08/10/21:00――雨と青

 追いかけているのか、追い詰めているのか、わからなくなっている。

 四足が大地を蹴る。地上を疾走する獣のたてがみは風の抵抗を考えて背後へ流れ、躰を構成する角錐かくすい突起とっきもまた疾走時には背後へ倒れて風を流す。

 夜の闇の中、赤色の瞳だけが二つ、軌跡を描いて獣の移動を表現していた。

 ふらりと一千年ぶりに出た街は固く、かつてとは疾走感がまるで違う。アスファルトは蹴る力を十二分に反射し加速を増長させ、人を捕食することがこれほどまでに容易よういになっていた事実に、飢えを堪え切れなかったのがいけなかった。

 今、最初の捕食者を追っている――最期の捕食者に追い詰められている。

 どちらかわからない。わからないが、それでも自分は逃げていないと思う。ただし相手も逃げていないように思えて仕方がない。

 だが、見えた。

 色彩は温度と濃度によって作られ、赤い瞳は待ち構える男を発見する。袴装束に刀を一振り腰にき、上半身を捻りながらも視線だけはこちらを捉えて離さない――その足元に青色の術式紋様が展開していた。

 陰陽師かと、思った。

 かつてはその術により捕らえられ、操られ、殺されたものだがしかし。

 武術家だと彼は答える。――お前を祓う者であると、存在それ自体が証明していた。

 待ち構えているのがわかっていて、愚直にも正面から挑むわけにはいかない――獣は考える。ほんの数秒、あるいは一秒にも満たないその時間でその選択を得た。

 飛んだ――のである。否、それは跳んだのだ。四足でアスファルトを蹴り、上空を越えて後ろに回れば良いのだと判断した。


 上空を通過する。

 時間が停止する。

 ――シンと、僅かな鍔鳴つばなりをそこに発生させて、吐息。


「なんだかな」


 まだ少年の風貌を残す雨天うてんあかつきは、構えを解いて頭を掻く――上空で真っ二つに分断されて死した獣が塵になって消えて行く様子を見送りもせずに。

 右手を右側に佩いた刀の柄の先端に置き、左手は細くやや尖った顎を撫でる。僅かに落とした視線はしかし左右に動き、周囲に妖魔の気配がないことを確認しつつも、眉根には皺が寄っていた。

 なんだかな、だ。

 来年の二月には元服を迎えて一人前になる暁にとって、既に妖魔の討伐は習慣のように身についている。妖怪あやかし魑魅魍魎ちみもうりょう、人に害なす見えぬ災いを断つことに判断を過つことなどそうない上、たかだか第四位の妖魔が山から降りて来たところで囲いを作って人知れず討伐することなど容易たやすい。

 そのための、武術家なのだから当然だ。これが一般人では攻撃を与えることすら難しいだろうが。

 ――これが、今日だけで四件目のことでなけりゃなァ。

 妖魔の討伐は武術家かそれに準ずる者の役目だ。人に害成すのならば討伐を、山に篭るだけならば静観を、そうやってバランスを取っている。特に大型の妖魔ならば出張もありえるが、近くに発生したのならば一応の断りを入れて発見した武術家が討伐をする――そこに金銭のやり取りもまたあるが、それにしても。

 ここ、愛知県野雨のざめ市を根城にしている雨天家の次期継承者である暁が、立て続けに四件もの妖魔に遭遇することが既に珍しい。

 ――野雨の治安は悪くねェはずだがな。

 そもそも雨天家が存在している以上、野雨の治安が悪いはずがない――曰く、雨天家とはそういう家名だ。

 武術家が扱う呪術式の中には、妖魔の侵入を阻む結界の類もあるし、暁もそれなりに扱える。野雨市全土ともなれば広範囲だが、できなくはない――けれど、それはつまり、野雨以外の場所に妖魔を押し付ける結果にもなるし、どうしようもなく周辺には〝歪み〟が出てしまうものだ。

 さすがに、歪みそのものを出さない結界ともなると、まだ使えない代物だ。厳密には、使えないというより、術として発想もない、が正しい。

 空を見上げれば小雨が降っている。もう八月の頭、熱気を散らすには心地よい程度の水であり、そもそも暁は雨を好む。

「……まァ盂蘭盆うらぼんッてのも原因かもしれねェか」

 お盆は此岸しがんと彼岸の境界線が曖昧になる時期でもあり、また妖魔が活性化する時期でもある。第四位、下位に属する妖魔ならば当てられて騒ぎ出すのもわからなくもない――けれど、それでも四件連続はありえない。

