第7話 孤独な生還
病室で目覚めてから四日ほどが経った。
折れていた片腕も腹部の傷も、あちこちの火傷も多少のむず痒さを残す程度にまで回復している。
だが、俺の傷は見えない部分にも存在していた。
それは両足の酷い筋断裂と、極端な鉄分欠乏状態の二つだ。
これらは意識を失っていた三日間に八幡院長が行った検査で判明していた。
何をしたらそのような状態になるのかと八幡院長は首を傾げていたが、心当たりはある。
どちらも俺が鳥人キメラになってしまった事と無関係ではないのではないだろうか。
「まだ、脚の方は駄目か……!」
たまには気分を変えようと、俺たちは病院の屋上に向かっていた。
病室のある五階から九階まで上り、そこから更に屋上に出る扉まであと十数段という所で、俺は手摺を掴んでなんとか立っていた。
太腿から脹脛に掛けて、傷付いた筋肉が熱を持っている。血液の脈動に合わせて鈍痛が疼いた。
両足の感覚が無くなっているが、無いなりに力を入れていないとその場に崩れてしまいそうだ。
松葉杖を借りてくればよかった。病室を出る時は痛みが無かったから油断してしまった。
「大丈夫か、恭護」
誠司は既に扉を開けて待っている。
彼は片足を複雑骨折しているので入院直後から随分と長めの松葉杖を二本使っている。
松葉杖が長めの為、両脇に携えて使うと両足が完全に浮く。その状態で松葉杖を脚代わりにして器用に歩行をしていた。
少し違うが、両腕の力だけで竹馬をしているようなもの、らしいが全く理解出来ない。あらゆる意味で。
「よくそれで階段を上れるな」
「鍛え方が違うんだよ、お前とは」
実際、体格は誠司の方がいいので反論出来ん。
「加治先輩、一旦腰を下ろしますか?」
数段後ろから俺を見守っていた八幡の心配そうな声。
どうやら力尽きた俺が階段から転がり落ちそうな時に支えてくれるつもりらしい。
俺の方が体が大きいのだから、幾らなんでも無理だろう。
「そうしたいところだが、座り込んだら次に立てる自信が無い」
振り返らずに答えると、背後から階段を上る軽快な音がする。
隣に立った八幡は、俺の左腕を掴んで自らの肩にまわ……何をしているんだ!?
剥き出しのうなじが肘の辺りに触れる。力を抜いて腕を垂らすと、指先が彼女の胸に触れてしまうだろう。
思わず、これなら意図せず触れてしまったていを保てるのではないか、と邪な考えが浮かぶ。そして消えない。
「手伝いますから、さっと上ってしまいましょう」
八幡の左手が俺の左手首を掴み、八幡の右手は俺の右腰に回される。
つまり八幡の右半身が俺の左半身に密着する状態だ。
柔らかいやら温かいやらなんだかいい匂いもするやらで、一体俺は何を考えてるのだろう。
「はい、一段ずつ上りますよ」
俺の体を引き上げる為だろう。腰に回された彼女の手に力が篭もる。
それは同時に彼女の体が一層強く押し付けられる事になるのだ。
「足、上げられますか?」
意識は全て密着している八幡の柔らかい感触に持っていかれている。
言われるがままに機械的に足を上げ、少しずつ屋上に近付いた。
ピッ、と小さな音に顔を上げると、扉の前で相田が俺にデジカメを向けていた。
隣では誠司が何か耳打ちしている。その度に相田は笑顔で頷き、俺たちにレンズを向けてシャッターを切った。
「相田、君は何だか誠司に似てきたな……」
若干の皮肉を込めた言葉に、相田は楽しそうに笑う。
それはいいが、隣の誠司もまんざらでもない顔で笑っているのが癪に障った。
屋上に設置されているベンチに腰を下ろし、ようやく一息つく事が出来た。
八幡と相田は屋上外周のフェンスから街並みを眺めながら話をしている。
