08/12/17:00――青色との対面

 帰路についた五木忍は、一人になった途端に大きな吐息を手元に落とした。

 明日の朝になれば、二ノ葉と舞枝為は稲森神社へと派遣されることになる。二人は重要な役目を担っているため、必ず寄越すようにと、強く念押しをされた。

 ――わかっている。

 同じ服装、同じ顔、同じ姿をしている稲森が扱う式神しきがみにそう言われても、忍には、はいと返事をするほかになく、強く拳を握ることすら許されていない。そうでなくてはならぬ理由もわかっているし、感情を度外視すれば、納得もしている。

 いや。

 納得できないと否定的な感情こそ、重要なのかもしれないし、それ自体を忍は抑え込んではいるものの、消してはいなかった。

 ああ――そうではない。

 消せないのだ。

 どれほどの理由があろうとも、納得しようとも、その感情だけは五木忍が直視しなくてはいけないものである。

「……」

 また、吐息が一つ。夕刻になって涼しさを感じながら帰宅した境内、傍の社務所に顔を見せたが誰もいなかったため、一度考えはしたものの、蓮華の様子を見るよりも鍛錬で気を改めようと、刀を手にしたまま道場へ赴いた。

 本来ならば、気持ちが揺れている状態で刀など持つなと言われて然るべきだが、既に五木家当主として、一透流いっとうりゅうを担う忍にとっては、逆に鍛錬をした方が良い。雑念など、刀に手をかければ一気に霧散する。

 道場の中、一度正座をして気を正してから、立ち上がった忍は左腰に佩いた刀を抜く。陽光を弾く刀身があらわになり、道場の中で誰もいない空間へと焦点を定めた。

 正眼。

 五木一刀流は全てこの型から始まる。何百とある構えも必ず正眼から切っ先を動かし構えへと移行するよう、全ての原型がただの正眼に収束していた。

 全身を弛緩させ、しかし下部を掴む左手に力を当てて右手はあくまでも添える程度。切っ先は揺らがず、右足を半歩だけ前に出して床を噛む。重心は両足の中央付近に、ただし両足はべた踏みの状態を初期とする。

 不動の正眼。

 あたかも樹木が大地に根を張って動かぬよう、大木の様を体現する――それが五木の理だ。

 呼吸を切り替える。

 戦闘時における呼吸の仕方は実に独特で、個性があるため一概にこう、というものがない。たとえば呼吸を停止させ一時的に身体能力を向上する戦い方をする相手は、先の先を取り短時間で戦闘を終わらせる型だ。運動しながら無呼吸を続けた場合、せいぜい一分程度しか持たず、それ以降は急激に身動きができずに終わってしまうことも多い。

 五木の呼吸は普段とそう変わらない。否だ、五木は常にその呼吸を保つ――つまり、長く吐いて長く吸う。ただし口や鼻からだけでなく、躰そのもので呼吸を行い、頻度はおよそ一分に一度。これは会話をしている時もそう変化するものではなかった。

 けれど、やはり普段と刀を持った場合には違いが出る。それは気配、戦闘への意欲、闘志――強く言うならば殺意がそこに発生するからだ。

 視線は切っ先を中心にした前方。ただし焦点を結ぶのではなくぼんやりと全体を把握するような視点でかつ、意識は自身を中心にして全方向へと向けられる。どちらが強くも弱くもなく、また死角になる足元や背後への警戒も怠らない。

 たったそれだけの行為。身動き一つせず、瞬きの数を制限して、正眼の構えを取っているだけで体温は上昇する。十五分を越えた辺りから額に汗が浮かびだし、三十分を越えれば手に汗も滲む。

 ただ動じないだけではない。忍は不動のまま何かに戦いを挑んでいる。

 瞬きをする時だけいやに強くなる周囲への気払いが鼓動のように道場内の空気を揺らし、鼓動の数も次第に多くなって行く――ただし、一時間を越えてもまだ、その切っ先だけは決して揺らがなかった。

 いつも刀を抜いた先に見るのは、忍自身の覚悟だ。それが揺らぐのならば、おそらく忍は刀を抜こうとすら思わないだろう。

 覚悟があるから、抜く。どんな状況でも抜いたのならば、その先にあるであろう何かを覚悟するということで、抜かない状況はあっても抜けない状況を作ることは断じてない、皆無だという信念を抱く。

