08/12/08:50――青色の暇潰し

 とはいえ。

 寝ようと思っても、己の領域ではないこの場所で寝れるほど蒼凰そうおう蓮華れんかは神経が図太くはなかった。やはり世話になってしまっている現状、落ち着かないのが心情だ。食事も湯浴みもできたし、その時に改めて確認したが足の傷も酷いけれど痛みを我慢できないほどでもなし、ゆえに歩けないわけでもない。かといって歩き回るのは失礼だろうし、するにしてもまずは家主に挨拶をしてからだ――が、その家主は今いない。

 つまり蓮華は暇だった。

 布団から出て廊下に出ると、腰を下ろして足をふらふらと動かす。石畳の景色は蓮華にとって見慣れぬもので、森を抜けてくる風の心地よさもまた知らないものだった。

 ――違う世界よな、ここは。

 コンクリートに包まれた世界ではない。室内管理AIが温度湿度を自動管理しているわけでもなし、自然な気候がここにあると思う。だからこそ時間も気にせずに暢気でいられるわけだが、逆に言えば時間を持て余してしまう。何か手伝えるようなことがあれば良いのだけれど、足がこの様子では満足に手伝えはしないか。

 受けた恩は返す。

 というか返さないと申し訳なく思ってしまい、足かせになってしまうのが、蓮華の本音だ。だから貸し借りが嫌いなのだが――そもそも、貸し借りができる間柄が、嫌いなのだ。そういう関係は、そこで完結して次がないから。

「あれ?」

「ん……」

 声に振り向けば、首を傾げた巫女服の少女がいた。

「もう動いて大丈夫なの?」

「おゥ、つーか暇だよ。世話ンなってる身で贅沢な悩みよなァ。俺は蓮華だ、よろしくな」

「うん。あたしは五木舞枝為まえな、よろしくね。あ、名前で呼んでよ? あたしって苗字あんま好きじゃなくって」

「諒解だ。ンでも五木ッてこたァこの神社の――家主の娘さんッてことかよ?」

「いやいや、家主はうちの兄さん。今はちょっと出かけてるけどね。よいしょっと」

 無防備に、舞枝為は隣に腰を下ろす。馴れ馴れしいとも思わなかったが、蓮華は己が見知らぬ怪しげな他人だろうと客観的に判断していたので、少し驚いた。

「ん? どしたの?」

「いや――警戒するんじゃねェのかなと、勝手に思ってたからよ」

「いやだって蓮華、悪人じゃないし。あたし、そういう人とかだいたいわかるから。ってあんま外で遊びまわることもしないんだけどね。神社の仕事もあるし」

「仕事かよ」

「そう、盆祭りの手配とか社務所の書類とか、もう嫌になる。あたし細かい作業すると時間ばーっかかかるんだよねえ」

「しっかり仕事ができるなら、べつに遅くたっていいじゃねェかよ」

「いやだって終わらないと休めないじゃん。部屋でごろごろしてるのが一番幸せだよ?」

「だよッてお前なァ……部屋でごろごろしてるの、暇じゃねェかよ」

「そっかな? 本読んだりネットに触れたり、いろいろやってればべつに……蓮華は家とかで何してんの?」

「休みの日なんかは、音楽聴いてる。ステレオやってッからよ」

「え、なにそのステレオって」

「でけェスピーカーを鳴らす趣味だよ。サックスやトランペットのジャズなんかが多いぜ」

「あー、ジャズがどんなのか詳しくは知らないけど、蓮華っぽいかも」

「俺ッぽい?」

「落ち着いてるッていうか――んん」

 こちらを振り向いたため視線を合わせると、舞枝為はしばらく黙っていたが。

「普段しないことを、一人の時はできるだけしたい――みたいな。あれ? ってことは蓮華って一つのことに没頭するとか、あんましないのかなあ」

 勘が良いのか。

 その言葉で、悪人かそうでないかがわかると言った言葉の信憑性が増し、蓮華はそれを表に出さず小さく笑った。

「ま、そりゃ一人ン時は二人じゃできねェことをするモンだろ」

「それもそっかあ……あれ、蓮華って今いくつくらい?」

「今年で中学は卒業だよ」

「へ? 兄さんと一緒じゃん。あたしと二ノ葉はいっこ下かな。瀬菜姉さんは更にいっこ上。なんだもっと年上かと思った」

「見た目じゃもっと下に見られるんだけどなァ」

 それもまた、舞枝為の慧眼なのだろうけれど。

「舞枝為、こんなとこで油売ってていいのかよ」

「あーいいのいいの、うん」

「適当だなァ……ンじゃ、何かこう、ねェかよ。暇が潰せそうなの。のんびりしてるのも悪くはねェけど、なんかこう落ち着かねェし――怪我も足だけなのよな。仕事でも振ってくれりゃァ、気が楽なんだけどよ」

