第2章 錯視の魔弦

第11話 キメラを追う者たち

 天井から吊るされた白いスクリーンを煌々と照らすプロジェクターだけが光源の暗い会議室にて、彼女は渋い表情で男を迎えた。

 本当ならばこの男とはあまり関わり合いになりたくなかった。

 今は男が必要だ。しかし、それも元を辿ればこの男が原因なのが腹立たしい。

「で、何の用かな」

 薄暗い部屋の中で、白衣のポケットから毛抜きを取り出しながら女に問い掛ける。

 プロジェクターに接続しているノートPCから顔を上げた女は、伸び放題の無精髭を手探りで抜いては散らす男の仕草に顔を顰めた。

 だが不愉快さを訴える事はせず、ノートPCを操作してスクリーンに一枚の写真を映し出す。

「うわ……」

 若い男の死体写真だった。

 大柄で筋肉質な体だ。だが下顎は半ば欠損しており片腕と下腹部も不自然に歪んでいる。

「貴方の不手際について、どう弁明するつもりかしら」

 写真の下に記載されている説明文によると、片腕は粉砕骨折、下腹部は内臓及び骨の全てが粉砕、破裂、圧迫──要するに押し潰されているらしい。

「この顔……もしかしてかい?」

 つい数日前に死亡したこの男はかつてシザーアングと呼ばれていた。

 彼をにするにあたり、彼自身の人柄や体質については一通り検査している。

 本名は興味が無かったので覚えていないし、今更確認するつもりもない。

 性格はいたって粗暴。

 格闘技経験者だが、格闘技を始めた切っ掛けはより効率的に人を痛めつける技術を身に着ける為。

 実際に試合では事故に見せ掛けて、何人もの対戦相手を再起不能にしており、更に何人かはそのまま殺害している。

 そんな人間性だからだろう、少し金を積んでみせたら簡単に被験者になる事に同意した。

「いい出来だったのに、どうしたのこれは」

「正体不明のキメラと交戦し、倒されたのよ」

「……シザーアングとは別のキメラが、シザーアングと交戦?」

「目撃者の話を総合すると、そうなるわね」

 細かい経緯は彼女も把握していない。

 数週間前に発生した峠の事故を境に、シザーアングは行方不明になっていたのだ。

 シザーアングの存在が最後に確認された峠の下に広がる森へ向かうと、既に事故対応に追われる警察関係者が数多く配置されていた。

 何とか隙を突いてキメラに関する痕跡を消去する事は出来たが、シザーアングの足取りに関する情報は得られなかった。

 シザーアングを代表とするに分類されるキメラは精神面に問題を抱えている者が多い。

 おそらく昆虫という全く異質の存在を取り込んでいる影響なのだろう。

 その問題は大抵の場合、自制出来ないほどの殺戮欲求として顕れる。早急に確保しなければ危険な存在だ。

 痕跡を消去している際に、シザーアングがに変異している事は確信していた。

 だが、そのシザーアングが重傷者として病院に搬送されている事は予想していなかった。

「どうしてシザーアングが病院に?」

「彼は事故現場で随分暴れていたみたいね」

 プロジェクターの映像が切り替わり、事故直後の森の写真がスライドショーで提示された。

 破壊痕を見れば、シザーアングがどの腕をどのように使ったのかが分かる。

「確かに、これだけ暴れられるのなら充分元気だったって事だね……ふーむ」

 まず大前提として、キメラに関するあらゆる情報は隠蔽すべき事である。

 隠蔽事項にはキメラとしての姿を晒す事も当然含まれる。

 キメラの力をその身に宿したがキメラ体へ変異するには、彼女たちによる許可が必要だ。

 シザーアングのキャリアは人間としては見下げ果てた部類に入る人種だが、それでも無断でキメラ体に変異するような事はしない男だった。

 もしも違反した場合、自身に起こるであろう出来事を知っているからだろう。

「予想する事しか出来ないけど、取り敢えず状況を整理しようか」

「そうね、そのうえで弁明して貰おうかしら」

