第8話 戦いの決意

 警官の肩を借りて病院の外に運び出された俺は、正面の駐車場で怪我の有無を確認された後に救急車の順番待ちの最後尾に回された。

 用意されたパイプ椅子に腰を下ろし、大きめのタオルを頭からかぶって項垂れる。

 避難は殆ど終わっていた。シザーアングに襲われて負傷しながら逃げ延びた人たちもほんの僅かながらいるようだ。

 警察は当初、刃物を持った暴漢が病院内に侵入したと判断していたのだが、被害者の数が多い事から非常事態だと判断を改めたらしい。

 病院を警察関係者が取り囲み、更にその外側をマスコミ、そして野次馬が囲んでいる。

 マスコミや野次馬によって無遠慮な言葉が投げ掛けられ、カメラのレンズが向けられていた。

 キメラの恐怖を知らない連中が何を呑気に……!

 やり場のない怒りと無力感に打ちひしがれていると、近くの警官の話が微かに聞こえて来た。

 ──病院の中層辺りに逃げ遅れた人がいる事を把握しているが、階段とエレベータが破壊されていて救助に向かう道が無い。

 窓から突入しようにもその為の装備を持っておらず、準備に時間が掛かる。だと?

「待ってくれ、時間ってどれくらいなんですか!」

 俺の存在を意識していなかったのか、驚いた顔で警官がこちらを見た。

「そんな事をしている間に、誠司たちはあの怪物に!」

「怪物? 君は何を──」

 ガラスの割れる音。

 頭上から大量のガラス片と、何かが落下して来た。

 ドチャ、と生々しい音を立てて落下したそれはみるみるうちに赤黒い染みを四方に広げていく。

 それが下半身を失った人間の死体だと気付いた人たちが悲鳴を上げ、人の神経を逆撫でするカメラのシャッター音が雨音のように鳴る。

 呼吸が上手く出来なくて苦しい。

 喉元を押さえ、脚を引き摺りながら警官たちを押し退け、落下して来た人を確認する。

 ──誠司たちではなかった。おそらく逃げ遅れた他の人だろう。

 肩口から反対側の脇腹まで鋭利な刃物、おそらく鎌腕で一息に切断された死体だ。

 院内で逃げる最中、沢山の死体を見てしまったせいで感覚が麻痺しているのか、死体そのものに感情は動かなかった。

「う……」

 だが涙が出そうだった。

 ほっとしたのだ。

 ほっとしてしまったのだ。

 落下して来た死体が誠司たちではなくて良かった、と。

 誠司たちが殺されたのではなくて良かった、と。

 誠司たち以外が殺されて良かった、と。

 俺は、俺に無関係な他人の死に、安堵してしまったのだ。

「大丈夫か?」

 スーツを着た男が俺の背中を支える。

 警官では無い、刑事だろうか。

 眉の間に皺が出来ている、真面目そうな刑事だ。

「すいません、少し……気分が」

「無理も無いな。救急車は……まだ順番待ちのようだな……こちらに来なさい、歩けるかい?」

 案内されたのは警官たちの包囲から少し離れた場所だ。病院の建物で言うと西棟の裏にあたり、南棟に繋がる角が頭上に見える。

 そこに設置されている自動販売機を囲むようにパーティションを区切ってスペースが作られていた。

 緊張状態が続く中で小休止を取る場所にしているらしく、現在は警察関係者以外の立ち入りが禁止されている。

「君には色々と聞きたい事があるんだ。ここで少し落ち着いてから話を聞かせて欲しい」

「聞きたい事……そんな事よりも俺の友人をあの怪物から早く」

「その怪物だ」

「え」

「我々は素性を隠す為に着ぐるみを使っているのかと思っている。被害者も口々にそのような事を言うが少し違和感を覚えていた」

「違和感?」

「着ぐるみを着た、おそらく単独犯だ。その単独犯が人間を切断し、叩き潰し、階段を粉砕してエレベータを破壊するほどの凶器を所持しているのか?」

 有り得ないとは言わないが、それらの凶器は全て合わせればそれなりの量と大きさになるだろう。

 被害者から聞いた行動を総合するとそれらを携帯していると判断したが、そこが不自然だと刑事が言う。

「君は犯人を一貫して怪物と呼んでいるね、何故だね?」

「どう見ても怪物じゃないか」

「私は直接見ていないが、君を保護した警官の話によるとだそうだ」

「あんな遠くから見ても分かるものか!」

「……確かに、その通りだ」

 備え付けのベンチに腰を下ろした俺に、刑事は自動販売機で購入した緑茶の缶を差し出す。

「君の友人の救助には全力を尽くす。少しここで気持ちを落ち着けるといい」

 受け取ろうとしない俺の手に缶を強引に握らせると、刑事は現場に戻って行った。

 パーティションの向こうでは慌ただしく動き回る人の気配を複数感じる。

 きっと、病院内に残った誠司たちを助ける為に行動してくれているのだろう。

 警官たちが病院に突入して、シザーアングを止める事が出来れば誠司たちを救う事が出来る。

 それまで誠司たちが頑張って無事でいてくれれば……。



 ──止められるのか?



