第3章 女王の軍靴
第18話 這い寄る悪意
「ふーん、ここが彼らの部室か」
蛭間は白衣から取り出した毛抜きを手の中で弄びながら、室内を見回す。
特に珍しい物はない。壁際のラックには雑誌や本、携帯ゲーム機が適当に積まれ、中央には折り畳み式の横長机がL字型に配置されている。
窓際の壁に接するように置かれた布張りのソファに腰を下ろし、足を組む。
「話ではここで例のWebサイトをいじっていたらしいけど、PCが無いな……ノートPCらしいから持ち出したのかな」
これからどうしようか。
窓の外を眺めながら蛭間は思案に暮れた。
グリフィンのキャリアとなった男の素性を調べたいが、当てがない。
ケット・シーに調べさせようと思ったが断わられた。
本来、蛭間の命令を聞く立場ではないのだから仕方のない事だ。
それに蛭間自身、ケット・シーに嫌われている自覚がある。素直に言う事を聞いてはくれないだろう。
蛭間が管理している【昆虫タイプ】は、キャリアの精神・知能面を劣化させる副作用がある為、諜報には向いていない。
ここまで情報を集めてくれただけでも感謝すべきなのかもしれない。
「こうなったら興信所を使って調べるか……いや、可能な限り外部との繋がりは持ちたくないな」
既に顔は分かっている。この大学の学生だという事も分かっている。これらの情報を元に興信所を使えば、彼の素性はすぐに明らかになるだろう。
だが興信所へ依頼をするうえで、こちらの情報が興信所へ渡ってしまう。どんなに偽装をしても成果を受け取る必要がある以上、必ず蛭間へ続く一本の細い道が出来てしまう。
いつかはその時が来る事は分かっているし、いつかはそうしなければならない事も分かっている。
だが、興信所を利用する事が【その時】だとは思えなかった。
「しかしまさか、グリフィンとあのWebサイトを作った人間が繋がっているとはねぇ」
ソファから立ち上がった蛭間はラックから適当な雑誌を手に取ってパラパラと捲る。
マンガだけではなくファッション誌、女性誌、ゴシップ週刊誌、他にもバイク専門誌や釣り専門誌など幅広くある。
「多趣味なのか……いや、これは単に知識欲を埋める為……? 少々変わった人間がここにはいるようだ……ん、これは」
装丁が異なる冊子を見付けた。ほぼ正方形に近いそれは、写真を纏めるアルバムだ。収められている写真はデジカメで撮ったものをわざわざ印刷したものだった。こういった形にこだわる考え方を蛭間は嫌いではない。
アルバムを捲る。まだ最初の十ページほどしか写真が貼られていない。
何処かに旅行へ行った際の写真だろう。グリフィンのキャリアが写る写真も何枚かある。
「……ほう……ほうほう、成程ね。そういう事か!」
写真を眺めていくうちに蛭間の目が輝き始めた。
グリフィン、Webサイトを作った人間、そこにもう一つ蛭間の興味を大いに引くものを見付けた。
毛抜きで顎髭を抜き散らしながら、蛭間はアルバムを閉じてラックに放る。
「これは帰って準備しなくちゃな」
部室を出た蛭間は今後の計画によるお楽しみに頬を緩ませながらその場を立ち去った。
蛭間の気配が遠ざかった事を確認してから、アーティファクトと彼女に付き従う男が部室棟の裏から姿を現した。
部室の扉は開け放たれたままだ。正確には閉じれなくなっているのだが。
入り口前の地面に転がっている、引き抜かれたノブを拾ったアーティファクトは忌々し気に溜息を吐く。
「どうして私が尻拭いしてやらなければならないのかしら」
肩に掛けていたバッグから小さな工具を取り出し、ノブの修理に取り掛かる。
男は無言でアーティファクトの背後に立ち、周囲に注意を払っていた。
背の高い男だ。百九十センチ近くある。十一月も半ばを過ぎているのに上着も羽織っていない。
薄手のカットソーを着ただけの体躯は筋骨隆々ではない。しかし鍛え上げた全身から全ての脂肪を取り除いたような、日本刀のような鋭さを感じる。