ちなみに八幡総合病院は東西南北の四棟が【ロ】の形に繋がった構造をしており、内側の空間は中庭になっている。
この病院は各棟の連結部である【ロ】の四隅と、各棟の中央辺りにエレベータが二基ずつ設置されていて、四隅のエレベータは屋上にも通じていた。
そのエレベータを使えば楽に来れたのではないだろうか。
「階段で来て良かっただろ」
「お蔭で怪我がぶり返した気がするよ」
「どうだった、睦月ちゃんの温もりは」
「まさか狙っていたのか?」
「相田ちゃんほどじゃないけど睦月ちゃんも結構スタイルいいしな」
「お前、友人をそんな如何わしい目で見るものじゃないぞ」
そう言いつつもついつい二人の方へ視線を向けてしまう自分が情けない。
口では非難しつつも、あの時の感触を思い出してる自分が更に情けない。
そういえば、どうして相田と比較するような言い回しをしたのだろうか。
「あれ、どうして相田の方が八幡よりスタイルいいって知ってるんだ?」
「……こっそり教えてくれたんだよ」
言い訳にしては下手くそ過ぎるぞ。
相田が体形を強調するような格好をしているは見た事がない。
一体どうやって……いや、そうか、分かったぞ。
「お前、シザーアングから逃げる時に相田を背負ってたな」
「……あの時は相田ちゃん、脚を痛めていただろ。今は俺の方が酷い状態だけど」
何故、そこで少したじろぐのだろう。
相田が脚を痛めていたのは知っている。体力のある誠司がそれを庇うのは当然の状況だった。
「お前、あの状況で多少は役得だと思っていたのか?」
「お、お前、普段は鈍いくせにこういう時ばかり鋭いのはずるいぞ」
命懸けの状況でよくもそこまで考えられるものだ。
「そういえばお前は昔から、胸の大きな子が好きだったな」
「いや、俺だって別に下心があったわけじゃないんだよ。ただ背負った時に当たるとさ、やっぱり気になるだろ?」
確かに否定は出来ない。
俺が同じ状況で八幡を背負ったらまず間違いなく、背中に意識を奪われてしまうだろう。
「恭護、お前ちょっと見過ぎじゃないか?」
無意識に八幡と相田の胸をじっと見詰めていた。
二人は俺に気付いた様子も無く、今度は内周のフェンス越しに中庭を眺めている。
「意外と女の子って、気付いてるけど気付いていないふりしているらしいぞ」
「このタイミングで恐ろしい事を言うなよ」
それなりの努力を要して二人から視線を引き剥がし、空を見上げる。
大分涼しくなって来たが、天気が良いお蔭で屋上の居心地は悪くない。
「そういえば、サークルの件は残念だったな」
今回の事故が原因で、サークルは無期限の活動禁止となっていた。
事故は誠司のせいではないが、学生主導で行ったイベントで事故が発生したとなると、色々と問題になってしまうのも仕方ないだろう。
一緒に事故に遭った部員の家族からの非難も多少あり、それらに対する落とし処としての活動禁止処分だった。
部員および部長の誠司に対する処罰は無し、大学に出られない事による単位の影響などは考慮するという辺り、大学側も温情を示してくれているだろう。
「大人の事情って奴もあるし、仕方ないよ。部室は残して貰えたし、何か他の事でもやるさ」
「何をやるんだ?」
「まだ考えてないけど、当然お前にも手伝って貰うからな」
「決定なのか、せめて確認してくれ」
「後は相田ちゃんにはもう話をしてるし、睦月ちゃんはまだだけど……ま、大丈夫だろ」
「さっきの話と関係あることなのだが」
実は気になっていた事があった。
「誠司、お前もしかして相田の事」
「それ以上は野暮だぞ恭護くん!」
こいつ、人の事は散々からかうくせに自分が突っ込まれるのは嫌だというのか!
