第12話 続・キメラを追う者たち
「と、言うわけなんです」
申し訳なさそうに言葉を結び、睦月が俯いた。
彼女の背後には、八幡三郎──八幡院長が腕を組んで俺たちを威圧している。
守護霊みたいだ。
「どうぞよろしく」
今日この日、怪人調査クラブに顧問が出来た。
そこまで言えば詳しい説明は不要だろう。顧問というのは八幡院長の事だ。
本来、顧問は大学職員がなるものだが。
「名前を貸してやるから形だけでもここに所属している事にしろと言ったら理事長は大喜びで許可してくれたぞ」
世界的にも有名な八幡院長が形だけとはいえ所属している、という事実は大学にとってマイナスにはならないだろう。
そういったところまで計算した上での言動なのだと思う、多分。
企むところまでは分かるが、それを押し通してしまうところに底知れぬ恐ろしさを覚えた。
「こうやって私は睦月が幼稚園の頃からずっと見守って来たのだ」
「凄いなー。父親だから過保護で済んでるけど、そうじゃなかったらストーカーだよな」
対象よりもその周囲にいる人間こそが最も危険という珍しいタイプのストーカーだ。
常日頃から言っている医師としての誇りを失わず、他者を傷つける事だけはしないでいて欲しい。
「顧問といっても活動に顔を出す必要無いよね。在籍中に一度も顧問を見た事の無い人って珍しくないし」
「そう、それ、晴美さんいい事言ったよ!」
睦月はさっさと帰れと言わんばかりの表情で背後の八幡院長を振り返った。
露骨な態度に八幡院長はしょんぼりする。不思議と同情する気には全くならない。
肩を落として出入り口に向かう八幡院長だが、扉に手を掛けたところで立ち止まる。
何かを考えているようだ。
「……辻崎くんからのメールでWebサイトの事は教えて貰ったよ」
声のトーンが先ほどまでとは全然違った。
と言うか、いつの間にアドレスを交換したんだ。
「森の一件を記事にしていないから大丈夫だとは思うが、これから話す内容はオフレコにしたまえ」
そう前置きして八幡院長が語った事。
それは、怪物事件の後で、ある患者の遺体が消えた事だ。
その患者は峠の事故の際、森の真ん中で保護された男だ。当時は意識不明の重体で、集中治療室に入院していたらしい。
病院事件の後、その男は死体で発見された。
その死体は集中治療室とは全く違う場所にあった為、事件当時に意識を取り戻して移動いたのだと考えられている。
「ここからが重要なところだ。その男なのだが、身元が不明だったのだ」
事故なんかだと身元を証明するものが全て失われており、意識が戻るまで確認する事が出来ない、なんて事もあるだろう。
それ自体は珍しいかもしれないが、特別な事では無いと思う。
「ちなみに私は峠の事故と病院事件の両方で検死を担当していてな、興味深い事が分かった」
ここから先は少しややこしい話だったのだが、睦月が簡潔にまとめてくれた。
峠の事故において、最近ようやく全ての死傷者の救助及び回収が完了したが、発端となったトラックの運転手だけが発見出来なかった。
生存者と死亡者、両方の身元を調査した結果、先日ようやく全員の身元を確認し終えたという。
そしてたった一人だけ身元が確認出来なかった男がいる。事故当時からずっと意識不明で、病院事件後に死体で発見された男だ。
「状況から考えると、その男の人がトラックの運転手だったって事だよね」
「ところで先日、シザーアングと思われる男について話をしたな」
口の中に苦いものが広がる。
ふと視線を感じて顔を上げると、睦月と目が合った。
「私が今話していた運転手らしき男とは、そのシザーアングなのだ」
軽い驚きの声を誠司が上げる。
確かにこれは記事にする事は出来ないだろう。
峠の事故について言及しなければならなくなる。あの事故でキメラ怪人に遭遇したのは俺たちだけだ。
怪人調査クラブの活動報告に峠の事故についてまとめたレポートを上げるのはリスクが高過ぎる。