 シザーアングと人間では力が違い過ぎる。力尽くでの拘束は不可能だろう。

 拳銃などを使えばどうだろう。シザーアングを拳銃で倒す事は出来るだろうか。

 無理だ。

 シザーアングではなく鳥人キメラとしての感覚だが、おそらくキメラは生身に銃弾を浴びても大したダメージを受けないだろう。

 弱点はあるかもしれないが、生半可な方法では行動不能にする事すら限りなく困難だ。

「考えろ……」

 必死になって考えるんだ。

 誠司たちを助ける為に、今の俺に何が出来るのか。

 考えるんだ……どうすればいいのか。

「……自動販売機、か」

 答えは俺の中にある筈だ。

 手が震えている。恐怖のせいだ。俺はとても恐ろしい。

「恐ろしいけど……それでも……」

 怪我と恐怖で大袈裟なほど震える脚で何とか立ち上がり、自動販売機に両手で触れる。

 今すぐ逃げ出してしまいたい。

 だけど、どんなに恐ろしくても、逃げてはいけない時がある。

 覚悟を決めろ。勇気を振り絞れ。

 自分自身を肯定し、叱咤するんだ。

 俺はやれる筈だ。誠司たちを……大切な人を守る為なら……。



 ──俺は戦える。その筈だ……!



