第10話 鋼翼の守護者

「うわあああぁぁぁぁっ!?」

 自分の悲鳴で目が覚めた。

 最初に視界に入ったのは、俺を見下ろす睦月の心配そうな顔だ。

「……むつ、き?」

 睦月が安堵の表情で頷く。

「シザーアングは……」

 そうだ。シザーアングは!

 上半身のバネの力だけで勢いをつけて体を起こす。

 頭を持ち上げた途端、呻き声が漏れるほどの頭痛に頭を抱えてうずくまった。

 油のようにぬめる汗で額は勿論、髪までぐっしょりと濡れている。

「恭護先輩、大丈夫です。もうシザーアングはいませんから」

 彼女の手が肩に触れる。

 シザーアングはもういない……?

 そうだ、思い出してきたぞ。

 俺は再び鳥人キメラの姿になり、シザーアングと戦ったんだ。

 何度も殺されるかと思った。何度も逃げ出したいと思った。

 それでも必死に戦って、最後に俺は──。

「手が……」

 頭を抱えていた両手を見る。人間の手だった。

 辺りを見回す。無機質な個室のベッドで俺は寝ている。

 部屋の隅に小さな洗面台がある。壁には化粧鏡が取り付けられていた。

「恭護先輩、何を?」

 苦労してベッドから降りる。スリッパを履く余裕も無かった。

 腕に鋭い痛みを感じて目を向けると、点滴の針が刺さっている。

「あ、駄目ですよ抜いたら!」

 俺自身を制止する事を諦めたのか、睦月が慌ててベッドの反対側にある点滴スタンドを持って来てくれた。

 彼女に見守られながら洗面台に縋りつく様に辿り着き、鏡を覗き込む。

「……元に、戻ってる……」

「何がですか?」

「睦月、ここは何処なんだ?」

 俺は鳥人キメラから元の姿に戻っていた。

 シザーアングを倒した後の記憶が定かではない。

 人目を避けて身を隠そうとした辺りで体力を使い果たし、地面に倒れたところまでは覚えている。

 それから、どうなったのか分からないが人間に戻る事が出来たようだ。

「ここは八幡総合病院です」

「え? だって病院はシザーアングと鳥人キメラの戦いで」

「第二八幡総合病院、です」

「だいに?」

 棒読みの発音でのオウム返しに睦月が笑う。

 二つ目があったのか?