レポートを出せずに残念そうな誠司を尻目に、俺は別の事を考えていた。
トラックの運転手がシザーアングだった、という事が引っ掛かる。
あれからずっと、俺がキメラ怪人になってしまった原因を考えていた。
俺の両親は普通の人間だ。誠司にそれとなく諭されて無事である事を連絡した時も、特別変わった様子は無かった、良くも悪くも。
その息子である俺も人間の筈だ。少なくとも先天的には。
生まれついてのキメラ怪人ではなく、何か切っ掛けがあってキメラ怪人になってしまった。
その切っ掛けは何だろう。
ここ最近、数ヶ月ほど間に何か違和感を覚えるような事はあっただろうか。
少なくとも思い当たるのは先日の旅行、更に絞り込むならば峠の事故以外に思い当たる事が無い。
だが、森に転落した後は誠司と行動を共にしていたが、誠司はキメラ怪人になっていない。
俺たち二人が森で体験した事、俺だけが体験した事……シザーアングにやられた事だろうか。
誠司もシザーアングに負傷させられたが、シザーアングの体で直接傷つけられたのは俺だけだ。
例えばシザーアングの鎌腕には人をキメラ怪人にする毒が塗られていて……。
いや、違うな。
病院事件ではシザーアングに襲われた人が沢山いた。
多くの人間が亡くなったが、重傷を負いながら生き延びた人も僅かながらいた。
その人たちがキメラ怪人になったという話は聞いていない。もしそうなら今頃大騒ぎになっている筈だ。
何か他の要因が俺にだけあったのだろう。何か、あっただろうか……。
「トラックを運転していたのがキメラ怪人って事は、トラックについて調べれば何か分かるかもしれないな」
「検死に立ち会った警察の人間から聞いたのだが、トラックは無くなっていたそうだ」
トラックが無い?
「あ、もしかして……」
俺のせいかもしれない。
グリフィンへ変身するには鋼鉄──正確には金属全般のようだが──を取り込む必要がある。
取り込んだ鋼鉄を基にして全身の外殻を作り出しているのだろう。
シザーアングに殺され掛けた俺は瀕死のままトラックの荷台に放り込まれて、気が付けばグリフィンに変身していた。
その時の記憶は朧気だが、トラックは無かったような気がする。
「何か知っているのかね?」
呟きに気付いた八幡院長が俺を睨んでいる。
彼が俺に向ける視線にはデフォルトで敵意が込められている。何故だろう。
「そういえば加治くんはあの時、最後まで現場に残っていたよね」
思わず相田に非難するような視線を向けてしまい、それを受けた相田が戸惑った顔をする。
あまりその話はしたくない。俺がグリフィンである事を悟られてしまうかもしれない。
俺に注目が集まるような発言は控えて欲しかった。
「あ、あの時の事は、よく憶えていないんだ」
しどろもどろの回答に、隣で話を聞いていた睦月が当然だとでも言いたげに頷いた。
「あの時の恭護先輩は大怪我をしていましたから、周りの状況に気を配っている余裕なんか無かったと思いますよ」
「じゃあ、トラックは何処に消えたんだろうか」
「恭護先輩の意識がある間は、トラックはあったんですよね?」
身を乗り出し、俺の視線に顔を割り込ませるようにして睦月が問い掛ける。
少し子供っぽい仕草に頬が緩みそうになったが、八幡院長の手前何とか堪える。
顎を撫でながらそれとなく目線を逸らした。
「た、多分、あったと思う」
「事件の最中に誰かがトラックを運び出したって事かな?」
「あの時のトラックが自走出来たかどうかで話は違ってくるかもしれないが、既に捜索隊が入り込んでいた森でトラックを一台隠し通すのは意外と困難だぞ」
「キメラ怪人の力なら出来るんじゃないかな。シザーアングの猿腕だったらあれくらいのトラック、運べたかもしれない」
シザーアングがトラックを隠蔽したというのは考え辛いだろう。