「それで、どうするんだ」
「どうするって?」
「蛭間は碌な事を考えていないぞ」
「多分そうでしょうね」
「分かっていて、放置するのか」
「それ以外の権利を与えられていないから」
今の私たちには。
アーティファクトは男に聞こえないように小さく呟いた。
だがキメラの力を有する男の聴力は彼女の呟きを正確に捉えている。
整ってはいるが心の冷たさを表すような顔を不愉快そうに歪め、それでも何も言わずに会話を終わらせた。
「……これで大丈夫かしら、DIYは苦手なのよね」
立ち上がったアーティファクトがノブの調子を確認して小さな笑顔を浮かべる。
扉を閉めた際に施錠されるように細工をし、工具を片付けてから扉を閉めた。
「私たちは命令された事をやるだけ。行きましょう、【フレスベルク】」
振り返ったアーティファクトからは笑顔が消えていた。
表情筋を押さえ込むような、若干強張った無表情で男を見上げ、先に立って歩き出す。
フレスベルクと呼ばれた男はその後ろ姿を敵意を込めた眼差しで見詰めながら、無言で後に続いた。
△▼△▼△▼△▼△▼
シザーアングの時と同様に、スピネカーマが引き起こした事件は通り魔の犯行という結末で収束した。
犯行動機およびその手段については有耶無耶にされ、警察発表も犯人逮捕以外に何も公表される事は無かった。
犯行手段の異常性もあり、警察の何かを誤魔化すような発表に批判が集まったが、実際に事件が終わった事もあり騒ぎも少しずつ沈静化していく。
──誰もが、そう思っていた。
独断で対スピネカーマの行動を起こし、署内の警察官にも多大な被害を出した事もあり、柳瀬は減給ならびに謹慎処分を受けて自宅にいた。
しかし今の時代、減給はともかく謹慎は大したデメリットにはならない。柳瀬はプライベートのメールアドレスを利用して知人や同僚と連絡を取り合っていた。
彼はキメラ怪人という存在がシザーアングとスピネカーマ、そしてグリフィンだけだとは考えていない。
根拠が無いわけではない。
彼が知る三体のキメラ怪人には【怪物】である事以外に共通点が無い。
明らかに異なる外見と能力はどう考えても同種の生物とは思えず、仮に同種だとしてもそれぞれが全く別の進化の果てに到達した生物であるとしか考えられない。
彼らは言わば【シザーアング】【スピネカーマ】【グリフィン】という三種類の生物だ。しかし現実に彼らは【キメラ怪人】という一つの括りにされている。
それは極端な言い方をしてしまえば蟻、カメレオン、鳥という三種を集め、まとめて【生物】と括っているようなものである。
もしもこの例えば当て嵌まっているとしたら、その【生物】という括りに当て嵌まる生物が蟻、カメレオン、鳥の三種類だけだと思うだろうか。
「それに、このキメラという言葉……」
趣味を持たない柳瀬には時間が沢山ある。キメラ怪人に関係しそうな事柄は片っ端から調べていた。
最も引っ掛かるのはキメラという名前。これが神話に登場する魔物【キマイラ】を語源とする言葉だという事も先日知った。
複数の生物の特徴を併せ持つ生物、それがキメラ怪人だとしたら。
「キメラ怪人は、誰かが人為的に生み出している……?」
薄々考えていた事だ。
キメラ怪人が自然に進化の先に誕生する存在だとしても、それは今よりもずっと先にいる筈だ。
今の時代に自然に誕生しているはずがないことくらい、専門分野ではない柳瀬でも分かる。
どのような技術が使われているのかは分からないが、何者かが意図して生み出していると考えればしっくり来るのだ。
柳瀬が把握しているのはたった三種類のキメラ怪人、そしてそのキメラ怪人は人為的に生み出された存在、だとすると一つの確信が得られる。
「まだ姿を現していない、或いは正体を知られずに活動しているキメラ怪人がいる」
