08/12/07:30――青色の目覚め

 季節に関わらず、基本的に五木家は就寝時以外にふすまを閉めない。

 夏場である今は熱気が篭るため、廊下側にある襖を開かねば空気が動かないし、北側にある小窓も今は開いているが、そもそも襖を閉めるといった行為は他人を拒絶する意味があり、何かを隠す意味もそこに含まれるため五木は好まないのだそうだ。

 ――だから舞枝為の部屋の前を通るたびに、ため息が出るのだけれど。

 自分の部屋の整理ができないのを、瀬菜はそもそも理解できない。たとえば、掃除ができないのはわかる。掃除機をかけるのは面倒だし、洋間ならば直接腰を下ろすこともない。せいぜい、年末などに仕方ないと重い腰を上げるくらいで充分だと思うことに、そういうこともあるかと、苦笑しながら頷くくらいの度量はある。

 だが片付けはどうか。

 物が多いからこそ、整頓すべきであり、それができないのならば物を置かなければ良いだけだ。それが他人が立ち入らない自室であるのならば文句も言わないが、通るたびに目に入れば説教の一つもしたくなる忍の気持ちもわかる。

 解決策はあるかと、戯れに問われたことはあるけれど――たぶん、舞枝為の場合は一人暮らしをさせれば、すぐにでも自覚できる。何故ならば、今の舞枝為は環境に甘えているだけだから。

 それはともかくも、襖を開いておくのは迷い子を寝かせた状態でも同じだ。

 小さな本棚が一つと、机は邪魔にならぬよう壁に立てかけてある。そうして考えると、他人の家の客間なのだから当然だが、一ヶ月近くここにいるのにも関わらず一ノ瀬瀬菜の私物は少ない。衣類など生活に携わるものだけだ。

 いや、自宅の方だとて似たようなものだ。片付けも面倒な瀬菜は、そもそも、物を持たないようにしている。ただ洋間の自室とは違って、ここは陽が入ってしまう。普段なら心地よいが――この時期だ、暑さもある。

 そして、今は眠っている人物がいる。顔に陽が当たらぬよう瀬菜は自分の躰で陰を作り、起床を待っていた。

 長時間の気絶は危険であるため、途中で起こさなくてはならないだろうが、しかし瀬菜はもうすぐ目覚めるのだと疑わない。それは気絶した人間を多く見てきているからこそ得られた経験であり、

 ――起きる。

 気配がわかった瀬菜はすぐに近づき、彼の胸の付近にそっと片手を添えた。

 ここで、あえて相手の反応を窺おうなどとは微塵も思わなかったのは、普段の瀬菜とは違う証左だ。浮足立っていると評価されても、否定する言葉を持たない。


「……あ――?」


 薄く開かれる黒色の瞳に、少しだけ、安堵があった。何故? ――そんな疑問すら浮かばない、小さなもの。

 ぼんやりとしていた目が焦点を結び、ぎょろりと周囲を見渡して瀬菜をも見る。途端に驚いたように躰が跳ねようとしたため、瀬菜は添えた片手に力を入れて強引に身動きを制限させた。

「――ッ」

「落ち着きなさい」

 と言っても落ち着かないのは承知の上だ。そのため逆側の手で視界を塞ぐ。

「目を閉じるのよ。いい? 深呼吸をなさい……そう、ゆっくりでいいわ。繰り返して。……いい子ね。返事はしなくていいからそのまま聞くこと。貴方は神社で休んでいて、気を失っていたのよ。ここは神社の客間、当主の許可を得て休ませているわ。危険はない、大丈夫よ――落ち着いて、手が動くようならば一度握って、そう、開いて……もう一度。――今、貴方はここに居るわ」

 こうした場合にはよく混乱してしまい、錯乱する場合もある。その点で少年はひどく素直で、瀬菜の言うことに反応して従った。だからすぐに落ち着いて、肩に入っていた力が抜けたと思った時点でゆっくりと手を離してやる。

 そして、そっと開かれる瞳から得られる情報は屋内であること、傍に瀬菜がいること、布団に寝かされていることなどを、咀嚼するように順序よく頭の中に入れていく。けれど口を開くよりも早く。

