野雨市

08/09/17:30――青色と武術家


 ――そうして。

 時間はやや、巻き戻る――。


 その青色にとって、昔から〝それ〟は傍にあるものであり、否応なく目の前に突き付けられる現実であった。

 人が選択肢を意識するのは、一体どのような時だろうか。

 往往にして突き付けられた場面において意識するのは当然としても、多くのものから取捨選択したところで、それを岐路と認識したのならば、大抵の状況では二つではないだろうか。

 ほかの選択肢も、ある。

 提示された選択肢の二つ以外にもあるが、自身の意識や状況そのものが、絞った二つだけを目の前に提示する。それすらも、刻むようにして手にある選択を見たのならば。

 ――選ぶか否か。

 そんな選択じみた、二択に似た、どうしようもないほど削ぎ落とした〝結果〟であるのが、選択と呼ばれるものだ。

 けれど意識したのならば、選択肢など、どこにでも転がっている。家から出る際に右足からか、左足からか――そんな些細なものから始めれば、一日がいやに長く感じられることだろう。だがそれは、人の可能性が無数にあることの証左でもある。

 ずっと、青色はそれを見せられていた。

 〝意識〟できたのはいつだろう、少なくとも父親がいなかったのだから、亡くなってからのことだろうし、そもそも意識せずとも近くにあったのは間違いなく、けれど混乱したのは事実で。

 可能性があった。

 人が取りうるだろう行動の選択から、気象条件まであらゆる可能性を考慮する。いや、考えてはいない――青色自身が考えるのではなく、ただ、その無数の選択肢を見せられ、その結果すらも投影され、それを見るだけの装置になってしまっていたのだ。

 最初の後悔は、その可能性を辿ったこと。

 おおよそ五年ほどの可能性を、つまり無数の選択肢の中から一つずつ選び続けて五年の時間を想定したのは、ほんの五秒にも満たぬ時間。その速度はどうであれ、悔いたのは、どういうわけか可能性を辿った五年の〝経験〟が自身に蓄積されたことだ。

 幸運なのは、可能性通りの現実にはならなかったことだが、それでも、あるいは歩んだであろう己の人生を五年、先取りしたようなものだ。周囲にいる同級生よりも、肉体的にはともかくも、五年分は上級生になってしまったようで、態度に困ることもあった。


「そこからだよ、俺がこいつをちゃんと把握しようとしたッてのが」


 青色の中国服を身につけた、まだ若い少年とも呼ぶべき彼は、左手に持った湯呑を一旦置いた。対面にいるのは袴装束を身につけた老人であり、その右側にある一振りの刀が本物であることは疑う余地もなく、二人しかいない道場には声が響くような静けさがあるにせよ、未だに残っている熱気の残り香が、ほんの数分前まで相応ふさわしい何かが行われていたことは確かだ。

 しかし、休憩を入れたと想像したところで、付き合いの長さゆえか、切り替えの上手さか、二人の間には既に縁側で茶を飲む間柄のような落ち着いた雰囲気があり、闘争の余韻すらない。だからといって、余韻を残さぬほど力量に差があるかと云えば否、そうでなくては熱気など残りはしない。

 ただし不釣り合いであることは、確かか。それはお互いの服装が和と中に別れていることもさることながら、血縁関係のなさは類似性を否定し、ただ一つ、落ち着きようだけが共通しているのだから、年齢を加味すれば自然と釣り合いなど否定されよう。

「で、お前さんは把握できたのかよゥ」

 白髪であり、皺が目立つ風貌でありながらも、生きることを体現している眼光を見せる老人は、まるで人生相談を受けているようだと思いながらも先を促した。

「そりゃお前ェよ、早早に把握なんぞできるかッてンだよ、おい。まァそれでも、わかるこたァある」

「たとえば」

「そうだなァ……こいつが〝機能〟であって、俺とは関係なしに〝続ける〟ッてことと――どうやら、こいつが動いている限り、俺が死ぬこたァねェと、そういうことなのよな、これが。参る話だよ」

「へェ――」

 そうかいと頷いた直後、刀の切っ先は目の前にあった。


「たとえばよ」


 刀とは、中ほどから切っ先にかけてが間合いの基本である。先端が目の前にあるということは、刀は外れたのであり、上半身を仰向けに倒した少年は、それを避けた、それが現実だ。たとえここで、一踏みすれば突ける、などという考慮は必要ない。

「お前ェが刀を抜いた一瞬、俺は捉え切れていねェよ。見抜けるわけがねェ。でだ、実際にその瞬間までは俺の〝想定外〟よ」

「可能性はあったンだろうがよゥ」

「なにかも見てちゃァ何もできやしねェよ。今の俺だって何もしちゃァいねェ――半ば自動的に、〝俺が気付いて避けた可能性〟ッてやつを、現在にしちまったわけよな。俺がここでくたばる〝現実〟を否定したッてことだよ、クソッタレな話だけどな」

