第13話 闇夜の襲撃者

「私は睦月に嫌われたら生きていけないので断腸の思いで黙認している。その事を忘れるな」

 ポケットからメスをちらつかせながら凄むと、八幡院長は去って行った。

 あれは銃刀法違反にはならないのだろうか。

「父さんは何を?」

 いつの間にか俺が彼女を【睦月】、彼女が俺を【恭護先輩】と呼ぶようになっていた事に対する釘刺しだ。

 とはさすがに言えない。

「じゃあ、俺たちはちょっと用事があるから」

 何と言えばいいものか悩む俺の横を、誠司と相田が連れ添って通り過ぎる。

 鈍い俺でも流石に二人がだという事は分かる。所謂『恋人繋ぎ』をしている二人の手を見れば。

「いいですねぇ」

 全くだ。大っぴらにあのような事が出来るのが羨ましい。

 俺も出来る事なら睦月と恋人繋ぎがしたい。

「恭護先輩はこの後、用事がありますか?」

「い、いや」

「じゃあ、ちょっと一服していきましょう」

 部室から見える食堂のテラスを指差しながら言う。

 お茶と言っても食堂内の自販機で購入した紙パックの飲み物を手に、空いている席に着いて話をするだけだ。

 だがしかし、だ。

 睦月からの誘いで、二人きりでお茶を飲む。

 これはデートだと拡大解釈しても許されるのではないだろうか。

 少なくとも好きでもない相手と二人きりでいようとは中々思わないだろう。

 そうだとすると、これはもう相思相愛という事になるのではないだろうか。

 誠司と相田がさっさと行ってくれたお陰でこのひと時を過ごせている事を思い出す。有難う誠司。

「恭護先輩」

「は、はいっ!」

 妄想が中々小気味よく進んでいたところに声を掛けられ、軽く飛び上がるほど驚いた。

 紙パックを握り潰さなくて良かった。

「前から思っていたんですけど」

 睦月は両肘をテーブルに突き、俺の顔を覗き込むようにしている。

 あああ、もう、何というか……こう、目を合わせられん。

「それ、癖なんですね」

「え?」

 睦月の手が伸び、細い指先が俺の手の甲を軽く押す。

 顎を撫でる俺の右手の甲を、だ。

 化粧っ気をあまり感じさせない子だが、最低限のケアは欠かさないのだろう。光沢のある綺麗な爪が俺の鼻先にあった。

「恭護先輩って何か考えてる時に、親指で顎を撫でる癖、ありますよね」

「ああ、そうか……うん、気が付くとな」

 大半の男は中学生頃から、日々伸びる髭の処理に追われるだろう。

 余程の事が無い限り、毎日ないし数日置きに髭を剃る者が殆どだ。

 俺は昔から髭剃りが下手で、よく顎のライン……それも頬の下にあたる位置によく剃り残しが出来る。

 それを確かめる為に顎を撫でているのが、いつの間にか癖になってしまっていた。

「大学生ならそれほど気にしなくてもいいかもしれないけどな」

「就職活動には差支えがあるかもしれませんね……あ」

「身だしなみをチェックされるような段階まで進む事は稀だから大丈夫だ」

 デリケートな話題に対しては、当人の方から踏み込む事で相手が感じる心理的負担を和らげる事が出来るという。

 就職活動というものは俺にとって大変デリケートな話題だ。

 思わずそれを口にしてしまった睦月が気にしないようにする為に放った、要するに俺なりのだ。

「恭護先輩、大丈夫ですよ。いざとなれば……」

 渾身のジョークはどうやら滑り倒したらしく、睦月の憐憫の視線が惜しみなく俺に注がれる。

 やめてくれ、何だか俺も俺自身がとても可哀想な存在に思えて来るじゃないか!