ここまで仮定を立てた柳瀬は署内で【怪物事件】と呼ばれているシザーアングの犯行を、思い切って知人や同僚に連絡して打ち明けた。
と言っても、キメラ怪人については秘匿性の高い情報扱いとなっており、厳しい箝口令が敷かれている。
そこで柳瀬が利用したのは、誠司が作成した【怪人調査クラブ】のWebサイトだ。
文体には色々と思うところもあるが、その内容は過不足なくまとめられており、サイトの内容に目を通してもらえばキメラ怪人と彼らが起こした事件の説明をする手間が省けた。
念の為、このサイトに書かれている事は全て事実である事と、何より自分自身が当事者である事を明示したうえで拡散した。
丸一日経った頃、ぽつぽつと返答が届く。
シザーアングが引き起こした【怪物事件】と、スピネカーマが引き起こした事件、公表されている内容の真実を知り驚いたという返答が大半だ。
その中で『もしかしたらこの事件もキメラ怪人が関わっていたのでは』という情報が散見される。
それだけでキメラ怪人の関与を確信する事は出来ないが、どうしても気になる内容があった。
それは傷害致死事件だ。全国各地で起きており、地域ごとの件数としては特別多いわけではない。
事件現場も、時間帯も、被害者の性別や年齢、容姿の特徴のどれも共通していない。
ただ一つ、人間とは思えない異常な力で全身に打撲と裂傷を負っているという点を除いて。
△▼△▼△▼△▼△▼
「俺、お前の気持ち悪い笑顔を産まれて初めて見たよ。もう今日はちょっとした記念日だな」
誠司と二ノ宮が退院してから、つまりスピネカーマとの戦いを終えてから一週間が経っていた。
現在、部室にいるのは二ノ宮を除く四人だ。二ノ宮は講義の関係で遅れてくる事になっている。
そして本日の俺は非常に機嫌が良い。
俺を取り巻く問題は山積みだ。事態は殆ど好転していないし好転する気配もない。
だがそれでも、睦月という理解者を得られた事は俺の心に大きな安定をもたらした。
お陰でこれまでの事をゆっくりと振り返る余裕も出来た俺は、思い切って一つの行動を起こした。
「あ、そのアプリをダウンロードしてください」
俺の弄るスマホを覗き込んだ睦月が画面を指差す。
そう、俺のスマホだ。旅行の時に機種変更を決意したものの、色々あって延び延びになっていたのだが、とうとう実行したのだ。
机の上にはスマホを梱包していた箱が転がっている。朝一で機種変更をして、そのまま真っ直ぐここに来て開封したのだ。
そして現在、睦月の指導の下で必要なアプリをインストールして設定を整えている。
決して大きくはないスマホの液晶を覗き込む俺と睦月の顔はとても近い。ぶつかりそうなほどに。
──これはきっと神からのご褒美に違いない。
自分で言うのもなんだがこの二か月近く、俺は頑張って来たと思う。
身も心も擦り減らしていた俺への褒美として至福の一時を与えてくれたのだろう。
神様、感謝します──。
「はい、これでIDの登録が出来ました」
俺のスマホの隣に自分のスマホを置いて操作していた睦月が、顔の距離はそのままにっこりと笑う。
直視出来ずに自分のスマホに目を落とすと、メッセージの着信通知が表示されていた。
慣れない手付きでそれを開く。縦にスクロールするタイムラインに一言【こんにちは】と表示されていた。
画面の一番上には【八幡睦月】の文字。つまり睦月からのメッセージだ。
「恭護先輩がメッセージを確認したので、わたしの方には既読マークがつきました」
「ほ、本当だ」
メールよりもリアルタイム性の高いメッセージ交換アプリだ。
遠く離れていても睦月とリアルタイムでやり取り出来るというのが素晴らしい。
口下手な俺だが、文章ならもう少し饒舌になれる気がする。
「そうだ、返事をしなければ」
「あ、目の前にいますし」
「しかし……挨拶を無視はよくないだろう」