     △▼△▼△▼△▼△▼



 誠司たちは迫るシザーアングから懸命に逃げ続けていた。

 三郎の機転により自力ではまともに歩く事も出来ない恭護だけは逃がす事が出来たが、誠司たちを探すシザーアングが診察室の扉を破ったのはその直後だった。

 診察室の奥にある通路を抜け、別の診察室を経由して廊下へ脱出したものの、追って来るシザーアングから完全に逃げ切る事は不可能だと、誰もが痛感していた。

 診察室で三郎が確保していた消毒液や、廊下に設置されている消火器で目晦ましをする事で何度か窮地を脱していたが、既にそれらの手段も尽きている。

「辻崎くん、脚は!」

「そんな事を言ってる場合じゃないでしょ!」

 誠司は自身の両足で床を蹴って走っていた。

 ギプスのせいで走り難いが松葉杖を使うよりは速い。

 縫合していた傷が開き、ギプスの中は血塗れだ。痛みも酷い。

 だがここで脚を止めるわけにはいかなかった。

「あっ!?」

 西棟を何とか駆け抜け、南棟に繋がる角を曲がるところで晴美が転倒する。

 残された四人の中で最も体力的に劣る晴美は、倒れて脚を止めてしまった事で蓄積していた疲労が一気に噴き出し、立ち上がる事が出来なくなってしまった。

「相田ちゃん!」

 晴美が動けない事を確認するとシザーアングは歩調を緩めた。

 誠司はそれを牽制するように松葉杖を投げ付け、晴美に駆け寄る。

 二人を庇うように睦月と三郎がシザーアングとの間に割り込む。

 だが、自分たちが盾の役割すら果たせない事を睦月は理解していた。

「何とか……もう一度、シザーアングの動きを……」

「辻崎くん……みんなも、逃げて……わたしもう、走れない」

 荒い呼吸に喘ぎながら、駆け寄る誠司の肩を押す。

「わ、わたし頑張るから……すぐに死なない、ように。その間に、少しでも、遠くへ……」

 晴美の顔が真っ青なのは激しい運動で酸素が不足しているせいだけではない。

 恐怖を押し殺して勇気を振り絞る晴美を誠司は抱き締めた。

「なんなんだよ、なんでお前がここにいるんだよ!」

 誠司の怒声にシザーアングが脚を止める。

「こんなに暴れて、何が誰にも見られたくないだ、ふざけるな!」

「勘違いシテイるが」

 シザーアングの声は以前よりも聴き取り辛い。

 その原因が顎が損傷している事に気付いた睦月の隣で、三郎はシザーアングが人の言葉を発した事に驚いていた。

「俺ハ目撃者は消さナケれバイけナイト話しタダけだ」

「相変わらずのクソ野郎だな……!」

 晴美を抱き締めたまま立ち上がった誠司の舌打ちにシザーアングが笑う。

「一人足リナいな。何処かニ隠レテイるのか……まァイい、お前タチヲ始末シてかラゆックり捜そウ」

 シザーアングが一歩近付き、誠司は晴美を抱きかかえたまま一歩下がる。

 三郎は睦月を背後に庇い、自らはその場でシザーアングと対峙した。

「父さん!?」

「こういう時は年長者が体を張るものだ。だけど私も出来れば死にたくないから、ギリギリまで考えてくれ」

 誠司の背中に窓枠の突起が触れた。

 病院の構造を頭に中に描いた誠司は、南棟の正面が駐車場である事を思い出す。

 窓の向こうは駐車場だ。もしかしたら、窓の真下には車があるかもしれない。

「へ、へへ……相田ちゃん、最後の手段を使おうと思うんだけど」

 窓を破り飛び降りるしかない。

 四階から飛び降りたら普通はただでは済まないが、真下に車があればその分、相対的な高さは低くなるし、車の天井が多少なりともクッションになるだろう。

 可能性はとても低いが、ここでシザーアングと死の追いかけっこをするよりはずっと可能性が高い筈だ。

 最悪、自分が下敷きになれば晴美を守る事は出来るだろう。

「辻崎くん……」

 晴美は別の事を考えていた。

 ──音が聞こえていたのだ。

 聞き覚えのある音だ。

 日常生活で聞こえていたら、ただの騒音でしかない音だ。

 だがこの時、この場所、何よりもこの状況で聞こえるこの音は──。

「!」

 睦月にもその音は聞こえた。

 二人は音の正体に同時に気付き、互いの視線を一瞬交錯させる。

「みんな、壁から離れて!」

 最後の力を振り絞り、叫びながら行動していた。

 晴美は誠司を押し倒し、睦月は三郎の腰に腕をまわして横に引き倒す。

 次の瞬間、外側の壁が轟音と共に吹き飛ぶ。



 ──ォォォォオオオオオオオオッ!!



