08/13/15:30――小太刀二刀

 やっぱ違うな――。

 相手には悪いが、雨天うてんあかつきは最近の鍛錬では常時、あの中国服の男と戦闘をした時を考えながら行っており、何故か退屈のような物足りなさを感じていた。

 たとえば師範と手合わせをする時に、必ずといって良いほどにまでの敗北を迎えるが、それでもあの時の敗北とはわけが違う。結果的にと前置したのならば、こちらの攻撃を回避させられるのも無効化されるのも同じだし、行動を封じられるのも同一で、敗北という結末も変わらない。

 それでも、何かが違っていた。決定的なものを喪失したまま迎える敗北は向上意欲こそ触発させられるが、しかし、自尊心までをも揺さぶることは決してない。

 勝利を得る時も同様だ。

 裾に大きく紋様が記された茶色の袴装束で長身。背丈はおよそ五尺九寸ごしゃくきゅうすん、髪は短く黒色。左利きであるため右の腰に刀を佩き、躰を強く捻った抜刀の姿勢のまま顔だけは正面を向き相手を見据える。両の足は爪先に重心が置かれ、かかとは僅かに浮き上がった動作でしかし、ぴたりと身動きを止めていた。

 居合い、それは暁が最も得意とするだろう刀を持った技術だ。

 回りくどい言い方には理由がある。それは雨天流武術という簡素な流派が、あらゆる得物を使いこなす武術だからだ。そして、あらゆる武術家よりもそれぞれの武器で凌駕するからこその、雨天流である。

 仮にここで暁が小太刀二刀こだちにとうを扱ったとしても――。

 対峙する少年、都鳥流小太刀二刀術を扱う都鳥みやこどりりょうに圧倒しても当然のことだ。

 こちらも暁とは違う紋様が記された濃い青色の袴装束の涼は少し長い髪を後ろに流し、小太刀を両の腰にそれぞれ佩いて、腰の裏という高さで十字を描くように差している。今は右の小太刀を正眼に暁へと向け、腰を落として左の小太刀を逆手で握っていた。

 本当ならば、それはあってはならないことだ。小太刀二刀という技術だけを習得する武術家が、小太刀二刀も扱う武術家に負けるなど、無礼千万だろう。

 だが、雨天を名乗る以上は他の武術家に追随を赦すわけにはいかない。雨天家の人間は常に武術家の頂点に立ち、雨天を超えるために他の武術家が挑む構図を崩してはならないのだ。

 だから暁が負けていいのは武術家ではない人間と、同じ雨天の人間だけである。


 勝とう、とは思わない。ただ負けはなしと貫く。


 重心を更に前へと傾ける。捻りを深く、まるで自らの背を向けるように――さあ来いと意志を投げた。

 敏感にその意志を察した涼が先手を打って来る。愚直にも正面から踏み込んだ右の突き。しかし、それを愚行と表現するのは如何なものか。

 喉元に突きつける右の小太刀は止まることを知らず、左の小太刀によって回避行動を限定する。何よりも怖いのは、この一撃からざっと十五は違う攻撃へと派生する辺りだろう――上半身を反らすのではなく、足捌きで切っ先を正面に捉えたまま背後へ動き、どのように派生するかを見極めようと判断する。


 一秒以下の世界で、彼らはお互いの技術によってお互いを打倒せんと挑む。


 暁は左側へ躰を動かす。いよいよ伸びきる涼の右小太刀が顔の下を通り過ぎようとする直後に異音、至近距離から何かが投擲される風切り音を察知し涼の左側面へ往くよう前へ出る。

 飛針とばりだ。およそ七寸の細い針は都鳥が得意とする暗器の一つ。衣服に刺すことすら難しく思えるそれを、武術家が投擲したのならば岩にだとて刺さろう。

 踏み込み、左の小太刀が躰の回転と共に放たれる――小太刀の居合い。澄んだ刀身が鏡の役割をし、暁の口元に浮かんだ苦笑を映し出す。


 直後、大きな音が一つ道場を揺らした。


 小太刀の間合いの外、刀の間合いにまで移動していた暁は涼の攻撃とほぼ同時に居合いを放つ、その左足の踏み込みが強い音を立てる。刀と刀を打ち合わせる愚行に及ぶ武術家はおらず、故に軌道は小太刀よりも低く狙うは腰、瞬きの間に行動を完了する居合いはしかし、涼の踏み出していた右足が身を背後へ投げるよう強く床を蹴る音が重なった。

