クリムゾン・オーガ
笹木さくま(夏希のたね)
序幕:赤い月
0-1
見渡す限りが山で覆われた、小さな盆地にある小さな町。
主な特産物も観光名所も無く、面白味の欠片も無い場所。
人口は四万人ほどで、都心までは電車で四時間。
田舎と言うほど寂れてはいないが、都会と呼ぶほど華やかではない中途半端な町。
その端に建つ、洋風の母屋に日本風の離れがくっついた中途半端な屋敷。
そこが、僕の住む世界だった。
季節は初夏、蝉の声が鳴り響く縁側に、僕は飼い犬と並んで座り、いつものように本を読んでいた。
「だ~れだ?」
突然、後ろから声がしたのと同時に、僕の目の前が真っ暗になる。
それが誰による目隠しか、考えるまでもなく犯人は一人しかいない。
「
少しだけ怒った声を出し、目に当てられた手を解いて振り返る。
そこに居たのは栗色の髪を後ろで二つに纏め、高校の制服に身を包んだ少女。
僕のただ一人の幼馴染み、
「はい、正解です。見事当てた
桜は悪びれた様子もなく笑うと、僕――
受け取って中を覗いて見ると、出てきたのは手作りらしきクッキー。
「今日、家庭科の授業で作ったやつなの。美味しいよ?」
そう言って無邪気に笑う桜に促され、僕は一枚のクッキーを口に放り込んだ。
「どう、美味しい?」
「うん、良く出来てる」
咀嚼の後、素直に頷いて見せると、幼馴染みは向日葵のような笑みを浮かべた。
その眩しい表情を見せられただけで、僕は読書を邪魔された事などどうでも良くなってしまう。
「それで、戒ちゃんは何を読んでたのかな?」
桜は自分でもクッキーを摘むと、興味深そうに手元を覗いてくる。
先ほどまで読んでいた小説『青い星の神様へ』(箸/N・P・ブラッド、訳/小西健太)を見せ、僕は粗筋を語って聞かせる。
「主人公は人食いの怪物でね、盲目の少女と出会った事を切っ掛けに、人間的な優しさを身に付けていくんだけど、最後は怪物を恐れた村の狩人達によって殺されてしまう、という話なんだ」
かなり端折ってそう告げると、桜は如何にも嫌そうに眉を曲げた。
「フランケンシュタインみたいな話? そういう悲劇で終わるの、私は好きじゃないな」
「でも面白いよ。怪物と少女の触れ合いは微笑ましいし、村人達が恐怖に駆られる描写とか、怪物が海に向かって吼えて死ぬシーンとか、凄く感動するんだ。共感する所が多くて、読んでて辛い箇所もあるんだけどね」
僕はそう言って、幼馴染みの胸に本を押し付ける。
桜は渋々といった表情で受け取るが、家に帰ればちゃんと読んでくれる。
とある事情で屋敷の外に出る事を禁止されている僕にとって、本を読む事と、読んだ本について語り合う事は、数少ない大切な娯楽だった。
桜もそれを分かってくれているから、何だかんだ言いつつも僕の貸した本は全部読んで、感想を聞かせてくれるのだ。
彼女が居なかったなら、僕はこんなにも穏やかな気持ちで日々を過ごす事は出来なかっただろう。
「いつもありがとうね、桜」
僕は常日頃から抱いている感謝を改めて口にし、深く頭を下げる。
すると、桜は偉そうに慎ましやかな胸を張った。
「感謝してね。こんなに美人で甲斐甲斐しい幼馴染みが居るなんて、戒ちゃんは三国一の果報者なんだよ?」
「うん、本当だね。桜のおかげで僕は毎日幸せだよ」
心の底からそう思って、僕は桜に笑顔でお礼を告げる。
そんな僕を見て、美人で甲斐甲斐しい幼馴染みさんは、頬を名前と同じ色に染めた。
「……戒ちゃん、そう言ってくれるのは嬉しいけど、あんまり素直で素朴で素敵な笑顔でお礼を言っちゃ駄目だよ」
「何で?