 信念を持たない武術家はおらず、覚悟のない武術家もいない。

 一時間と半を越した頃、忍は完全に躰を弛緩させて宙を軽く切って血払いの動作を見せると腰に刀を戻した。全身を流れる汗に不快感はなかったがしかし、暑さを感じて右の袖を抜き、上半身の右側だけを肌蹴させて背後の入り口へ笑顔を向ける。


 そこに、青色がいた。


「――と、あ、悪ィ。邪魔しちまッたよな」

「いいえ、構いません。このような格好で失礼、どうぞこちらに腰を降ろして下さい」

 木の椅子を取り出して勧めると、彼は破顔してありがとうと言った。

「まずは挨拶を。五木家当主、忍でございます」

「ん、……俺は蒼凰そうおう蓮華れんか。世話ンなるよ」

 一度頭を下げた蓮華は、珍しそうに道場の中を見ている。その対応にはてと、忍は首を傾げた。

「驚かれないのですね」

「――へ? お、おゥ、何だよ?」

「いえ、私のような若輩者が当主などと言えば、皆様驚かれるので」

「ああ……急に何を言うのかと思って驚いたよ俺は。ンでも、嘘じゃねェのよな?」

「ええ、それはもちろん」

「なら大変だよなとか、本気かとか、反応としちゃ失礼だろうと俺は思うよ。つーかまァ、ああそうなのよなと納得しちまっただけか。舞枝為から聞いたけど、あー、年齢がそう変わらねェンだろ?」

「今月末で十五になります」

「お、やっぱ同い年になるのか。まァ俺は来年の一月になっちまうンだけどよ」

 そう言われて、なるほど確かにと忍は納得して、小さく頷いた。

 お若いですねと言っても、そうは見えませんでしたと言っても、どちらも微妙な相槌になってしまう。納得だけに留めた蓮華の対応は、まさに然りと云わんばかりだ。

「五木は、武術をやってンだよな」

「ええ。五木は一刀流の家系です。――昨晩、蒼凰さんが」

「蓮華でいいよ」

「では蓮華さん――昨晩追われたもののカタチを覚えていらっしゃいますか?」

「形……? いや、なんつーか逃げるので精一杯だったしよ、まァ獣みてェな、そうじゃねェような」

「印象で捉えることを常とする――故に、おそらく獣だったのでしょう。この土地は少しばかり邪気が強く、夜間には霧に乗じて瘴気を生みます。その中で活動するのが妖魔と、そう呼ばれるものになりますね」

妖魔ようま? そいつァ妖怪とか、そういうのとは違うのかよ」

「似て非なるもの、あるいは同一と捉えるのが一般的です。妖怪あやかし魑魅魍魎、そうした類のものを総称して私どもは妖魔と呼びます。――これはこの土地に限らず、どこにでもいまして、それらを討伐するのが武術家の務め。ですから瘴気の強いこの土地で五木という家名があるのも、また必然なのです。否応なく、刀を握る定めだったのでしょう」

「……でもよ、俺の見た限り嫌そうにゃ感じなかったぜ」

「ええ――嫌ではありません。半ば習慣と化していますので、こればかりは何とも」

「なるほどなァ。でも五木一人じゃ、それこそ手に余るだろ? まだよくわかってねェけどよ、ここッてそれなりに広いンじゃァねェのかよ」

「ですから、討伐に赴かずともある程度の治安を得られるような対策はしていますよ。それにここにいる武術家は私こと五木と、流派は違えど一ノ瀬もそうですから」

「あれ? 一ノ瀬もそうなのかよ」

「ええ――聞いていらっしゃいませんでしたか。一ノ瀬流小太刀一刀術と云いまして、瀬菜さんが習得しています」

「おゥ、そうか、それだよ」

 話はちょいと変わるんだがと断りを入れ、蓮華が問う。

「この神社にいるのは五木と、五木の妹と、一ノ瀬姉妹の四人だけなのか?」

「はい、そうですが……」

「少なくねェかよ。盆祭りやるんだッて聞いたぜ?」

「ああ、確かにその通りですが、私どもは主催者であり直接的な参加はしませんよ。例年通りやりましょうと会合をしまして、準備などは住人の方が中心となって行うのです。尤も、稲森神社の管轄に五木が入る形になってしまうのですが」