「いっそ筆の代わりに出来そうなくらい伸ばしてみるかな……」

「……だ、駄目ですよ逃避しちゃあ!」

 少し間があったが。もしかして想像したのだろうか。

「そういえば、労働の有無は関係なく必要充分な衣食住を保証してくれる国があると聞いた事がある」

「恭護先輩が真剣な顔でそういう事を言われると不安になるんですけど」

「不安? どうして?」

「寂しいじゃないですか」

「……」

 おや?

 今、もしかしていってるのではないだろうか。

 何を以ってなのかは分からないのが難点だ。お陰でこの先の会話のチョイスが予想出来ない。

「恭護先輩は、働くのは嫌いですか?」

 もう少し考えさせて欲しかったのに、肝心の睦月がそれを許してくれなかった。

 残念だ。とても残念だが……今の俺にこの会話は少々難易度が高かったから、少しほっとしてもいる。

 次の機会までに会話の技術を磨いておかなければならないな。

「好きとは言い辛いが、暇を持て余すくらいなら適度に働いているくらいの方がいいとは思う」

「恭護先輩らしいですね」

「それに……睦月には俺の両親の事を話した事があったかな」

「いえ、でも病院で挨拶させてもらった事があります」

 峠の事故後に入院してる間、俺が意識不明で眠っている間に両親が見舞いに来ていた事を思い出す。

 その時に睦月は両親と会っていたようだ。

「どう思った?」

「あ……その、顔合わせ程度だったので、何とも……」

 歯切れの悪さが、彼女の抱いた印象を物語っている。

 念の為に言っておくが、個人の感想は別として両親は悪人ではない。

 父親は我が強くて俺とは徹底的に馬が合わず、母親はそんな父親に逆らえないだけだ。

 俺が一人暮らしをする事になった過程を話すと、睦月はとても驚いていた。

「こっそりと仕送りを受けて、それを頼りにしてしまっている身で偉そうな事は言えないだろう?」

「それで進路を気にしているんですね」

「父親は『自分の庇護の下にいる子供』という目で俺を見てるから、せめてそこから独り立ちしたいんだ」

 出来れば今住んでるマンションも引き払いたい。

 睦月がいるこの町を離れるつもりはないが、本当の意味で両親から離れて生活をしたかった。

「あら……」

 睦月が俺の肩越しに後ろを見る。

 そして俺は俺で、うなじを指先で押すような圧迫感という形で視線を感じて振り返った。

 キャンパスを沢山の学生が行き来する。その中に一人、立ち尽くしてこちらをじっと見ている者がいた。

 切れ長の目が特徴的な、背の高い女の子だ。

 顔立ちはやや幼く見える。まるで高校生のようだ。一年生かもしれない。

 スタイルのいい子だ。動き易い格好をしているせいでそれが良く分かる。

 特に肌寒さすら感じるようになってきたこの時期にホットパンツから伸びる素足は、目のやり場に少々困るほどだ。

「もしかして俺たちを見てるのか?」

 笑顔で俺たちに手を振った。

 俺とは微妙に視線が合わない。睦月が「えっ、わたし?」と、自身を指差しながら驚きの声を上げた。

 彼女は大きく頷くと、小走りでこちらに向かって来る。

「こんにちは!」

 テーブルのすぐ脇にやって来た彼女は大きな声で挨拶をすると、確認も取らず着席した。

「あなた、八幡睦月さんだよね」

「え、ええ……」

 身を乗り出さんばかりの勢いだ。睦月が少し引いている。

 俺はもっと引いている。

「あたしはって言うんだ。一年生だよ」

「後輩なんだよ。初対面だよね」

「そう、でもあたしは前からむっちゃんの事を知ってるよ!」