 人為的な何かがそこに加わっているとしか思わずにはいられなかった。

 だから。

「よォ、見てンだろ?」

 気配はなく、視線を感じたわけでもない。相手が隠れているのか、隠密行動に徹しているのかもわからないが――ただ、間違いなく近くにいるのだという直感が暁の口にそんな言葉を放たせていた。

「目的は知らねェけどな、そろそろツラ見せたらどうだ。妖魔はもう近くにいねェし、危険ッてこたァねェだろ」

 そもそも、この危険を演出している当人ならば、それこそ危機の範疇にもならないのだが。

 どうだと暁は問うた。いつまでこそこそしているのかと――顔を出すのができないほど臆病なのかと、言外に伝える。

 ――待てよ?

 今、人払いの結界を張っている最中だ。妖魔は世間に知らせるものではなく、隠すものであるため――また被害を増やさぬよう、囲いを作ったのは暁だ。基本的には自分たち武術家しか入り込めない結界の中で出てこいとは、これ如何に。

 ――相手が武術家とは限らない……か?

 誰もいない場所で問うても己が間抜けになるだけだ。もうなっているかもしれないがともかく、右手を軽く上げて結界を解こうとした刹那に、それは見えた。

 まるで宙に浮いているように、小さな白い掌が己の手首を掴んでいたのだ。

「……――!」

 驚いたのは手を振り払い大きく後退し、柄に手を当てて居合いの体勢を取ってからのことだ。感情を表現するよりも早く躰が動かなければ、暁は過去に死んでいる。そういう修羅場を潜ってきた。

「お……よォ、いいかよ」

 振り払われた掌を見て、その手を軽く上げて挨拶とするは暁よりも小柄な少年だ。このご時勢に袴装束の暁も暁だが、この少年に至っては青色の中国服を着こなしており、薄っすらと染められた髪は黒と青が混ざっており、前髪の一房だけは白色を入れている。しかも、更には頭の右側に金銀の装飾がついた髪飾りがあり、あまりにも浮きすぎていた。

「いいから囲いを解くなよ。そうしちまうと、まァ面倒なのよな、これが」

 馴れ馴れしくも声をかけてくる手合いには慣れている。見たところ年齢もそう変わらない辺りに少しの驚きはあるものの、むしろ。

 ――なんだこいつァ。

 ようやく姿を見せた、視界に捉えたというのに曖昧で掴みどころがない。存在感がない、存在が希薄とでも云えばいいのだろうか、確実に捉えているのにも関わらず焦点が合わないような錯覚に陥る。

 幻影のようだと暁は思う。だが、実体はここに在るのだと直感が告げた。

 ――外れる直感はただの勘。直感は外れねェ。

 それは師範の言葉であり、暁も認める事実である。だから。

「てめェは誰だ」

 誰何すいかする。警戒と敵意を込めたそれを、しかし。

「お前ェは武術家よな」

 雨が降っているのに、鼻先がちりちりと熱を持つ。既に親指は鍔を押し上げており、何をされようとも抜刀できる状態にありながらも、冷静な部分がそれを抑制している。

 だが、乗せた殺意を相手は、あっさりと受け流していた。

「だろ? そうだよなァ」

 八歩の距離を置いて、少年はにやにやと笑っている。空から降る雨をいといもせずに。

「ははッ、いいねェ――この距離を置いてなお、よーッく俺を捉えてやがる。得物も持たねェ、戦意も示さねェ、戦闘ッて意味合いなら充分に一般人の俺に対し、どうしたッて今にも斬りかからんばかりの態度を続けていやがる。名乗れよ武術家」