「んーやっぱ動けないのって暇かあ。じゃあ……お、そうそう、蓮華は将棋できる?」

「知識だけは持ってるよ。なんだよ詰め将棋でもしろッてか? 本がありゃできると思うけどよ――」

「いやいや、あたしが一緒にやるから」

「……おゥ。まあ体よくサボろうとしてるのには、目を瞑ってやるよ。俺は何も知らねェ部外者だし」

「やりぃ。蓮華ありがとっ」

 感謝されても複雑な気分だったが、その辺りは性分なのだろうと蓮華は苦笑する。お目付け役としては雑過ぎるとも思ったけれど、それほど警戒はされていないらしい。まあ警戒されているのならば、とっくに追い出されているだろうけれど。

 すぐに舞枝為が持ってきたのは、随分と豪華な足つきの盤面と木の駒だった。公式試合でも使えそうな代物だ。

「随分本格的じゃねェかよ」

「うちは昔っから好きでねえ。あ、でもあたしは一番弱かったんだけど」

「弱くても、好きなのか?」

「頭使うのって面白いじゃん。躰動かすのも好きだけどね。どする? 飛車角落ちにしよっか? 蓮華やったことないんでしょ」

「まァそうだけど――頭使うのは、俺も嫌いじゃねェのよな、これが。つーわけで本気でこいよ。負けを経験しなきゃ、見えねェモンもあるからよ」

「じゃ、話しながらやろうか。どっち?」

「後手だよ」

「へえ……ま、いっか」

 ぱちりと、音が鳴る。ひどく心地よい音色は風景と似合っていて、思わず蓮華は口元に笑みを浮かべた。

「――ここに居るのは、四人なのよな?」

「そう。あ、でも明日にはあたしと二ノ葉がいなくなるけどね。ちょっとお勤めがあって」

「ふうん。ンじゃ忙しい時に邪魔しちまってンだな。俺も何か手伝いてェところだけどよ」

「怪我が治ってからにしとかないと、瀬菜姉さんが怒るよ」

「おっかねェ。ちなみに、将棋はお前らの中で誰が強いのよ」

「んーっと、兄さんか瀬菜姉さんのどっちか」

 どっちだよと笑いながら手を進める。

「昔は親父が好きだったらしいんだけどね。最近は、あたしと兄さんはよく指すんだけど、瀬菜姉さんと兄さんが指してるとこ見たことないし」

「ま、確かにこのセットなんか使い込まれてるしなァ」

「実は時計もあったり」

「おいおい……」

 随分と本格的だ。職業としてはともかくも、遊びとしてはマイナーな部類になるだろうに。特に将棋は勝敗が決するまで比較的時間がかかる。プロ同士なら、どうかは知らないが。