 何を弁明しなければならないのか分からないがまぁいいか、と男は小さく呟いた。

 幸い女には聞こえていなかったらしい。

「まず、シザーアングが無断で変異した理由だけど──」

 彼が運転していたトラックは峠道から転落死、森で残骸が発見された。

 その際、シザーアングは生命の危機を感じたのではないだろうか。

 彼がキャリアになった時点で皮下に埋め込んだ補足用のタグが事故発生時と同じタイミングで損傷している。

 少なくとも事故で負傷した事に間違いはないだろう。

 人間ならば耐え切れないであろうダメージも、肉体的に頑強なキメラ体となれば話は別だ。

 違反した事に変わりはないが、その判断には納得出来るものがある。

「今度からタグはキャリアの体内奥深くに埋め込もうっと。いっそ脳内にすれば、生存確認も兼用出来るかな」

「そこで行方が分からなくなったシザーアングが先日、街の総合病院に現れたのよ」

 総合病院とは事件の影響で現在閉鎖されている八幡総合病院の事だ。

 そこの院長が名医である事くらいは知っている。

「あのさ、一応確認しておきたいんだけど、その場所は」

 男が最後まで言うよりも早く、彼女はプロジェクターにWebサービスの地図を表示させた。

 森の端から病院までは直線距離で五キロ以上離れている。

「万が一、僕たちに無断でキメラ体に変異してしまった場合は、人目を避けながら僕に連絡を取る事を優先しろって言ってあるんだけど……」

 シザーアングの身体能力ならば五分もあれば辿り着ける距離だが、自力で移動したとは考え難い。

 八幡総合病院は人間の病院だ。というよりキメラを診る病院はこの世に存在しないだろう。

 キメラ体のままで病院まで移動する理由が無いのだ。姿を見られるリスクが高まるだけである。

 つまり、本人の意思とは関係なく病院へ移動したと考えるのが当然だろう。

「事故現場から病院へ移動した理由として真っ先に思い付くのは、救急車で搬送されたってところかしら」

 そこから分かる事は、搬送された時点でキメラ体から人間体へ戻っていたという事だ。

 もしキメラ体で発見されたならば良くて捕獲、下手すれば猟銃で射殺されているだろう。

 尤も、猟銃程度でシザーアングを殺せるわけはないが。

「経緯は置いておきましょう。とにかく彼はその後、病院で再びキメラ体となり、キメラの存在を衆目に晒してしまったのよ」

「大変な事だね」

「そもそも、貴方がシザーアングに運搬を任せなければ事故が起こらなかった可能性もあるわ」

「実験も兼ねてたんだよ」

 飄々としていた男は目を細め、女を睥睨しながら薄らと笑った。

「だって、ちゃんと社会に溶け込めるか確認しなくちゃいけないじゃないか」

 いつかはキメラの存在を公表しなければならない。それが少し早まっただけだ。男はそう考えていた。

「キメラの存在が知られてしまった事もそうだけど、一番の問題はその情報がSNS発信だという事よ」

 既にマスコミを通じて情報には規制をかけている。

 だが、人の口に戸は立てられない。ましてインターネットが全盛の現在、個人が全世界に向けて情報を発信可能になっている。

 病院の事件を目撃した野次馬がスマホやデジカメで撮影した写真、動画を添えてキメラの情報をばら撒く。

 インターネットはその特性上、一度公開された情報を完全な意味で削除する事はほぼ不可能だ。

 ばら撒かれた情報はこの世界にインターネットが存在する限り、半永久的に残り続けるのだ。

「……幸いなのはキメラの話自体があまりにも荒唐無稽な事と、写真や動画の質が非常に悪い事ね」

 プロジェクターにスライドショーで表示される写真や動画は、どれも酷くぶれていてシザーアングを判別出来るものは殆ど無かった。

 異形の怪物・キメラを出来るだけ鮮明に撮影しようとすると、必然的にその時に最善となるアングルも限られてくる。

