第9話 炎の矢

 車体に鉤爪を立てる。

 爪と車体が擦れ合う不快な音がしたのは最初だけだ。

 すぐにメキメキと音を立てながら自動車が【萎み】始めた。

 目に見えぬ螺旋の奔流に搾り上げられるように捩じれ、原型を失い、体積すら縮めながら鳥人キメラの右手に吸い込まれているように見える。

「ウ……グ……オオオォォォォォォ!」

 頭の中に鉛の塊を詰め込まれるような不快感と頭痛に大きくかぶりを振る。

 襲い来る苦痛に耐えながら、車体に突き立てた鉤爪にさらなる力を篭めた。

 人体を構成する細胞ひとつひとつの隙間を無理矢理こじ開けて、煮え滾る溶岩を流し込むような苦痛。

 或いは、全身の骨や肉をドロドロに溶かし、粘土のようにこねられ続けるような苦痛。

「オオオオァァァァァァッ!」

 発狂しそうなほどの痛みを少しでも紛らわせようと吼えた。

 この痛みは初めてではない。程度の差はあるが、これで三度目だ。

 一度目は森で初めて鳥人キメラになった時、二度目は病院の裏で再び鳥人キメラになった時、そして今この瞬間の三度目。

 同時に彼は最初の戦いの全てを思い出していた。

 痛みが切っ掛けか、或いは鳥人キメラとして三度覚醒しようとしている事が切っ掛けなのか……。

「睦月!」

 苦しむ鳥人キメラを呆然と見守っていた睦月の腕を、三郎が掴む。

 三郎は睦月を守るように抱き締めると、苦悶する鳥人キメラを見上げた。

 赤く濁りつつある緑色の瞳が三郎を見据える。

 蛇に睨まれた蛙のように動けなくなった三郎と睦月に向かい、鳥人キメラはこめかみを押さえていた左手を差し向けると──まるで追い払うように、手を軽く振った。

 ──逃げろ。

 その意思に気付いた三郎が睦月を抱えたまま後ずさりする。

 鳥人キメラは小さく頷くと、差し向けていた左手を真横に伸ばした。

 シザーアングと三郎たちの間を、阻むように。

(絶対に守る……絶対に……)

 鳥人キメラの頭の中で凶暴な感情が膨れ上がっている。

 背中に触れた睦月の手の感触と温もりに触発された劣情は性欲と殺意が入り混じったものだった。

 本能が感情を大きく揺るがす。あの柔らかく温かい体をズタズタに引き裂いてやりたい、と。

 理性が感情を必死に抑え込む。殺したいのではない、守りたいのだ、と。

 勝るのが理性であるよう、自分自身に言い聞かせながら、鳥人キメラは苦痛に耐え続ける。

(──そうか、そういうことだったのか)

