緒に住みます』なの。戒ちゃんと離れたくないから……あはははっ、本当に甲斐甲斐しい幼馴染みだよね、私」


 そう言って笑う彼女の顔を見て、僕はもう我慢出来なかった。

 濡れた肩を掴み寄せ、その頭を胸に抱き締める。

 そして、そんな事しか出来ない自分を呪うように、何度も何度も詫びた。


「ごめんね桜。ごめん、何も出来なくて、本当にごめんね……」


 悔し涙を零す僕につられ、桜もついに声を出して泣き出し、温かな雨が二人の頬を汚していった。


「戒ちゃん、戒ちゃん、戒ちゃん、戒ちゃん……っ!」

「ごめん、桜……桜、本当にごめんね……」


 壊れたレコードのように互いの名を呼び合い、自分の無力を詫び続ける。

 無力な子供の僕達は、そうやって傷を舐め合う方法しか知らなかった。

 そうして頬と心を濡らし続け、いつしか服だけが乾いた頃、桜が小さく呟いた。


「何で、忘れちゃうのかな?」


 短いその一言には、あらゆる憎悪と憤怒が込められていた。


「愛してるって言ってた、愛し続けるって言ってた。なのに、なのに何でその気持ちを忘れるのかなっ!」


 呟きはいつしか大声へと変わり、雨をも震わせる。


「何時か冷める程度のものが愛なの? 気持ちが変わるのなんて当たり前だって言うの? それが生きる事だって言うの? そんなの、私は許さない! 絶対に認めないっ!」


 桜の叫びはまるで、愛情を忘れた両親のみならず、忘却を許した世界そのものを呪うかのようだった。

 何も言えず固まる僕に、桜は唇が触れるほど顔を近づけて告白する。


「私は戒ちゃんが好き、大好き、初めて会った頃からずっとずっと愛してるのっ! 戒ちゃんと一緒に居られるだけで幸せだよ。戒ちゃんが他の女と一緒に居るだけで、頭がおかしくなっちゃいそうなくらい、好きで好きで仕方ないのっ! 戒ちゃんとずっと一緒に居たい、結婚したいの、戒ちゃんの子供が欲しいの、一緒のお墓に入って、死んでも二人で寄り添っていたいっ! それぐらい大好きで、好きで好きで仕方ないのに――」