 咆哮と共に飛び込んで来たのは鋼鉄の外殻に身を包んだ異形の怪物──鳥人キメラだった。

 飛散した破片を防ごうと身構えたシザーアングに鳥人キメラが激突した。

 その瞬間、背中の翼が展開して高圧縮空気を一気に噴射する。

 衝突から加速、全ての運動エネルギーを体当たりという形でシザーアングに叩き込まれる。

「む、お、オッ!?」

 不意打ちを受けたシザーアングの巨体が吹き飛び、窓を破って向かい側の東棟に突き刺さる。

 鳥人キメラは翼の噴射で数秒間ホバリングしてから床に着地した。

 体重を支え切れずに床が崩れ出すと慌てた様子で身を屈めて床に手をついて重量を分散させ、慎重に歩を進めて誠司たちに近付く。

 近付いてきた鳥人キメラに向かい、睦月は身を乗り出して手を伸ばした。

 鳥人キメラはその手を暫く見詰めた後、彼女に応えるように手を差し出す。

 触れたのは鋼鉄のような質感の、猛禽類の鉤爪のような鋭い指先の手だ。しかし血が通い体温を持つ、命あるものの手だ。

「また、来てくれたの?」

 その手は一人の人間を容易く引き裂く力を持っている筈だ。

 だが、その手は戦う事に慣れていない、戦いを嫌う手だ。

「また、戦ってくれるの?」

 鳥人キメラの緑色の瞳が睦月を見詰めている。目を合わせると少し戸惑った様子で軽く目を逸らした。

 妙に人間臭い仕草だが、シザーアングと違い理性と良心に満ちているのが分かる。

「これが、睦月たちの言っていた鳥人キメラ……?」

 三郎を一瞥した鳥人キメラは睦月の手を離し、全員をゆっくりと確認するように見渡す。

 全員が健在である事を確認した鳥人キメラは、傍目にも分かり易い安堵の溜め息を吐いた。

「ゴオおおおおォォォっ!」

 東棟の三階に落下していたシザーアングが怒りの咆哮を上げて中庭に飛び降りた。

 着地と同時に地面を蹴り、驚くべき跳躍力で西棟の窓縁に手を掛けてよじ登って来る。

 シザーアングが窓から廊下に飛び込んで来るよりも速く、鳥人キメラが四人に飛び掛かった。

「え、うわっ!」

 有無を言わさずに四人を乱暴に抱きかかえると、翼の噴射を利用して急加速で走り出す。

 一歩ごとに廊下がたわみ、崩れ出した。だが廊下が崩れる速度よりも鳥人キメラが駆け抜ける速度の方が速い。

 抱えられている誠司たちは正面から叩き付けられる風圧で目を開けていられず、目を瞑ったまま鳥人キメラにしがみついた。

 鳥人キメラが向かう先には、シザーアングが崩落させたことで吹き抜けとなってしまった、かつて階段だった場所がある。

 翼の噴射でほぼ直角に進行方向を変え、その吹き抜けに飛び込んだ。

 僅かな浮遊感から数秒の落下、そして着地の衝撃が立て続けに誠司たちを襲う。

 足が床を踏みしめた事を確認すると鳥人キメラは四人を放り出し気味に解放し、頭上に向かい両腕を突き出した。

 激しい衝突音と共に、追い掛けて落下して来たシザーアングを鳥人キメラが受け止める。

「アノ時ニヤられた傷ノ痛みヲオ返しさセテモらうぞ!」

 鳥人キメラの頭部に猿腕の拳を振り下ろしながら、その背後にいる誠司たちに向かい鎌腕を振り回す。

 だが、鳥人キメラは渾身の力でシザーアングを押さえ込み、時には自らの体で鎌腕を受け止め、誠司たちを懸命に守りながら戦う。

 僅かな隙を突き、鳥人キメラは正面入り口がある南棟へ通じる廊下を指差した。

「行くぞ、睦月。辻崎くんは私が運ぼう」

「父さん、でも」

 三郎と鳥人キメラの目が合う。緑色の瞳が一度瞬きをし、頷いた。