いい機会だ、ここは一つ誠司の奴を困らせてやろうじゃないか。
と、思っていたのだが。
「ほら、相田ちゃんはいい子じゃんか」
「あ、ああ」
「旅行の時なんかは写真係として結構一緒にいる機会が多かったからさ、そりゃ話はするし仲良くもなるよな」
「そう、だな」
「俺も男だしさ、そうなると気になっちゃうんだよ、そういうもんだろ」
いつも誠司が俺にするように、何とかはぐらかそうとするところをからかってやろうと思っていたのに。
照れながらも隠す様子もなく自分の気持ちを言葉にしている。
このパターンに対する対応は俺の中には無かった。
「も、もういい。分かった、応援してるから頑張ってくれ」
「そうかそうか、うん、そのうち何か頼むかもしれないからその時はよろしくな」
普段は大ざっぱなくせに、こういうところは案外と繊細な男だ。
こういった振る舞いを俺も出来ればいいのだが、性格的に真似出来そうにない。
俺は俺なりに何とかするしかないのかな。
「二人とも、ちょっと……!」
切羽詰まった声の相田が手招きをしている。
只ならぬ様子に、一足先に立ち上がった誠司が駆け寄る。
遅れて立ち上がった俺も駆け寄って来た八幡の肩を借りてフェンスに近付く。
相田が指差しているのは、俺たちがいる棟の斜め向かいにある西棟の四階だ。
「あれは……!」
それを見た俺たちは──。
△▼△▼△▼△▼△▼
「先生、あそこです」
最初に彼を発見したのは、計器が発したアラートに気付いて駆け付けた医師と看護師だった。
無菌室から出て来た男がふらふらと廊下を歩いている。こちらに向けた背中は丸められ、両手と首を力無く垂らして歩く姿はゾンビのようだ。
全身に取り付けられたコードは引き千切られたまま引き摺っていた。尿道に通したカテーテルすらそのままで、排泄物を垂れ流しながら歩いている。
「馬鹿な、まだ歩ける状態ではない筈なのに!」
彼もまた、事故当時に森の中で発見された被害者の一人だった。
右腕と下顎の骨が砕け、脊椎の損傷と内臓破裂による腹腔内の大量出血。自発呼吸すらままならない重体だった筈だ。
年齢は三十代くらいと思われるが、身元を証明するものを一切所持しておらず、警察が現在も調査中だと聞いている。
「う……あ……」
ゆらり、と男が振り返った。
砕けた顎で言葉にならない声を発しながら一歩、医師と看護師に近付く。
全身に取り付けられたコードを掴み、毟り取って放り捨てた。
切開した気管に取り付けられたチューブを毟り取る。傷が開き、咽喉から血が流れ出た。
「いかん、押さえるぞ!」
投薬の副作用で錯乱しているのだと医師は判断した。
頷いた看護師は、男の負傷していない左腕を抱きかかえる。
「一旦病室に戻りましょう。説明もさせていた──」
左腕が持ち上がる。看護師ごと。
そして左腕はすぐ横の壁に叩き付けられた。看護師ごと。
グシャリと果実を叩き付けたような音と共に看護師の体が文字通り潰れた。
一瞬前まで看護師であった筈の血肉が、壁一面に不格好なミルククラウンの模様を描く。
飛沫となった血肉は壁だけではなく天井や床、そして男の全身にも飛び散っていた。
かつて看護師であった残骸は暫く壁に張り付いていたが、やがて重力に引かれて床に落ち、生々しい水温を立てる。
「え……なに……?」
男の全身が不気味に波打ち、蠢いていた。
まるで皮膚の下を何かが這い回っているようだ。
ブチブチと体が引き千切れる音を立てながら、男の肩甲骨から血塗れの肉塊が生える。
細長く伸びたそれは粘度をこねるように形状を整えていくうちに、草色の細長い鎌腕へと変わる。
元から存在していた両腕は膨張しながら急速に伸びて来た剛毛に覆われた猿腕へと変わっていく。
右腕を負傷していた影響か、二種類の腕はどちらも右腕が不自然に浮腫み、動きもぎこちない。
「グ、が、ああァァぁぁぁ……!」
男は顔を上げ、目を剥いて医師を睨む。
零れ落ちんばかりに突き出た眼球は風船のように膨張しながら、その表面が網の目状に分割されていく。