「正確には分院なんですけど、こちらの院長も父さんだし施設の違いも殆ど無いから分院って感じじゃないんですよね」

 ベッドに腰かけながら彼女の言葉をぼんやりと聞く。

 誠司も含めて、シザーアングに襲われた人は全員こちらに運び込まれて入院しているそうだ。

 かく言う俺は病院敷地内の西棟からは少し離れた所で倒れていたところを、睦月と相田が見付けてくれたそうだ。

「……何か?」

 睦月がじっと俺を見ている。

 何か気になる事があるのだろうか。

「恭護先輩は、鳥人キメラと」

 心拍数が跳ね上がったのが分かる。

 驚きと緊張が顔に出たのだろうか、睦月は少し驚いた表情で言葉を切った。

「どうかしましたか?」

「い、いや……」

 彼女の視線から逃れるように軽く顔を背ける。

 ほんの少しの間、睦月は無言で俺を見ていたが、やがて話の続きを口にした。

「鳥人キメラとシザーアングの戦いを見ていたんですか?」

「ど、どうしてそう思うんだ?」

「その、わたし達が無事である事に対する反応が、ちょっと薄いかなーって」

「それは……」

 知ってたから、と言い掛けて慌てて口を噤む。

 これは迂闊に口にしていいのか? 鳥人キメラは睦月たちが無事だという事を知っているが、加治恭護は知っていても不自然ではないだろうか。

 こうして口ごもっている間にも不自然な空気が流れ続けている。

「そ、それは……その、俺たちのうちの誰か一人でも深刻な事態になっていたら、こんな悠長に話なんかしていられない、かな」

「それもそうですね」

 睦月の頬が緩んだ。どうにか誤魔化す事が出来たみたいだ。

 病室の扉が勢いよく開き、車椅子に腰を下ろした誠司が凄いスピードで飛び込んで来たのはその時だ。

「おい恭護起きろー!」

「辻崎くん、大声を出したら駄目だよ!」

 やや遅れて相田と八幡院長が室内に入り、八幡院長が後ろ手に扉を閉めた。

「いやー恭護! 無事で良かった本当に良かった!」

 五月蠅いな。

 眉を顰めて、表情で分かり易く抗議しているのだが誠司は気付いていないのか大声で話を続けている。

「どうなる事かと思ったよ、ほんとに」

 興奮気味にシザーアングと鳥人キメラの戦いについて誠司は語る。

 だが、その話を聞いているうちに俺の気分はどんどん悪くなっていた。

 吐き気を堪えながら、俺は誠司の話を制して八幡院長を見る。

「八幡院長は、あれから病院……第一病院の方へ行きましたか?」

「ああ、現場検証に立ち会ったよ。遺体の確認も必要だったしな」

「じゃあ、シザーアングはどうなったか、分かりますか?」

「それがな、シザーアングの死体は見付からなかった」

 ……やはりそうか。

 そういう事、なんだな。

「病院の中庭には何かが落下した後のようなクレーターがあった。戦いの決着がついたのはそこだったのだろう」

 確信があった。

 幾ら病院を調べてもは見付からない。

 何故なら……。

「シザーアングがそこにいると思ったが、そこで発見したのは絶命した一人の男性の遺体だけだった」



 俺がそうであるように。

 キメラは人間なのだから。



「恭護先輩、顔色が悪いですよ」

 これまでの経験から予想していた事だが、おそらくキメラは広義において力尽きると人間に戻るのだろう。

 体力が尽きる、意識を失う、絶命する。

 つまり、発見された男性の遺体というのが──。

「それが……シザーアング、なんだな」

 これが何を意味しているのか、考えるまでもない。

 鳥人キメラは……俺は、人を殺してしまったのだ。

「ちょっと加治くん、顔色が真っ青よ」

 堪らず、その場で胃の内容物を吐き戻してしまう。

 食事を摂っていなかったので床に撒き散らされたのは胃液だけだ。

 吐き出せるだけの胃液を全て吐き出しても嘔吐感は収まらない。

 胃酸が咽喉を焼き、逆流して鼻腔を焼き、刺激に涙が滲む。

 慌てた八幡院長が洗面台の上にある戸棚から手荒くタオルを引っ張りだし、それを床に敷くように放った。

「人が……死んだ……鳥人キメラが、人を殺した……!」

 殺した事を後悔はしていないつもりだ。

 そうしなければ殺されていたのだから。

 それでも心の何処かで殺したくないと思っていた。

 その気持ちが、シザーアングを殺してしまった。つまり人間を殺してしまった事実に強烈な拒否反応を起こしていた。

「睦月、看護師を呼べ!」

 八幡院長の声に弾かれるように、睦月がベッドのナースコールに飛び付いた。