 キメラと化した自身を受け入れ、戦う覚悟を決めたからだろうか。

 鳥人キメラ──恭護は、全てを思い出していた。

 事故の時、自分の身に何が起こったのかを。

 そしてあの時、自分が何をしたのか、そのやり方を。

 車体はひたすらに搾り上げられた結果、糸のように捩られて右手に吸い込まれていく。

 同時に、激しい戦いで損傷し、艶を失い気泡塗れになった外殻は乾いた土のようにひび割れ、頭部を残して剥がれ落ちた。

 外殻の残骸は地面に衝突すると粉々になり、風に溶け込むように消える。

 外殻の下にあったのは、銀色の毛皮に包まれた引き締まった肉体だ。

 血に染まった銀毛は、日の光を受けて赤く煌めいている。

「その為にも、もう一度力を!」

 頭部外殻の表面に無数の亀裂が走る。剥落したその下には、既に新たな外殻があった。

 頭部だけではない。鳥人キメラの全身の銀毛が束ねられるように固まり、硬質化していく。

「鳥人キメラの外殻が、再生していく……?」

 恭護が鳥人キメラへと姿を変えたのは、無意識の行動によるものだ。

 一回目は森で、二回目は病院の裏で……そして今、彼に起こっている現象はそれに類似したものだ。

 これまでと違うのは今回は無意識ではなく、自らの意思によるものだという事。

 鳥人キメラはただのキメラではない。本来キメラが持ち得ることのない力を持っている。

 そしてその力こそが鳥人キメラを鳥人キメラたらしめるものであり、同時に恭護が鳥人キメラへ変化する起爆剤のようなものだった。

 それが──それこそが【鋼鉄】の力だ。

 恭護に宿ったキメラの力は、【鋼鉄】の力を得ることによって発現する。

 その力は具体的にどうすれば発現するのか、恭護は今まで知らなかった。

 森では何も知らないまま無我夢中で力を欲し、無意識にその力を発現し、睦月たちを絶体絶命の危機から救い出した。

 今も危機は去っていない、だが今までとは大きく違うことがある。

 逃げるのは辞めた。

 恐れは今だけ忘れた。

 何よりも、今だけは自分自身がキメラという怪物である事実を受け入れた。

 単なる気持ちの問題だ。だが、自分自身を知るうえで気持ちの切り替えはとても重要な事だ。

 全てを受け入れ、戦いへの衝動を認めた恭護の頭の中に、抑え込まれていた本能が情報となって流れ込む。

 そして彼は知った。鳥人キメラの力の源が【鋼鉄】である事を。

 そして彼は知った。【鋼鉄】の力は体外から取り込む事が可能である事を。

 そして彼は知った。【鋼鉄】の力を発現させる方法を。



 ──そして彼は【思い出し】た。シザーアングを屠りうる必殺の一撃を!



「おおおオオオオォォォォォァァァァァッ!」

 雄叫びと共に【鋼鉄】を喰らっていた右手を握り締める。

 【鋼鉄】を喰らい尽くされた自動車は車体を完全に失い、タイヤやシートなどの非金属のパーツだけがその場に残されていた。

 頭痛が酷い。吐き気もする。

 同時に、今にも爆発しそうなほどの強大な力が、甦った鋼鉄の翼の中で燻っていた。

 【バキン】と音を立てて、甦った鋼鉄の翼が展開される。

 小さな翼だ。全開してもその大半が体に隠れてしまい、正面からは殆どその形状を確認出来ない。

 だが、その小さな翼にこそ一撃必殺の力が宿っている。

 翼の端面が空気を細く、鋭く、長く吐き出す。笛のような音が鳴った。

 翼の付け根辺りから駆動音とタービンの回転音が発生し、徐々に強まる。

 やがて笛のような音は聞こえなくなり、タービン音が大気を震わせるほど強くなった頃──。

 地面を蹴ると同時に、鋼鉄の翼が一際高い唸りを上げる。

 大気が爆発した瞬間だった。

 【ズバン】という爆発音と共に、鳥人キメラの後方に文字通りの爆風が放たれる。

 爆風の源である高圧縮空気の勢いを以って鳥人キメラは猛然と突進した。

 アスファルトの地面を切り裂くように削り、撒き散らしながらシザーアングの懐に飛び込む。

 シザーアングは決して油断などしていなかった。

 だが、そのスピードに全く反応出来なかった。

 突進の勢いを乗せた拳がシザーアングの顎にめり込む。

 鳥人キメラの腕力は非常に貧弱で、シザーアングの知る限りキメラの中でも最弱と言ってもいい。

 だが、頑強な鋼鉄の外殻に包まれた拳を、常軌を逸したスピードで叩き付けてくるのであれば、話は全く違ってくる。

 半ば砕けていた顎が完膚なきまでに砕かれる感覚。首から上が消し飛んだかと錯覚するほどの威力であった。

 ここでシザーアングが、鳥人キメラの動きに反応出来なかった事が幸いした。

 超高速の攻撃に少しでも反応出来ていたならば、拳に対して抵抗するように首に力を篭めていただろう。

 もしもそうしていたのであれば、一撃の威力を全て受け止めた頭部は本当に消し飛んでいたに違いない。

 反応出来なかった。つまり無防備の状態だった為、柳の枝のようにシザーアングの巨体は後ろへ倒れる。

 無傷とはいかない。先述した通り顎は完全に破壊され、蟻酸を吐き出す事は困難になった。

 だが、致命の一撃とはならなかった。シザーアングは不意を突いた恐るべき一撃を耐え切った事を確信した。

 それが勘違いだと理解したのは、倒れたシザーアングの胸板目掛けて強靭な脚が振り下ろされた時だ。

 寸前で体を転がしてかわす。踏み下ろされた脚は脛まで地面に突き刺さった。

(──なんだ、この殺気は!?)