 それはまるで三郎の行動を肯定し、促しているように見えた。

「睦月ちゃん、相田ちゃん、あの時と同じだよ」

 三郎に担がれた誠司が言う。

「背中はあいつが守ってくれる。俺たちはそれを信じて、ここから逃げるんだ」

 走り出した三郎に睦月と晴美も続く。

 最後に一度、彼女たちを守る壁となって戦う鳥人キメラを見た。

 ──そこで見たものを、睦月は決して忘れはしない。



     △▼△▼△▼△▼△▼



 シザーアングの右腕が二本とも動きがぎこちない。よく見ると顎の形状も左右のバランスがおかしい。

 確か、森で戦った時に俺が負わせた傷が同じ場所だったと思う。まだ癒えていないのだろう。

 しかし……何だろうか。シザーアングの動きが、森で戦った時よりも速いような気がする。

 完治していない猿腕が上段から鞭のようにしなりながら振り下ろされる。

 受け止めた腕の外殻がギシリと音を立てて歪み、堪えきれずに片膝をついた。

 たわんだリノリウムの床に膝が刺さるように沈む。

「く……!」

 床に押さえ付けられる直前、猿腕の力が急に抜けた。傷ついた腕では本気を出せないのだろう。

 反撃のチャンスだ。だがこちらも脚を負傷している為に踏ん張りが効かない。

 横殴りの一撃を受け止めながら何とか立ち上がったところで、鎌腕が顎を撫でるように滑る。

 激しい火花と痛み。短刀で鉛筆を削った削りカスのような外殻の欠片が宙を舞う。

 ……欠片?

 鎌腕が鋼鉄の外殻を削り取ったのか!?

 親指で顎を撫でる。何処を削り取られたのかは分からない。だが足元には小さな欠片が散らばっている。

 外殻は決して無敵の鎧ではないが、もう少し頑丈ではなかっただろうか。

 シザーアングの鎌腕が鋭さを増しているのか、外殻が強度を失っているのか。

 考えている余裕はない。今は外殻の防御力を信じて攻撃を防いで、シザーアングを……倒す、のか?

「オ前、弱くナッたか?」

 以前と同じだ。

 俺はシザーアングを倒さなければならない。

 今後、俺たちがキメラに脅かされない生活を取り戻すには、シザーアングを倒すしかない。

 倒すと言っても殺す必要はないと思っていた。シザーアングが俺たちの事を諦めてくれればそれで良かった。

 だが、その考えはあっさりと否定された。何としても俺たちを殺すと、シザーアングは笑った。

 そして俺は森でシザーアングを倒した……のだと思う。

 倒したこと自体は記憶に無いが、俺たちが全員生き延びているという事はそういう事なのだろう。

「お前は森で俺に負けた筈だ」

 鎌腕を受け止めながらシザーアングの複眼を睨む。

 潰れた片方の複眼も完治していない。傷は塞がっているが、萎んだ風船のように萎びている。

 あの複眼を潰した時の不快感、二度と味わいたくはない。

「俺と戦っても勝てない事は分かっているだろう。このまま何処かに消えろ!」

 この期に及んで、俺は未だに相手の命を奪う覚悟が無かった。

 これ以上戦わずに済むのなら、そのような気持ちが虚勢として口から発せられる。

「勝テナい、本当ニソうかな?」

 鎌腕の刃が耳障りな音と共にほんの僅か、外殻に食い込む。ピリピリとした痛みが走った。

 やはり外殻が脆くなっているみたいだ。だが、この程度ならまだ防げるだろう。

「コの外殻ハ厄介ダが、コウシたらどウなるカナ」

 シザーアングの顎が外れそうなほど大きく左右に開く。

 顎の間にある口内の空洞、その奥からえづくような音が微かに聞こえたその瞬間!