「むっちゃん……ああ、睦月だから」

「そしてあなたは加治恭護くん!」

 ぐりん、と効果音が聞こえてきそうな勢いで二ノ宮が振り向く。

 ポニーテールのように後ろで纏めた長い髪が遠心力で振り回され、睦月の顔をはたいた。

 睦月が「あうっ」と顔を押さえたが、二ノ宮が気付いた様子はない。

「ねぇねぇ、辻崎誠司くんは? あともう一人……えーと……相田……晴美さん!」

 彼女が俺たちを知っている事については特に驚く事ではない。

 誠司は大学内では良くも悪くも有名人だ。そんな誠司とよく一緒にいる俺たちも非常に不本意ながら顔だけは割と知られているらしい。

「何か用なのか?」

「どうしようかな、今言っちゃおうかな」

 何故か勿体ぶっている。

 なんだろう、この既視感のようなものは。

「あたし、せーじくんのサークルに入ろうと思ってたんだけど」

「辻崎先輩は下の名前……」

「それは残念だったな。サークルは無期限の活動休止だよ」

「えー、でもさっき部室から四人出て来たよね」

「見てたの?」

「声かけようと思ったけど、せーじくんとはるちゃんはどう見てもデートだったから邪魔しちゃ悪いなーと思って」

「晴美さんの事ははるちゃんなんだね……分かった、恭護先輩の事はだね!」

「当たり!」

 楽しそうに笑う二人。思いのほか馬が合うようだ。

「四人とも、あそこにいたよね」

「あそこ?」

「病院、怪物事件!」

 頬が強張る。

 二ノ宮の顔を挟んで向こう側にいる睦月の表情も凍っていた。

 怪物事件というのは耳慣れない言葉だ。

 だが、病院で起こった怪物事件となると心当たりは一つしか無い。

「別に誤魔化さなくてもいいよ。知ってるもの」

「知ってる?」

「あたしね、あの事件の時の野次馬だったの!」

 だから病院から脱出した誠司たちを実際に目撃したんだ、と言って笑う。

「びっくりしたよ。愛人に抱えられて出て来た人の顔、見た事あるなーって思ったらみんなだったから」

 それで俺たちに興味を持って、サークルに入部しようと思い立ったのが本題らしい。

 サークルが無期限の活動停止、事実上の解散である事を知った彼女は大層残念そうにしていた。

「でもあそこ部室だよね、まだ使ってるの? 何に使ってるの? 何してるの? 楽しそう! あたしも入れて!」

 口を挟む余裕が無いとはこの事か。

 仲が良さそうにしている睦月も、彼女の言葉にはやや渋い顔をする。

「あの、ちょっとそれは……」

「駄目なの? なんで?」

 誠司が主導となってやっている活動(と言えるほどの事を俺たちはしていないが)は、キメラ怪人に関する独自調査のようなものだ。

 キメラと関りが無い彼女を安易に加える事は出来ない。。

「あのね、活動方針として辻崎先輩に無断で他の人に内容を話したり、入部を認める事は出来ないの」

 何にでも疑問を抱く幼児のように「なんで? どうして?」を繰り返す二ノ宮を睦月が何とか説得する。

 明らかに納得していない表情で、それでも二ノ宮は身を引いてくれた。

「せーじくんに頼めばいいんだね」

「そうだな、誠司がいいって言ったのなら俺たちも歓迎するよ」

「絶対だよ!」

 小走りで去って行く二ノ宮を、呆気にとられたまま見送る。

 終始、彼女のペースだった。まるで高速で移動する竜巻に一時巻き込まれたような感じだ。

「凄い子でしたね」

「……」

「恭護先輩、どうしたんですか?」

「誠司には妹がいるんだが」