フリック入力と呼ばれる方法に戸惑いながら返事を入力していると、視線を感じた。
顔を上げると誠司と相田が俺を見ている。何とも言えない生暖かい眼差しで。
「対人スキルだけではなく文明レベルも遅れていた恭護くんの成長する姿を見れて俺は嬉しいよ」
何故か高見から意見する誠司を無視して「よろしくおねがいします」と入力してメッセージを送信する。
送信した瞬間に既読マークがついた。思わず睦月を見ると、彼女は笑って自分のスマホをこちらに向ける。
彼女が表示しているのは俺とのタイムラインだ。俺が入力した返信が表示されている。
「おお……」
「何だか、初めて火の使い方を知った人類みたいだね」
最近、相田の発言がきつくなってきてるのは誠司に毒されているからだろうか。
「何はともあれ恭護、俺たちともID交換しようぜー。グループも作っておこうぜー」
「あたしも交換しよう!」
扉を勢いよく開けてやってきた二ノ宮が開口一番、そんな事を言う。
どうやってここまでの話を聞いていたのだろうか。
小走りで目の前にやって来た彼女は左手でスマホを取り出し、机の上に右手の物を置く。
俺たちは置かれた物──ドアノブと呼ばれるそれを見て、目が点になった。
「間違えた、こっちだったよ」
ささっとスマホとドアノブが交換された。
「確かに間違いだけどそうじゃなくて、ちはやちゃん。それ……あれ……あー!」
睦月の指先は二ノ宮の手へ移動するドアノブを追い、本来ドアノブがあるべき扉を指差して大声を上げる。
「勢いよく開けるからだよ」
立ち上がった相田が二ノ宮の手からドアノブを受け取り、扉の様子を確認する。
その間に二ノ宮は相田が座っていた場所、つまり誠司の隣に座った。
「あはは、勢い余っちゃった」
「……」
相田は無言でドアノブを握ったまま二ノ宮を見ている。半眼で目が据わっていた。
俺はそっと壁際に寄り、石のように心を無にした。
隣では睦月が何も気付いていない振りでスマホを弄っている。
「ねぇねぇ、はるちゃん!」
相田の発するプレッシャーに気付いていないのか、二ノ宮は臆する事無く相田に声を掛ける。
「はるちゃんはせーじくんの事が好きなんだよね!」
唐突な発言に相田が鼻白む。
「じゃあ、両思いだね!」
二ノ宮は立ち上がると相田の手を取り、誠司の手を取り、二つの手を重ねる。
「なんか御免ね、あたしこんなだから色々間違えてると思うけど、二人の邪魔をするつもりだけは無いから安心してね!」
重ねた手をまとめて両手で包み込み、上下に振りながら二ノ宮は満面の笑みで二人の顔を交互に見る。
それから立ち上がると相田の背中を押して自分が座っていた場所──つまり先ほどまで相田が座っていた場所──に相田を座らせ、その隣に自分も座り直した。
相田を挟んで誠司と二ノ宮が座っている形になると、二ノ宮は悪戯っぽく笑いながら肩で相田を誠司に押し付ける。
「これでいいね!」
騒がしい二ノ宮の言動に思わず石化が解けていた。
隣の睦月もスマホから顔をあげてポカンと様子を見ている。
間で誠司は満更でもない顔をしていた。
性格上、あまり目立つ子ではないが相田は美形でスタイルが良い。対照的に二ノ宮は非常に騒がしいがスタイルは相田に負けていない。
男としては密着されて嬉しくないということはまずないだろう。正直、気持ちは分からなくもない。
「急にそわそわしてどうしたんですか?」
「いや、なんでもない」
特筆する事の無いいつも通りの一日を終えた夜。
誠司に誘われて辻崎家を久々に訪問する事になった。
家族の一員のように扱ってくれる誠司の両親に歓迎され、気付けば夕食をご馳走になっていた。
泊まっていくように強く引き止められたが固辞して辻崎家を出ると、後から誠司が追い掛けて来る。
「途中まで送ってやるよ」
「いいよ別に」
断っても誠司は無言で着いて来る。辻崎家から帰る時に必ず行われるやり取りだ。