 ちりんと、少年の躰が揺れて髪飾りが音を立てる。

「雨天あかつき――」

「違うだろうがよ」

 わらいながら、少年は否定する。

「まさかお前ェ、その名乗りで済むとでも思ってンのかよ?」

 楽しそうに、愉しそうに、あるいは嬉しそうに。

 暁の冷や汗を見透かしたように、少年は笑う。

「それとも――マジでやんなきゃわかんねェンなら、相当な節穴だ」

 一歩、右足を踏み出され、思わず息を呑む。その無意識での行動を理解した瞬間、暁の躰が余計に冷えた。だが否だ、それは寒さではない。

 集中である。

蒼凰そうおう蓮華れんかだ」

 相手が名乗り、そして、二歩目が踏み出されるよりも早く、本能的にそれを口にする。


「雨天■■■■あかつき――」


 誰がどうとか、そんな意識はなかった。ただ先手を取るように暁は居合う――が、それでも刀を抜いた瞬間、避けきれないと気付いたからこそ、暁は寸止めにしたのだ。そのくらいのこと、わからずして何が武術家か。


「へェ……」


 ぴたりと停止した刀の内側から声が聞こえた。

 その瞬間だけを切り抜いたかのような場面、刀の〝背〟を蓮華の指が軽く撫でる。

 ――ああ、まるで、蓮華だけが動ける時間のような。

「なるほどねェ、こいつァあの野郎にゃ創れねェよなァ」

「――ッ」

 そこまで言われてようやく、刀を納めながら距離を取った。警戒した追撃はなく、何かを考えるよう蓮華は腕を組んでいる――。

「銘は五月雨さみだれ、雨天家にある得物の中じゃァお前ェしか使えねェ異端の刀かよ。俺の知り合いの作り手が笑うわけだ。――けどよ」

 組んだ腕を外せば、またにやにやとした笑み。

「寸止めたァ、随分と舐めてくれるじゃねェかよ」

 張り詰めた空気は、やはり蓮華の一歩で焼け付くような状況を作り出す。刀を持つ左手が汗ばんでいることに気付いている暁は、もう、雨を心地よいなどとは思わない――。

 先ほどの居合い、最高速度だったかと問われれば否だ。けれど、それは言い訳に過ぎないし――何よりあのタイミング、あの一瞬、たとえば蓮華が一度回避して内側に入り込んだという、明らかな状況を、暁は否定できる。

 不可能だ。

 仮に、刀から抜き放たれる瞬間から間合いを外していたら、気付いて詰めるのが武術家である。当たると思ったのが抜く前であったところで、そんな矛盾など気にならないくらいの鍛錬は積んでいた。

 小難しい思考は捨てて、直感に身を委ねれば――蓮華は。

 最初から刀の背の側に居た、そう思う。

「つッてもまァ、殺し合いがしたいわけじゃァねェけどよ――お前ェの行動はきっちり〝雨天〟になってンのかッて、そういう話よな」

「……」

 吐息が一つ、暁の口から足元に落ちる。その上で軽く目を閉じ、気構えをした。

 武術家同士ならばともかくも、こうした対人戦闘の経験が暁にはほとんどない。だがそんなもの、なんの言い訳になろうか。

 蓮華が一歩を出したタイミングで、機先を狙う。余裕綽綽よゆうしゃくしゃくといったていの相手に対してそれなりに屈辱を感じていたのだろう、選択は竹割り――先ほど妖魔を二つにしたのと同一の軌跡。ただし頭は危険であるため肩を狙う。

 左足が踏み込み、最高の間合いに入る――居合う。

 空を、斬る。

 文字通りの斬断である。

 普通、たとえば剣道家が真剣を持ち鋭すぎる居合いを放った場面を見ることは少ないが、それでも彼ら武術家から言わせれば、一般社会において、その居合いは極限のものであろう。切っ先を目で追うことが敵わず、人の耳では風切り音がどうにか聞こえる程度で結果を目の当たりにするだろうけれど、それでも――暁なら、ただそれだけだと言うはずだ。

 そこにある空気を斬断する現実を目の当たりにした時、彼らはどのような反応をするだろうか――まずは耳鳴り。一振りにて気圧を変化させ、続いて斬断による衝撃波を正面から真に受け、左右に流れる空気に躰が引き裂かれる想いを実感するだろう。

 だから、つまり。


 ――避けられた!?