 血反吐の代わりに体液を吐き散らしながら、鳥人キメラを見上げる。

 赤く輝く瞳が、冷たい眼差しで見下ろしていた。

「俺は……オ前を、殺ス、ぞ」

 片言で、鳥人キメラが告げる。

 感情を排除した声音だ。

 感情を失いかけたような声音、と言った方が正しいかもしれない。

 破壊願望という名の本能に飲まれ掛けている。まだ飲まれてはいない、必死に抑え込んでいる。

 キメラとは、存在そのものがいびつな怪物だ。

 そのいびつさは見た目だけではなく、精神面にも異常な凶暴性として顕れている。

 それは人間が持ち得る理性という強固な枷により、辛うじて抑え込まれている【本能】と呼ばれるものだった。

「だケド……こノ、力は……お前ヲ、殺す、ソレだけのチカら、だ!」

 それを恭護は受け入れた。但し【キメラと戦う為】という限定的な形で。

 本能を受け入れた事で、彼は本能が成し得る力の一端を知った。

 鋭い鉤爪がシザーアングの首に食い込む。翼から聞こえる回転音が跳ね上がった。

 シザーアングの巨体を引き摺りながら鳥人キメラが猛然と走り出す。

 アスファルトを踏み砕き、その破片を飛沫のように撒き散らしながら、付近に放置されている自動車のボンネットから屋根へ階段を駆け上がるように上り、重量で車体が潰れるよりも速く大型トラックのコンテナに飛び移る。

「もット、高く!」

 爆発音と共に翼が高圧縮空気を放つ。

 風圧で大型トラックを吹き飛ばしながら、鳥人キメラとシザーアングは上空へと飛び上がっていた。

(そんな馬鹿な、キメラが飛ぶだと!?)

 飛翔能力を有するキメラをシザーアングは知らない。

 生物が空を飛ぶという行為は、それだけで奇跡のようなものだ。

 飛ぶ為には翼を強く羽ばたかせなければならない。その為には強靭な筋肉が必要だが筋肉は重く、飛行の妨げになる。

 飛ぶ為に必要なものが飛ぶ為の障害となるのだ。

 そのような状況で、奇跡的なバランスで飛行を可能にしている生物が鳥だ。

 鳥人キメラは全身を重い外殻で包み、更に肉体の作りが極めて人間に近い。

 飛行出来る可能性は万が一にも無い、筈だった。

(あの翼、一体何なんだ……!?)

 自身に迫りつつある絶命の瞬間を忘れ、シザーアングは鳥人キメラの翼を見詰めた。

 飛行を可能にしているのは鋼鉄の翼だ。

 折り畳まれていた翼が展開する様は、扇やアコーディオンを想起させる。

 鋼鉄の翼は羽ばたかない。その端面にある細いスリットから超高圧縮空気を噴射し、その力で飛んでいる。

 飛行の障害になるあらゆるハンデを、翼からの圧倒的な出力でもって捻じ伏せているのだ。

 金属質の外殻で作られた翼はその駆動音も相成って機械仕掛けの翼に思える。

 そんな事は有り得ないのに。

 キメラは生物だ。鳥人キメラの外殻も翼も肉体の一部なのだ。

 生物の肉体の一部が機械仕掛けなど有り得るわけがない。

「ヌぉッ!?」

 唐突に、鳥人キメラがシザーアングの巨体を放り投げた。

 我に返ったシザーアングが辺りを見回す。驚いた事に、眼下には雲が広がっていた。

 雲の切れ間から、先ほどまで戦っていた病院の駐車場が見える。

 おそらくこちらを見上げているであろう人間たちの姿も確認できたが、シザーアングの視力を以ってしても一人一人の顔は判別出来ない。

 それほどまでの高度まで上昇したところで、シザーアングは放り出された。

 このまま地面に叩き付けられるのだろう。確かにこれでは助からないかもしれない。

 そう思っていた。

 だが、シザーアングを放り出した鳥人キメラは更に上昇していく。

(……まさか、奴がやろうとしている事は、そんな【生易しい】ものではない……!?)