砕けた下顎が左右に裂け、複眼となった目の上からは一対の触覚が生える。
たった数秒で、重傷だった男の姿が生臭い獣臭を撒き散らす怪物へと変貌しようとしていた。
「あ、ああ……う、うわぁぁぁぁぁ!」
医師は悲鳴を上げながら怪物に背を向けて逃げ出す。
だが、数歩も進まないうちに彼の体は宙に浮き、廊下へうつ伏せに倒れた。
「?」
急に地面が消えたような不可解な感覚だった。
床を這って逃げながら自分の脚を確認した医師は、何が起こったのかすぐには理解出来なかった。
彼の両脚は、膝から下が失われていたのだ。
理解が追い着かないせいだろうか、痛みはまだ感じていない。
脚は、彼が振り返って一歩踏み出そうとした場所に直立したまま残っていた。
「お、オぉぉ………ぐ……ぎ……!」
メキメキと音を上げて全身の肉を裂き、変貌を続けながら男が近付いて来る。
振り上げられた鎌腕はたった今、血の通う何かを斬ったかのような真新しい血で濡れていた。
「もしか、して……」
彼はようやく、自分に何が起こったのかを理解した。
だが、既に遅かった。
彼が最後に見たものは、自分の首を目掛けて振り下ろされる鎌腕が放つ、濡れそぼった血の輝きだった。
△▼△▼△▼△▼△▼
何かが落下し、激突したような破砕音が響き、建物が僅かに揺れた。
俺たちは屋上でそれを見詰めていた。恐怖に表情を凍り付かせて。
「シザー……アング……」
西棟四階の廊下、その中央付近にシザーアングはいた。
二本の猿腕にそれぞれ動かなくなった人を掴んで引き摺りながらゆっくりと歩いている。
シザーアングが歩いた後は赤黒いペンキをぶちまけたようになっている。床は勿論、壁も窓も、おそらく天井も。
「う……」
相田が口元を押さえてえづいた。
彼女の背中を擦る八幡も顔色が悪い。
「恭護……あれ、もしかして……」
赤黒いミルククラウンの跡のようなものが壁に描かれている。
全てが同じ色なので分かり辛かったが、壁に何かが張り付いていた。
何かを叩き付けた残骸のような……まさか、そういう事なのか?
「俺も吐きそうだ」
胸に手を当てて深呼吸をする。
その時ちょうど、屋上の鉄扉が勢いよく開いた。
飛び上がるほど驚いた俺たちが恐る恐るそちらを振り向くと、息を切らした八幡院長が立っていた。
「睦月、ここにいたのか!」
「父さん、どうしてここに」
「すぐにここを出るんだ、君たちも早く!」
急かされるように俺たちは屋上から屋内に入る。
出遅れた俺がもたついていると、八幡が俺の腕を担ぐように体を寄せて来た。
「彼は私が引き受けよう。娘の体に触れる事など許さん」
そんな八幡を押し退け、八幡院長が強引に俺を背負う。
どうせなら八幡の方が良かった。
「大混乱だな」
屋内に入った途端、鳴り響く非常ベルと喧騒が耳に飛び込んで来た。
病院内にいる全ての人が逃げ惑っていた。
「あれが、君たちの見たキメラなのだな」
「八幡院長も見たんですか?」
「ああ、あれは──」
再び破砕音が響き、会話が中断された。
八幡院長は俺を背負ったまま、中庭に面した窓から西棟の様子を窺う。シザーアングは……向かいの北棟に移動している。
「今の音は、エレベータを落とされた音だ」
「どういう事ですか?」
「やつは見付けた人間を次々と襲いながら、まず西棟の中央エレベータを落とした。そして今、北西のエレベータも落とされた。これはどういう意味だ?」
廊下を歩いていたシザーアングが歩調を速めた。その先にはエレベータに乗り込もうと集まっている人たちがいた。
シザーアングに気付いた人たちは悲鳴を上げながら逃げようとして──。
「やめろ……やめろよ!」
窓を叩く誠司の声は当然届かない。それでも怒鳴らずにはいられなかった。
人の群れに飛び込んだシザーアングが四本の腕を振るうたびに、赤黒い何かが飛び散る。
十人以上はいた筈なのに、ほんの数秒で人間らしきものは見当たらなくなった。
「あ……」