「ん――おいおい、こっちは指したことねェッて言ってンのに振り飛車かよ」

「だって手加減いらないって言ったじゃん」

「だからッて美濃囲いかよ。ンで中飛車ね」

「そっちこそ、指したことないとか言ってるのに詳しいし、後手番一手損角換わりとか。棒銀って久しぶりに見るなあ。ほんとに初めてなの?」

「指すのはな。知識はあるッて言ったろ? 苦手分野じゃねェしよ」

「んむー」

 そこからしばらく手ほど進めてから、あれと首を傾げて舞枝為は腕を組んだ。長考かと苦笑して視線を境内に戻し、蓮華はそこに瀬菜を発見して片手を上げた。

「――よォ、一ノ瀬」

「蓮華……躰を休めなさいと、私は言ったつもりだけれど?」

「聞いたよ」

「なら、どうして、将棋を指しているのかしら」

「いやそうは言うけどな、足以外はべつに悪くねェのよな。それに人様の場所じゃァ落ちつかねェよ。歩き回るわけにもいかねェし」

「それでも体力的に問題があるでしょう?」

「んー……まァ、疲れたら休むようにはするよ。見逃してくれッて。神社の中で過ごすなんてことも、そうそう経験しねェしなァ」

「しょうがないわね……」

 頭上の吐息に気付いたのか、盤面からようやく舞枝為が顔を上げた。

「あれ、瀬菜姉さん――げっ、いつの間に」

「あら、仕事があるのを思い出したかしら?」

「えーっと、いやほら、なんていうかその」

「おゥ、ここで俺が呼び止めたンだとフォローするのはどうよ?」

「それだ!」

「蓮華は無理に誘う真似はしないでしょう……どうせ舞枝為から近づいたに決まってるわ」

「うぐ……そ、そういう瀬菜姉さんはどうしたの」

「……二ノ葉に、役に立たないからどっか行けと放り出されたのよ」

「ええー? いつもの逆じゃん」

「そうね、集中できていなかったのは事実だから仕方ないとして――……え?」

 盤面を覗き込んだ瀬菜が、目を細めて集中する。それぞれの手駒を見た上でじっと視線を落としてから、しばらくして。

「――舞枝為」

「な、なに?」

「詰みよ。十五手」

「え!?」

「マジかよ!」

「蓮華が驚いてどうするのよ……ほら」

 ぱちぱちと十五手を進めてみると、確かに詰みだった。何故か蓮華は拍手をしている。ちなみに勝ったのは蓮華の方だ。

「ほんとだ……あれえ?」

「ん、ちょっと待ってなさい。飲み物を入れてくるわ。舞枝為は切りをつけて社務所へ行って二ノ葉の指示に従うこと。いいわね?」

「はあい……」

 おかしいなあと呟きながら、違う手を模索しつつ感想戦を始める舞枝為を他所に、瀬菜の背中を見送った蓮華は、ふと。

「――あいつ、なんで」

 無意識に口から感想が洩れる。

「咲こうとしねェンだよ……」

「え?」

「いや、なんでもねェよ」

 つぼみのままでいられる花は少ない。堪えようとしても枯れるか、強引にでも咲かなければ次には続かないのが世の常だ。

 けれど、花と人は違う。

 蓮華の目に映った瀬菜は、まるで――つぼみでいることが、己の姿だと言い聞かせているような。

 諦めに似た何かが、見えた。

「うわ、本当に十五手詰みだ……まだ序盤っていうか中盤に差し掛かった辺りじゃん。確かに急戦挑んだのはこっちだけどさあ。蓮華ってこういうの得意なの?」

「んー? 将棋もチェスも、結局は相手を読み取って先を見る競技だろ? 俺にはその程度しか掴めてねェよ」

「あーなんか釈然としないっ。いい蓮華、また勝負してよね」

「暇がありゃァ、その時にな。俺ももう少し慣れておくよ」

「うっし。んじゃ、しゃーない。仕事してくるから」

「おゥ」

 舞枝為を見送ってから、盤面に目を落とした蓮華は小さく肩を揺らす。すぐに盤面は崩してしまい、ふと吐息を落とした。

 疲れがないといえば嘘になる。けれど心労が強く、体力的にはそう問題があるわけではない。実際にあれから舞枝為に逢うまで一時間と少しは横になっていた――が、問題は足だろう。

 そもそも、蓮華は自分の傷の治りが遅いことに自覚的だ。一般的には一ヶ月の骨折であったところで、最低でも二ヶ月はかかった経験もあるし、その理由も知っていた。

 だから、あとは。

 ――どこまで無理を通すか、である。

「待たせたわね」

「お――ありがとよ」

「足はどう?」

「ん……いや、本音を言やァ足が熱を持ってるらしくッて、眠れねェのよな。つっても歩けるし、邪魔なら追い出してくれてもいいぜ」

「馬鹿ね、追い出しはしないわよ」

「これでも気疲れするンだよ」

「怪我人が余計なことを考えない。それにしても、将棋ね……久しく触れていなかったけれど」

「その割にゃ、盤面を見てすぐ十五手詰めだなんてよくわかったじゃねェかよ。俺なんて何手で詰むかもわからなかったッてのに」

「貴方が指していたのでしょう、そのくらいわかりなさいよ」

「知識はあっても指すのは初めてなんだよ。けどま――面白いよな」

「そう?」

「囲碁は世界だけどよ、将棋は――戦場よな」

「戦略性があると言いたいのね?」

「んー、まァ難しいよ。何度か指さないと上手くはいかねェな。暇なら付き合ってくれよ一ノ瀬」

「構わないけれど……作務衣も着こなしているわね」

「そうか? 俺ァ和服ッてのが落ち着かねェけどよ」

「そうは見えないわ。――先手、どうぞ」

「ん。……ここは良い場所だよな。時間の流れを忘れちまいそうなほど――流れが穏やかだ」

「――どうかしら、ね」

「なんだよ、嫌いなのか?」

「……私はここで生まれて、ここで死ぬ。それだけのことよ」

「ふうん」

 もったいねェ、そう続けようとした言葉は飲み込んだ。

 それを口にするには、あまりにも蓮華は彼女らの事情を知らなさ過ぎるから。


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