あいつは俺たちを抹殺する事を最優先にしていたし、実際すぐに追い着かれた誠司たちもそれは分かっていると思う。
「じゃあ、シザーアング以外の誰かがトラックを隠したって事になるのかな」
「シザーアングの仲間で、それもキメラ怪人がいたって事?」
話がどんどん深刻な方向へ進んでいる。
あの時、あの場にもう一体、キメラがいたなんて想像するだけでぞっとする。
だが勿論そんな事は無い。少なくとも俺たちが逃げ惑っていたあの時、森にいたキメラ怪人はシザーアングとグリフィンだけだ。
教えてあげられればいいのだが、それは俺自身の首を絞める行動だ。
何とも居心地が悪い。
「恭護先輩、顔色が悪いですよ」
「恭護はあそこでシザーアングに殺され掛けたからな」
空気が重い。
話題が話題なだけに、みんな深刻な表情をしている。
だが、その考えは根本的な部分を間違えているのだ。
指摘する事は簡単だが、出来ない。
何だか非常に申し訳ない気持ちだ。
この時の俺の言葉を端的に表すなら『なんか、ごめん』だろう。
「話題がトラックに逸れてしまったので戻すが」
来て早々、すっかり部室に馴染んだ八幡院長がお茶が入ったペットボトルのラベルを剥がしながら言った。
「実は消えたのはトラックだけではないのだ」
「どういう事ですか?」
「シザーアングの死体も消えた」
一瞬、意味が分からなかった。
この場合のシザーアングというのは、簡単に言うとシザーアングの人間体、の事だ。
それが消えた?
確か、発見された時は死体だったという話だったが。
「まさか、生きていたという事なのか?」
「いや、完全に死亡していた」
「断言出来るんですか?」
「検死の際にほら、開いたからな」
ああ、と納得した声が幾つも上がる。
「大体、グリフィンのファイアーボルトを喰らって無事なわけがないよな」
「ファイアーボルト?」
「ああ、その名前採用なんだ」
苦笑する相田を余所に、誠司は『待ってました』と言わんばかりに目を輝かせている。
「俺が命名したんだ!」
「だろうな」
「空に一条の炎の矢が」
「炎?」
「一瞬の出来事で!」
どうにも要領を得ない誠司の話を苦労してまとめると、グリフィンがシザーアングとの戦いで最後に繰り出した一撃の事をファイアーボルトと名付けたらしい。
「あまりにも一瞬の事だから、何が起こったのか良く分からかったんだけど、状況からグリフィンが物凄いスピードで急降下したみたいだね、って」
ああ……あれか……。
しかし、どうしてそれがファイアーボルトなんて大層な名前をつけられてしまうのだ。
「それがどうしてファイアー……何とかって名前になるんだ? ただの急降下キックであって炎の要素は無いだろう」
高度があったから派手に見えたかもしれない。
だがやった事はとても単純な事だ。
とにかく高く飛んで、そこから落下の勢いを加えたキックを繰り出した。
ただ、それだけなのに。
「摩擦熱か何かだと思うんだけど、急降下の軌跡と思しき一条の火線が」
ふむふむ、と話を聞く俺の目の前で、熱弁する誠司の表情が疑問符を浮かべた。
「あれは、キックだったのか?」
「恭護先輩、それって」
睦月が困惑した顔をしている。
みんなの視線が俺に集まっていた。
「お前、あれが見えてたのか?」
見えてたからとかではなく、本人だしな。
もしかして俺は今、何か失言をしてしまったのだろうか。
「加治くん、あんな一瞬の出来事でグリフィンの体勢まで見えていたとは大したものだ。その視力の秘密、一度くり抜いて調べたいのだが」
何処から取り出したのか、八幡院長の手にはスプーンが握られている。
待って欲しい。それで何をするつもりなのだろうか。
「見えて……視力?」
「わたしは瞬きもせずに見てたけど、なんか時間を切り取られたみたいに気付いたら病院が爆発してたよ。凄いね加治くん」
心の底から感心している相田の反応で、俺は失言の内容に気付いた。