やがて、三度目の破砕音と震動が響いた。
シザーアングは北棟廊下の中ほど、つまり中央エレベータの辺りにいる。
「まさか、全てのエレベータを落とすつもりなの?」
「う……っ!」
下の方を覗き込んでいた八幡院長が呻く。
彼の肩越しに同じ場所を見た俺は、すぐに自分の行動を後悔した。
西棟と北棟の一階廊下、中央辺りに何か赤黒い物がぶちまけられている。
位置的に中央エレベータのある辺りだ。
エレベータの中には人が乗っていて、落下の衝撃で……。
「おい、シザーアングは何処にいる?」
一階に気を取られている間にシザーアングの姿を見失った。
西棟から北棟へ移動したという事は東棟かと思ったが見当たらない。
「上に移動してます!」
睦月が指差したのは北棟の五階だ。
エレベータの傍にある階段を使ったのだろう。
上階に上がったシザーアングは突然、北棟と東棟の連結部分に向かって走り出した。
巨体が床の上を跳ねるように駆け、北棟はその度に床が僅かにたわんでいるのがこの距離でも分かる。
「もたもたしている時間は無い、すぐにここを脱出するぞ!」
俺たちがいる南棟のエレベータはまだ無事だが、ここから最も近いエレベータには既に沢山の人が集まっている。
シザーアングの凶行を目撃していた人も多く、半狂乱になって呼び出しボタンを押したり扉を叩く者もいた。
集まっている人数はとても一度では運べない。全員を押し退けでもしない限り、現在こちらに向かっている最速のエレベータには乗れないだろう。
「駄目、連結部のエレベータも人が多くて乗れない!」
様子を見に行っていた八幡が走って戻って来た。
エレベータにはすぐに乗る事が出来ない。だが、俺はエレベータに乗るべきではないと考えていた。
「誠司、エレベータは駄目だと思う」
「俺もそう思う」
「どうして?」
「屋上を除けばここは最上階だ。つまりここで乗ったら八階から一階までを通過する事になる」
「ここは病院だ。病気や怪我などで体が不自由な者もいる。自力で階段を下りる事が難しい者はエレベータを使うだろう」
「ああ、そんな人たちが各階にいると思って間違いないだろうな」
窓から見える各階のエレベータホール付近には人だかりが出来ている。
南棟の様子は見えないが、同じ状態だと思った方がいいだろう。
「シザーアングの移動速度を考えたら、各駅停車で下りている間に捕まってやられちまうぞ」
八幡院長は白衣のポケットからPHSを取り出し、何処かに通話を掛けた。
「……私だ。状況は把握しているか……よし、これから言う事を院内放送で流してくれ」
通話をしながら、八幡院長は俺たちを先導して走り出す。
俺たちが向かっているのは西棟、つまり東棟に移動したシザーアングの向かい側だ。
背負われた俺は八幡院長が指示している内容を聞いて思わず話に割り込む。
「ちょっと待ってください、それを院内放送で流したらシザーアングも」
「速やかに院内にいる全ての者に伝えるにはこれしかないのだ!」
今この瞬間、院内にいる全員に八幡院長の意思を伝えるには院内放送を使うしかない。
それは分かっている。だけどこれは同時に、シザーアングにも八幡院長の考えが伝わってしまう事だ。
──やがて、院内放送のコールサインが鳴った。
続いて、院内に凶悪な暴漢が進入し片っ端から人を襲っている事、速やかに院外への避難を求める放送が流れた。
その際にエレベータは使用不能にされる危険がある為、可能な限り階段を使うように、という内容も捕捉される。
エレベータ前に集まっていた人たちは放送を聞くと一斉に階段に向かい走り出した。
「階段で転んだりしませんか」
「死ななければいい。這ってでも脱出してくれれば、後は私が全て治してみせる!」
八階への階段を駆け下りる。
八階に着いて最初にすべきことは、シザーアングの現在位置の確認だ。
逃げ遅れた男性がシザーアングに捕まっていた。
男性の体は二本の猿腕で雑巾のように絞り……なんて、惨い事を……!