「そういえば辻崎先輩、ちょっとお兄さんぽいところありますよね」

「二ノ宮みたいな子なんだ。あれほど背は高くないけど」

 辻崎家との付き合いが長い俺だからこその発言に込められた意味を悟り、睦月はとても疲れた顔をした。

「なんか、お疲れ様です」

「ああ」



 その日の夜、誠司が訪ねて来た。

「あの後、睦月ちゃんと二人きりだったろ、どうだったよ?」

 玄関を開けて出迎えると開口一番の言葉がそれだ。

 コンビニ弁当が入ったビニール袋を手に、靴を脱ぎ散らかして部屋に上がる。

 施錠とチェーンロックをしてから戻ると、誠司は電子レンジで弁当を温めていた。

 特別珍しい光景ではない。いきなり訪ねて来るのも、まるで自分の部屋のように振舞うのもいつもの事だ。

 温め終わった弁当を手に腰を下ろした誠司の前に、冷蔵庫から取り出したお茶を置く。

「……お前、それは失敗したな」

 会話誘導されるがままに俺は睦月と語った内容を話す。

 話を聞き終えた誠司は、両手を頭の後ろで組んで仰向けに引っ繰り返った。

「俺なりに全力を尽くしたつもりなんだが」

「色々あるけど、何よりも就職活動ジョークってやつ? それは駄目だろ」

「やはり……睦月も来年からは他人事じゃないから、少しリアル過ぎたのだろうか」

「そのずれっぷりが本当に心配だよ」

「そうか、睦月は優秀だから俺ほど苦労はしないよな」

「いやだから、ジョークならまずお前が笑わないと駄目だろって事だよ」

 相手を笑わせるジョークで俺が笑わなければならない。

 どういう事だろうか。

「同じ内容を悲壮な顔……じゃないにしても、真顔で言われたらどう思うよ。例えば俺がそうだったら」

「誠司が真顔でそんな事をいう時は大抵ろくでもない事だからな。真面目に聞くだけ時間の無駄だ」

「お前は時々辛辣だけど、俺の事をどんな風に思ってるの?」

「知りたいなら話しても構わないが」

「流石の俺も傷つきそうだから遠慮しとくよ」

「賢明な判断だと思う」

 誠司が言うには、その時の俺は深刻な顔をしていたのではないか、という事だ。

 つまり冗談が冗談になっておらず、睦月には俺が自棄になっているように見えたのだ、と。

 そんなつもりは無かったんだが……冗談を言うのは中々難しいものだな。

「難しいと思うのはお前だけだと思うぞ」

「なんだと……」

「それよりも、二ノ宮って子なんだけどさ」

「ああ」

「同好会に入りたがってるのは分かったけどさ、どんな子だった?」

 人の話をあまり聞かずに、自分の言いたい事を言う。

 あまり物怖じする性格ではなさそうだ。

 言いたい事を言い、知りたい事を知ったら用は済んだとばかりに去って行く。

「色々考えたが、やっぱりお前の妹に似てるな」

「まじか! あんなやかましい奴がもう一人いるのか!?」

 世界の終わりを目の当たりにしたような深刻な表情をしているが、妹をどんな存在だと思っているのだろう。

「いや、だがなぁ……うーん……」

「どうした?」

「その二ノ宮って子を加えたら、女の子の方が多くなっちゃうけど」

「そうなるな」

「お前、それで大丈夫か? 気が多い男はあまり好かれんぞ」

 二ノ宮か、単純に容姿だけで見れば整っている方だと思う。

 俺の好みかどうかと言われると大分外れたところにいるのは間違いないが。

 あれだけ賑やかな子なら友人として付き合う分には楽しいかもしれない。

 とてつもなく疲れるだろうが。

「どちらかというと、俺よりもお前の好みに近い感じだったな」

「相田ちゃんとは正反対のキャラクターに思うんだけど」