 まるで風船のように爆発し、萎んでいった声が告げる。


「――それもいつか、忘れてしまうの?」


 悲しみとか、嘆きとか、そんな言葉では表現出来ない、深い深い絶望の色。

 涙すら枯れ果てた顔でそう尋ねられても、僕は何も答えられなかった。

 桜が僕を好いてくれている事は、何となくだけど感じていたし、僕も彼女ほど苛烈ではないにしても、この幼馴染みの少女と一生を共に出来たらと思っていた。

 だから今の僕は、桜から気持ちを伝えられて、堪らない嬉しさに満たされていた。

 けどそれでも、彼女の問いを否定する事が出来なかった。

 人が変わるモノだって事を、僕は痛いほどよく知っている。

 幼い頃、まだこの町に来る前、周りにいた人達が一夜で豹変してしまったあの出来事は、僕の記憶から一生消える事はないのだから。

 そして僕自身も、桜達と会う事でまるで違う人間になった。

 だから言えない。人は絶対に変わらない、愛は消えないなんて、そんな安っぽい慰めだけは。


「……戒ちゃん、この指輪を憶えてる?」


 黙り込んだ僕に、桜は左薬指に填めた物を見せてくる。

 簡素なデザインで、英単語が二つ刻まれた銀の指輪シルバーリング

 それが何か、僕は勿論憶えていた。

 確か八歳の頃、夏のお祭りに二人で行った時、屋台のアクセサリーショップでそれを見つけた桜が欲しい欲しいと騒いだので、僕が有り金をはたいて買って上げた物だ。


「まだ持っててくれたんだ、ありがとう」


 当時はブカブカだったそれが、今では左薬指にジャストフィットしていた事が不思議だったけど、僕のプレゼントを大事にしてくれていた事が素直に嬉しかった。

 そう告げると、桜はようやく笑みを浮かべてこう返した。


「当然だよ、戒ちゃんが私にくれた婚約指輪だもんっ! お母さんの薬指のサイズを聞いて、予め大きいのを買って貰ったんだけど、予想通りピッタリだね!」


 計算づくだったんだ、と僕は背中に薄ら寒いものを感じながら、桜がようやく元気を取り戻してくれた事が嬉しくて笑った。

 そんな僕を横に、幼馴染みは過去の馴れ初めを思い出して頬を染めながら、指輪を外して側面に刻まれた文字を読み上げた。


「Eternal Love――『永遠の愛』だなんて、ちょっと恥ずかしいよね?」


 嬉しさと皮肉が混じった顔で、淡くはにかむ。

 そんな桜に、僕は今度こそ首を横に振ってみせた。


「そうかな、僕はこういう物こそ『永遠』であって欲しいと思うよ」

「どうして?」


 哀願するような問いに、僕は自信を持って告げた。


「人の気持ちは変わってしまってもさ、その気持ちが有ったんだって事は、消えない物が永遠に証明してくれると思うんだ」


 それは慰めにもならない、ただの詭弁なのかもしれない。

 それでも、好きだという気持ちが有った事、桜の両親が愛し合っていた事、桜が愛されて生まれてきたんだって事だけは、本当なんだと伝えたかった。

 すると、桜は目を大きく見開き、唇を綻ばせて――


「戒ちゃん、その台詞ちょっとクサイよ?」


 と言って、僕の一世一代の台詞を茶化した。

 真面目な話なんてつまらないと、小馬鹿にしたような笑み。

 でもそれこそが、いつもの幼馴染みの姿だった。

 だから、僕は喜んで道化を演じ、彼女の笑顔を取り戻す。


「そうかな? 『ダイヤモンドは永遠の輝きです』って結婚指輪のCMでも――」

「今度はダイヤの指輪をくれるの? ありがとう戒ちゃん~っ」

「いや、僕のお小遣いでそれは無理……」

「え~、でも戒ちゃんの家はこんなに大きくてお金持ちだし、指輪くらい安いものでしょ?」

「でも、正式な跡取りには真子姉さんか鈴子がなるから、僕に使えるお金なんて限られてるよ」

「ちぇ、玉の輿は無理なんだ。でも、もしも鈴子ちゃん達に何かあったら・・・・・・、戒ちゃんが跡継ぎだよねぇ?」

「さ、桜、何か怖い事を考えてないよね?」

「やだな、私は戒ちゃんの為ならどんな事でも・・・・・・怖くないよ?」


 目が真剣なままスマイルを浮かべる桜と、それに怯えて身震いする僕。

 そのまま二人で見つめ合い、直ぐに声を出して笑い合った。


「あはははっ、戒ちゃん本気にした? 嘘だよ、う・そ!」

「はははっ、だって桜の目が怖いんだもん」

「こらっ、こんなに可愛い幼馴染みのどこが怖いって言うのっ!」

「いや、全――何でもないです」


 全部怖い、と言いかけた本音は、まさに怖い目で黙殺された。