桜の不可解な忠告に、僕はお手伝いさんの言葉で反論する。
すると我が幼馴染みは、言い返す言葉が思いつかなかったのか、怒って床板を力一杯叩いた。
「ともかく駄目なのっ! 特に、女の人には絶対に言っちゃ駄目っ!」
般若のような形相で断言され、僕は不可解ながらも思わず頷いてしまう。
「分かったよ、桜にも言わないように気を付ける」
「私はいいの」
「…………」
即答され、その理不尽っぷりに僕は言葉を失ってしまう。
桜は本当に善い子なんだけど、稀にこういった意味不明な言動を取るので困る。
一度その事をお手伝いの時恵さんに相談したのだけど――
「戒様、それはお医者様でも草津の湯でも治せない病気ですから、あまりお気になさらず」
と言って、可笑しそうに笑うだけだった。
桜が実は不治の病と知り、僕はかなりショックを受けたのだけど、健康に害はないという話なので、今はもう気にしない事にしている。
「約束だよ戒ちゃん、私以外の女に笑顔を向けない事っ!」
「う、うん、分かった」
「じゃあ指切り。嘘吐いたら針千本呑~ます。本当に呑ますからね? 私の知らない女と話してたりしたら、魚類の方も四桁の本数も両方呑ますからね?」
「よ、良く分からないけど、死にたくないから分かったよ」
妙に迫力のある顔で念押しされ、僕は不承不承ながら指を絡ませる。
桜はそれでようやく満足したのか、笑顔になって繋いだ指を上下に揺すった。
小さな頃から何度もしてきた約束に、また新しい項目が加わって、僕は苦笑を浮かべながらも、やっぱり幸せだった。
その後も、桜と二人で他愛もない話で盛り上がり、気が付けば日が山の陰に隠れようとしていた。
「桜、そろそろ帰らないとおじさん達が心配するよ?」
なかなか腰を上げようとしない桜に、僕は遠慮しながらも帰りを促す。
すると彼女の顔に、何とも言えない陰が落ちた。
「お父さんもお母さんも、私の事なんて心配しないよ」
寂しさとか、悔しさとか、そんな負の感情が入り交じった、消え入るような細い呟き。
俯く幼馴染みに、僕は何も言えずその顔を見つめるしかなかった。
蝉の声も止み、痛いほどの静寂が流れた頃、ようやく桜は立ち上がり、無理に作った笑みを浮かべた。
「なんてね、二人ともこの頃私に構ってくれないから、ちょっと拗ねてみましたっ!」
わざとらしく大声で誤魔化そうとする幼馴染みの姿に、僕の胸は鈍い痛みに苛まれる。
桜の両親は今、酷く仲が悪くなってしまっているのだ。
無論、僕が直接確認した訳ではないし、桜に聞いた訳でもない。
だけど、お手伝いの時恵さんが言うには、近所では周知の事実で、離婚も時間の問題なのだという。
六年以上前の事だが、僕は桜の両親と二、三回だけ会った事がある。
その時は、とても仲睦まじい理想的なご両親に見えたし、桜も自分の父母の事を大好きだと語っていた。
それから六年の間に一体何があったのか、僕には想像も付かない。
ただ、全てを諦めたように乾いた笑みを浮かべる幼馴染みの表情から、もうどうしようもない所まで事態が進んでしまった事だけは、鈍い僕にも理解出来た。
「門の所までだけど、送るね」
僕も立ち上がって桜の横に並ぶと、屋敷を出られないまでも、その出口まで見送る事にする。
無力な自分が苦しむ彼女にして上げられる事なんて、それぐらいしかないから。
そんな僕を見て、桜は少しだけ本物の微笑みを見せると、直ぐに首を横に振った。
「いいよ戒ちゃん、そんなに気を使わないで。それに――」
一度言葉を切り、僕の背後を見てニヤリと笑う。
「怖~い妹さんが睨んでるしね」
「えっ?」
驚いて振り返ったそこには、両脇でツインテールにした長い黒髪を指で弄り、額に青すじを立てた僕の妹、
「兄様、ご夕食の支度が出来ましたので、食堂までいらして下さい」
今日も時恵さんが腕によりをかけて作ってくれましたわ、と顔は笑みを作っているが、その瞳は「またこの女と会っていましたの?」という無言の糾弾に満ちている。
鈴子は五歳離れた妹で、まだ小学生なのに礼儀正しく、気は強いけどとても優しい子で、嵐の夜は僕と一緒じゃないと寝れないなんて甘えん坊な所もある、とても可愛らしくて誰からも好かれる善い子だ。
なのだけど、何故か桜の事を毛嫌いしており、僕と一緒に居る所を見ると、こうして烈火の如く怒り出すのだった。
「ちょっと待ってね鈴子、桜を送ったら直ぐに行くから」
僕はそう言って妹を宥めるが、返ってきたのは冷酷な不許可。
「そんな必要はありません。ほら、桜さんはその太い二本の足でとっととお帰り下さい」
慇懃無礼に手を振る妹に、幼馴染みの方から何かが切れる音がする。
「そんなつれない事言わないでよ鈴子ちゃん。さあ戒ちゃん、二人っきりで短いお散歩を楽しもう?」
そう言って僕の腕に自分の腕を絡めてくる桜に、今度は鈴子の方から何かが切れる音がする。
「桜さん、下品で汚らしい手で私の兄様に触れないで下さいません?」
小学生離れした殺気を撒き散らす妹に、幼馴染みも負けじと殺意を隠した笑みで応じる。
「やだなー鈴子ちゃんたら、未来の
「これは戯れ言を。我が家の姉は
「あはははっ、鈴子ちゃんはまだ小学生だもんね、家族が増えるって現実を上手く受け入れられないんだね?」
「桜さんこそ、高校生のくせに叶わぬ夢など見ず、もう少し現実を見つめ直した方がよろしいのでは?」
「夢って何の事? 私が
「お可哀想に、この暑さで頭をやられてしまったようですわね」
そう言って「あははは」「おほほほ」と笑い合う鬼女二人。
鈴子、お兄ちゃんはお腹が痛くて、夕食を食べれそうにありません。
桜さん、そういう事は、本人にもちゃんと承諾を得てから話を進めて下さい。
僕が現実逃避気味に傍観している間にも、女同士の争いは加速していく。
婉曲的な罵詈雑言が交わされる事半刻、気が付くと涼しい顔の桜がツインテールを怒髪天にした鈴子を見下ろしていた。
軍配はどうやら幼馴染みに上がったらしく、妹は憎々しく顔を歪めるも口では勝てない事を悟り、僕の手を取って戦略的撤退を始めた。
「食事が冷めてしまいますので、これで失礼しますわ」
覚えてなさい、とありがちな捨て台詞を小さく呟くと、鈴子は僕の手を掴んで母屋に向かう。
妹に引きずられながら苦笑して謝る僕に、桜は会心の笑みで応じると、背を向けて門の外へと歩き出した。
僕は一度だけ立ち止まり、幼馴染みの背中を見送る。
その後ろ姿が、一瞬前の明るさなど欠片も無く、酷く小さく寂しげに見えて、僕は声をかけようとした。
けれど、何の励ましも、慰めも、僕の口は発する事が出来なかったのだ。
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