形容しがたい姿にされて事切れた男性の体は窓を破って放り捨てられ、中庭の石畳に叩き付けられた。
目撃者の悲鳴があちこちで聞こえる。
「不本意だ。私は悔しくて堪らない!」
七階への下り階段に向かいながら八幡院長が叫ぶ。
「今この状況で、私の病院内で沢山の命が奪われている! だが今の私は君を背負い、睦月たちを先導しながら逃げるのに精一杯だ!」
踊り場で方向転換をしながら一度、忌々し気に手摺を蹴った。
驚いた八幡たちが一瞬足を止める。
「全ての命を救いたいと思っているのに。今の私は命を見捨てて逃げようとしているのだ!」
絶対に許さん。八幡院長が小さく呟いた。
七階に到着し、再びシザーアングの居場所を確認する。
シザーアングの姿は俺たちが先ほどまでいた南棟の六階にいる。
いつの間にか一つ下の階にまで迫っている!?
「え……何をしようとしてるの……?」
この時点で既に北棟六階の中央エレベータホールの殺戮は終わっていた。
シザーアングは付近の階段の前に立つと、猿腕を思い切り振り上げ、そして振り下ろす。
振り下ろされた拳が階段を破壊し、その余波は付近の壁や天井にまで波及した。今までよりも大きな震動と共に、階段と床が崩れ落ちる。
崩落する床と共にシザーアングも五階に落下したが、すぐに六階へよじ登って来た。
まさか、退路を断とうとしているのか……?
「笑ってやがる……!」
シザーアングの肩が大きく上下に揺れている。
愉しんでいるのだ。病院内に残った人たちを追い詰めつつあるこの状況を。
「西棟へ移動してから下に行こう!」
相田がそう言いながら走り出し、俺たちも続く。
階段の破壊を皮切りに、シザーアングは手当たり次第に壁や天井、床を破壊し始めた。
「西棟を下るの?」
青い顔をした相田の問い掛け。その意味はみんな分かっている。
西棟の四階は最初にシザーアングの姿を確認した場所で、シザーアングの殺戮が始まった場所だ。
通過する際に俺たちは何を見る事になるのか、想像するだけで吐き気を催す。
「だが、行かなくては」
意を決して階段を下る。五階へはすぐに着いた。
廊下の向こうから破壊音が少しずつ近付いて来る。シザーアングが暴れているのだろう。
早く行かなけれならないが、誠司たちは下り階段を前に脚が止まっていた。
この下は繰り広げられた殺戮の跡が残っている。階下から夥しい血の臭いが上ってきているような気もする。
「ゴアアァァァァァァァッ!」
ビリビリと窓を震わす唸り声が近くで聞こえた。
八幡院長が階段前から廊下の様子を窺う──。
西棟に戻って来たシザーアングが、角の辺りからこちらを見ていた。
「いタぞぉ……人間ガァぁぁぁぁ!」
「まず……下へ!」
三人が階段を駆け下りる。そのすぐ後ろを俺を背負った八幡院長が続いた。
ズン、ズンと重厚な震動音が高速で迫って来る。シザーアングの足音だ!
俺を背負った八幡院長は三段飛ばしくらいの勢いで階段を駆け下りると、みんなを先導して四階の廊下に飛び出す。
「う……っ!」
赤黒い色で染め上げられた世界がそこにあった。
脂の混ざった血でぬらぬらと光る廊下と壁、窓に天井……そこら中にちらばる人の【残骸】……!
「や、やだ……これは、無理……」
相田の膝が笑っている。よろめいて倒れそうになったところで壁に手をついた。
壁を彩っていた血がべっとりと手に付き、堪えきれなくなった相田が泣き出す。
「なんでこんな目に遭うの……どうして、こんな……!」
俺たちの頭上でミシミシと音が来こえた。まるで真上を重い物が通過しているような……。
「こノ匂い、憶えテイルぞ!」
ズン、と何かを叩き付ける音と共に階段に大きな亀裂が入る。
すぐ頭上にシザーアングがいる。階段を破壊しようとしているぞ!