 空を斬る。

 ほぼ同時に鳴った音はそれぞれ逆の指向性と意図を持ったものとなり、互いの攻撃はその全てを無効として再び対峙した。


 刀による居合いと、小太刀二刀。


 日日を費やした、鍛錬の時間ならばほぼ同一であろう二人の戦闘は既に、一時間をも超越していた。もっとも二人の間で行われる戦闘にしては短く、風変わりではあったが。

 普段ならば攻防入り乱れ、およそ呼吸を整える時間など与えられぬほどで半日を費やすのだがしかし、今日の涼は一攻防を終えると思考を切り替えるよう間合いを取り、対峙から再び違う一攻防へと動こうとする。

 それがどのような意図であれ、

 ――まあ、疲れが見えてきてるな。

 暁は基本的に居合いの体勢から身動きすることはない。全てを足捌きで構築し、その体勢が変わるのは抜刀から納刀までの短時間。しかし涼は無数の戦術を組み立てているため、動くという点に於いてだけは暁を凌駕していた。

 涼は考えている。何故、自分の攻撃があたらないのかと。

 ――難しい問題だぜ。

 試行錯誤が読み取れるのは、暁がずっと受け手に専念しているからだ。踏み込みや抜刀における小さな変化から、戦術の組み立てが普段と違っていたり――悪い方向への変化があれば居合いによる攻撃を早め、良い方向であっても反撃できることを示しているが、とかく新しいことを行うのには労力が多く必要で、それが涼を疲労させている。

 攻めて攻めて攻め切る今までの戦闘から少し成長したように思う。いずれにせよ均衡が重要で、どちらに偏ってもあまり良くはない。涼の師範から聞いたのか自分で気付いたのかはともかくも良い傾向だ。

 だが、その答えはいつだって簡単で目の前に落ちている。

 ――見ているものの違いッてヤツだろうなんて思ってッけど。

 その答えが正解かどうかはまだ暁だとてわからない。わからないからこそ、やはり、涼には悪いが退屈さを感じてしまうのだ。

 構えを取った小太刀の切っ先が僅かに下がる、その表面の光沢が鈍い。切っ先に迷いはないが刀身が曇ったのを見て取った暁は、戦闘の終わりを決意する。

 暁の重心移動から先読みして涼が踏み込もうとするそれを、更に先読みして先手を得る。最大有効範囲に踏み込んだ刹那に、涼は暁を見失って移動に対する目的意識を消失――だが攻撃が来る、居合いが放たれる、そういった直感を経て回避運動へ移行する。

 それは、予想範囲内。

 居合いは涼の

 激突する――鍔鳴りが道場の中を染み渡り、


「――ッ!」


 轟音。どうにか最低限の受身を取った涼は道場の壁に肩をぶつけるような格好で衝撃を受け、噛み締めた歯の奥から重い排気を漏らしつつ跳ね返り着地――片膝をついた状態で顔を上げるものの、疲労と衝撃との調和に耐え切れずそのまま仰向けに倒れた。

 それを見届けてから、ようやく追撃を想定していた暁は居合いの体勢を解く。八月の空気は戦闘によって更に熱せられ、ふうと一息を吐いた途端に戦闘中にはなかった汗が額に流れるのを感じた。左手を刀の柄に置き、右手を腰に。顔にはやはり苦笑を滲ませて、通算で三十二度目となった涼との手合わせをこれにて終了とする。


「まあ、しばらくそうしてろッて」


 言うと涼はどうにか右手を軽く上げて諒解の合図とした。まだ言葉を口にするのは辛いのだろう、暁は腰の模擬刀を抜いて道場の壁に置くと庭に出て縁石に腰を下ろす。時刻はおよそ十六時くらいだろうか、ようやく日差しが弱まってきて涼しくなってくる時間帯だ。

 一時間――は、さすがに涼を侮り過ぎか。幾度となく刃を交えているとはいえ、自分も涼もまだ若く一日足らずで大きな進歩をする。刃を入れていない模擬刀で、切断をしないための手加減をし、〝貫〟と呼ばれる攻撃を与えた――万全に戻るのに時間は必要だが、歩いて話せる程度ならすぐにでも回復するだろう。

 雨天流には基本攻撃の種類にぼうとおしぬきつつみの四つを身につける。外部破壊を前提とする一般的な攻撃の暴、衝撃そのものを障害物の向こう側へと伝える徹、最初に衝撃だけを伝えて同時に暴の力も与える貫、そして衝撃を対象物の中心に押し留め爆発させる包。