 縮こまって口を噤む僕に、桜はまた大きな声で笑う。


「あはははっ……うん、戒ちゃんのお陰で元気出てきた、ありがと」


 涙を拭い、吹っ切れた様子で桜は礼を言い、僕もそれに笑顔で応える。


「良かった――って良くはないよね。おじさん達が別れちゃう事は変わりないんだし」

「まあね。でも寂しくはあるけど、二人がずっと喧嘩してる姿を見るのも辛いから、ちょっと冷却期間を置くのもありかな、とも思うし」


 まだ悲しみも不満も残っているだろうに、桜は割り切った表情でそう言い切り、力強く前を見詰めた。

 やっぱり、桜は強くて元気で、向日葵みたいに綺麗だな。

 幼馴染みが太陽のように輝いて見えて、僕は羨ましくて目を細める。

 空も同じ気持ちを抱いたのか、いつしか雨も止んで澄んだ青を見せ、七色のアーチを浮かび上がらせていた。


「綺麗だね……」


 呟く僕の手を握り、桜も空を見上げて頷く。

 そうして、虹が消えるまで静かに眺め続けた後、不意にこう告げた。


「ねぇ戒ちゃん、私達も永遠の証を創らない?」


 何の事?――と問い返す間もなく、幼馴染みの細い体が僕を押し倒した。

 突然の事に声も出ない僕に、桜は名前と同じ色の唇を寄せて囁いた。


「だからね、愛の結晶を創ろうかな~って?」


 可愛く舌を出しながら、馬乗りになって両手を押さえ付けてくる幼馴染み。

 それでようやく何の事か悟り、僕は慌てて身を捩った。


「だっ、だだだだだだ駄目だよ桜っ? こんな所でそんな――」

「じゃあ、戒ちゃんのお部屋ならいいの?」

「そっ、そういう問題じゃなくてっ!」


 つっかえながらも必死で訴えるが、桜は僕の上から下りようとしない。

 力任せに振り落とす事も出来るけど、それでは加減が効かず彼女に怪我をさせてしまうかもしれない。

 そうやって悩んでいる間にも、幼馴染みの少女は初めて見せる艶っぽい顔で目を閉じ、僕の顔に少しずつ近づいて――


「何をやっているんですの?」


 ――殺気を帯びた声に、押し止められた。

 現れたのは世紀末救世主、もとい我が妹マイシスターこと藤乃鈴子。

 鈴子はもつれ合う僕達にツカツカと歩み寄ると、馬乗りになった桜に直蹴りを喰らわして僕の上から吹き飛ばした。


「ちっ、いつもいつも良い所で……」


 蹴飛ばされた桜の方は見事な受け身を取って立ち上がると、舌打ちしてお邪魔虫と睨み合う。


「こんにちは鈴子ちゃん。いつもタイミングを計ったような登場ご苦労様」

「えぇ、こんにちは桜さん。強姦罪で訴えられたくなかったら、速やかにお帰り下さい」

「何を言ってるの鈴子ちゃん? 和姦って言葉を知らないの?」

「はい、申し訳ありませんが私はまだ小学生ですので、桜さんのように淫らな言葉には精通していないのです」

「そっか、ごめんねー。でもこの指輪を見れば分かるよね? 私と戒ちゃんは将来を約束し合った仲だから、裸でお付き合いしても問題ないの」

「あら、それは貧乏な桜さんを不憫に思い、兄様がお情けで買い与えた玩具やすものでしょう? そんな物で藤乃家の長男を縛れるとお思いでして?」

「うん、思ってるよ。戒ちゃんに指輪をプレゼントしてもらった事もない鈴子ちゃん♡」

「えぇ羨ましいですわ、安物で肌荒れしない貧乏人の桜さん♡」


 語尾にハートマークが見えるほど、可愛く頷き合う二人。

 だがその背には、阿修羅とか夜叉とか禍々しい鬼神の姿が浮かんでいる。

 あまりの恐ろしさに、僕は歯を打ち鳴らして震え、助けを呼ぶ事しか出来ない。

 時恵さんは買い物で出かけてるし、真子姉さんも大学に行ってるし……そうだ、ユメジ(飼い犬、♂、二歳)は――あいつ、主人のピンチを見捨てて逃げ出してるっ?

 いち早く二人の殺気を嗅ぎ取って逃げ出した飼い犬のせいで、僕は一人、悪鬼羅刹の百鬼夜行を耐え忍ぶ。

 胃が痛くなる思いをする事一時間、今日も軍配は桜に上がり、鈴子は血が出そうなくらい唇を噛みしめていた。

 この後、幼馴染みの惚気に付き合わされ、妹の機嫌取りに奔走しなけれがならない事を思うと、僕の口からは長い長い溜息が漏れるのだった。

 それでも、僕の顔は笑っていた、笑う事が出来た。

 この騒がしく、気苦労の絶えない、だけど幸せな光景が、いつまでも、それこそ永遠に続けばいいと思って。


 そう、願っていた。

 そう、信じていた。

 変わらないモノなんてないと、知っていたのに。

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