 同じ考えの人間は自然と同じ場所から撮影しようとして集まって混雑し、互いに撮影の妨げとなったのだろう。

 勿論、ある程度きちんと撮影された画像や動画もあるが、それらは距離が遠すぎたりしていてシザーアングのディティールがはっきり分からない。

「……」

 男はそれまでの軽薄な態度を潜め、真剣な顔で写真や動画を観察した。

 彼を責める女の声も耳に入らない。

「ねぇ……アーティファクト」

 唐突に呼ばれた女は唇の端を引き絞るように叱責の言葉を止めた。

「君は僕が嫌いだから、今回の件にかこつけて少し僕を攻撃してやろう、なーんて考えてるみたいだけど」

「あら、分かっていたのね」

「そろそろ本題に戻ろう。は何だい?」

 男が興味を示したのは、シザーアングと共に写っている鈍色の影だ。

 かなりのスピードで動いているのだろう。残像にしか見えないが、人型のようだ。

「もしかして……これがシザーアングを倒した正体不明のキメラかな?」

 立ち上がり、アーティファクトの隣に立つと彼女が握っているマウスを奪い、ノートPCを操作する。

 写真や動画、SNS記事のスクリーンショット……彼女が集めた資料に一気に目を通す。

「……この正体不明のキメラは、かな?」

 キメラにはベースとなった生物によって大まかに昆虫タイプ、鳥人タイプのように呼び分けられている。

 正式な呼称ではなく、彼女たちの間で区別するための通称のようなものだ。

 男が確認した写真や動画の中には、正体不明のキメラが若干ながら写っているものもあるが、残念ながら全身をはっきり確認出来るものはなかった。

 鳥人タイプの最大の特徴である翼も判別出来ない。むしろ鳥人タイプが本来持ち得ない外殻のような物が確認出来た。

 写真や動画で全身が確認出来ない状況で、それでも鳥人タイプではないかと仮説を立てられたのは、SNSの記事にといったニュアンスの言葉が頻出していたからだ。

「甲殻タイプとか、そういうのではないのかな」

「さぁ、そこまでは分からないわ」

「他には何か無いの?」

「……何て言えばいいのかしら、あまりにもバカバカし過ぎて」

 辟易したような笑顔を浮かべるとアーティファクトは男からマウスを奪取し、ノートPCのブラウザを起動する。

「これを見て」

 ブックマークからあるWebサイトを表示させる。

 表示されたWebサイトを隅から隅まで読み込むこと十分ほどが経過した頃。

 男は、アーティファクトと同じような笑みを浮かべる事になった。



     △▼△▼△▼△▼△▼



 十一月になった。

 旅行帰りの事故に端を発した事件も収束し、いつもの日常が帰って来た。

 変わった事と言えば、誠司が部長をしていたサークルが無期限の活動休止になった事だ。

 原因となる事故は誠司のせいではないし、部員も大怪我をした者はいたが幸いにも死者は出なかった。にも拘らずこの処分は、一応のけじめという事らしい。

 部長だった誠司は少しだけ落ち込んでいたようだが数日後には復活し、すぐに新たな同好会を設立した。

 例によって俺はいつの間にか、何の断りもなく同好会のメンバーにされている。

 現在の同好会のメンバーは俺、誠司、睦月、相田の四人だけであり、当面のところメンバーを募集するつもりはないそうだ。

「活動休止になったのに部室は使い続けてていいんでしょうか」

 相田と向かい合ってスマホを操作していた睦月が、ふと疑問を発する。

 ……そうだ、旅行から帰ったらすぐにスマホにしようと思っていたのに、色々あってすっかり忘れていた。

 こうしてはいられない。すぐに機種変更をしてスマホを手に入れなければならない。

「あれ、何処か行くんですか?」

 急いで荷物を纏めて立ち上がる俺を睦月が見上げる。

 目を合わせないように彼女の頭頂部を暫く見詰めていた俺は、立ち上がる勢いとは反対にゆっくりと腰を下ろした。