 居合いの一振りでも最低でこの四種類を暁は自在に操る。もし最後に暴での居合いを放っていたのならば道場の壁が抜けていただろうし、徹を使うと攻撃として成立しない。否、成立させようにも――徹は衝撃を一点に与えるため、涼の肉体の一部に負荷がかかる。包など使ったら涼は攻撃の瞬間に身動きができず、その後に内臓関係を相当にやられただろう。

 だからこその貫。二つの衝撃というと酷く強いように思えるが、逆に考えれば二つに分散される。躰を貫く衝撃と、暴による外部破壊の衝撃――。

「目に見えて手加減すると怒るし、俺もやりたかねェし」

 あいつなら、どうするか。蒼凰そうおう蓮華れんかなら。

「……」

 そう考えたのならば、苦笑どころか顔がしかめられ、忸怩を噛みしめることとなる。

 そもそも、あいつには攻撃があたらない。仮に中ってとしても、どの攻撃でも焦点をずらされ往なされる。何度、幾度、たった一度の戦闘から想定して仮想戦闘を構築しても――どうやっても蒼凰蓮華へと到達することができない。

 それがどうしようもなく、暁を楽しませる。猫の集まりの中にいる虎のようで――自分が猫に思えることが、どうしようもなく楽しい。虎が一匹混ざりこんでいるのに危機感を覚えないのが――楽しい。

 だが、当人を前にしないからこその楽しみだ。試行錯誤の楽しみ。

「浮き足立ってると思うか?」

 そこにいるはずの存在に語りかける。それが当然で、人ではない暁の相棒のたどたどしい返答を聞くと、苦笑が深くなるのを実感してしまう。

「ああ、いや、べつにいいッて。だからそーじゃ……ああもう泣くな。相変わらず後ろ向きだなァ。おい涙眼るいがん、茶の用意をしてくれ。涼のぶんもな。そしたら怯娘きょうこと一緒にいろ、今日はもうお前に頼る戦闘しねェつもりだから」

 傍から去る気配が湿度を持っていく。空を見上げれば青に白の積乱雲。空を切り取るのは難しいが、絵心のない暁でも夏の空は描きたくもなる。好悪で判断するのならば、今にも降りそうな闇を運ぶ雨雲の景色が一番好きなのだけれど。

 雨天家の庭には緑が少ない。母屋と道場、それと門とを繋ぐ石畳以外のほとんどは砂利が敷き詰められ、暁が今座っている石は庭池を構築する少し大きめのものだ。こちらにはせんだんの木が植えられており、道場の反対側の場所には梅が植えられ、母屋の裏には枇杷びわがある。芝もなければ雑草もない、平屋の庭としては少しばかり簡素にも思える。

 住み心地は悪くない。夏場も適度に打ち水をすれば体感温度が下がるし、平屋も戸を開けば裏から表まで一直線に風が流れるため涼しく住み易い。ただし今は暁と祖父しかいないため、いささか広すぎると感じるけれど。

 ――まあ涙眼るいがん百眼ひゃくがん様もいるから不便はないしなァ。

 人気もないが不浄の気もない。神社が神域であるのと同様に、武術家の宅は〝居を構える〟という行為そのものが浄化の役目をする。故に、雨天という武術家は野雨のざめ市という範囲を浄化――とまではいかずとも、管理しなくてはならない。その役目はまだ師範である祖父の役目で、否応なく自分に回ってきそうなものだけれど。

 それはそれで一人前と認められるような気がして悪くはない――か。

 道場の出入り口に茶が置かれたのを見つけて腰を上げる。僅かな香りから好んで貰ってくる農村部の懇意にしている家の新茶であることに気付いた。七月の上旬には全般的に採れる茶葉で今年は少し遅れていたと聞いていたが、そうか採れたのか。

 ――もっとも、美味い不味いが年によって変わったりするんだよなァ。

 それがまた面白く、不味いといっても飲めない茶ではない辺りが良い。

 さて今年の具合はどうかと、湯気を立ち昇らせる湯飲みを手に取って一口――なるほど、熱くてこれ以上は少し待たなくては飲めないが、今年は当たり年だ。あのクソ爺も面倒臭がらずちゃんと手土産を持って行ったらしい。このたまらなく舌を刺激する苦味がお茶らしさを演出し、熱さが疲労を洗い流してくれる。