ファイアーボルトは、俺自身の体感上は数十秒にも及ぶ出来事だったが、現実には一瞬の出来事だったのだ。
超高速という言葉すら生易しい速度で急降下するグリフィンがキックをしていたなんて見えるわけがない。
背中に大量の冷や汗が噴き出してくる。
「……そうか、そうだったのか!」
拳を震わせながら誠司が大声を上げる。
驚き過ぎて心臓が数秒止まったような気がした。
何かに納得した様子の誠司の視線を受けて、俺は蛇に睨まれた蛙のようになる。
「お前は何気なく良い事を言うな!」
俺の失言のどこが良い事なのだろう。
ただ一つ分かった事は、どうやら誠司は気付いていないらしい事だ。
「このファイアーボルトはグリフィンの必殺技に違いないと思うんだ」
無我夢中で出した、あの時の俺に出来る最大攻撃力の一撃、というだけだ。
別に必殺技だなんて大層な事を考えてはいない。
「必殺技というくらいの攻撃でなければ、私の病院を吹き飛ばす事など出来はしない」
「病院が強度を誇るの?」
「未曽有の災害に見舞われても、ものともせずに医療活動の拠点として機能し続ける為だ」
言ってる事は割と真っ当で、立派な事だ。
それなのに、何かが致命的な間違いをしているような発言だ。
「俺は思うんだよね。必殺技といえばキックだろうって!」
俺たちがポカンとする中、八幡院長だけが「その通り」と深く頷く。
「それは、決まっている事なのか?」
「昔からヒーローの必殺技はキックと決まってるんだよ」
「わたしは剣や銃の方が好きかなぁ」
「相田ちゃん、それは邪道だよ!」
「辻崎くんとは意見が合わないみたいだね……!」
「ヒーローは己の肉体のみを武器とし、必殺技にするべきだ」
「院長先生は分かってるなー!」
「ふふふ、その言葉はそっくり君に返そうじゃないか」
何かが意気投合したらしい、誠司と八幡院長は二人で頭を突き合わせるようにノートPCに向かい合う。
妙な熱を込めながらキーボードを叩く二人の後ろで、相田が「とにかく今は武器が~」と言っている。
「睦月、三人は何を話しているんだ?」
「わたしは……光線かな、って思ってました」
睦月の一言に三人がはっとした顔をする。
「光線……それもあったか」
「確かにビームは良いかも」
「巨大化は流石にしないか……」
真剣な顔で考え込み、小声で相談をしている。
何だ、理解出来ていないのはもしかして俺だけなのか?
話が逸れてくれた事は有難いが、なんたる疎外感。
少し寂しい。
△▼△▼△▼△▼△▼
快気祝いには少々遅過ぎる飲み会で話し込んでしまい、店を出た頃には既に日付は変わり終電も過ぎてしまった。
マンガ喫茶やカラオケで夜を明かす事も考えたが、アパートの自室までは駅四つ分。都心ならば歩いて一時間くらいだ。
冬の気配を感じるこの時期、夜気は酔い覚ましにもちょうどいい。
最寄り駅へ続く線路の高架橋沿いにゆっくりと歩き出した。
居酒屋を代表とする飲食店や風俗店が並ぶ駅前の繁華街を、キャッチの誘いをあしらいながらふらふらと歩く。
駅から離れるにつれて道路を照らす明かりは少なくなり、やがて数十メートル間隔で設置されている街灯だけになった。
高架橋沿いにある建物は店舗、あるいは事務所ばかりで住宅は殆ど無い。
静かな中で微かに聞こえるのは、付近の用水路を流れる水音と、マツムシの鳴き声だろうか。
このご時世、都会でマツムシの鳴き声が聞ける事に少し驚く。
「懐かしいな、実家の近くではよく聞こえたっけ」
張り巡らされたフェンス越しに高架下を覗く。
柱の周囲は舗装されているが、未舗装の場所は露出しているであろう土が雑草で覆われている。マツムシもそこにいるのだろう。
実家が急に懐かしくなってきた。
今の実家では結婚した姉夫婦が同居しており、もう自分の場所ではない気がして足が遠のいている。
久々に両親の顔が見たくなってきた。そろそろ年末だし、年末年始は実家で過ごそうか。