「聞いた限り、相田ちゃんとは正反対の性格に思うけど」

「いや、性格ではなく外見というか、スタイルというか」

 胸の前に上げた両手で何かを下から支えるような仕草をする。

 言いたい事は分かったが指を無駄に動かすな。

「……一つ教えてくれ」

「なんだ?」

「あ、相田ちゃんとどっちが大きかった?」

 頭の中で相田と二ノ宮、何故か睦月も並んで立つ。

 俺も男だ。この手の話題は率先してしないものの、気にならないわけではない。

「ちなみに相田ちゃんはだな」

「いい、言わなくていい」

 詳しく説明しようとする誠司を制する。

 どうして説明出来るほど詳しく知っているのか、という事実は懸命に意識の外へ弾き出した。

「ちなみに、睦月ちゃんは細く見えるけど、実際はあるらしい」

「どうしてそれを知っている!」

 俺の反応が余程過剰だったのか、誠司が失笑しながら立ち上がる。

 手には食べ終わった弁当の容器を入れたビニール袋を手にしていた。

「旅行の時、相田ちゃんと睦月ちゃんは一緒に温泉に入ったから」

 相田が自らそういう事を話すとは思えない。

 おそらく意図せず口を滑らせてしまったのだろう。

 不慮の事故だ。それについて責めるつもりはない。

 だが誠司がそれを知った事だけは許せん。

「俺は今、八幡院長の気持ちが良く分かった。この気持ちを共有する為に八幡院長と話がしたいくらいだ」

「おいやめろ、本当に命に関わる。大体、睦月ちゃんを対象にこんな話題で盛り上がったと院長先生が聞いたら、お前もどんな目に遭うと思う?」

「……」

「……」

「この話題は止めよう」

「お互いの為に、だな」

 話が一段落したところで、誠司は上着を手に立ち上がる。

「悪い、ゴミの方は任せていいか」

「ああ」

 ビニール袋を部屋の隅にあるゴミ箱に入れると玄関に向かった。

 見送る為に後から着いていくと、誠司は靴に爪先を突っ込んで踵を踏み潰しながら扉を開けて外に出る。

 扉が開いた瞬間、キーンと耳鳴りがして鼓膜が軽く痛んだ。

 閉め切っていたから気圧が変わっていたのかな。そういう事もあるんだな。

「じゃあ、また明日な」

「俺は明日、講義があるんだが」

「部室で待ってるよ」

 マンションのエレベータに誠司が乗り込むのを見届けると、俺は扉を閉めた。



     △▼△▼△▼△▼△▼



 上機嫌で誠司は人気のない夜の道を歩いていた。

 最近の恭護と睦月は、距離が近付いているようだ。非常に喜ばしい。

 サークルが解散となってしまった事で恭護の人間関係が狭くなった半面、必然的に残った人間との間が密になった事もあるのだろう。

「それにしても、やっぱりキメラ怪人というのは特殊な存在なんだなぁ」

 部室を出た後、誠司と晴美は町にある大きな図書館へ行き、過去の歴史について調べていた。

 もしかしたら民間伝承に残されている魔物の正体はキメラ怪人なのかもしれない、と晴美が言い出したからだ。

 残念ながらそこに確信を得られる成果は無かったが、本好きな晴美がいつになく口数が多い姿は新鮮だった。

「それにしても日が暮れると寒いなぁ」

 恭護の部屋から誠司の家までは徒歩で三十分近く掛かる。

 今の季節、深夜の屋外にいると体の芯まで冷えて来る。。

 やはり恭護の家に泊めてもらった方が良かったかもしれないと軽く後悔した。

「いや、むしろ恭護が俺ん家に来ればいいんだよな」

 誠司の両親と妹は恭護の事をえらく気に入っており、一時期彼が辻崎家に厄介になっていた時は『辻崎家の次男』と公言していた。