 今日は睦月もいる事だし、機種変更は明日にしよう。

 スマホは逃げはしない。が、今日という日は二度と無いのだ。

「よっしゃ出来た!」

 人数が減った部室で余り気味の長机を一つ占領してノートPCを打鍵していた誠司が喝采を上げながら右腕を大きく振り上げ、振り下ろした。

 その人差し指がダーンと大きな音を立てながらエンターキーを叩き、精根尽き果てたように椅子に背中を預けて脱力する。

「やっと出来たの?」

 相田が表情を輝かせながら誠司の背後に回り込み、彼の両肩に手を置いてディスプレイを覗き込む。

「……?」

 今、なんかちょっと……。

「辻崎先輩、入院してた時から何をやっていたんですか?」

「我らKCCの最初の活動報告だ」

「ケー、シー、シー?」

 アルファベット三文字というところから、おそらく何かの頭文字を並べたものだと思う。

 更にと言った事から、集団を指す言葉だという事も理解出来る。

 話の流れからして誠司が新たに設立した同好会の名前なのだろうが……。

「意味が想像出来ないんだが、教えてくれないか」

「怪人調査クラブでKCCだよ、それくらい分かるだろ」

「……もしかして怪人(Kaijin)、調査(Chousa)、クラブ(Club)……なのか?」

 少し考えて出た結論を確かめる様に誠司の顔を窺う。

 誠司は自分の意図が正しく伝わった事を笑顔で表していた。

 ぎこちない笑顔を俺も返す。意識して笑顔を作るのはあまり得意じゃない。

「お前らしいネーミングセンスだな」

「だろう?」

「略称がダサ過ぎる。まだ略さずに『怪人調査クラブ』と呼んだ方がマシだ」

 視界の端で睦月も頷く気配。

 誠司と何故か相田がショックを受けていた。

 まさか、相田も一緒に考えた名前だというのか。

「分かり易くていいと思ったのに……」

「ところで、その名前なんだが」

 怪人調査クラブ……活動内容はこのタイミングで設立している事と、その名前から予想はつく。

 キメラに関する何かをする事を目的とした同好会なのだろう。

 一つ気になったのは怪人という単語を使っている事だ。

「怪人っていうのは何なんだ? 怪物じゃあ駄目なのか?」

 怪物と怪人、この二つの言葉は全く違うように感じるが、厳密な区別としては曖昧だ。

 どちらの言葉も『超越した力を持つ人間』という意味で使われる事がある。

 だが俺たちは先日までキメラの事を怪物と呼んでいた。それをわざわざ怪人と定義し直す事には意味があるのだろう。

「マスコミの間じゃあ怪人って呼び方が定着してるってのもあるけどさ、やっぱり元が人間なら怪人だと俺は思うんだよね」

 誠司のこだわりを否定するつもりはない。

 むしろ俺はそのこだわりに少しだけ救われた気すらしていた。

 彼は飽くまでもキメラを人間と認識してくれているという事なのだから。

「成程なぁ」

 それに、彼の中で決定事項となった事柄を覆すのは並大抵の事ではない。

 そのような事に気力をすり減らすくらいなら、さっさと受け入れてしまった方があらゆる意味で気が楽だ。

 彼のこだわりに多少気を良くしていた俺はそんな言い訳を心の中でしながら、顎のラインと親指でなぞるように撫でつつ納得して頷いた。

「恭護先輩が素直に納得してるなんて、珍しいですね」

 ……俺はそんなに普段から不平不満を述べているのだろうか。



 シザーアングと戦ったあの日から二週間ほどが経っていた。

 戦いの余波で崩壊した八幡総合病院から、第二総合病院へと転院した俺たちは全員無事に退院した。

 最後まで入院していた誠司も先日ようやく松葉杖が必要ないくらいまで回復したところだ。

 あの日以来、キメラの……キメラ怪人は姿を現していない。グリフィンも含めて。

 インターネットの世界を中心に、今でもキメラ怪人の話題は人気だ。あれは果たして何だったのか、と。