 居合いの放たれるタイミングもさることながら、回避のタイミングはそれを越えた。先に避けようと思ったのならば、暁はその回避運動に対応して当てることができる。逆に、後に避けようとすれば間に合わず当たる。

 その狭間を、隙間を、縫うようにして少年は回避をしてみせた。

 同じだ。

 先ほど同じ――いつの間にか、軌跡の外側にいる。

 居合いの勝敗は鞘中に在りて放たれた後に勝敗を求まず。

 だからこそ、故に、放たれる前から〝あたらない〟という結果が出ていた――ということだろうか。

 鍔鳴り、ほぼ同時に放たれる二撃目は逆袈裟に加え、三度の水平も重ねるが、まるでこの場にいる人物そのものが〝虚像〟であるかのような感覚。


 ――コイツ……!


 腰の捻りから放たれる居合いに曇りなく、滑らか過ぎる動作にぞっとするほどの美しさを備えるは、暁がどれほど回数をこなしてきたのか想像しただけで寒くなる違和感のなさ。放たれるは右袈裟、左袈裟、竹割を中心に自在。いつ抜かれていつ戻ったのか、瞬きよりも短い間にそれを行う暁は、とうに師範代を名乗れるだけの技術を身につけている。

 重心の移動や足捌き、攻撃の一手に至るまでもなく少年は素人そのもので、素人を装っているのではないことは一つ目の居合いで既に発露している。

 なのに――何故だ。

 どうしてこうまで、全てと云う総てを、その悉くが中っていないのか――。

 六度に至るよりも前に、大きく距離を取った。その選択に間違いはない――と、思う。


 悠悠ゆうゆうと、相手は、煙草に火を点けていた。


「当たらない一発を確認したンなら、百発やったッて当たりゃしねェだろうがよ」

「……やってみなきゃァ」

「わかんねェ? ――冗談だろ、お前ェがそンなこたァ一番わかってンじゃねェのかよ」

 ああそうとも、わかっている。

 当たる、当たらない、これはそんな話ではない。

 ――届かないのだ。

「ま、だからッて、お前ェが本気になっても、俺ァ困るのよな、これが」

「何がしてェンだ、お前は」

「ン? じゃァこんくれェにしとくかよ。どっちだッて変わりゃしねェが――まァ、刀ッて制限がある以上は、そんなもんかよ」

 刀が、制限になる。

 それこそが雨天流武術の〝核心〟であるのに、紫煙を吐き出しながら、この青色はあっさりと言い放つ。

 つまり。

 こいつは最初から〝雨天〟を知っている――。

「暁――」

 戦闘の気配は遠くなった。だが、自然体に戻りながらも、暁は普段のよう刀の柄尻つかじりに左手を置くことをしない。何故なら、徹頭徹尾、最初から今まで、蓮華の態度が一貫して、その気配すらも、一切変わっていないからだ。

「お前ェ、次に五木いつきが何をするか、知ってるかよ」

「五木――?」

「まァ、知ってても知らなくても、関係のねェ話だけどよ。同い年がいるッてくれェは知ってンだろうよ――ああ、事情を訊きたいわけじゃねェ」

 だったら、どうしてそんな問いをした?

 そもそもこれは、会話として成り立っているのか――?


「――クソッタレな事情なら俺が潰すぜ」


「――、おい……」

「止めるかよ暁、それともお前ェは望むか?」

「そいつァしのぶが決めることだ」

「だったら決めた後は、俺の勝手だよな」

 言外に、お前らの事情なんて知ったことじゃないと、そう伝えられる。けれど、その言葉を信じるのならば。

「決めた後――か」

「何をしてるか知らねェが、見極めも見届けも必要だろうがよ。こっちの事情を通すンだ、先にあっちの事情を通させるのが、最低限の筋ッてもんだぜ?」

「知らねェのに、潰せるのか」

「へェ……興味があるッてか? 残念ながら観客席は用意できねェよ」

「期待しちゃいねェ」

「――だが、控えのベンチは空いたままだ」

「……?」

「俺は知らねェよ? けど、知ってるお前ェはどうよ暁――」

 意地悪く、喉の奥で蓮華がわらった。


「武術家でもねェ俺が、そいつを、やっちまってもいいのかよ?」


 その言葉に、暁は。


「興味があるなら、十四日の二十三時頃、野雨のざめ蒼狐そうこの境界に来いよ、暁。同世代だ、遊ぼうぜ」


 ――そうして。

 返答ができないまま、気付けば一人、雨の中。

 まるで狐に抓まれたような感情を持て余しながら、ふうと落とした吐息は、未だ熱気を保ったまま。

 仰いだ空は、月も見えず、暗かった。


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