姉夫婦には甥がいるのだから、バイト代からお年玉を捻出してもいい。何なら早めに帰省してクリスマスプレゼントも用意してみようか。
大学を出てからフラフラしている自分の事を心配している両親に、せめて顔だけでも見せてやりたいと思った。
就職の事をはじめとして、色々と耳に痛い事を言われるかもしれない。
だが今はそれすら受け入れる事が出来そうな気がした。
久しぶりにこちらから連絡を、今は深夜だからメールだけでも送っておこう。
そう思い、上着のポケットからスマホを取り出し──落とした。
いつの間にか転倒していた。
手から滑り落ちたスマホが側溝の蓋の上で乾いた音を立てる。
蓋の隙間から落ちなくて良かったが、表面の液晶に傷がついてしまったかもしれない。
そのような事を頭上のスマホを見上げながら思っていた。
「……?」
おかしい、どうして頭上にスマホがあるのだろう。
頭部に妙な圧迫感もある。息苦しい。
それが、頭に血が上っている為だと気付くのに若干の時間を必要とした。
「あれ……おかしいな、上下が逆さまだ」
彼自身はまだ気付いていなかったが、いつの間にか彼は吊るされていた。
酔って感覚が鈍っていなければ気付いたかもしれない。
尤も気付こうが気付くまいが、それで何かが変わるわけではないのだが。
足首を締め付けられる痛みに、苦労して上体を少しだけ起こして確認すると、両足に何かが巻き付いていた。
それは半透明の糸──糸にしては太いが、何かを束ねたものではないので糸なのだろう──だった。
高架橋の側面から伸びる糸の束が両足に巻き付いている。街灯の明かりを受けてキラキラと輝く綺麗な糸だ。
重力に逆らって体を持ち上げる。酔いと苦しさで嘔吐しそうになったが我慢しながら糸に触れてみた。
電流が走るような痛みに指を見ると、指先が切れて血の玉が膨らんでいる。
血が垂れそうな指先を口に含み、鉄臭さが口内に広がるのを感じながら、彼はようやく自分が置かれている状況を把握し始めていた。
糸の出所を視線で辿る。暗くてよく見えない。少なくともそこには特に気になるものは無かった。
高架橋の防音壁から唐突に糸が生えているように見える。
「なんであんな所から?」
酔っているせいか、状況は把握できても危機感が薄い。
呑気に「さて、どうしようか」などと考える。
その間に、糸の根元が揺れ始めた。その先端にいる彼の体も振り子のように大きく揺れる。
右に揺れ、左に揺れ、繰り返すにつれて振れ幅と速度が増していく。
「あ……」
高速で迫る高架橋の天井。
彼の見た最後の光景だった。
△▼△▼△▼△▼△▼
それは奇妙な事件だった。
夜は人気の無くなる高架橋の下、雑草が生い茂る中で若い男の死体が発見された。
検死の結果、死因は全身打撲によるショック死と判明した。
死体の真上には高架橋の天井、高架橋からすれば床にあたる部分に、大きな血痕が残っていた。
その血痕が男のものである事は既に確認済みで、血痕の乾き具合からここに叩き付けられた事が原因だという事も判明している。
だが、問題はそこからであった。
一体、どうやってあそこに叩き付けらたのだろうか。
何かの仕掛けで地面から打ち上げられたのだとしても、命を奪うほどの勢いで打ち上げられたら死体の方にその痕跡が傷として残る筈だ。
死体の損傷は体の前面に集中している。背面の傷は生活反応から死後についたものである事が分かっている。
おそらく前面の傷は天井に叩き付けられた時、背面の傷は地面に落下した時のものだ。
現場に到着した柳瀬は先に調査を進めていた捜査員の報告を受け、自分の目で確認してから考えた。
気になるのは死体の両足だ。
死体はジーンズを履いているのだが、脛の辺りが切り刻まれている。
剥き出しになっている脛や脹脛も傷だらけだ。これらの傷は死亡前からついていたものだ。
「男の身元は分かったか?」