 吐き気だけではなく頭痛も酷い。目を開けている事すら苦痛を伴う。

 全身から力が抜けた俺は吐瀉物が広がる床に倒れ、そのまま意識を失った。



     △▼△▼△▼△▼△▼



 目が覚めると、何処かのソファで横になっていた。

 頭上に睦月の顔がある。というか、睦月の膝枕で寝ていた。

「っ!?」

「動かないで、そのまま楽にしていてください」

 ハンカチが俺の目を覆うように被せられ、そのまま額を軽く押さえるように手が添えられる。

 視界が遮られているせいだろうか。少し気持ちが落ち着く。その代わり、後頭部に感じる感触と温もりに意識が集中してしまった。

 これは駄目だ、いやいいのだが、やはり駄目だろう……。

「辻崎先輩、恭護先輩が目を覚ましました」

 遠くから車椅子の車輪が転がる音が近付いてくる。

 ハンカチの隙間から横を見ると、ソファの体面に病室の扉がある。

 病室利用者の名札は俺の名前だ。どうやら俺が眠っていた病室の前にいるらしい。

「恭護、大丈夫か?」

「どうしてここに……?」

「お前がぶっ倒れた後、看護師さんがお前を着替えさせた後で部屋の掃除をするからってんで外に出したんだ」

 意識を失っている入院患者を一時的とはいえソファで休ませる事が適切かどうか、少し気になるがそれは別にいい。

 いや、決して睦月の膝枕が心地好いとかそういうわけではない。

 だからといって不満があるわけでもない。寝心地そのものは悪くないからだ。

 ……先ほどから油断すると意識が後頭部に向かってしまうな。

「眠っていて目覚めたばかりでまだ調子が良くないんだな。いきなり騒いで悪かったな」

 違うんだ。

 騒がしい誠司や睦月、相田たちの顔を見る事が出来て俺は嬉しかったんだ。

「悪かったといえば、あの時の事もお前の意思を無視して悪かったな」

 病院から俺一人が逃がされた事だろうか。

 確かに感情だけで言えば少しくらい嫌味を言ってやりたいと思う。

 だが、もし俺と誠司の立場が逆だったら、俺も同じ事を考えただろう。

 考えて、だけど尻込みして何も出来ない、しないのが俺だ。

 そして考えて、それを実行してしまうのが誠司だ。凄いことだと素直に思う。

 ああ……そうだ。

 この人たちを、俺は守りたかったんだ。

 この人たちと、俺は生きていたかったんだ。

 その為にキメラになって、必死に戦ったんだ。

 結果として、敵とはいえ人の命を奪ってしまった、この罪悪感はずっと消えないだろう。

 だけど、何と言われようと後悔はしていない。あの時、俺に出来る事はこれだけだったのだ。

 事態が複雑な為、罪に問われてどのように裁かれるかは分からないけれど、今は彼らを守る事が出来た喜びを甘受させて欲しい。

「睦月、何をしているのだ!」

 扉が開く音と同時に怒鳴り声が響く。声の主は八幡院長だ。

「何って、恭護先輩を介抱しているのよ! 弱ってる人を介抱して何が悪いの?」

 生まれて初めて悔しそうに「ぐぬぬ」と唸り声を上げる人を見た。

 いや、ハンカチで視界が覆われているから正確には聞いた、だ。

 正直とても名残惜しかったが、未練を断ち切りつつ体を起こす。

 額に当てられていた睦月の手はハンカチを俺の顔から退けると、そのまま体を支えるように俺の二の腕に添えられる。

「気分はどうですか?」

「ああ……大分良くなった」

「睦月に膝枕をされておいて気分が悪いわけがあるまい、私ですらされた事がないのに……」

 ふと、目についたのは相田が手にしているタブレットPCだ。

 視線に気付いた彼女はタブレットPCを誠司に預けると、車椅子を俺の傍に寄せた。

 誠司が俺にも見えるようにタブレットPCを傾けた。

「……【白い巨塔の崩壊】……?」

 表示されていたのは、インターネットに公開されている有名ニュースブログのトップページだ。

 トップページには最新ニュースで最も注目度が高い物が掲載されている。

 表題と共に貼付されている画像は、破壊され尽くした八幡総合病院の遠景だ。

 ああ、それで白い巨塔の崩壊、か。

「これは、シザーアングの記事だな」

「ああ、新聞社なんかが運営しているニュースサイトでは何故か掲載されていないニュースだな」

 誠司がゆっくりと画面をスクロールさせる。

 そこには八幡総合病院にシザーアング(記事内では怪人と表記されていた)が現れて多数の死傷者が出た事と、鳥人キメラ(こちらも同様の表記だった)が現れてシザーアングを倒した事が書かれていた。