「――何かを話す前にこれを飲みなさい。一気に飲んでは駄目よ、半分……そう小さく、回数を重ねて」

 時間をかけて湯のみ一杯を飲み干した少年はようやく、盛大に吐息を落としてから瀬菜の支えに従い、ゆっくりと上半身を起こした。

「……悪ィ」

「いいのよ、気にしないで。まずは――そうね、ここは五木神社と呼ばれているわ。私は見ての通り巫女で、ここの手伝いをしている一ノ瀬瀬菜と云うのよ」

「俺は――蓮華。蒼凰そうおう蓮華れんかだ。すまない、手を煩わせちまったよな? あー……なんだっけ」

「迷い子は少なからずいるもの、神社が見捨てるわけにはいかないわ。躰の調子はどう?」

「ああ」

 ぶるりと身震いするように躰のあちこちを動かし、蓮華と名乗った青色は頷いた。

「足が痛ェけど、まァなんとでもならァな。いやでも正直助かったよ」

「何があったのか、覚えている?」

 問えば、腕を組んで首を傾げた蓮華は、痛みにか、わずかに顔をしかめた。

「そりゃァ――何だったンだかは知らねェけど、昨日の晩になるのか。なんつーか……俺ァ蒼狐そうこ市でちょい用事あって、まァ散歩してたのよな。そうしたら霧が出てきて――蒼狐の霧は有名だし、ンでも夕刻に出るモンなのかと首を傾げてたら、いつの間にか俺ァ森にいたのよな、これが」

「そう」

 古くから辻が四つ交わるところは死、つまりこの世からあの世へと往く道ができると言われている。古風と云えばそれまでだが、おそらくそれが原因でこちら側に迷い込んだのだろう。

「ンで、どうしたもんかと思って開けた場所を探して移動してたら、あッつー間に夜がきちまったわけよ。そしたら獣……みてーな妙なのに追いかけられたのよな」

「よく、無事だったわね」

「無事じゃねェけど、まァ結果的に生きてンだから良いよな。とかく逃げ回ったよ、もうどこがどこだかもわかンねェ。……いや本当、助かったよ」

「感謝は適度で良いわ。見返りなど求めていないもの。さて、貴方は」

「蓮華でいいよ」

「そう。蓮華の処遇については今言った通り、躰を休めることを先決なさい。けれどその前に――二ノ葉、近くにいるかしら」

 廊下に向かって声をかけると、しばらくして足音が聞こえ顔を見せた二ノ葉は、微笑みを浮かべて廊下に正座をして軽く頭を下げた。

「良かった、目が覚めたようですね」

 顔を上げて蓮華と視線が合った二ノ葉は、そのままぎくりと硬直したように停止し、みるみる顔から血の気が引いてしまう。

 怯えている? 怖がっている? いや、どちらでもあって違うような――。

「二ノ葉?」

「あ……失礼、すぐに食事を運びます。それと湯浴みの準備もできていますから、どうぞ」

「あ――すまねェ、ありがとよ」

「はい」

 声をかけないのも失礼かと思ったのか、無難な言葉を投げかけた蓮華は軽く頭を下げた。助けられた自覚も、礼儀を欠かない躾も行き届いているようだ。

 ――けれど、二ノ葉はどうしたのかしら。

 蓮華に何かを見たのだろう、そう思って当人を見ると首を傾げていた。

「……なァ、俺はあの人はぜんぜん知らねェンだけどよ、何か悪いことしちまったか?」

「いいえ、あの子は私の妹なのだけれど――初対面のはずよ。特に何もしていないわ」

「だよなァ……うーん、なんか、釈然としねェっつーか……まあいいや。ええと五木神社なんだよな? 家主に挨拶してェンだけど」

「五木忍と云うのだけれど、今日は夕方まで出ているのよ。挨拶を考えているのならその時に最低限動けるようになるまで休みなさい。無理をすればその分だけ後に苦労が回ってくるものよ。許可は得ているから、ゆっくりなさい」

「……悪ィ。不甲斐ねェけど頼むよ。思ったより、足が痛ェのよな、これが。あー情けねェ」

 ――存外に素直ね。

 了承の旨を伝えると、ほっと蓮華は肩から力を抜いた。瀬菜は二杯目の水を手渡しながら視線を一度外へ。

「食事の後、私は社務所で仕事が少しあるのよ。手持ち無沙汰でしょうけれど、湯浴みが済んだら夕方まではこの部屋で躰を休めなさい。いいわね?」

「そうするよ。五木の御大がきた時に身動きできねェンじゃァ格好もつかねェのよな、これが。まァよくわかンねェこともあるけど、ゆっくり考えてみるよ」

「ではまず食事にしましょう」

 テーブルを改めて置き、準備をしたところで二ノ葉が顔を出す。

 青色が気がかりな点は否定しない。しないが、それでもこの時期に社務を蔑ろにすることは決してできなかった。

 ――だから均衡をとりましょう。

 仕事もそうだけれど、第一に心の均衡を保たなければ。


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