捜査員がタブレットを片手に首を横に振る。
死体は財布やスマホを抜き取られていたらしく、身元の照会は難航していた。
強盗にでも遭ったのだろうか。
その考えを即座に否定する。仮に強盗殺人だとしても、殺し方が大掛かり過ぎる。
殺人を肯定するわけにはいかないが、殺すのであれば鈍器で頭部を殴るか刃物で刺せばいい。
高架橋は十メートル以上の高さがある。そこに人間を放り投げて叩き付けて殺すなんて労力の無駄遣いでしかないだろう。
そこまでして殺害するというのは、少なくとも故意である事と、かなりの可能性で彼自身を狙って実行した犯行の可能性が高い。
怨恨の可能性が高いが、何か違和感がある。
「……」
殺害の目的は分からない。
だが、そういった殺し方が可能なものには心当たりがあった。
「あの怪物……確か、キメラと呼んでいたな」
病院事件で目撃した異形の怪物・キメラ。
人を模した形の為、怪人と呼ぶ向きがある。
キメラほどの怪力ならば人間を十メートル以上放り投げる事は簡単だろう。
現在、存在が確認されているキメラはシザーアングと鳥人キメラだが、どちらかが犯人なのだろうか。
いや、そもそもまだ犯人と断定は出来ない。有力な容疑者といったところだろう。
シザーアングは病院事件で鳥人キメラに倒されたと言われている。
しかし死体は発見されていないので生存の可能性を捨てるのは早計だ。
仮にどちらのキメラも生きているとして、どちらが怪しいだろう。
シザーアングは病院事件でも人間に対して強い害意を抱いていた。その点では非常に怪しい。
(だが……病院であれだけ暴れたシザーアングが、こんな人目を避けるような犯行を行うだろうか)
鳥人キメラはどうだろう。病院事件では人間を守って戦う姿が印象的だった。
しかし相手は得体の知れない怪人だ。無害な存在とは考え辛い。
天井の血痕を見上げると、また別の違和感を覚えた。
シザーアングと戦う鳥人キメラは格闘を苦手としているようだった。
脚力はそれなりに強いようだから蹴り上げて天井に叩き付け──いや、そんな勢いで蹴り上げたら全身が挫傷するだろう。
(それだけではない)
もっと別の部分。率直に言えば感情的な部分が鳥人キメラ犯人説を否定している。
本能のままに暴れるシザーアングとは別に、鳥人キメラは理性的だった。
消極的ではあるがこちらの呼び掛けにも反応し、割と好意的な対応をしていたと思う。
少なくとも鳥人キメラはこの殺人に関しては無関係ではないだろうか。
「何れにしても、キメラの犯行説を捨てる事は出来ないな」
もう少し、鳥人キメラとシザーアングについて調べる事が出来ていればと思う。
せめて、倒されたとされているシザーアングの生死だけでも確定させておきたかった。
──いや、まずはそこを確定させるべきだ。
武井への直談判が失敗に終わった時点で、独自にキメラの捜査を進めるつもりだった。
それすら見透かされていたのだろう。現場検証を終えて署に戻った柳瀬を待っていたのは、文字通り忙殺されそうな量の仕事だ。
本来は警部補がやる仕事ではないような、些細な案件も含まれている。
当番の間はこれらを片付けるのに精一杯で、自由に行動をする事は出来そうもない。
勿論、非番の時も暇を見つけて捜査をするつもりだが、まだこの県では非番時の警察手帳所持を認められていない。
警察手帳が無くても捜査は出来るが、色々と限られてくる部分があるだろう。
しかし柳瀬は諦めていなかった。この状況は決して悪くはない。
武井は明らかに柳瀬の邪魔をしようとしている。
彼はキメラについて何かを知っているのだ。その事を調べられる事を良く思っていない。
だからキメラを気にしている柳瀬を遠ざけようとしているのだろう。
現在の柳瀬が担当している事件は全てキメラとは無関係、とされている。
しかし、もしもその中にキメラが関わっている事件があるとしたら?