 恭護は一人暮らしを始めて以来、殆ど辻崎家に顔を出さないのでみんな寂しがっている。

 その事を話せばお人好しの恭護の事だ、顔出しを名目に泊まり掛けで招く事くらい出来るだろう。

 途中で公園に入る。陸上競技の四百メートルトラックがすっぽり入る広さの大きな公園だ。

 小学生の頃は友人と一日中遊んだ場所で思い出も数多くある。

「夜の無人になった公園ってちょっとわくわくするなぁ」

 ジャングルジムや雲梯といった定番の遊具を通り過ぎ、やはり定番遊具のブランコに乗る。

 鎖が太いのでしっかりしており、誠司が乗ってもびくともしない。

 座板が低くどうやっても足を引き摺ってしまうので上に立ち、所謂を始める。

 ブランコの前後には柵がある。子供の頃はブランコを漕いだ勢いで飛び越える事が出来るか挑戦したものだ。

「ふふふ、今の俺はあの時とは違うぞ」

 久々に挑戦してみようかと更に勢いをつけた。

 思い切り後ろへ反動をつけて、次に前に向かった時に踏み切ろうと思ったその時、座板が後ろへ引っ張られた。

 慣性で誠司の体だけが前方に放り出される。

「うわ、わ、っと!」

 態勢を崩しながら咄嗟に両手を離し、勢いのまま跳んで柵の手前に何とか着地する。

 柵にぶつかりそうになったので、横に転がるように倒れ込んだ。

 危うく頭をぶつけるところだった柵からは『キン』と甲高い音がする。

「あたた……やべ、壊しちゃったかな」

 振り返って確認すると、ブランコの座板が割れていた。

 丈夫だと思っていたが、やはり大人が乗るのは無理があったのだろうか。

 流石に黙っておくわけにもいかない。と、割れてぶら下がる座板を手に取った。

「なんだ、これは?」

 割れた座板に、半透明のピアノ線のような糸が大量に巻き付いていた。

 ただ巻き付いているだけではなく、糸自体の強度が強く切れ味も鋭いのか座板に食い込んでいる。

 千切れた糸はそのまま公園の敷地ギリギリの辺りまで伸びて、そこで微かに揺れている。

 ハッとして今ぶつかりそうになった柵を確認すると、そこにも同じような糸が巻き付いていた。

 どちらも誠司がブランコに乗るまでは無かった物だ。

「……まさか」

 事実だけを挙げると、何処からか飛んで来た糸が巻き付いてブランコの座板を割り、柵に巻き付いたという事だ。

 糸は途中で千切れている。座板に食い込むほどの切れ味を考えると、触れない方がいいだろう。

 このような糸が何処からか飛んで来る事は、理屈だけなら有り得るだろう。だがこの状況は現実として有り得るだろうか。

 飛んで来た糸が座板に食い込むほどの勢いで巻き付き、更にもう一つ飛んできて柵に巻き付くという事が、だ。

 有り得ないと断言してもいいだろう。

 ならばこの状況はどう考えられるだろう。

 何者かが明確な意思を以って、糸を放ったのだ。

「ついに来たか……!」

 思い出したのは、柳瀬から聞いた事件だ。

 あの被害者が両足に負っていたという切り傷、それはこの糸によるものではないだろうか。

 誠司たちの予想では、あの事件の犯人はキメラ怪人だ。

 つまり、今ここにある糸を放ったのも──。

 そのような事をする存在に、一つだけ心当たりがあった。

「くそ……!」

 恐怖で歯の根が噛み合わない。

 周囲に目を凝らすが怪しい者は見当たらないが、闇夜に紛れているのだろう。わざわざ誠司を狙って二度も攻撃をしてきたのだ。三度目を狙ってまだ近くに潜んでいるに違いない。