「良い。こりゃふみの一つも送っておかなくッちゃな。おい涼、いつまで寝てやがンだ」

「……これは、これで、辛いのだが」

 体調不良の意味ではなく、きっちりと言葉を区切って強くこちらに伝えてくる声からは疲労は見えるけれど、しかし残るような負傷はないようだ。

「もっとも加減されたぶんは回復も早い」

「お、もちッと強くても良かったか? お前の成長まで管理してねェし、誤って殺したらどうするよ」

「否だ。うちの師範なら明日まで身動きできんところだ」

 ああと暁は肯定する。それは雨天うちのクソ爺も同一だ。

「そら、新茶だ。良い味が出てるぜ」

「いただこう」美味いと感想を漏らし右側に小太刀二本を置き、「――しかし此度の呼び出しは手合わせではないな。何か用件があるのだろう?」

「急くなッて」

「急いてはいない、心配は無用だ。何故なら俺は疲労していないからだ」

 ああ叩き方が悪かったのかと思う。どうせなら水平ではなく竹割か袈裟で斬れば良かった。今度は貫じゃなく包でも放ってやろう。でも居合い限定だと加減が難しかったりするんだよなあ。

 あらゆる武器を扱える暁は、涼の前では居合い以外の技術を見せたことはない。それを涼は正しく、つまり居合いで充分であると捉えている。実際に暁も、別の武器に持ち変える必要性を感じていない。

 ――まァ、俺が単純に居合いが好きッてだけだが。

 誤解が涼の向上心に火を点けるのなら、黙っているのが一番良い。

「暁」

「おお、用件だったッけか。相談ッつーか、仕事ッつーか……まあいいや。三日前のことだけどな」

 そうして暁は説明をする。三重県に居を構える都鳥家はおそらく事情を知らぬだろうし、知っていても師範だけで涼にまでは伝わっていないだろう。そうした意味も込め、四件も連続して妖魔の討伐に足を運んだ辺りから話を始めた。説明と意気込むとちぐはぐになってしまうので、起きた事象を時系列順に並べるだけを心がけ、涼は空白部を推察しつつ口を挟んで埋めていく。

 付き合いがそれなりに長いだけあって、どうにか伝わったようだった。

「ふむ。蒼凰蓮華か。……寡聞かぶんにはしていない」

「おゥ、俺もだぜ。調べようかとも思ったが、どうもな。あいつ身分を隠してるッつーか自分が一般人の範疇でいることに拘ってるッての? そういう感じがしたから、あんま大っぴらに公言すンなよ」

「諒解したが暁、いいか? 公言には大っぴらに話すという意味が既に含まれている」

「……るせェな。駄目出しすンな」

「しかし解せんな。察するに蒼凰とやらは一般人なのだろう?」

「ああ。武術家じゃねェのは確かだぜ。でもなァ、こう、中らねェンだ」

「どういう類のものか。――たとえば師範に一撃を中てるのは難しい」

「そういう類じゃあねェなァ」

 何度行ったところで、どれほどの成長をしたところで、決して中らないのだという確信すら抱けるこの感覚を、さて、どうやって伝えたものか。

「そうだなァ、鍛錬中に、こう、宣言するだろ。あれをやるからッて」

「む……? ああ師範との鍛錬か。受けてみろ、と前置される場合が多いな」

「まァ――たとえば、今から居合うと宣言したとしよう。で、こいつを避けようと思った場合、じゃァどう斬るのかと問うわな。すると袈裟だと答えがあったとするぜ。じゃあてめェ避けれるかッて話ンなると」

「まるで違う話だ。相手が何をどう宣言し、その通りの行為に至ったところで、情報が多ければ回避できるものではあるまい」

「そうそう、俺もそう思うぜ。あのクソ爺なんか避けたと思ったら中ってるなんて場面が結構あって嫌ンなる。――ええと、だから、そういうことだ。避けられたンだから」

「どういうことだ」

「感覚的に掴んでくれよ。こう、居合うだろ? するッてェと――ああ、そうか、あいつ居合いの外にいるのか」

「――外?」

「おゥ。よくわかンねェッてか説明できねェけど、中らないンだ。避けられるンじゃねェ」

「つまり」

 言ってからしばし沈黙を置き、涼は瞑目してから口を開く。

「居合いをやると宣言されただけでは避けられない。だが、では、動じずその場にて居合いを放てば――そもそも間合いの外にあるこちら側には中るはずもないと、そういうことか?」