「前にシザーアングには仲間がいるから、キメラの事を話してターゲットになる危険を冒すのは止めようって言ったけど、こうなっちゃうともう関係ないな」

 確かに、キメラについて知っている人間を全て標的にするのだとしたら、今回の事件で多数の目撃者が出た。

 仮に事件が全く報道されなければ、乱暴な話ではあるがこの町の人間を全て標的にすれば、もしかしたら目撃者を全員始末出来たかもしれない。

 しかしインターネットで公開されてしまったとなると、もう情報の拡散は止められないだろう。

 一度ネット上に公開した情報は基本的に全世界の人間が閲覧可能で、何らかの形で半永久的に残り続ける。

 それを目撃した人間を全て始末するのは事実上不可能だろう。つまり俺たち程度を始末したところで事態は全く変わらない。俺たちを敢えて狙う理由が消滅してしまったのだ。

 とはいえ、俺たちが森の事故でキメラに遭遇した事を知る人間は少ない方がいい。警察への情報提供も含めて、キメラに関する情報の公開には慎重になる必要があるだろう。

「病院の事件は痛ましいが、俺たちにとっては助かった一面もあるのが複雑な心境だよ」

 ちなみに記事はまだ掲載直後なのか閲覧者のコメントは無い。

 貼付されている画像は病院の遠景の他にシザーアングや鳥人キメラのものもある。

 だが混乱の最中で撮影されたものなのか、どれも大きくぶれていてシルエットくらいしか分からない。

「ふふふ、情報戦は俺たちの方が有利だよな」

 誠司が見せたスマホの画面には鳥人キメラが映っていた。

 アングルはともかくピンぼけはしていない、はっきりした写真だ。

「いやー、この時は復活前だったからボロボロなんだよなー」

「次は万全な状態の時の写真を撮りましょう」

 次があって欲しくはないんだが。

 そもそも、いつの間に撮ったんだこの写真は!?

「このグリフィンの写真は待ち受けにしておこうかな」

「あ、是非わたしにもください」

「……グリフィン?」

「そう、グリフィン」

 誠司は「何を当たり前の事を聞いているんだ」とでも言いたげな顔をした。

「加治くん、鳥人キメラの事だよ」

 相田がフォローしつつ、いつか誠司が使っていたスケッチブックを俺に差し出す。

 確かこれには鳥人キメラとシザーアングのスケッチがあったな。

 受け取ってページを捲ると、すぐに鳥人キメラのスケッチは見付かった。

 紙の隅に【Griffin】と走り書きされている。

「いつまでも鳥人キメラじゃ格好がつかないしな。シザーアングみたいに名前があってもいいだろ」

 シザーアングという名前の由来については、先日聞いた通りだ。

 カマキリの鎌からを意味するシザー、蟻だからアント、猿人の体はおそらくコング──この場合はゴリラ、それらを掛け合わせてシザーアング。

 それに倣って誠司たちで名前を付けたという事か。

「鳥人キメラって呼び方はなんか寂しいじゃん。例えば……相田ちゃんの事を清楚系巨乳って言うようなもんだろ」

「辻崎くんはわたしの事をそう思っていたの?」

「あ」

 口を滑らせるにしたってタイミングというものがあるだろう。

 興奮してくると発言の内容やタイミングに一切配慮が無くなってくるのが誠司の欠点だな。

 半眼で睨まれた誠司は天井を見上げながら口笛を吹いている。誤魔化し方が下手くそ過ぎる。

「恭護先輩、楽しそうですね」

「ああ、俺が一切被害を被らない状況で誠司が困っている姿というのは、なんというか……」

「何というか?」

 表現が難しい。

 スッキリする、という言葉が近い気もするが、違う気もする。

 こう、なんというか、普段から誠司には振り回されているから、彼自身にも少しくらい困って欲しいという気持ちが満たされたという……ああ、そうだ。

「溜飲が下がる」

「わたし、辻崎先輩と恭護先輩がどうしてこんなに仲が良いのか不思議に思います」

 それこそ昔からの積み重ねというやつだろう。

 事細かに話すつもりはないので、適当に笑って流す。

「グリフィンという名前は何処から出たんだ?」

 グリフィンという言葉も、複数の生物の名前を繋ぎ合わせたものなのだろうか。

 グリ+フィン、辺りが妥当な分け方か。

 そういえばフィンという言葉は確かヒレとか羽という意味だったな。ではグリは一体……?