 心臓が早鐘のように脈打つ中で、誠司はゆっくりとジャングルジムの方へ移動した。

 糸がどれだけの正確さで飛んで来るかは分からないが、浴びたら全身をズタズタにされてしまうだろう。

 幸いにも鉄製の柵を切断するほどの切れ味は無い。同じ鉄製のジャングルジムは盾として有効な筈だ。

 ガサ、と物音が聞こえた。弾かれるようにジャングルジムの陰に転がり込む。

 再び『キン』と音がして、誠司の目の前にある鉄棒に糸が巻き付く。

 糸はブランコの支柱の上、何も無い空間から伸びていた。

 見えない何かが誠司を狙っている。

 虚空から生える糸が何かに引っ張られるように横に動き、そこで千切れて垂れ下がった。

 糸を切り離したのは自分の居場所を隠す為と、次の攻撃の為だろう。

 次は何処から来るのか。予測する事も出来ず、ジャングルジムに掴まったまま動く事が出来ない。

 『見えない何か』はこの時、誠司の背後数メートルの位置にいた。

 恐怖に強張っている誠司の背中にゆっくりと狙いを定める。



     △▼△▼△▼△▼△▼



 急いで誠司の後を追う俺が追い着いた時、既に誠司は攻撃を受けていた。

 あの時に感じた耳鳴り。気圧の変化だと思ったが、少し違和感を覚えたのだ。

 今にして思えば、あれは誠司に目を付けたの気配とか、息遣いのような物を感じたものなのだろう。

 もう二度と、こんな事はしたくなかった。

 だが同時に、あの時の誓いが俺の胸中に甦った。

 ────彼らを守れ。

 ──その為に戦え。

「それだけの為に、戦え……!」

 悩んでいる暇は無かった。

 着る間も惜しんで取り敢えず掴んできたコートを放り出し、公園横に路上駐車されている車に両手をつく。

 両手の細胞の隙間がこじ開けられて、何かが無理矢理流れ込んで来る不快感と激痛。

 全身の骨が粉々になり、まるで粘土を形成するように自分自身が変わって行く。

 苦痛に目が眩む中で、誠司の背後から彼目掛けて煌めく糸の束が飛び出すのが見えた。

 もう猶予は無い。変化の最中で地面を蹴る。

 鋼鉄の翼が高圧縮空気を噴射し、一気に誠司と糸の間に割り込んだ。

 俺が発した爆風で吹き飛びそうになった誠司の体を抱えて守る。

 翼から頭部に掛けて半透明の糸が絡みついた。既に形成されていた鋼鉄の外殻と擦れ合って火花が散る。

 ぐい、と凄まじい力で糸が引かれた。予想以上に強い力に一瞬体が浮かび上がる。

「グ、グリフィン!?」

 抵抗するように翼を噴射した瞬間に糸が千切れた。

 次の攻撃が来る前に捕まえようと、誠司を放り出して糸の出所に駆け寄ったがそこには何もない。

 移動したのか? 何処に移動したんだ?

 駄目だ、場所が分からない。せめて誠司だけでも守らないと!

「……?」

 誠司は何処へ行ったんだ?