「相田ちゃん、我慢してこっちへ! 院長先生、それ!」
意を決して血の海になった廊下へ踏み出しながら誠司が叫ぶ。
誠司が示したのは階段の傍にある消火栓だ。意図を察した八幡院長は消火栓に取り付けられている非常ベルを叩く。
けたたましい音が鳴り響き、階段の上から突然の騒音に苦しむ呻き声が微かに聞こえた。
シザーアングの追撃が一瞬止んだ間に、八幡院長は壁に埋め込まれた小さな金属箱を開き、その中に取り付けられているレバーを引く。
開放されていた両開きの防火扉がゆっくりと閉じ、階段と廊下を隔てて行く。
同じタイミングで、破壊された階段の瓦礫とともにシザーアングが落下した。
崩落の勢いで三階まで落下したシザーアングが四階までよじ登って来る姿が扉の隙間から見えた。
「早く閉じろよ!」
よじ登ったシザーアングがギチギチと顎を鳴らしながら近付いて来る。
完全に閉まり切るのを確認する余裕もなく、八幡院長と俺は三人を追って血塗られた廊下を走った。
「この病院の防火扉は特別分厚い頑丈なものだ。戦車でも突っ込まない限りはそうそう破れまい」
そこまで強固な扉が病院に必要なのかは疑問だが、この状況では有り難い。
後ろではシザーアングが防火扉を殴る轟音が不規則に響いている。
とにかく走る。血で滑って転倒し、誰のとも知れぬ血に塗れながら。
「ここから先は、エレベータも階段も破壊されているよ!」
「最悪、四階から飛び降りるしかないかもね」
「……そこの部屋に入りなさい!」
西棟から北棟に移ったところで八幡院長が叫ぶ。
疑問を抱く余裕もないまま、八幡院長が指示した部屋に雪崩れ込んだ。
「ここ、って、診察室……か?」
荒い呼吸を繰り返しながら誠司がそれほど広くない部屋を見回す。
診察室は更に奥へ行く扉があり、八幡院長は診察用のベッドに俺を下ろすと奥の扉を開いた。
「誰か、外の様子を確認していて欲しい」
「じゃあ、わたしが」
相田が廊下に面した扉を少しだけ開き様子を窺う。扉を押さえる手が遠目にも震えているのが分かった。
奥に姿を消していた八幡院長は、すぐに戻って来て俺の腕を掴んだ。
「北棟は、各階に診察室が幾つか並んでいてな。それぞれの診察室は奥にある細い通路から直接行き来できるのだ」
そう言いながら少し強引に俺を奥の通路へと導く。
そこは薄暗く、治療器具や薬剤らしき物が箱詰めされて積み上げられている。
それぞれの診察室で使用する器具や薬剤を、奥の通路で共有しているのだろう。
「各階で器具や薬剤が不足した場合、他の階で余っているストックを融通して貰うんだが、その時に使っているものがあってな」
通路の一角に台が設置されている。
台が面している壁には上下に両開きの縦横一メートルも無い小さな扉が取り付けられていた。
似たようなものを、以前やっていたバイトで見た事がある。
確か牛丼がメインのファストフード系の外食チェーン店だ。
調理場は一階だが客用の座席は二階にもあって、出来上がった食品を速やかに配膳するために……これは、まさか。
「エレベータか!」
「ちょっとした器具なんかを手早くやり取りする為のものだから小型だがな。これでも一階まで下りる事が出来る」
八幡院長が誠司、相田、八幡、最後に俺を見る。
他の三人も俺を見ている。
「このスペースでは入れるのは一人が限界だろう。加治くん、君が乗りなさい」
「待ってください! それはどうい……うわっ!?」
誠司が首の後ろを掴んで狭い貨物用エレベータに俺の上半身を押し込む。
抵抗していると相田と八幡が加勢して来た。
「ほら、脚を畳まないと入らないよ!」
「窮屈ですけど我慢してください!」
「や、やめろ、何で俺だけが!」
引っ繰り返ったような姿勢で押し込まれた。
もがいても出られない。誠司が俺の体を押さえ付けていた。
「誠司、お前が乗れよ!」
「器用な俺はその気になれば松葉杖がなくても歩けるし走れるが、お前は無理だろ」
「じゃあ相田と八幡だ。二人なら何とか入れるかもしれないだろ!」
「……森でシザーアングに出遭った時、加治くんは身を呈してわたしたちを逃がしてくれたよね」
「だから、今度はわたしたちが加治先輩を守ります」
「八幡院長!」
「私は正直、睦月を真っ先に逃がしたい。だが医師として、現時点で最も体力が無い君を優先すべきだと思う」
そんな!