「グリフィンとはキマイラと同じくギリシャ神話に登場する魔物の名前なんです」

「キマイラは前に教えてもらったから分かるが……?」

 疑問を口にするよりも早く、隣に座る睦月が言う。

 何故かその声音には熱が篭もっていた。

「鷹の前半身、獅子の後半身を持つ魔物です」

「そいつもキマイラじゃないのか?」

「キマイラはキマイラという魔物なんです」

 似たようなやり取りを以前もやったな。

 そもそも空想上の生物と言っても大抵は実在する生物がベースになっているものなのだろう。

 現実社会として、キマイラの存在が偶々ピックアップされてキメラという用語が誕生しただけで、空想上の生物は殆どが何らかのキマイラ、もといキメラなのかもしれない。

「グリフィンは鳥と馬のキメラだと思うんだよな」

 誠司が馬だと言ったことには一応の根拠がある。

 一つ目の根拠は鳥人キメラ改めグリフィンの脚部外殻は太腿にあたる部分が太く、四足歩行動物の後ろ脚を思わせる事。

 二つ目の根拠はやはり脚部、足首から下は蹄と鉤爪を掛け合わせたような形状なのだが、足の裏に蹄鉄らしき部位がある事だ。

「お前よくこんなの気付いたな」

「写真を撮りまくってたからな」

 改めて誠司が見せてくれたグリフィンの写真はピンボケしているものばかりだった。高速で動くグリフィンを追い切れなかったのだろう。

 だが中には最初に見せてもらったもののように綺麗に写っている物もあり、確かに足の裏が蹄鉄らしき形状をしている事も確認出来る。

「だけどこれだけなら他の……例えば牛とか」

「それも少し考えたけど、グリフィンの脚力を見てるとやっぱり馬かな」

 牛も脚力は決して弱くはない。

 だが該当する動物の中で脚力が強いイメージがあるのはやはり馬だろう。

 根拠といっても理論的ではなく、推測の域を出ない。だが俺は納得してしまった。

 グリフィンとして戦っていた時にのイメージが強かった事は事実なのだ。

 鋼鉄の翼を操る際も、感覚としてはだったのだから。

「……あれ、だけどグリフィンは鷹と獅子、だよな。馬は何処へ行ったんだ?」

「あの、それはですね、鷹の前半身と馬の後半身の魔物もギリシャ神話にいるんですけど」

「じゃあそっちの方がぴったりじゃないのか?」

「その……ヒポグリフ、という名前なんです」

「それがどうかしたのか?」

「……グリフィンの方が、響きが格好いいな、って思いまして……」

 この反応、もしかして……。

「名前を考えたのは、睦月か?」

「名付け親だけは譲れないって睦月ちゃんが言い張ったんだぜ」

 グリフィンという名前は、正直少し変な名前だと思っていた。

 だが睦月が名付け親と分かった途端、悪くない名前だと思えてきた辺り我ながら現金なものだ。



「ところで……」



 苛立った表情の八幡院長が、ソファに腰を下ろした俺の前で腕を組んでいる。

「加治恭護くん、それと睦月、二人に確認したい事がある」

「なにか……?」

 後ろで誠司が相田に何か耳打ちをした。

 何かを聞いた相田の瞳が好奇心に輝いたような気がする。

 隣の睦月を見ると、彼女は疑問を訴えるように小さく首を傾げた。

「ほら、それだ! 言葉もなくなんとなく通じ合ってる感じ! いつからそうなったんだ!」

「な、え、あ……?」

「何よりもだ! お前たちはいつの間にか名前で呼び合う仲になりおって!」

「へ?」

「おお、貴重な恭護の間抜け面だ、写メ撮っとこう」

 名前でって、俺は睦月の事を……あれ、そういえばいつの間にか睦月って、え?

 何だ、いつから俺は彼女を名前で呼ぶようになっていたんだ?

 旅行中……は苗字で呼んでいたな。事故の時は……どうだったかな。

 当の睦月は何故かニコニコと笑顔で俺を見ている。

 彼女はいつからか分かっているみたいだ。

「ちょっと、確認したいんだがむ──」

 意識してしまった途端に名前で呼び辛くなってしまった。

 だがここで苗字で呼ぶ事が間違いだという事は流石の俺でも分かる。

 八幡院長が余計な事を言わなければ何の問題も無かったのに!

「ほほう、私が余計な事を言った、そう思っているような目付きだなぁ」

 心を読めるのか!?

「父さん、あまり先輩をいじめないでよ」

 頼むから煽ってくれるな!

 睦月の発言で大袈裟によろめいた八幡院長がギリギリと歯軋りしながら俺を睨む。

「ほら恭護、お前も言えよ!」

「頑張って加治くん!」

 傍観者の二人が好き勝手に煽る。

 それが出来るようならここまで苦労していないんだよ!

 というかお前たちこそいつの間にか随分仲が良くなっているな!

 懸命に弁明しながら、改めて強く実感する。

 地獄のような非日常で必死に抗い、戦い抜いて、ようやく日常に戻って来たのだ。

「何を笑っているのだ、忌々しい!」

 これはこれで苦境だと確信した。

 だが、キメラを相手に命を削り合うよりは余程有意義ではないかと思う。

「点滴でうっかり生理食塩水を注入してやろうか」

 ……多分。

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