「おー、そんな感じだ。まァ実際にゃ逆で、こっちが居合う立場にあるんだけどさ」

「それで一般人か……?」

 納得はできなかったし、理解も及ばなかったが、そういうことにしておこうと涼は疑問を一先ず横へ置き、湯飲みを傾ける。

「して、八月十四日は空けたのか」

「あー、クソじじいに一応伝えたンだけどな、これがまた妙な反応を寄越しやがった」

 続きを促されたため、暁はつい先日に行った会話の内容を思い出しつつ、それを話す。別に難しい話でもない、ただのやり取りなのだが――。


「おゥ、クソ爺。ちょっといいかよ」

「あァ?」

「俺が五木いつきの事情に立ち入るッてェのは、不味いだろ?」

「へェ」

 老人は、どこか納得したように皺だらけの手で顎を撫でた。

 見て取れる納得の気配に、あいつを知っているのかと問おうとも思ったが、問えば自分が名乗ったことすら芋蔓いもづる式に気付かれてしまうのは、まずい。

「どっちだよゥ」

「――は?」

「あのなァ暁、五木とのやくは俺のモンだ。おめェが、立ち入りてェと思ってンなら、好きにすりゃァいい。嫌なら止めろ、そンだけの話じゃねェかよゥ」

「そりゃ……」

「いつだ?」

「十四日の夜だ」

 言えば、先ほどと同じように、へェと、短く言って目を細めた。

「――いいだろう。こっちは気にするな」

「気にするなッて、確かあれだろ、都鳥の大将と遊ぶとか言ってなかったか?」

「ンなもん、暁が気にするこたァねェよゥ。だが一つだけ答えろ。てめェ、勝ったのか、負けたのか?」

「……負けた」

「ならいい」


「ッて、よくはねェだろ。なあ?」

 などという会話があって許可が得られたとのことを伝えると、やはりというべきか、涼は眉根に皺を寄せて小さく唸った。暁としてはべつに困らせるつもりで言ったのではないのだが。

 ――まあ、困惑もすらァな。

 何しろ、よくわからないのだから。

「わからんな。……これも横に置いておくべきか。いやしかし」

 置くのは良いが、どんどん積み重なって行くだけに思えた涼は、首を振ってその考えを払う。

「詳しくはいらん。暁は五木の〝事情〟を知っているんだな?」

「全部が全部とは言わねェけど、ある程度はな」

「――行くのか」

「……」

 あの時、あの瞬間の感情をどう表現すべきかは迷うところであるし、おそらく説明はできない。

 だが――それでも、暁は。

「行くと、俺ァ決めた」

「そうか。しかし、ならばこそ、何をしようとしているのか――そこを考察しておきたい。その男は、野雨と蒼狐の境界線上に来いと言ったわけだな?」

「まァな」

 武術家にとっての愛知県蒼狐市は、ある意味で特殊な場所とされている。同時に四森とも呼ばれる修練場でもあり、あそこの空気を知らぬ武術家は存在しない。四つある森のどこまで立ち入ったかは、その人物の実力を示す記号にもなり、躍起になる武術家も少なくはない。

 始森しもりから屍森しもりへと繋ぎ嗣森しもり。そして最後には至森しもりとなる。此れを即ち四森と謳う。

 始まりの森は下位妖魔が集まっており、しかばねの森に行けば戦術が必要になる。嗣森にまで足を踏み入れれば退路はなく、一歩を踏み出すのに〝意識〟が必要なほどの妖魔が集まり、それ故の瘴気しょうきが酷く濃い。至森はその最たる場として在り、ともすれば第一位の妖魔がいる可能性だとてある。

 であればこそ、修練場だ。

「それ故に、夜間である以上は俺たち武術家が蒼狐市と呼ばれる場所に足を踏み入れることはできまい」

「だな。日中はともかくも……ま、仕掛けがどうなってンのかは知らねェけど」

蒼狐そうこは、五木いつき

「おゥ――五木ンとこのしのぶはあれだな、同級生だっけか。まァ二度ほどツラ合わせたこともあるけどな」

「俺も二度ほど、な」

 あまりよく覚えていなかったので、そうかと、小さく呟いた涼はお茶を飲む。

 昨日の今日どころか、今日の明日。

 涼もまた、すぐにでも行動を決めなくてはならないと、そう思った。


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