「へェ、他にも神社があるのかよ?」

「ええ――」

「忍さん」

 入り口から唐突に放たれた忍の言葉を遮る声に、蓮華は驚いて姿勢を崩してしまい壁に手をついて均衡を保つ。忍は気配を察していたため特に驚かず、ただ胴着の袖に再び手を通した。

「あ、蓮華さんこちらでしたか」

「おゥ、道場なんてモンがあるンだなと――ッと、ちなみに屋敷の中は見て回ってねェよ? 入り口が空いてたから、ちィと覗いたら五木がいたから挨拶してたとこよ」

「なるほど、そうでしたか」

「何だよ、俺になんか用事か?」

「ん、姉さんが探してましたよ」

「げ……マジかよ一ノ瀬が?」

「出歩くのもいいですけど」

「いや、ほら、あれよ。足――はまだ痛ェけどよ、やっぱ退屈なのよな。それに――あれよ、ほら、五木にゃ挨拶しとかなくッちゃァならねェよな?」

「はい、それは姉さんに直接どうぞ」

「……きッついなァ。わかったよ、後でちゃんと言っとくから。ンでも神社ッてのも初めてだし新鮮なんだよ。ンで五木、神社の話なんだけど」

「そうですね。この土地にはここ五木、山頂に稲森神社があります。基本的にはこの二つだけですね」

「ふうん。……あれ? そういや前に知人が言ってたンだけどよ、神社には御本尊ッてのがあるんだっけ? 確か偶像崇拝を認めてねェのがカソリックで、プロテスタントはあるのよな。神社ッてのはどうなんだよ。銅像とか? ん?」

「博識ですね。ええ、本殿には九尾の狐、その一尾が封じられています。この土地には他にも、やしろという形で五木、稲森を含めた九箇所に一尾がそれぞれ封じられていますね」

「へえ、なんか複雑だよな。そっかァ、社なァ……」

 そんなことまで話して良いのかと二ノ葉が視線で訴えてくるが、構わないと忍は一つ頷いた。

 ――本当に一般人ならば、昔話程度にしか受け取りませんよ。

 その反応で何かがわかるかもしれないと半分期待もしていたのだが、蓮華は二度ほど頷いてから何かに気付いたらしく小首を傾げた。

「あれ? なァ、俺の思い違いかもしれねェけどよ」

「なんでしょう」

「普通、御本尊ッてェのは奉るモンじゃねェのかよ」

「――そうですね」

 良い着眼点だと褒めたくなったが、それではあまりにも不躾だろうと思い忍は頷くまでに留めておく。

「昔から悪しき行いをする妖魔、善行を伴う天魔と云いまして、実質この二つの実態は変わりません」

「おゥ、それどっかで聞いたよ。あれだろ、つまり日本の神様ッてのは善悪の両面を持ってるとか何とか」

「そうです。有名な学問の神様である天神道真みちざねは青天の霹靂へきれきの文字通り荒ぶる雷神という面も持ち合わせていますからね。たとえば他の武術家であるところの雨天うてん家には百眼ひゃくがんと云う天魔がいまして、それはもう強大な力と百の眼を持つお方なのですが――その力を借りているのが雨天となりますね。だから、力を借りれずとも力の強い妖魔がここ五木を含めた九つの家名が封じる、神様になります」

「へえ……なんか、複雑なのよな。いや悪ィ、あんま理解してねェよ? なんか興味本位で悪ィな」

「いえ、構いませんとも。だから残念ですが、本殿の中には本尊がございません。そもそも封じた一尾は気軽に見せられるものではありませんし、目に見えるものでもありませんから」