 かつて森で戦い、深い傷を負った際、鳥人キメラの放った一撃を思い出す。

 強靭な脚力と翼の力で空へ打ち上げられたところを地面に叩き付けるような一撃だった。

 同じ事をやろうとしているのだろう。だが今、シザーアングがいる場所はあの時とは比べ物にならないほど高い。

「やメ……ろ……!」

 砕けた顎を必死に動かし、制止を乞う。

 遥か頭上で上昇を止めた鳥人キメラは、慣性による滞空の中でシザーアングを見下ろしていた。

 呟きが聞こえたのだろう。赤く輝く瞳を閉じながらゆっくりと首を左右に振った。

 ──お前は許さない。

 死の恐怖がシザーアングを襲う。

 頭上を仰いだ鳥人キメラは、最後の躊躇いを吹き消すように、吼えた。

 ──ォォォォオオオオオオオオオオオオオンッ!

 その方向は一帯の大気を震わせた。

 地上で空を見上げる誠司たちは、鼓膜を破らんばかりに叩く咆哮に思わず耳を塞ぐ。



 それから起こった出来事は、全ての人たちにとってはほんの一瞬の出来事だった。

 しかし、鳥人キメラにとっては数十秒、数分間にも感じられる出来事だった。



 背中の翼が限界まで展開される。

 それでもなお小さな、雛鳥のような翼だ。

 だが、この雛鳥の翼こそが鳥人キメラにとって最強の武器だ。

 咆哮と共に展開された翼、その端面のスリットからは高圧縮空気ではない、赤いアフターファイアが噴射される。

 同時に鋼鉄の外殻に包まれた体が凄まじい速度で急降下を開始した。

 大気の層が一瞬で引き裂かれる。その速度は人間が目で追えるものではない。

 加速による空気抵抗に抗いながら、鳥人キメラは真下に向かい蹴りを繰り出すように右足を突き出した。

 空気抵抗を可能な限り減らすため、左脚は膝を曲げて胴に寄せる。

 翼の噴射口は進行方向の反対、つまり上空に向ける必要があるが、可動域には限界があるため上半身を起こして補った。

 上半身を起こしている分、空気抵抗が増す。当然バランスも崩れ、一直線に降下する事も困難になる。

 空気を切り裂くための突端として右腕を突き出した。上半身に及ぶ空気抵抗を少しでも減らすためだ。

 それでも激しい空気抵抗に耐えるため、左腕を腰だめに構えて体幹の固定を補強する。

 この時、鳥人キメラは【音の無い世界】にいた。

 超高速で急降下する体が大気を切り裂く音も、翼がアフターファイアを噴射する音も聞こえない。

 勿論、本当に音が消えたわけではない。

 音は鳥人キメラの後から着いてきている。彼の急降下は音を【置き去り】にしていたのだ。

 一瞬とはいえ急降下の速度は音速に達している。それを実現している翼からは凄まじいエネルギーが放出されている。気を抜いたら反動で全身が吹き飛びそうだ。

 姿勢の維持は困難で、ほんの少し指を動かしただけでもその影響で大きく軌道が逸れていく。

 その度に翼の角度を調整し、軌道を維持し、そのうえ更に加速しながら急降下を続ける。

(くソ……シざーあングの姿が……ぶレル!)