 臭気の強い粘液が大量に吐き出され、俺は胸を中心とした全身に浴びてしまう。

「う……お……ああぁぁぁぁっ!?」

 粘液を浴びた外殻から白煙が立ち上り、シュウシュウと音が上がる。

 みるみるうちに外殻からは光沢が失われ、表面に出来た気泡が弾けるたびに小さなクレーターが出来た。

 全身が焼けるように痛み、目は突き刺すような刺激で開けていられない。激痛に悲鳴を上げた咽喉が焼ける!

 これはもしかして酸か? シザーアングが酸……あ、まさか!

「ぎ、蟻酸、か!?」

「クハははハ! 森デもさッサと使っテオケば、あの時ニ殺しテヤレタのにな!」

 痛みに何度も瞬きしながら見たシザーアングは、顎から胸にかけてを自らの蟻酸で焼いていた。

 だが対して気にした様子もなく笑いながら、伸ばされた猿腕の右手が俺の左腕を掴み──外殻ごと握り潰した。

 クシャリと砕けた外殻の破片がパラパラと床に落ち、外殻の下にある銀毛に覆われた腕がメキメキと音を立てる。

 外殻は体の一部として痛覚もあったはずだが今は感じなかった。まるで壊死してしまったように。

「まるで発砲スチローるだな」

 猿腕の左拳が胸板に食い込む。強度を失った外殻は段ボール箱のように潰れ、体が宙を舞った。

 肺が潰されたような感覚、呼吸が出来ない。

 壁に背中を預けるように立ち上がった俺の肩に鎌腕が深々と食い込んだ。

 外殻は熱したナイフでバターを切るように何の抵抗も無く鎌腕を受入れ、途中でガチンという音を立てて止まる。

「ン……?」

 背中の翼に刃が当たって止まっていた。蟻酸を浴びたのは正面だったので、翼はあまり被害を受けず強度を保っていたのだ。

 鎌腕が食い込んた肩から流れ出る血が銀毛を赤く染める。

 痛みは麻痺していた。痛みを忘れるほどの怖気を感じていた。

(今……片腕を切り落とされたかと思った……)

 かわそうにもシザーアングの動きを捉える事が出来ない。

 格闘能力には雲泥の差がある。まともに戦う事も出来ない。

 脚を負傷しているせいで唯一通用しそうな脚力は発揮出来ない。

 外殻を失った今、シザーアングに対抗できるものを一つも持っていないのだ。

「瞳ニ怯エが見えルゾ」

 勝てない。

 俺はシザーアングに勝てない。

「今度コそ殺す」

「こ、これだけ殺しておいて、まだ殺すのか」

 病院内は血でシザーアングが殺した沢山の人たちの血で彩られている。

 もう充分殺したじゃないか。まだ満たされないのか?

「安心シろ、お前ノお友達モ一緒ダ。それダケじャない、病院ノ外に逃ゲた人間モ殺サナクてはナァ!」

 既に何度も見た、ギチギチと顎を鳴らす下品な笑い方。

 口内に残った蟻酸が涎のように流れ落ちているのが一層醜悪だ。

「ダが、外ヘ出タら他の人間にモ見ラレるダロうし、誰ヲ殺せバイいか分カラなイかラ……ギハ、ギハ、ギハハハハ!」

 堪えきれない笑いが漏れ出たような不快な声。

 鷲掴みにされた顔面が壁に叩き付けられ、頭を強く打って倒れた俺の体に瓦礫と、砕けた外殻の破片が降り掛かった。

「モう誰を殺セバいイか分かラナいのダカラ、片ッ端かラ殺スしかなイヨナぁ!」

 まだそのような事を言うのか……!

 殺す、殺すとそればかりを口にして、いたずらに命を奪う悦びに打ち震えて!

 それが……それが!

「それが、人間のする事か──!」

 最後の力を振り絞って立ち上がり、拳を握りしめる。

 直接浴びはしなかったとはいえ、蟻酸でダメージを負っていた翼が爆発しながら高圧縮空気を噴射した。

「まダソこまデのチカらを!?」

 全身でぶつかるようにシザーアングに飛び掛かる。

 渾身の力で拳を振るう。

 絶対にこいつだけは……!



     △▼△▼△▼△▼△▼



「ええい、管轄外にも協力を要請して救急車両を回して貰え!」

 病院から避難した後、三郎は医局長に指示をしながら怪我人の応急手当てをしていた。

 三郎が担当している怪我人はシザーアングに遭遇して何とか生き延びた者だ。

 その人数は少ない。それはそのまま、シザーアングに遭遇した後の生存率なのだろう。

 辛うじて生き延びた僅かな者も、今にも息絶えてしまいそうな重篤な症状の者ばかりであった。

「八幡院長、ガーゼが足りません。他にも足りない物が……せめて病院内から持ち出せていれば」

「手の空いている者を薬局でもコンビニでも走らせろ! 支払いはツケておけ!」

「幾ら何でもツケは」

「強奪してでも掻き集めろ! 今は命が最優先だ! 謝罪行脚は後で幾らでもすればいい!」

 病院内にいると言われているキメラと対峙し、五体満足な状態で生き延びた三郎は貴重な情報源だ。

 彼に事情聴取をする為に警官が数人集まってきたが、三郎の鬼気迫る雰囲気に声を掛けられずにいた。

「君たちは話が出来るかな」

 毛布にくるまっている誠司に声を掛けたのは眉の間に皺が出来ている、真面目そうな刑事だ。

 誠司は隣の晴美を見た。シザーアングに追い詰められた時の恐怖が甦っているのか、ずっと震えている。

「多分、あっちで彼女が話している内容と同じ事しか言えないと思うけど」

 離れたところで別の警官に事情聴取を受けている睦月を見る。

 刑事は小さく頷くと、スマホの録音アプリを起動した。

「同じ事柄でも視点が変わると違う事実が見える事があるから話して欲しい……特に、怪物に関して」

「怪物……ああ、キメラの事か」

「キメラ?」

 刑事の声に応えるように、病院の中から獣のような唸り声と戦いの音が聞こえる。

 蟻の頭部とカマキリの腕、猿の四肢を持つ怪物については多数の目撃証言を得ていた。

 当初は着ぐるみを着た暴漢だと思い、怪物の存在について懐疑的だった。

 しかし、状況が怪物の存在を認めざるを得ないと言っている。

 救助した負傷者、救助が間に合わなかった被害者、彼らが負った傷は鋭器損傷と鈍器損傷の何れかでしかない。

 つまり、斬られる、刺される、殴られるの三種類だ。大量殺人が可能な爆発物や火器は使われた様子がない。

 事件が発生してから今までに出ている被害者の数が多すぎるのだ。

 たった一人の普通の人間が現状を作り上げるのは時間的にも無理がある。

 目撃者の証言では、人間をたやすく切り裂き、殴殺する怪力の怪物が犯人だ。

 証言が事実で、犯人が本当に怪物なのだとしたら、この惨状もまだ納得出来る。

 肝心の怪物の存在こそが納得出来ないのだが。

「何故、怪物の事をキメラと呼ぶのだろう」

「シザーアングがそう言ったんだ、自分たちはキメラだ、って」

「シザーアング? キメラではないのか?」

「キメラっていう生き物で、シザーアングっていう名前なんだよ」

「良く分からないな。どうして君たちはその名前を知っているのだ?」

「だからシザーアングがそう言ったんだってば」

 蟻の頭部で人語を解するという事が刑事には理解出来なかった。

 生物の構造上、蟻の口は人語を発する事が出来ない筈だ。

「……いや、本当に怪物なのだとしたら、頭部が蟻だからといって決め付けるわけにもいかないか」

 刑事は真面目な性格だが、堅物というわけでもない。

 怪物という存在を否定しようとする気持ちを全て捨て、誠司たちの話す内容を頭から否定せず、全て事実だとして考える事にした。

 人語を解し、シザーアングと名乗るキメラの怪物がいる。病院の大量殺傷事件の犯人がそのシザーアングだ。

 シザーアングはまだ病院内におり……そして、誠司の証言によると人間を襲っている。

 シザーアングの凶暴性を考慮すると、現時点で病院内に残っている人間の生存は絶望的だろう。

 つまりシザーアングにとっての獲物は病院内に殆どいない。そうなると獲物を求めて外に出ようとするのではないだろうか。

 しかし今現在、人間が沢山いる病院の外には出て来る気配はない。

「シザーアングは、どうして外に出てこないのだ?」

「……鳥人キメラ」

 誠司の隣で震えていた晴美がぽつりと呟く。

 鳥人キメラ、初めて聞いた名前だ。

「その、鳥人キメラとは? それもキメラという怪物の仲間なのか?」

「……この間、峠で事故が起こったのを覚えてますか?」

「ああ、私は担当ではなかったが、大事故だったという事は知っている」

「俺たちはその事故の当事者なんだ」

 事故についてはテレビのニュースで放送された程度しか知らないが、事故に巻き込まれた者の中に大学生のグループがいた事は知っている。

 救助された負傷者の多くがここ、八幡総合病院に搬送された事を思い出した。

「そうか、確か峠から森に転落したバスに大学生のグループが乗っていたね。君たちがそうなのか」

「わたしたちは、森でシザーアングに襲われたんです」

「それは、どういう事だ!?」

 初耳だった。

 思わず身を乗り出した刑事の剣幕に、晴美は怯えた表情で誠司の陰に隠れる。

「あ、いや、申し訳ない」

「シザーアングに襲われた俺たちを助けてくれたのが鳥人キメラだよ」

「ちょ、鳥人キメラはわたしたちを逃がす為に戦ってくれたんです」

「助けてくれた……その、怪物が? 偶然ではないのか?」

「鳥人キメラは喋らなかったけど、俺たちの問い掛けには答えてくれたよ。助けてくれるのか? って聞いたら『助ける』って頷いたんだ」

 キメラについて分からない事が多過ぎて混乱して来た。

 誠司たちの話については少し調べてみる必要があるだろう。

(森からこの病院まで移動して来たのは事実として、ここまでそれなりに距離があるし、途中には賑わっている目抜き通りや国道もある。目撃者はいなかったのか)