子供の頃からいわゆる人気者だった誠司の周りには常に友人や家族がいた。
そんな誠司と俺が二人きりになる唯一といっていい時間が、この辻崎家からの帰路だ。
二人きりなんて言い方をすると多少誤解を受けるかもしれないが、要するにこの時間は俺と誠司が本当の意味で腹を割って話が出来る時だ。
先に出た俺をわざわざ追い掛けて来たという事は、何か言いたい事でもあるんだろう。
「恭護、悪いな」
会話は誠司の謝罪から始まった。
何か謝って貰わなければならない事が……心当たりが多すぎて逆に分からない。
「一向に進展しないお前と睦月ちゃんの仲を差し置いて、相田ちゃんと仲良くしちゃってさ」
「いや、余計なお世話だし好きにすればいいだろう」
「しかも相田ちゃんはお前の友達だろ? 相田ちゃんとの付き合いは俺より長いじゃないか」
「言っておくが、相田が女性として魅力的である事には同意するが、俺自身が彼女に対して友人以上の好意を抱いている事は無いからな」
「分かってるって。ただ、その友達がお前よりも俺との時間を優先するようになってるのが申し訳なくて……ただでさえお前は友達が少ないのに」
俺をからかっているのは口調で分かる。
だがそれは半分。残りの半分は本気で、それも心配して言っているのだから始末が悪い。
「これが全く知らない男だったら少しは寂しくもなるが、相手が誠司なら問題は無いだろ」
「そうなのか?」
「俺は多分、お前が思っている以上にお前の事を信用してるし、信頼してるよ」
「……本当にさ、お前はそういう事を睦月ちゃんにもどんどん言っていけよ。そうしていればとっくに……」
「それよりも誠司、二ノ宮が随分とお前に懐いているみたいだが」
「あー……そうなんだよな。なんでだろう?」
そんな事、俺が知るわけがない。
あの性格だから二ノ宮は本当に誠司と相田の仲を引っ掻き回すつもりはないのだろう。
それでも、二ノ宮と誠司の仲の良さを見ている相田が何とも思わないという事は無いと思う。
似たような立場にいた俺だから分かる。
自分と仲の良い友人を奪われてしまったような寂しさと嫉妬、しかもこの件の場合はそこに恋愛感情も絡んで来る。
何でその手の話題から最も遠い所にいる俺が気を揉まなければならないのだか。
「鈍いお前でも、修羅場の空気を感じるほどだもんな」
「思い切って二ノ宮を遠ざけたらどうだ」
「出来ると思うか?」
「無理だろうな」
自意識を持って猛進する竜巻のような性格だ。誠司が距離を取ったら、取ったぶん近付いてくるに違いない。
それにあれほど快活な子に対して演技とはいえ辛辣な態度をとるのは心が痛む。
「だから俺は逆に決定打を放つ事にした」
何やら決意の込められた口調、ここからが本題だろう。
歩みを止め、誠司に正対して腕を組み、話を聞く態勢を取る。
誠司は上着のポケットから一通の封筒を取り出して俺に確認を求めるように差し出した。
封筒の宛先は誠司、既に封は切られている。差出人は……聞いた事の無い、おそらく会社の名前だ。
こ、これは、まさか……!
「採用通知か!?」
「え?」
「そうか、身を固めるのか」
「恭護、ちょっといいか?」
「大学は大丈夫か? 卒業は出来るのか? もしかして退学してしまうのか?」
「お前、妄想ばかりしてるせいで発想が一足飛びになる癖がついてないか」
「誠司の年齢を考えると早すぎるというわけでもないのかもしれないな……むしろ就職して足場を固めるという堅実な考えをしている事を称賛するべきかもしれないな」
「いいから一旦妄想から戻って来い」
「俺と違い就職をあっさり決めたお前に複雑な気持ちが無いわけではないが、その決断を俺は支持したいと思っている」
「見た目とは裏腹にお前も頭のネジが何本か抜けてるよな」
俺の手から封筒を奪い取った誠司は、その中に入っている便箋と二枚のチケットを見せる。
チケット?