 激しい振動の中でシザーアングの位置を正確に捉えるのは非常に困難だ。

 更に眼球の表面に叩き付けられる空気のせいで目を開けている事もままならない。

 そんな鳥人キメラの意識に本能が応えたのか、眼球を保護するように頭部外殻のスリットにガラス状の保護膜が張られ、更にその上に細い鉄格子が形成された。

 猛禽類が獲物をより捉え易くするために備えている【櫛状体】にあたるものだった。

 視界を確保した鳥人キメラの右足は、シザーアングの胸板に吸い込まれるように突き刺さる。

 鎧のように盛り上がった筋肉を打ち抜き、体内にまで破壊の力が浸透した感触が足から伝わった。

 衝突により一瞬、鳥人キメラの降下速度がゼロになる。運動エネルギーが全てシザーアングに移った為だ。

 森で戦った時と同様に、空中から地面へ叩き付けるような一撃。だが、高度と速度は以前の比ではない。

 全ての運動エネルギーを受け止めたシザーアングの体が弾丸のような勢いで落下する。

 運動エネルギーを失った筈の鳥人キメラは、シザーアングに右足を突き刺したまま、共に落下を続けている。

 ──衝突前よりも更に加速しながら。

 衝突の瞬間、翼のギアが一段上に切り替わったのを感じた。

 鳥人キメラが思い出し、編み出した【必殺の一撃】はここからが始まりだった。

 シザーアングを右足で捉え、これまで以上の速度で急降下していく。

 赤い瞳を細め、予想していた落下地点を確認する。

 このまま最大速度で一直線に降下すれば、病院前に広がる駐車場の中央付近に着地するだろう。

 これだけの速度で地面に衝突すれば、その威力は凄まじいものになる。

 その際、鳥人キメラが生み出した破壊のエネルギーは地面に沿って周囲に撒き散らされる。

 付近にいる人間は無事では済まないだろう。



 ──みんなを守るんだ。



 心の中で【自分】が呟いた。

(あれ……みんなって、だレダ……?)

 考えが纏まらない。

 【みんな】という言葉は、不特定多数を示す言葉だ。

 それならば、この場合の【みんな】が指す集団は、何処にいる者たちなのだろうか。

 改めて着地予想地点を見下ろすと、付近の物陰からこちらを見上げる誠司たちの姿が確認出来た。

 彼らの視線は鳥人キメラの現在位置よりも上空に向けられている。こちらの速度に反応出来ていないのだろう。

 あの人間は、誰だ?

 彼らが何者なのか、鳥人キメラには分からなかった。

 しかし本能とは別のところで、何かが強烈に呼び掛けてくる。



『────彼らを守れ』



『──その為に戦え』



『それだけの為に、戦え!』



 眼下を見回す。僅かに動かした首が空気抵抗の変化を生み出し、姿勢が崩れた。

 それでも体を動かす。翼を動かし角度を変える。

 軌道を逸らさなければならない。

 彼らを守る為、それだけの為に戦うのであれば、何があっても彼らだけは守らなくてはならない。

 視界が掻き回されるように乱され、櫛状体でも視界の補正が出来なくなっていた。

 櫛状体は動くものをより良く見えるようにする為の器官だ。シザーアングを捉えた今は邪魔でしかない。

 シャッターを上げるように、櫛状体を構成していた外殻が収納される。

 代わりに鳥人キメラは、自らの視界が受け取る情報そのものを【削ぎ落とし】た。

 色鮮やかだった視界がモノクロへと変わる。

 視覚情報の中で色彩が占めるリソースを最小限にし、浮いた分を空間と形状の認識に割く。

 一時的に焦点も拡大され、視界全ての地形を読み込みながら新たな落下地点を定めた。

「うおおおおぉぉぉぉぉぉっ!」

 自分自身の雄叫びすら置き去りにする速度で、空中で曲線を描きながら軌道を修正する。

 急激な変化で全身に激しい負荷が加わり、断熱圧縮で外殻が赤熱した。

 赤い軌跡を描きながら、迫る地面に向けて最後の加速を行おうと、翼が一際激しいアフターファイアを噴射する。

 雲がまばらに浮かぶ空に一条の火線を引きながら、鳥人キメラとシザーアングは病院の中庭に【着弾】した。

 外殻も含めると鳥人キメラの体重は一トン近い。それが高高度から音速に匹敵する速度で落下した衝撃は、凄まじい破壊のエネルギーを生み出すだろう。

 下へと向けられていた破壊のエネルギーは地面にぶつかるとそのまま這うように周囲へと撒き散らされる事になる。

 四方を囲う病院棟がそれらを受け止めてくれる。この状況で周囲への被害を最小限に抑えるにはここに着地する事が最善だった。

 音よりも速く着地の衝撃が訪れた。

 一瞬遅れて音を伴った衝撃波が上空より降り注ぎ、地上が轟音と共に揺れる。

 地上にぶつかった事で下方への行き場を無くした破壊のエネルギーと、上空より降り注いだ衝撃波がぶつかり、竜巻のように暴れ回って周囲の病院棟を襲った。

 建物自体が外側に押し退けられるようにひしゃげ、割れた窓ガラスの破片がエネルギーの竜巻に巻き上げられて空から周囲へとばら撒かれる。

 破壊の嵐の中、鳥人キメラはクレーターの中心に右足一本で立っていた。

 その右足は半ば埋もれるように倒れているシザーアングの胸板に突き刺さっている。

 これほどの凄まじい一撃を受けても、シザーアングの肉体は原型を保っていた。

 右足を引き抜き、その場から大きく飛び退いてクレーターの淵に立つ。

 赤熱している全身からは白煙が立ち上り、翼の排気口では火花が散っている。

 自らのパワーに耐えきれなかった翼の内部から、部品が脱落したようなカラカラとした駆動音が聞こえた。

 見下ろす鳥人キメラの緑色の瞳と光を失いつつあるシザーアングの視線が絡み合う。

 シザーアングはもはや指一本動かす力すら残っていない。

 今、意識を保っているのが不思議なほどだ。その意識も間も無く途切れ、二度と目覚める事は無いだろう。

 【バシュウウ】と音を立ててクレーターの亀裂から間欠泉のように水が噴き出した。水道管が破裂したのだろう。

 噴き出した水は霧となり、鳥人キメラの赤熱する外殻に触れると一気に気化した。

 大量の水蒸気により、両者の視界が遮られる。

(あア……ソレにしテモ……)