 着ぐるみを来た暴漢なのか、或いは本当にがいて人を襲ったのか……真実を知っているのは俺たちと、キメラ怪人本人だけだろう。

「ふぅ……」

 パイプ椅子に背中を預け、天井を見上げると無意識に息が漏れた。

 少し疲労が溜まっているのが分かる。

 あの日以来、よく眠れていない。

 森と病院で二度、グリフィンの姿に変わった事で俺の中で何かが変化したのを感じている。

 特に病院でシザーアングと戦った時の変化が大きい。

 シザーアングを倒す為にグリフィンを受け入れると決めた時、心境の変化に合わせてグリフィンとしての本能のようなものが俺の中に植え付けられたのだろう。

 俺の体が『ただの人間』から『キメラ怪人の力を持つ人間』に変わったという事だ。

 もう一度グリフィンになりたいとは思わない。むしろ二度とグリフィンの姿にはなりたくない。

 俺の心と体がキメラ怪人にとはいえ、キメラ怪人としての力を完全に使いこなせるようになったわけではないのだ。

 使いこなせない力を行使するという事は、自らの身を滅ぼす行為に他ならないと俺は思う。

 夜、眠りに就く前に思う。

 眠りに就いている間、無意識にグリフィンへ変身してしまうのではないか。

 再びグリフィンへ変身してしまった時、元の姿に戻る事が出来るのだろうか。

 そして、シザーアングを倒す直前に俺の中で膨れ上がった破壊衝動。あれがみんなを傷つけてしまうのではないか……。

 そう考えると眠るのが怖くなった。

 数日間は眠る事が出来ず、膝を抱えながらじっと朝日を待った。

 暗く静かな部屋で膨れ上がる不安に叫びたくなる事が何度もあった。

 数日を無事に過ごすと今度は気が緩んできたのか、少しずつ眠る事が出来るようになってきた。

 だが、毎回の寝覚めは最悪だ。

 目が覚めたらまずは全身を手探りでチェックし、まだ自分の体が人間である事を確認する。

 そうしたら次は洗面台で鏡に向き合い、そこに映った自分に「お前は人間か?」と問い掛けるのだ。

 俺こそが、俺自身を一番信じる事が出来ない。

 少しずつ俺の精神が軋んできているのを感じていた。

「恭護先輩、大丈夫ですか?」

 額にひんやりした物が当てられる。

 ──いつの間にか目を瞑っていたらしい。危うく眠りに落ちてしまうところだった。

 当てられた物を手に取る。紙パックのジュースだ。

「少し横になったらどうですか?」

「いや、いいよ」

「今なら睦月ちゃんの膝枕がついてくるぞ」

「…………いや、いいよ」

「随分考えたな、おい」

 紙パックにストローを挿しながら誠司を睨む。

「お前がまとめてた活動報告とやらは最終的にどうするつもりなんだ?」

「これだよ」

 ノートPCを回転させ、俺たちの方へディスプレイを向ける。

 そこに表示されているのはインターネットのとあるWebサイトだ。

 真っ暗な背景に、太く大きな赤いフォントで『怪人調査クラブのほぺぱげへようこそ』と書いてあった。

 軽い眩暈がした。

「……これは、手打ちで作ったのか?」

 最近はレンタルサーバのブログサービスを利用する事で、HTMLを意識する事無く簡単に洗練されたデザインのWebサイトを作る事が出来るが、このWebサイトは違う。

 俺も高校時代に情報処理の授業で少しやっただけなので詳しい事は分からないが、おそらくHTMLをテキスト形式で直接打ち込んで作っているのだろう。

「ほら、高校の時にやったじゃん」

「今ならもっと簡単に作れただろう?」

「折角の経験を活かさなくちゃ!」

 その気持ちは分からなくはないが。

「……」

 誠司からマウスを受け取り、カーソルを動かしてトップページをスクロールさせながら目を通す。

 カーソルを動かすと、まるで流れ星の尾のようなエフェクトがカーソルについてくる。

 そのせいで挙動が無駄に重い。

 トップページの末尾には『あなたは00095人目のお客様です』と、CGIのカウンターが設置されていた。

 何だか妙に古臭い気がする。

 構成自体はシンプルなので意外と読み易いと思いきや、要所要所で文字のサイズや色が変化するので読み辛い。

 しかも全体的に行間が広い。所謂『溜め』の行間なのだが、大前提として行間そのものが必要なのだろうか。

 ふと、視線を感じて顔を上げると相田と目が合った。

 苦笑いをしている。

 おそらく俺も同じ表情をしているのだろう。

「恭護先輩、何かありましたか」

 若干の圧を感じさせる睦月の声。

 慌ててマウスホイールを転がして画面の一番上までスクロールさせながら、彼女の問い掛けに対する答えを考える。

「その……いいかどうかは分からんが……中々、他には無いデザインで……面白い……のかな……?」

 我ながら歯切れが悪過ぎる。

 睦月は小さく「ふーん」と答えると、マウスを握る俺の手に自分の手を重ねた。

「お、おい!」

「いつまでもトップページだけ見てても仕方ありませんから、他のページも見てみましょうよ」

 睡眠不足からくる疲労で鈍っていた頭に一気に血が巡る。

 俺の手の甲に睦月の手の平の柔らかい感触。睦月の指がマウスホイールやボタンに触れるたびに、俺の指を撫でるように掠めていく。

 ……いかん……その、なんというか……少々、大分……気分が昂ってきた。

「辻崎先輩が言っていた活動報告ってこれですか?」

 彼女が操作して表示させたページは、病院での事件をまとめたレポートだった。

 写真は掲載されておらず文章のみ。相変わらずのフォントと行間のせいでスクロールバーが異常に小さい。

「これは……」

 最初は睦月の手の感触や、ほんのりと感じられる体温やいい匂いに気を取られていた。

 だが、興奮を悟られまいとレポートに目を通しているうちに、その内容に引き込まれていく……良い意味でも、悪い意味でも。

 レポートの執筆者は、病院にシザーアングが現れた当日、病院内にいただ。

 彼は、遠目にではあるがシザーアング(レポート内では一貫して『蟻頭の怪人』と称されている)を目撃する。

 そのシザーアングが病院内にいる人たちを次々と襲い、想像を絶する惨状が繰り広げられる中、彼は決死の脱出を開始した。

 その後、男は病院を脱出(経緯は省かれていた)し、グリフィンとシザーアングが病院前の駐車場で死闘を繰り広げる。

 ここまでが概ね良い意味で引き込まれた部分だ。

「シザーアングについては曖昧な書き方になってるんですね」

「怪人がキメラっていう生物でシザーアングという名前だって事、一般人の中じゃ俺たちくらいしか知らないと思うんだよね」

「あんまり詳しく書いちゃうと、わたしたちの事が特定されちゃうかもしれないでしょ」

 レポートの内容について誠司と相田は相談しながらまとめていたらしい。

 というより、誠司が詳らかにしていた内容を相田が確認し、校閲したのだろう。

「森での事が書いてないのも、同じ理由なんだな」

 森でシザーアングに遭遇したのは俺たちだけだ。

 何が原因で俺たちが特定されてしまうか分からない。

 だから俺たちしか知らない情報については記さない方がいいと判断したのだろう。

「グリフィンについては『鳥の怪人』なんですね」

「あの外殻が鎧っぽいから『鎧の怪人』にした方がいいか悩んだんだけどね」

 そして、ここからが悪い意味で引き込まれた部分になる。



> 突如現れた『鳥の怪人』と『蟻頭の怪人』は病院の大駐車場で、周囲の人間を無視して争いを始める。

> ズダンッ!

> 蟻頭の怪人が大きく跳躍し、人間を容易く切り裂いてきた鎌を振り下ろした。

> 鳥の怪人はそれを腕で受け止める。

> キィィィィ───!

> 黒板を爪で引っ掻くような耳障りな音を立てながら火花を散らした。

> 刃が立たない事に驚いた蟻頭の怪人を追って、鳥の怪人が地面を蹴る。

> バゴッ! ズォォォォッ! ドゴーン!



「文章のレベルが急に落ちたぞ」

「擬音が増えましたね」

「子供でも楽しめるようにした方がいいと思って」

「楽しませるのが趣旨だったのか?」

「相変わらず細かい事を気にするなぁ」

 俺が細かい事を気にする性格になったのは、細かい事を誠司のせいだ。

「内容は有意義な情報だとわたしは思います」

 誠司はその言葉にやや不本意なようだが、俺も同感だった。

「引っ掛かるのは、このレポートに『その1』と番号が振られている事です」

「ああ、俺はまたこんな事件が起こると思っているよ」

 誠司のしれっとした答えと同じ事を、考えなかったわけではない。

 何しろ、俺たちはシザーアングに仲間がいる事を確信している。

 キメラ怪人はシザーアングだけではないという事は、俺たちの間ではほぼ確定している認識だ。

 シザーアングは人間に対して敵意を抱いていた。その仲間が人間に対して友好的である可能性は低いだろう。

 何より、キメラ怪人たちの共通認識として人間と敵対しない、という事であればシザーアングのような奴は野放しにはしていない筈だ。

「きっと同じような事件は起こる」

「辻崎くんがレポートをネットで公開しようと考えたのも、これが一番の理由なんだよ」

 メディアで報じられるニュースは水物だ。時間が経つにつれて流れて消えて、忘れられていく。

 個人が発信する情報──それはブログであったり掲示板などへの書き込みであったりと様々だが──は時間が経っても残るものもあるが、ゴシップ中心で正確性に著しく欠ける。

 真摯な態度で、真実を伝えるものが必要なのは俺にも理解出来た。

「それならまずレポートの後半は要修正だな」

 多少固い文章に感じられるくらいでなければ、ただでさえ低い信憑性は完全に失われてしまう。

 誠司は渋々といった様子で同意すると、ノートPCに挿したUSBメディアにレポートの内容をコピーすると相田に手渡した。

「じゃあ、相田ちゃんよろしく」

「もしかしてこのレポートって晴美さんが書いたの?」

「うん」

 あの擬音だらけの文章もなのか。

 いや、別にそういう文章を殊更に貶す意図は無いが、相田はもう少ししっかりした文章を書くと思っていた。

 読書をしている姿からの勝手なイメージではあるのだが。

「言っておくけど、あの文章は辻崎くんの要望だからね」

「それを聞いてとても安心した」

「おい恭護、それどういう意味だよ?」

 勿論、俺の中で抱いていた相田へのイメージが壊されなかった事の安堵だ。

 本当に良かった。

 相田の尊厳は守られたのだ。

「あの、活動ってこれから何をするんですか?」

 怪人調査クラブとやらの活動は、キメラ怪人に関する情報を集めて公開する事だという。

 現在、Webサイトに掲載されているのは、俺たちにとって公開可能なギリギリのラインだ。

 これ以上、俺たちが公開出来る情報は無い。

 新たなキメラ怪人による事件が起こればレポートを作成するのだろうが、そんな事件は真っ平御免だ。

「あちこちのサイトに宣伝を貼り付けようか」

「スパムですね」

「スパムだな」

「営利目的じゃないだけのスパムですね」

 インターネットでは一度悪い意味で話題になると容易くする。

 最終目的は真っ当でも手段は慎重に考えるべきだ、と三人がかりで誠司に釘を刺した。

 誰かに危険を伝え、注意喚起したい気持ちは分かる。

 だがそれ以上に、キメラ怪人に関わるのはもう御免だ。



     △▼△▼△▼△▼△▼



「一体どういう事なんですか!?」

 捜査本部の解散が宣言されたの会議が終わると、柳瀬は一直線に署長室に向かった。

 一応の礼儀としてノックはしながら、もう片方の手は同時に署長室のドアノブを捻っている。

 室内で机に向かっていた三十代後半位の男は、顔を上げると感情の読めない眼差しで柳瀬を見据えた。

 無言の圧力に一瞬足が止まった柳瀬だが、顎を引いて咽喉を締めながら室内に踏み込んだ。

「何がだね」

「先日の『怪物事件』の捜査についてです!」

 後ろ手に扉を閉める。

「その件についてはもう終わった筈だが」

「武井警視正……貴方の独断ですか」

「解散の件についてか?」

 椅子から腰を上げた武井はそのまま机の前に回り込み、両手を後ろに組んで柳瀬を見下ろす。

 柳瀬の身長は平均よりやや高い方だが、武井はそれよりも更に十センチは長身だ。

 更に最近になってから、その所作に妙な凄みを感じさせるようになり、別人ではないかと冗談交じりに囁かれている。

 一メートルも無い距離で見下ろされると息苦しさを感じた。

「独断もなにも、私はその権限を与えられている。それならば使う事に対して文句を言われる筋合いは無いだろう」

「理由もなくただ解散するとは到底納得出来ないのです」

「捜査の必要性を感じない。これ以上は捜査をするだけ無駄だと判断したのだ」

「そう判断した理由をお聞かせ願いたいのです」

 ふむ、と小さく呟きながら武井は視線を天井に向けた。

 そのまま身動ぎする事無く、柳瀬が焦れるのに充分な時間が流れる。

「──それこそ、私が判断した以上は説明の必要も無い」

 警察の間で『怪物事件』と呼ばれているのは、病院にシザーアングが現れた事件の事だ。

 事件はグリフィンがシザーアングを打ち倒した事で収束したという事になっているが、多くの謎が残っている。

 その中で柳瀬が最も警戒しているのは、消えた二体の怪物の行方だ。

 グリフィンがシザーアングを倒した、というのは状況から判断した事でしかない。

 何しろシザーアングの死体が見付かっていないのだ。見付かっていない以上は生存の可能性が残されている。

 可能性が残っている以上、警察としては警戒を解くわけには行かない筈だ。

 グリフィンも今回は人間を守ったというだけであり、人間を襲わないという保証はない。

「しかし、危険な怪物が二匹も野放しになっている可能性があるんですよ!?」

「だが、どちらも目撃情報は無いのだろう? 私は直接見たわけではないが随分と目立つ姿らしいではないか」

「町中に監視カメラがあるわけではありません。人目を避けて身を潜める事は不可能ではないでしょう」

「あれから何日経ったと思っている? 報告によるとどちらも手負いなのだろう、その状態で何日も潜伏していられるとは思えん」

「相手は我々の想像を遥かに上回る生命力を秘めた怪物です」

「やれやれ」

 机にもたれかかり、軽く組んだ足を押さえるように、膝に両手を乗せる。

 薄い唇で僅かにカーブを作りながら、武井は自身の爪先を見詰めた。

「そもそも……君はその怪物とやらの存在を、本当に信じているのかね?」

「な……貴方は、現場で本物を見ていないから分からないのです!」

「そうだな、分からないな。そして分からないなりに怪物の存在について疑問を感じ、判断した結果が捜査本部の解散なのだよ」

 のらりくらりとした発言を前に、詰問が面倒になってきた。

 飄々とした態度とは裏腹に武井の瞳の奥で時折、凝り固めた強い意志のような光が見える。

 何が目的なのかは分からないが、解散の撤回を求めるのは不可能だという事だけは理解できた。

「何を考えているのですか?」

 思い切って率直に聞いてみると、武井は沈黙を返した。

 沈黙が答え、ではなく何かを言おうと、何を言えばいいのかと迷っているように見える。

 それは同時に武井がこれまでの発言とは違う場所に理由がある事を明確に示すものでもあった。

「私の決定理由を君が知る権利は無い」

 唇を縫い付けるように強く引き締めると、武井は柳瀬に背を向けた。

 対峙の拒否、無言の拒絶だ。

「一つだけ、教えて下さい」

 あるか分からない武井の返事を待たずに言葉を続ける。

「武井警視正は、あれが本当に人間だったと思いますか?」

 数分の沈黙に、溜息を吐いて柳瀬は部屋を辞した。

 扉が閉まる音を確認してから、武井はゆっくりと席に着く。

 背もたれに体を預けて天井を見上げながら、柳瀬の最後の質問を心の中で反芻した。

「人間、か」

 そして、自嘲気味に笑った。



     △▼△▼△▼△▼△▼



 一ヶ月前にシザーアングが出現する発端となった事故が起こった峠道、そこには途中から山深くに通じる未舗装の私道がある。

 夜更け過ぎ、黒塗りのワゴンが数台、その私道に入った。

 私道に入ると同時にライトを消し、暗闇の中をワゴンが走り続け、フェンスで封鎖されている廃ビルに到着する。

 山頂付近にある廃ビルは鬱蒼とした木々に囲まれており、上空から見下ろさない限り建物を確認する事は出来ないだろう。

 先頭を走るワゴンがフェンスの前で停車し、助手席から降りた白衣の男がフェンスを留めている南京錠を取り除いて開け放った。

「はーい、じゃあよろしくね」

 フェンスを通過したワゴンがビルに後部を向けるように停車する。

 降車したドライバーはバックドアを開け、積んでいた大きな段ボール箱を抱え出しビルの中に運び込んだ。

 積み上がった段ボール箱を白衣の男は鼻歌交じりに開封し、分解されたOAラックが数脚分と、デスクトップPCとディスプレイが数台取り出す。

 最後に、衝撃緩和剤で丁寧に梱包されていた蛍光灯が数本出て来た。

 男の後ろで、荷物を運び込んだ者たちが無言で整列して指示を待っている。

「君はこのラックを組んでおいて。君は全ての窓を内側から目張りして。それから君は蛍光灯の取り換えを……」

 全員に指示を出し終えた男は、部屋の隅に解体して畳んだ段ボールを敷くと、その上に寝転がった。

「それが終わったら次にやる事は分かってるよね?」

 返事は無い。その事に彼は満足した。

 白衣のポケットから取り出した毛抜きで顎髭を抜きつつ、今後の予定に思いを馳せる。

 自分が主導になっての活動は随分と久しぶりだ。

 遠足前の子供のように心が躍っている。

 やがて全ての作業を完了させた者たちが再び整列すると、男は笑顔で立ち上がる。

「はいご苦労さん。君たちは撤収していいよ。車は一台だけ残してね」

 男の視線を受けた者は無言で小さく頷くと、静かに部屋を出て行く。

 すぐに外から車のエンジン音が複数上がり、遠ざかって行った。

「そして君たちは適当に空いてる部屋で待機しててね。暫くやる事が無いから寝てていいよ」

 追い払うように手を振りながら設置が完了したPCに向かう。

 完全にまっさらな状態でOSすら入っていない。夜が明けるまでにセットアップから設定まで全てを済ませておきたい。

「これから忙しくなるなぁ、こりゃあ大変だぞ」

 言葉とは裏腹に、男の表情は遠足が待ち遠しい子供のように輝いていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る