「ディナー……クルーズ?」
それは沖を巡航する客船で行うディナーショーの招待チケットだった。
開催日付は今から三週間後のクリスマスだ。
「誠司……」
「ようやく分かってくれたか」
「今はこういった形の結婚パーティもよくあると聞くが、クリスマスに開催するのは招待客に迷惑ではないだろうか」
「ちょっと本気で言ってるの恭護くん?」
ここまで見せられれば流石に俺でも分かる。少し冗談を言ってみただけだ。
……本当に冗談だぞ。本当だぞ。
「これはペアチケットだな、という事は」
「ああ、相田ちゃんと行ってくる」
改めて誠司からチケットを借りて目を通す。
学生である俺たちには勿論、働いている社会人でも決して安いとはいえない料金だ。
安直ではあるがそこに誠司の本気が見て取れる。
「相田ちゃんにはもう話をしてあるんだ。睦月ちゃんにも協力をして貰ってる」
「睦月に?」
「当日は睦月ちゃんとクリスマス会だという事にして貰ってる」
相田は前のサークルにいた時、飲み会などの夜遊びには殆ど参加していなかった。
彼女自身の性格に依るところも多分にあったが、日が暮れる頃には帰宅している品行方正な女の子なのだ。
そんな彼女がクリスマスの夜に彼氏と出掛けるという事は、彼女の家ではそれはもう大事件なのだそうだ。
彼女の両親からの詮索から逃れる為に、同じ女の子である睦月と遊ぶ、という偽りの理由をでっちあげるという事だろう。
「相田の両親を騙す事について引っ掛かるところではあるが……」
「さすがに男と二人きりで一晩一緒とか、相田ちゃんからは言い難いだろ?」
「そうだな」
……うん?
「お前だって院長先生には絶対言えないだろ?」
「俺の場合は本当の意味で命に関わる」
ちょっと待て。
今、誠司はなんて言った?
確か……。
「……一晩一緒、って言ったのか?」
「何がだ?」
一晩って事は少なくとも翌朝まで一緒だという事か?
誠司と相田が、クリスマスの夜に、翌朝まで一緒?
それがどういう意味か分からないほど、俺は純粋ではない。
「決定打ってそういう事か!」
「当たり前だろ、俺は全盛期真っ只中の男だぞ」
「む、む……ぅ……」
「お前、相田ちゃんで変な想像するなよ!」
先ほども言ったが相田は女性としては充分に魅力的だ。
そして男とは単純なもので、恋愛感情とは無関係にそういう対象として女の子を見てしまう事など少なくない。
更に言うならば相田は非常に女性らしい……いや、いっそ飾った言葉遣いを廃して言ってしまえば胸が大きい。
これだけの条件が揃っていて、何も想像するなというのは無茶というか、不可能に決まっているじゃないか!
「本当に心から申し訳ないと思うがその頼みは聞けない、というか俺の意思とは無関係に」
「この野郎! こうなったら俺だって想像の中で睦月ちゃんにすごい事をしちゃうぞ!」
「おいやめろ! 幾ら誠司でもそれだけは許さんぞ!」
「それに恭護、言っておくが相田ちゃんが裸の時は俺も裸なんだぞ」
何を企んでいるのか自白しているような発言だった。
しかし捨て身の発言を聞いてしまった俺の脳内には誠司の目論見通り、全裸の誠司という非常に萎える姿が割り込んできてしまう。
「やめろ誠司、好き好んでお前の裸なんか見たくない」
「お前の欲望を果たさせてなるものか! 幼馴染とはいえ兄貴同然の男が尻を振ってる姿を想像しやがれ!」
掴み合いをしてはいるが本気で喧嘩をしているわけではない。事実、俺と誠司はともに笑顔だ。
気の置けない相手と語り合い、じゃれ合う。そんな凡庸な一時は何より心地よく、繰り返された命懸けの戦いで摩耗した俺の心は癒されて行く。
これが、俺が一番守りたかったものだ。
これだけの為に、必死に戦ってきたのだ。
──ようやく報われた。
感極まって泣きそうになる目元に力を込めながら、俺は誠司の手から逃れるように駆け出した。
△▼△▼△▼△▼△▼
「あら、蛭間は?」