 全く人目につかずに病院までどうやって移動したのだろうか。

 勿論、人目に付き易い場所を迂回して移動した可能性もあるが、誰にも見られずに移動するのは難しいだろう。

「待てよ……まさか、そのシザーアングというのは」

「なぁ、ちょっと聞きたい事があるんだけど?」

 誠司の問い掛けは突然の破砕音に遮られた。

 駐車場に面した壁が砕け、粉塵を纏った大柄な影がそこから転がり出る。

 それを追うように、壁の穴からシザーアングが姿を現した。

 先に転がり出た影は鳥人キメラだった。上半身の外殻は大半が砕け、血塗れのままぐったりとしている。

 どう見ても満身創痍だった。

「──確保!」

 怪物出現のショックから真っ先に立ち直ったのは刑事だ。

 怒鳴るような指示に弾かれたように動き出した警官たちは盾で壁を築いてシザーアングに押し寄せる。

「ナんだ、コンなトころニタくさんイたノカ」

 壁はシザーアングの鎌腕の一振りで瓦解した。

 鎌腕は盾だけではなくその陰にいた警官たちの体も断ち切った。

 切断された体が宙を舞い、地面に叩き付けられて血だまりを作る。

「──!」

 あちこちで悲鳴が上がり、我先にと野次馬が逃げ出す。

 シザーアングは顎を鳴らして笑いながら、鎌腕についた返り血を振り払った。

「や、やられちゃったのかよ……」

 鳥人キメラはシザーアングの足元で動かない。この距離では生死も不明だった。

 シザーアングは鳥人キメラの背中を踏み越えて警官たちに迫る。

 刑事が拳銃を抜くと、それに倣い警官たちも次々と銃を抜き構えた。

 恐怖に駆られた警官が威嚇射撃を忘れて発砲した。それが文字通りの引き金となって警官たちによる一斉射撃が行われる。

 全身に銃弾を浴びたシザーアングは全く怯まない。

 シザーアングの強靭な筋肉にとって拳銃はただの豆鉄砲でしかないのだ。

 両腕を広げて敢えて銃弾を受け止め、余裕を見せ付けながらゆっくりと歩み寄る。

「?」

 しかし歩みは唐突に止まった。

 シザーアングの片足に、鳥人キメラがしがみ付いていたのだ。

 苦し気に呼吸をしている。シザーアングの脚に引き摺られた跡には、鳥人キメラのものと思しき血が線を引かれていた。

「案外トシつこい奴ダ」

 鳥人キメラの背中に猿腕が思い切り振り下ろされる。

 強度を失った外殻の破片が飛び散り、片方の翼から大きな火花が散った。だが鳥人キメラは離れない。

 新たな血を撒き散らしながら鳥人キメラが顔を上げる。頭部外殻のスリットの奥で光る緑色の瞳が誠司たちを見詰めていた。

「皆さんも今のうちに!」

 拳銃を手にした刑事が急かす。

 本物の怪物を前にした動揺は収まっていない。だがそれを露にする余裕すら無い。

 彼はまだ鳥人キメラの事を誠司たちと同様に信用する事は出来ない。

 彼にとって鳥人キメラとシザーアングの戦いは、自分を狙って現れた二体の猛獣が獲物の所有権を巡って争いを始めたのと同じようなものだ。

 真実がどうであれ、注意が逸れている今は数少ない、むしろほぼ唯一の逃げるチャンスだ。

 まばらに存在している駐車車両の間を抜けて三郎と誠司、晴美の三人が走る。その後ろを刑事が続いた。

「睦月、お前も!」

 やや離れたところにいた睦月も頷いて走り出す。

 シザーアングは誠司と睦月、晴美の三人に狙いを定めた。

 三人の匂いは覚えている。森で殺し損ねた人間の匂いだ。

「そウダ、お前タちを殺しタカッたんダァァァぁぁぁ!」

 猿腕が鳥人キメラの翼を掴んで吊り上げ、地面に叩き付けた。

 グシャリと生々しい音と共にアスファルトが砕け、その中央に血塗れの鳥人キメラが倒れ伏す。

 それでも鳥人キメラは行かせまいと、シザーアングの足首を掴んだ。

「しツコい!」

 鳥人キメラの腕に鎌腕を突き立てる。

 痛みに思わず力が抜けた手を払い除け、脇腹を蹴り上げる。

 反動で仰向けになった鳥人キメラは全身を痙攣させている。既に立ち上がる事も出来なかった。

「駄目、起きて!」

 力尽きた鳥人キメラの姿に睦月が思わず立ち止まる。

 シザーアングは睦月に狙いを定め、猿腕の拳を鳴らしながらゆっくり近付いた。

「……!」

 睦月の呼び掛けに鳥人キメラは消失しかけていた意識を繋ぎとめる。

 追い詰められる睦月の姿に残された力を振り絞り、損傷した翼の力で跳躍した。

 損傷し火花を散らしていた翼は強引な運用に耐え切れずに小さな爆発を起こし、その音に驚いたシザーアングの足が止まる。

 鳥人キメラは振り返ったシザーアングを飛び越え、睦月を守るように着地した。

 しかし着地の衝撃に耐え切れずその場に膝をつく。ポタポタと血の雫が地面に小さな円を幾つも作った。

 ゼェゼェと苦し気な呼吸をしている瀕死の鳥人キメラを、睦月はじっと見詰めた。

 どうして、鳥人キメラは森で助けてくれたのだろう?

 どうして、鳥人キメラは病院でも助けてくれたのだろう?

「……どうして、そんなに必死に……?」

 小さな声で呟き、意を決して背中に手を伸ばす。触れた瞬間、鳥人キメラがビクリと反応した。

 全身の外殻は大半が失われ、背中も翼の付け根周辺を覗いて銀毛に覆われた肉体が露わになっている。

 剝き出しの背中に触れると銀毛が含んでいた血が噴き出して睦月の手を汚す。

「これ以上は死んじゃうのに、それなのに……」

 すぐ目の前にある翼は外装が完全に砕け、火花を散らしている。

 大きな裂け目からは内部の構造が少しだけ覗けた。金属で機械的に筋肉を模したような、不思議な構造をしている。

 機械筋肉とでも呼ぶべきだろうか。それは大きく割れ、抉れ、血が流れ出ている。

 残骸となって体に纏わりついている外殻は光沢を失い、触れただけでぼろぼろと崩れてしまう。

 戦いによる傷は全身に及んでおり、生きているのが不思議なほどだ。

「──俺も、死にたくはない」

 鳥人キメラが言葉を発した。

 睦月にしか聞こえない、小さな囁きだ。

 機械による加工を施したような、ノイズが混ざった低い声だった。

 思わず発し掛けた言葉を睦月は飲み込む。口を挟んではいけない気がした。

「だけどこの戦いは、俺にとっては命を賭けるに足るものなんだ」

 睦月を背後に庇いながらシザーアングと対峙する鳥人キメラの胸中に、ある感覚が湧き上がっていた。

 後から思えばこれはに近いものだったかもしれない。

「下がっていてくれ……絶対に、守るから」

 近付いて来るシザーアングを睨みながら、崩れそうな姿勢を必死に支えて踏み堪え、すぐ傍にある車両に捕まるように手を伸ばす。

 背筋を氷が撫でるようなぞわりとした感覚。何か異物が体内に流れ込んでくるような不快感があった。

「覚悟を決めろ……今は悩む時じゃない……」

 自分自身に言い聞かせるように呟き、他の事は何も考えないようにする。

 前に進もうとする意思を強く持ち、その意思のみで意識を満たす。

 何気ない動作であったが、これこそが鳥人キメラの本能が無意識にとらせた行動だった。

「戦え……この体が動く限り……いや、たとえ動かなくても……!」

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