 公園灯だけでは光量が足りず、付近を見渡す事もままならない。

「グリフィン、こっちだ!」

 声がした方向には闇が広がっている。

「真正面だよ!」

 闇の中を縫うように真っ直ぐ進むと、突然目の前に誠司の姿が現れた。

 良かった、無事だった。

「グリフィン、お前もしかして……」

 ここは公園のほぼ中央辺りだ。遊具のような遮蔽物になりそうな物は何もない。

 どうしてこんな無防備なところに誠司は立っているんだ。

「よし……分かった、俺も一緒に戦うぞ」

 いつも突拍子もない事を言う誠司だが、この時ほど驚いた事は無い。

 見えない敵を相手にただの人間でしかない誠司がどうやって戦うつもりなんだ。

「聞こえてるか、姿の見えないキメラ怪人!」

 公園中に響く大声で誠司が叫ぶ。

 誠司も俺と同様に、敵の正体がキメラ怪人だと確信していた。

「お前の正体は分からないが、だからって戦えないわけじゃないぞ!」

 言いながら俺にしがみついて来た。

 糸による攻撃はグリフィンの外殻には効かないから、俺を盾にしているのだ。

 男と抱き合う趣味は無いが仕方がない。両腕で誠司の背中を抱えるようにして守る。

「グリフィン、見えないなら聞くしかない」

 姿が見えない以上、敵の存在を感じるには聴力しかないのは分かる。

「この公園が広くて良かった。ここなら敵は地面にいるしかない」

 小声で誠司が言うには、最初にブランコを攻撃された時の糸の長さは五十メートルは無かったという。

 わざわざ姿を隠して攻撃をしてくるという事は、確実に不意を突くためにも必要以上に近付いてはこないだろう。

「最初に俺を狙った時の距離こそ敵にとって確実に狙えて、かつ最も遠い距離だと思う」

 公園は広い。その中央にいれば四方五十メートルには何もない空間になる。

 公園の地面は土の上に砂が撒いてあるので、グリフィンの聴力なら地面を踏んで歩く音を聞き取れる。

 もし空を飛んでいるなら、羽ばたきが聞こえるだろう。

「敵の居場所が近付いて思い切り蹴っ飛ばせ」

 自分を囮にするつもりなのか。

「あ、でも俺に向かってきた糸は防いでね」

 それはそうだろうと頷いて目を閉じる。

 公園の中央にいると、公園灯の明かりは届かず周囲は完全な闇だ。

 何も見えないのは不安だが、逆に視力を気にしないでいい分、聴力に集中する事が出来る。

 足音は聞こえない。

 誠司の潜めた呼吸音と、遠い車の走行音。

 それ以外の音を、聞き逃すな。



 ──どれだけ時間が経っただろう。



 『ザッ』と地面を踏む音がした。それは随分と雑な足音で、気配を殺している様子はない。

 目を開けると、視界は薄らと明るくなっていた。まるで少しずつ晴れようとしている霧の中にいるようだ。

 いつの間にか夜が明けていたのだ。

 数時間もの間、集中していたせいか頭が痛い。腕の中にいる誠司も大分消耗している。

 地面を踏む音が断続的に、少しずつ遠ざかる。

 最後に少し強く地面を踏む音が聞こえ、それきり何も聞こえなくなった。

 それでも念の為、一時間近く俺たちはじっと様子を窺い、それからようやく気を緩めた。

「どうやら諦めてくれたみたいだ」

 今回は、と誠司は最後に付け加え、俺も頷く。

 誠司が手を伸ばし、外殻に絡みついた糸に触れると同時に小さな悲鳴を上げた。

 指先には血が滲んでいる。

 何処からか取り出した絆創膏を指に巻きながら、誠司は俺から離れる。

「また助けてもらったな」

 そんな事はどうでもいい、というよりそれどころではない。

 敵の出現、これは俺たちにとって重要な事だった。

「あれはキメラ怪人だと思うか?」

(そう思う)

「やっぱりシザーアングには仲間がいたんだな」

(とうとう現れたな)

「なんとかしないと……だけど、まずは帰って寝るわ」

 スタスタと自宅の方へ向かって誠司が歩き出した。

 まだ近くに敵がいるかもしれないのに、危機感が薄くないか?

「ずっと睨み合いをしていたんだぜ。引いたふりをして不意を突くならとっくにやってる。夜明けになった途端に引いたって事は、そこに引く理由があるんだろう。それなら暫くは仕掛けて来ない筈だ」

 それはそうかもしれないが……。

「かなりやばかったけど、色々と得るものはあったよ。出来れば連絡先を交換したいんだけど」

 スマホを取り出した誠司だが、俺の携帯は部屋にある。

 急いで出て来た為、何も持って来ていない。部屋の鍵も掛け忘れている。

 思い出したら心配になってきた。俺の部屋は大丈夫だろうか。

「仕方ないか。じゃあ俺は帰るよ。じゃーな」

 手を振りながら駆け足で去って行く誠司に、思わずこちらも手を振り返す。

 傍から見れば間抜けな光景だ。

「……さて」

 二度となるまいと思っていたグリフィンへの変身だが、不思議とそれほど気落ちはしていなかった。

 シザーアングの時ほど凄惨な状況にならなかったから、だろう。



 この時、俺はすっかり忘れていた。

 グリフィンから元の姿に戻った時、謎の頭痛と吐気で気分が最悪だという事。

 いや、それはまだいい。

 一番の問題は、グリフィンに変身する過程で服が失われてしまい、戻った時点で全裸になってしまう事だ。

 誠司と別れた俺が最初にする事は、夜が明けたばかりの時間帯、早朝の新聞配達のバイク音にびくびくしながら、変身前に放り捨ててしまったコートを探す事だった。

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