「その現実ッてやつに、俺も含まれるンじゃねェのか?」

 ゆっくり、刀を鞘に戻した老人は、改めて座りなおす。それを見て青色も煙草に火を点け、一息。

「俺の在り様に関して、本質に気付いたのはそこだよ」

「ほう、そりゃァどういうことだ」

「てめェの可能性を手繰った俺は、まァ失敗したからよ、だったら他人の可能性ッてのはどうだ――と、当時は軽く考えててなァ。見るくらいならどうッてことねェだろうと、可能性を追って、行き止まりに当たってよ」

「あァ、そりゃァ止まるだろうよゥ」

 何故ならば。

「どうしたッて人は死ぬじゃねェか」

「そうなんだよなァ……最初はわかんなくッて、ンな当たり前のことを忘れちまッてたンだよ。だが結局、俺の本質はそこなんだよ。人はいつか死ぬ――ならば」

 嫌嫌だと、心底唾棄すべき結論だと顔を歪ませながら、紫煙と共にその言の葉を絞り出す。


「ならば、今死んでもおかしくはねェ。それが〝可能性〟だよ」


 ともすれば極論と言われても反論を持てない言葉だったかもしれないが、少なくとも少年はそれこそが、自分の役目であると、その機能を持ったが故の責務であるとも、思っている。

 いるが。

 感情が否定する。

 だからこその嫌悪だ。

「俺ァ死神かなにかかよ、なァ?」

「いや――皮肉になっちまうけどよゥ、かつては〝葬謳そうおうの者〟と呼ばれてたなァ」

 一瞬、言葉を失った。

「そりゃァ……」

 それを隠すよう、間を取り戻すよう口を開くが、やはり続きは浮かばずに。

「……面倒なことだよな」

 そんな曖昧なことを言って、少年は頬を掻く。

「いつくらいよ」

「さァてなァ……千とも、万とも、よく覚えてねェよゥ」

「妖怪爺かよ、お前ェは。知ってるけどよ……まァ俺としちゃ、上手く使ってやるくれェの気でいるよ」

「おい、お前ェさん、ちょいと詮無いことを聞くが……一人をけりゃァ残りの住人が死ぬなんてのは、よく聞く話じゃねェか。可能性としちゃ、お前ェさんはどうなんだよゥ」

「許容したくはねェよ、犠牲なんて言葉はクソッタレだ。感情で言えば全否定、そうなる前に――そうならねェようにするのが本筋じゃねェのかよと、まァそうなるわけだが、俺が助けてェ一人がいたなら、俺が俺であるために、そいつを助けるよ」

 大勢を捨てるのは結果論。

 ただ、たとえばその一人が身内ならば、それ以外を少年は捨てる。

「けどな雨の」

 仮定の話だとはわかっているがと、少年は、雨のと老人の名を呼び、苦笑する。

「その上で、俺は言うよ。てめェら、十人揃えて各自で一人を助けろッてな。それこそ、可能性の話だろ?」

「行き詰まりのどん詰まり、何もかも可能性がなくなっちまったら?」

「そン時は、俺がいらねェッてことよな、これが」

「なるほどなァ、ちゃァんと考えているじゃねェかよゥ」

「お前ェな、俺をなんだと思ってンだよ」

「そりゃ若ェガキだろ、なァ? あっちこっちをふらふらと、遊び歩いているンじゃァ、落ち着きもねェ」

「そりゃしょうがねェよ。腰を落ち着けちまったら、経験も積めやしねェのよな、これが。俺ァお前ェの孫と同い年だぜ、雨の。成長期じゃねェか……せめて、存分に遊べと言えよ年輩者」