本当にキメラが関わっている必要は無い。容疑が上がるだけでいいのだ。
事件を解明する上でキメラについて調べる理由がそこに出来上がるのだ。
大事なのは、武井がキメラ関与の疑いがある事を知る前に行動する事だ。
報告書を提出するまでは何とか隠し通す事は出来るだろう。つまりこの事件が解決するまでがキメラ調査の期限だ。
事件の担当者を集めてのミーティングが行われる中で、柳瀬は今後の方針を打ち立てる。
チーム全体としての捜査方針には勿論従う。だが柳瀬が考えているのは『キメラ犯人説』だ。
出来れば一人で行動したい。今回の事件は担当者の人数が少ない為、単独行動をしても不自然ではないだろう。
最終的に提出する報告書の事を考えると、出来るだけ事件の捜査から逸脱した行動を取りたくない。
「あれっ?」
配られた事件資料に目を通していた同僚が目を見張る。
彼が見ているのは、被害者の死体写真だ。
「この人の顔、見た事あるよ」
「前歴があるのか?」
「違う、一ヶ月ほど前に峠で起こった事故を憶えてる?」
柳瀬は担当では無かったが、峠の事故については聞いている。
居眠り運転のトラックが暴走して接触事故を起こし、崖下の森へ転落したというものだ。
多くの車両を巻き込んだ、痛ましい大事故だった。
「不可解な事件だと聞いてるが」
トラックについては多くの目撃証言がある。
にも関わらず、事故現場からトラックは発見されていなかった。
「この人、事故現場にいた人だよ」
これまで不明だった男の身元も、事故当時の事情聴取の資料を調べれば分かるだろう。
待てよ、と閃くものがあった。
「その事故が今回の事件と繋がっている事は考えられないか?」
大事故ともなると、事故被害者の間でトラブルが発生する事は珍しい事ではない。
そこから更に別の事件へと発展する事も起こり得るだろう。
「彼自身はこの事故にどう関係していたんだ?」
「連鎖して発生した衝突事故に巻き込まれたようです」
「それなら事故後は病院に搬送されているな」
「ええ、怪物事件で崩壊した八幡総合病院ですね」
その名前を聞いた瞬間、柳瀬の中で幾つかの事が繋がった。
今回の事件の原因が峠の事故にある、これは飽くまでの仮説でしかない。
だが理由としては納得が行く以上、その真偽を調べる必要が出てくる。
「確か八幡総合病院は現在、第二病院の方を運営していましたね」
病院関係者と利用者は全員が第二病院へ移動している。
事故直後当時の様子を確認する為に行ってみる事にしよう。
「分かった。では私は第二病院へ話を聞きに行って来よう」
作業分担の打ち合わせをする前に、自分から率先して聞き込みを請け負う。
勿論、事件の捜査はきちんと行うつもりだ。
だがそれ以外にも目的があった。
八幡総合病院の院長・八幡三郎とのパイプを作る事だ。
八幡三郎は怪物事件の際にシザーアングと対峙し、鳥人キメラとも接触している。
彼がキメラについてどれだけの事を知っているかは分からないが、そこには別の案がある。
怪物事件で八幡三郎と共に、鳥人キメラに守られて病院を脱出した数人の大学生がいた。
シザーアングの名を知り、そして連中をキメラと呼んだのはその中の一人の男だ。
勝手に命名した可能性もあるが、柳瀬の知らないキメラの情報を持っているのかもしれない。
何よりも彼は言っていた。峠の事故で転落した森でシザーアングに遭遇した、と。
怪物事件は終わったかもしれないが、キメラの事件は終わっていない。その為にも彼らから話を聞く必要がある。
彼らは八幡三郎とも親しげにしていたから、八幡三郎から辿って彼らと接触しようと思う。
ミーティングも程々にして切り上げて、柳瀬は署を出た。
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