「そっかァ……や、まァしょうがねェよな。そうだ、この近辺の地図あるか? ざっとわかりゃァいいンだけどよ」

「それでしたら――そうですね、夕食の後にでもお見せしましょう。何かございましたか?」

「いやほら、所持品をどっかで落としたみてェでよ、まァ駄目元で探してみてェと思ってンのよな。だから――と、おゥ舞枝為、どうしたのよ」

「やっほー蓮華。ちょっと弓を引きにきたんだけど」

「へェ、お前ェさん弓を引くのかよ。好きなのか?」

「うん! じゃあ兄さん、奥使ってるからねえ」

 ひょいひょいと気軽な足取りで奥へ向かう。弓場は道場奥に作ってあり、ほぼ舞枝為専用の鍛錬場と化している。

 ――もっとも、弓術では十六夜いざよいに敵わないでしょうね。

 あくまでも刀以外を選択するに当たって、弓を選んだだけのことだ。そもそも弓術の家名である十六夜に敵うはずがなく、それでも舞枝為は好きで弓を引いていた。

 だが、十六夜の弓は矢要らず――その本質は、五木にも近しいものがある。だがこれは余談というやつだ。

「蓮華さん、舞枝為とは仲良くなりましたね。五月蝿くなかったですか?」

「打ち解けてるッて言ってくれよ二ノ葉。暇だったンで縁側でぼゥッとしてたらよォ、まァ話し相手になってくれたのよな。料理が当番制だとか、朝が起きれないだとか、漫画の趣味が悪いだとか、まァ世間話をしたのよ……後は将棋よな」

「お付き合い下さったのですね、ありがとうございます」

「よせよ五木、俺が暇だっただけなのよな、これが。ッと、そろそろ行くよ。あっちの問題を放置するとおっかねェし――じゃァ五木、また後で」

「ええ」

「急がず、ごゆっくりどうぞ」

 はいよと適当な返事をした蓮華は、じゃあと片手を振って、ひょこひょこと歩きながら道場を出て行く。てっきり付き添うのかと思っていた二ノ葉は、その後姿を見送ってから軽く吐息を落とす。

「どうかな」

「面白いお方ですね。こちら側かと思い話しましたが、既に知っている様子もありませんでしたし、杞憂で終わりそうです。少なくとも私どもに危害を加える気はないかと」

「うん。感情や表情も偽っていないし、隠そうともしてない。前向きな性格――かな。ちょっと落ち着きがないけど、明るいし、かといって踏み込みもしないけど……」

「けれど?」

「姉さんが……蓮華さんは、大丈夫だとか問題ないとか、一言も漏らさないって」

 おやと忍は顔を上げる。一般人の多くは回りに心配をかけまいと、何の確証もなくそうした言葉を使うものだが、それをあえて避けている?

 それとも、確証のない言葉を使わないのかと、そんな誰何すいかを投げかけようとしたが、しかし、二ノ葉は浮かない顔をしていた。

「――? 二ノ葉?」

「あ……うん、朝に話したことなんだけど」

 疲れたように、二ノ葉は軽く目を閉じる。

「――赤色だった」

「どういうことですか?」

「うん。間違いなく青色だったけれど、起きた時に見たら……赤だった。青と混ざるならわかるし、混色なら頷ける部分もあったのに――でも」

「前向きで行動力があり、好奇心も持っている。そして感情に素直、ですか」

「そう、本当にわかりやすいくらいの赤色……」

 二重人格と呼ばれる症状の中には、人の持つ色まで変化させる場合がある。けれど蓮華に関しては見ての通り、偽っている部分もなければ症状が出ているわけでもない。

 人物としては、一貫している。

 二ノ葉の目を疑うつもりは最初からない。だとしたら、気絶していた時は青であり、今は赤であるという純然たる事実。

 そうであるのならば?

「――わかりました。気にはかけておきますが、二ノ葉はあまり考え込まないようにしてください」

「あ、うん、そうね。怪しい部分はないし、気遣いもできる良い人だと思ってるから」

「ええ」

 舞枝為の弓鳴が響く。心地よくもどこか虚しい、弦の音色が。

「と、じゃあ夕食の準備をするね」

「私もすぐに戻ります。お願いしますね」

 いくら日常に一滴の墨汁が落ちたところで。

 明日に舞枝為と二ノ葉が稲森へ赴き、仕事を果たす。その流れが変わるわけではない。

 それがどういう意味なのか知っているのは、忍と瀬菜、そして二ノ葉だけだ。

 それでも、と。

 決意を抱いているのは、きっと忍だけではない。


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