 生命力と共にキメラとしての力も失われつつあるせいだろうか、断末魔においてシザーアングは理性を取り戻していた。

 だが、理性を取り戻してもなおシザーアングが最後まで思い、悔やんでいた事は──睦月たちを自らの刃で切り刻む事が出来なかったことであった。



 地球全体が揺さぶられているのかと錯覚するほどの衝撃が大地を揺らすと同時に、空気を引き裂くような爆音が響く。

 揺れに足を取られた誠司たちは堪らず地面に手をついて伏せた。

「危ない!」

 誰かが叫ぶ。

 窓からは中庭で吹き荒れていた破壊の嵐がガラスを突き破って噴出し、その風圧で付近の自動車がタイヤを擦らせながらずるずると動いた。

 晴美を誠司が、睦月を三郎が庇うように覆い被さり、その背に吹き飛んだガラス片が降り注ぐ。

 幸いにもガラス片は衝撃波で粉々にされており、誠司と三郎は細かい擦り傷を負うだけで済んだ。

「きゃあああああっ!?」

「相田ちゃん、顔を上げるな!」

「父さん、何が起こったの?」

「分からん、病院棟が爆発したようだが、ガス漏れでもして……いや、火の手は上がっていない……!?」

 鳥人キメラの急降下は、ただの人間である誠司たちには文字通り一瞬の出来事だった為、何が起こったのか理解していなかった。

 爆風から身を守りながら、誠司は鳥人キメラが一瞬前まで存在していた空を見上げる。

 そこには一条の火線が描かれている。一直線に地上に向かっていた火線は途中で急激に弧を描き、病院の中庭に伸びていた。

「まるで【炎の矢】だ……」

「炎の、矢?」

 風音に掻き消されまいと声を張り上げる三郎の耳に、ビキビキと何かが割れる音が飛び込む。

 病院棟の表面に巨大な亀裂が走っていた。荒れ狂う破壊の嵐に耐え切れなくなってきているのだ。

「これを、鳥人キメラが……!?」

 破壊の嵐が徐々に止み、立ち上がっても問題がないほど風が弱まったところで四人は体を起こした。

 目の前には崩壊寸前になった病院が、辛うじて聳え立っている。

「凄まじい……」

 陳腐だが、そうとしか言い様がない。

 ふと、目線を上げると鳥人キメラが屋上から誠司たちを見下ろしていた。

 全身からは蒸気とも煙ともつかないものが立ち上っている。

 鳥人キメラは片膝をつき、肩で呼吸をしながら、緑色の瞳で誠司たちを見下ろしていた。

「やったの……?」

 隣にいた三郎が辛うじて聞こえる程度の、小さな呟きが睦月の口から漏れる。

 鳥人キメラが睦月を見た。そしてゆっくりと頷いた。

 彼女の小さな呟きを、鳥人キメラの鋭敏な聴覚は拾っていた。

「──有難う、助けてくれて」

 鳥人キメラが何者なのかは分からない。

 だが、睦月たちを守るために死力を尽くして戦ってくれた事は分かっていた。

「……!?」

 鳥人キメラが何かに驚いた様子で慌てて背を向ける。

 視線を追って三郎が振り返ると、そこには現場に残っていた警官や野次馬がいた。

 全員が鳥人キメラを見上げ、スマホのレンズを向ける者も数多くいる。

 鳥人キメラはそれらから逃げるように、ダメージを負った翼から高圧縮空気を噴射して大きく跳躍した。

「おい、ちょっと待った!」

 去って行く背中に誠司が呼び掛ける。

 鳥人キメラはそれに振り返らない。

 崩壊寸前の病院の向こうへと姿を消して行った。

「行っちゃった……」

 誠司たちを追い越すように盾を構えた警官隊が病院棟の目の前に並ぶ。

 最後尾の刑事は誠司たちを追い越したところで立ち止まり、振り返った。

「今のうちに避難を!」

「もう大丈夫だよ、それよりも恭護を探さないと!」

 鳥人キメラが味方かどうかはまだ懐疑的だ。

 だが、この場で人間を襲うつもりはないらしい事は感じていた。

「まだシザーアングとかいう怪物がどうなったか確認出来ていません!」

 きっとシザーアングは倒されたのだろう。

 あれだけ必死に戦っていた鳥人キメラが立ち去ったのだ、戦いは終わったのだ。

 シザーアングは絶命しているか、或いは完全に無力化されているのだろう。

 だが確認したわけではない。刑事はその目で確認するまで油断する気は無かった。

「崩落の危険もあります。まず我々が様子を見ます!」

「だけど恭護が!」

 誠司たちは恭護の事を忘れていたわけではない。

 無理矢理逃がす形で別れたきり、再会出来ていない事がずっと気掛かりだった。

 今まではシザーアングと対峙しており、生き延びる事に必死で恭護を探す余裕が無かったのだ。

 貨物用エレベータで恭護は一足先に病院の一階まで下りた筈だ。

 そこから外に出てくれているだろうか。

 いっそ一人で病院から離れていてくれたら安心だ。

 だが、恭護の性格を考えると彼が一人で逃げる事は絶対に有り得ない。

 誠司と睦月はそれを確信していた。

 恭護は良くも悪くも優柔不断だ。

 その外見とは裏腹に気もそれほど強くなく、臆病な方だ。

 だから分かっている。

 彼は命惜しさに危険から逃げる事を望んでも、親しい人間を見捨てていけるほど薄情でもない。

 おそらく、病院から脱出していてもすぐ近くにいる筈だ。

「それらしき男性なら、君たちが病院から出てくる直前に保護しましたが……」

「今は何処に!?」

 刑事が恭護を保護したのは事実だ。

 最後に恭護の姿を見たのは西棟の裏の休憩所で、そこで彼は自身の無力さに打ちひしがれていた。

「西棟って……」

 誠司たちがシザーアングに追い詰められ、鳥人キメラが外壁を破って現れたのが西棟だ。

 外壁を破った際の瓦礫は、真下に降り注いでいるだろう。

「おい、冗談じゃないぞ!」

 走り出そうとした誠司の肩を三郎が掴んで引く。

 強制的に振り返らされた誠司は、そのまま三郎の肩に担ぎあげられる。

 誠司よりも身長が低く体格も細い三郎からは想像できない力だった。

「君はこのまま救急車両で搬送だ!」

「待ってくれ、恭護を探さないと!」

「それは残った者でやる。君はすぐに治療を受けなさい!」

 誠司の足を保護していたギプスは殆ど砕けていた。

 むき出しになった足からは大量の出血をしている。縫合していた傷が開いてしまった為だ。

 複雑骨折していた足で走り回るなど、医師として絶対に認められるものではないが、これまではシザーアングから逃げる事が最優先だったので、自力で動ける限りは目を瞑っていた。

 しかし危機が去った今となってはこれ以上、一歩でも自力で歩かせるわけにはいかない。

 その気持ちが三郎に普段以上の力を発揮させ、誠司の体を軽々と担ぎ上げていたのだ。

「覚悟しておけ、今はエンドルフィンの作用で痛みを感じていないようだが、落ち着いた頃に地獄の激痛が訪れるぞ」

「晴美さんは辻崎先輩についていてあげて、恭護先輩はわたしが!」

「睦月、お前も治療が必要だ!」

 三郎の制止を無視して睦月は走り去って行く。

 苦々しい表情でそれを見送った三郎は深い溜息を吐くと、折よく到着した救急車両に近づいてやや乱暴に誠司を押し込む。

「何だか段々痛くなってきた気がする! 助けて!」

「痛いうちは大丈夫だ」

「大丈夫じゃないよ!」

 誠司の悲痛な叫び声は、救急車両が走り出すと同時に鳴り出したサイレンに掻き消された。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る