「それでもお前ェさんは、帰る場所くれェは作っておけよゥ」

「あー……それを言われると痛ェよなァ。だいたい帰る場所ッてのは、必要なのかよ?」

「……若ェなァ」

 だから若いンだよと言いながら、少年は煙草を消して湯呑に手を伸ばす。仕草のたびに金色の髪飾りが、ちりちりと高く美しい音を立てた。

「ああ、そういや延大人エンターレンからも似たようなことを言われたよな。ッたく年寄りッてのはどいつもこいつも似たモンか?」

「そいつが誰かは知らねェが、人生でたどり着く先なんてのは、そう多くはねェって話だろうがよゥ」

「夢のねェ話だ。まァ俺がバイトしてる料亭の店主だよ。ここ三年くれェ厄介になってンのよな、これが」

「邪険にしてるわけじゃねェぞ? 帰る場所もなけりゃァ、足が地につかねェと言ってるンだ」

「わかってるよ」

 だから少年は少年なりに、意識して歩く方向を決めてきた。周囲に流されることがあっても、それを自覚的に流れるようにしたし、あるいは逆らうこともあったけれど。

 今もまだ、帰る場所はない。

「親が頓死しちまったからなァ。今は兄貴夫婦の世話ンなってッけどよ、甘えるのは性分じゃねェ。寝に戻るくれェはするけどてめェの巣かと問われりゃ、そうでもねェのよな」

「心配かけてちゃァ世話はねェぞ、お前さん」

「そりゃねェよ。兄貴だって仕事で家に戻らねェし、姉貴もあれで仕事を持ってッからよ。俺のやってることなんぞお見通し――ッてわけじゃねェけど、心配はしてねェって」

 信頼されているのはわかっていて、もちろんそれなりに気遣いを受けているのも理解している。だからこそたまには顔を見せるが、必要以上に依存しない。されたくもない。

 かといって何かを返せるほど、少年は己が成長していないことを知っている。まだ発展途上、経験値を溜めている最中で、自分ができることを探しているのだ。

 ――そんなふうに、自覚していて、それを打ち明けている。

 小賢しいガキだなと自嘲も浮かべたくなるのは、今さらだ。

「隠れてるのかよゥ」

「そりゃお前ェ、それこそ俺の狙いだろうがよ。表立って動けば、それこそあっさりと封殺されちまう。お前ェ同様に、力を持つ人間は隠居に追いやられるのが日常じゃねェのかよ」

「違いねェ」

 老人は豪快に笑う。彼もまた、そんな少年の生い立ちや狙いを知っているからこそ、こうして口を出したくなるのだ。

「それに――難しいよ。俺が帰る場所なんて、欲しい欲しくねェはべつにして、あるのかどうかもわかりゃしねェのよな、これが」

「欲しくはねェのかよゥ」

「わかんねェよ。だいたい、帰る場所には必要なモンがあるだろうがよ」

「ほう」

「ただ家を持つだけじゃ、単なる避難小屋セーフハウスだ。それこそ寝泊りするだけの巣じゃねェかよ。だから――」

 そうだ。

 帰る場所には。

「――そこには、誰かがいなくっちゃいけねェのよなァ。俺以外の誰かが、居てくれなくっちゃァ帰れねェよ」

さかしいことを考えてやがるなァ」

「うるせェよ」

 だが、老人にとっては考えていないのではなかった事実だけで充分だった。

 お互いに鍛錬するだけの間柄ではない。老人に言わせれば、若者の拙速に苦言を呈したくなるものだし、それを素直に受け止めないのも若さの特権ではあるが、少年の場合は違う。もっとも、聞いた上での判断が、裏目になる〝可能性〟はあるけれど。

「じゃァ一人で身軽なお前ェさんに、一つ頼みがある」

「あァ? なんだよ雨の、俺に頼みたァ珍しいじゃねェかよ。とりあえず言ってみろ、どうせ面倒ごとだろうけどよ」

「頼み自体はそう難しいことじゃァねェ。八月十五日、ソウコシで起こることを見届けてくれりゃァ良い」

「見届け役が簡単だと抜かすンじゃねェよな? だいたい、起こることッて時点でもう面倒ごとだろうがよ」

「ははッ、手ェ出しても構わんぞ。俺ァ、やくによって干渉も立ち入りも禁じてるからよゥ、今回はちィと懸念もあって、現場見て報告を受け取りてェンだよ。まァあれだ、行くだけ行ってお前ェさん、何をやっても良いから――とりあえず行ってくれ」

「あー……」

 本当、簡単に言ってくれるが、それはもう少年の干渉が前提だ。何かが起きた時、それが気に入らなければ、必ず少年がどうにかする。そしておそらく、この老人は、少年が起こる何かに対し、気に入ることはないだろうと見越しているはず。

 言っていることはあれだが――何をやってでもいいから、行って好きにやって来いと、そういう意味合いにしか聞こえない。

「よォ雨の」

「なんだ」

 しばし、どの文句を言おうか悩むような時間を置き、そして。

「てめェ、今日が何日か言ってみろよ」

「八月の、……九日だな」

「――依頼ならもっと早く言えよ! それともあれか、俺の手回しがどの程度なのか見極めてェとでも言うンじゃねェだろうな?」

「おゥ、そりゃァ面白そうだ」

「面白がってンじゃねェよ、ッたく……確認するぜ? 表側の蒼狐そうこ市じゃねェ、五木いつきの領域ッて意味だよな?」

「もちろんだ」

「だったら尚更、俺じゃなくてお前ェら武術家の領分じゃねェかよ……」

「断るか?」

 にやにやと笑いながら老人が問いかければ、少年は悪だくみをするかのよう、実に嬉しそうな笑みを口元に浮かべる。

「いンや、引き受けたよ。ただし――俺が行く以上は、俺の仕切りだ。後になって文句を言うンなら、鏡に映ったてめェに言えよ?」

「楽しそうだなァ」

「何事に対しても、素直なンだよ、俺ァな」

 茶を飲み干した少年は立ち上がり、大きく伸びをしてから腰に手を当てた。

「ンじゃ、ちょっくら仕込みに走り回るかねェ――」


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