コンクリートが剥き出しの室内を見回したアーティファクトが、室内で寛いでいた【ケット・シー】に声を掛ける。
ケット・シーは読み耽っていた漫画雑誌から顔を上げ、机の上に起動中のまま放置されたPCを暫く見詰め、アーティファクトを見る。
「知らない」
「貴方がここに来た時はまだいたのかしら」
「いなかった」
読書に没頭していたケット・シーは鬱陶しそうに目を細めながら端的に答える。
アーティファクトはその態度に気分を害した様子も無く、PCの前に腰掛けてマウスを握る。
違和感にマウスから手を離すと、その表面にびっしりと抜き散らかした顎髭が付着しており、思わず悲鳴が漏れた。
マウスが動かされた事でスリープ状態になっていたPCが復帰した。
復帰時のパスワード設定はされておらず、スリープ直前の画面を表示される。
「なんなのよあの男は!」
鳥肌が立つほどの不快感に吠えながら、洗面所に駆け込んで念入りに手を洗う。
更に腰掛けた際、椅子の上にも散らばっていた毛がスーツのあちこちに付着していた事にも気付き、再び上げ掛けた悲鳴を飲み込む。
「アーティファクト」
ケット・シーがその手に布製のガムテープを持って立っていた。
意図を察したアーティファクトが短く「お願い」と答えると、ケット・シーは小さく頷いてガムテープを適当な長さに千切り、輪を作って指に掛けるとそれでアーティファクトのスーツに付着した毛を取り除く。
「貴方はいつまでここにいるつもりなのかしら」
「シガは期限については何も言っていなかった。ただ、蛭間に協力しろ、と」
「蛭間に協力……ね。私たちに情報を流したのは、何故?」
「蛭間の事はどうしても好きになれない」
同感だ。とアーティファクトは頷いた。
自分たちのしている事も大よそ人道から外れた事だと理解しているが、それでも蛭間という男と同列に見られるのは不快だった。
「終わった」
ケット・シーが使い終えたガムテープを丸めてゴミ箱に放る。
礼を言いながら振り返るアーティファクトを手招きして部屋に戻ったケット・シーが、更に奥にある部屋へ続く鉄扉を指差す。
「あの奥には、沢山の人間がいた」
「沢山?」
「入れ替わり立ち替わりだから完全な人数は把握していないけど、百人はいたと思う」
「ひゃく……!?」
蛭間の部下は百人もいない。金を積んで外部から集めたのだろう。
何故それほどの人数を集めたのかは分からないが、碌な事にはならないだろう。
「この事を私に教えたのはどうして?」
ケット・シーの方を振り返ると、既にその姿は無かった。
窓から外を見ると、建物を囲うように広がる森の中へ溶け込むように去って行く後ろ姿が見える。
「言いたい事だけ言って、用が済んだらさっさといなくなるとか!」
何を考えているのか掴み処が無さすぎるが、このままでは碌な事にはならないという事を忠告してくれた事は分かる。
アーティファクトは行動に制限が掛けられており、物理的に手が不足しており諜報活動にも限界があった。
止む無く他者に協力を求めたが、生憎と彼女にとって友好的な関係と呼べる仲間は皆無である。
仕方なく、話そのものに食い付いてきそうな蛭間を協力者に選んだのだが、やはり何があっても蛭間にだけは協力を求めるべきではなかった。
具体的に何をしようとしているのかは分からないが、百人もの人間を集めて何かをするとなるど、どうあっても大事になるだろう。
いざとなったら実力行使してでも、蛭間を止めなければならない。
「ああもう、知ったもんですか!」
アーティファクトは内ポケットから手術用の薄い手袋を取り出して両手に嵌めると、蛭間のノートPCを掴んで外に飛び出す。
急いで車に乗り込み、エンジンを始動させると発進させる前にスマホを取り出し、電話を掛けた。
「……フレスベルク、何処にいるの? すぐに戻って来て頂戴!」
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