シザーアングはどんどん近付いているじゃないか!
俺だけが逃げ延びていいのか?
「誠司、俺は……俺もお前たちと」
押さえ付けられながら伸ばした手を八幡が握る。
それを見守る誠司の笑顔は、いつもと違い穏やかなものだ。
「悪いな、恭護……。あの時、お前が死んじまったかと思った時の苦しみ、俺はもう味わいたくないんだ」
「それを俺に味わえって言うのか!」
彼女たちの死が確定したような事を言ってしまった自分が恥ずかしい。
だけど感情が抑え切れない。
「わたしたちは死ぬつもりはありませんよ」
八幡の手に力が篭もる。
「各棟に一つずつ、貨物エレベータはある。シザーアングはこれの存在を知らないのだ。何とかそこに辿り着けばいい」
八幡院長の手が貨物エレベータの開閉ボタンに伸びる。
上下に開いていた扉がゆっくりと閉じ始め、八幡の手が離れる。
「八幡……やは……睦月!」
閉じる寸前の僅かな隙間の向こうで睦月が驚き、泣きそうな顔で笑った。
「また後で……恭護、先輩……」
扉が閉じられて暗闇に包まれる。
ガコン、と軽い揺れと共にエレベータが動き出した。
閉じられた扉の向こうで騒音と悲鳴が聞こえる。
耳を塞ぎたくとも、窮屈な場所では腕を動かす事もままならない。
「やめろ……もう、やめてくれ!」
エレベータの下降と共に騒音と悲鳴が遠ざかる。
無事でいてくれ、お願いだから、逃げ延びてくれ!
おそらくほんの数十秒程度だろうが、数分にも数十分にも感じる時間が過ぎた。
小さな衝撃と共にエレベータが停止し、扉がゆっくりと開く。
狭い場所に乱暴に押し込まれたので脱出に難儀し、結局は床に転がり落ちる形で抜け出した。
「誠司、睦月、相田、八幡院長……」
怪我のせいだけじゃない。不安と恐怖で脚が震えて立つ事が出来ない。
診察室を通り抜けて廊下に何とか這い出た。
みんなを助けなければ。
だが、どうやって?
窓の縁に掴まって立ち上がり、四階を見上げる。
「誰かいるぞ!」
叫び声に驚いて転倒しそうになった。
声が聞こえた方を見ると、数人の警官が拳銃を手にこちらを見ていた。
「血塗れだ、負傷している模様!」
「君はここの患者かい、もう大丈夫だよ」
口々に何か言いながら俺を取り囲む。
俺が立ち上がろうとしているのを察したのか、一人の警官が手を貸してくれた。
「ん……負傷はしていないのか。じゃあ、この血は」
この血は、シザーアングが廊下に撒き散らし……!
見上げた四階の廊下を誠司たちが懸命に走っていた。
その後ろをシザーアングが何故かふらつきながら追い掛けている。
「ああ……みんな、みんながあそこに!」
「他にも誰か……なんだ、あれは?」
四階を見上げた警官が怪訝な表情で目を細める。
「着ぐるみか……?」
「早く、早くみんなを助けて下さい!」
「階段が破壊されていて中からは上に上がれないんだ。今、外から突入の準備を整えている」
「さあ、今は君だけでも外へ!」
くそ、くそ、くそっ!
俺だけが安全な場所に逃げ延びようとしている。
それを、助かった事を素直に喜んでいる自分がいる!
大事な人たちを置き去りにして、一人助かってほっとしている俺がいる!
なんて……俺はなんて最低なんだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます