第6話 不安なる安堵
充分に取った睡眠からの目覚めのように、何の余韻も無く覚醒した。
全身が尋常ではなく痛む。指一本動かしだけでも強烈な電流を流されたような痛みが走った。
(挿管……? という事は、ここは病院なのか?)
首を動かす事すらままならないので、眼球だけを動かして周囲を確認する。
何処かの部屋なのは間違いない。自分はベッドの上に横たわっている。
ベッドの傍らに仰々しい機械が設置されている。これにより生命維持が管理されていたのだろう。
暗かったので分からなかったが、点滴用のスタンドもすぐ傍にある。
どうやら、生き延びる事が出来たらしい。
まさかキメラという怪物に襲われるなんて想像もしていなかった。
あれだけの怪物と戦って、生き延びる事が出来たのは幸運だっただろう。
色々と考えなければならない事がある。だが、今はまともに思考が働かない。
傷のせいか、治療の過程で投与されているであろう薬のせいか、或いはキメラとなった事による後遺症なのか。
もう少し休息する必要がありそうだ。
せめて夜が明けるまでは眠りたい。
背中に感じるベッドの弾力がなんとも心地良く、再び睡魔が襲って来た。
今は何も考えずに眠ろう。
そして、目を閉じた。
△▼△▼△▼△▼△▼
「恭護」
呼ばれて目を開けた。
真っ白な、無機質の壁が視界いっぱいに広がっている。
頭が痛い。
何かが圧し掛かってるような重苦しい痛みだ。
「つ……」
白い壁は天井だ。つまり俺は仰向けになっている。
背中に感じる少し硬めの弾力、手の平に触れるシーツの感触。ベッドに横たわっているようだ。
どれくらい眠っていたのだろう。
親指で顎を撫でる、少し伸びた髭がちくちくと指を刺激した。
……髭?
手の平で顎を撫でる。顔を撫でる。髪に触れる。
柔らかい、まるで人間のような肌と髪の手触り。
頬に何か……ああ、これはガーゼか。
「ってこれは、まさか!」
バネ仕掛けのように跳ね起きた。
全身の筋肉が悲鳴を上げ、俺自身も思わず悲鳴を上げて体を丸める。
筋肉痛に似た痛みだ、だがその度合いは筋肉痛なんて生易しい物ではない。
口を開くだけでも、何故か上半身が痙攣するほどの痛みが走る。
「俺は……どう、なって……」
「おい、恭護」
すぐ横に誠司がいた。
背もたれの無い丸椅子に腰かけ、傍らに松葉杖を携えている。
片足がギプスで固められていた。
「誠司、か?」
「幼馴染の顔を忘れたか? ちょっと待ってろよ」
松葉杖をついて立ち上がった誠司は枕元にあったナースコールを何度か押すと「寝るなよ」と念を押しながら部屋を出て行く。
残された俺は、静かになった室内を見回し、ここが何処かを考えた。
室内には俺が寝ているものを含めて二つのベッドと小さな洗面台しかない。ビジネスホテルのツインルームよりは広い程度の部屋だ。
出入口の扉はスライド式のドアで、住居というよりは施設内の個室のようだ。
白い天井、白い壁、カーテンもベッドも白い。白尽くめで少し眩しい。
微かに鼻につく薬品のような臭い。この部屋は、というかこの建物は。
「病院か」
考えるまでも無かった。
ベッドを挟んで誠司がいた場所の反対側にスタンドに吊るされた点滴袋がある。
点滴袋から伸びたチューブ先端の針は、俺の腕に刺さっていた。
人間の腕だ。毛皮にも、鋼鉄の外殻に包まれていない普通の腕だ。
左腕は外殻……ではなくギプスで固められているが、間違いなく人間の腕だ。
痛みに引き攣る腕で苦労しながら入院着の胸元を開く。
至るところにガーゼがテープで貼り付けられていた。鳩尾の辺りは包帯が念入りに巻かれている。
傷だらけの体だ。
傷だらけの、人間の体だ。
夢だったのか?
事故に遭って森に転落し、キメラに遭遇して襲われ、キメラになった。
……いや、夢ではないだろう。現実に起こった何よりの証が、この傷だ。
途中から記憶が無いので肝心なところは分からないが、気を失っている間に元の体に戻れたという事なのだろう。
俺が生きているという事はシザーアングを倒す事が出来たのだろうか。
もし倒す事が出来たとして、それは殺してしまったという事なのだろうか。
全く思い出せない。
「加治先輩!」「加治くん!」
勢いよく扉が開くと、八幡と相田が相次いで病室に飛び込んで来た。
大分遅れて、松葉杖を突いた誠司がもたもたと戻って来る。
「良かったです、目を覚ましてくれて」
二人の目が少し潤んでいる。だいぶ心配をかけてしまったらしい。
不謹慎ながらここまで心配し、無事を喜んでくれるのは悪い気はしない。
「加治くん、あれか「少しいいか」
相田の問い掛けを遮るように言葉を被せる。
考える時間が少しあったとはいえ、まだ俺は状況が把握し切れていない。
まず、ここが何処の病院かを教えて──。
「ここは八幡総合病院の個室だよ」
椅子に腰を下ろした誠司が少しにやついた表情で言う。
相変わらず俺の考えを先読みするのが上手いやつ……?
「……やはた、そうごうびょういん?」
八幡を見ると、少し照れ臭そうな顔で頷いた。
そういえば八幡の父親は医者で、病院の院長だったな。
その病院に運び込まれたという事か。
「実は救助に来てくれた人の中に睦月ちゃんの親父さんがいてさ」
「院長自らやって来てくれたのか?」
「父はちょっと過保護で、事故に遭ったのがわたしだと知ると病院から出る救急車に飛び乗って自ら運転して現場まで来たそうです」
旅行の時の旅館といい、色々と無茶苦茶な人ではないだろうか。
「捜索隊にまで無理矢理加わって崖を降りて来たところに丁度俺たちが辿り着いて保護されたんだ」
「あの後、院長先生が捜索隊と一緒に森の中に入って、倒れていた加治くんを見付けてくれたんだよ」
少し興奮した様子で誠司たちは語ってくれた。
シザーアングが後を追って来た事を。
誠司も重傷を追い、諦めかけていた事を。
そこに現れた鳥人キメラの事を。
「シザーアングが追って来た時、加治先輩がどうなったのが心配したんです。無事……ってほどでもないけど、本当に良かった、です」
八幡が目を潤ませている。
そんな顔をさせるつもりはなかった。少し胸が痛む。
「助かったから言えるけど、お前よく生きてたな」
発見された時の俺は骨折と切創、刺創に火傷とぼろぼろで虫の息だったそうだ。
実際、発見直後は俺の事を死体だと思っていたらしい。
「院長先生がその場にいたから助かったようなもんらしい」
「……サークルのみんなは?」
「俺たちとは別に保護されたよ。幸いみんな軽傷だったから入院はしないで自宅療養だ」
入院しているのは俺と誠司、相田と八幡の四人だけらしい。
俺と誠司は当然だが、相田も痛めた脚を酷使して走り回ったせいで大分悪化させているので大事を取っての事らしい。
八幡は……入院が必要なほどの怪我をしていたようには見えなかったが。
「父は過保護なもので……」
心底困った様子で八幡が溜め息を吐いた。
職権乱用なのだが、それ以前にベッドを一つ埋めてしまって問題無いのだろうか。
「正直、わたしは相部屋が睦月さんで良かったかな」
二人もまた別の二人部屋に入院していた。
ちなみに俺と相部屋なのは誠司だ。
「ルームメイトってやつだな」
「言い方が気楽過ぎるだろ」
「あのな、恭護」
和やかな空気で満たされかけた室内に、いつになく真剣な誠司の声が響く。
「みんな助かった事は嬉しいんだけどな。実は俺、結構怒っているんだ」
「辻崎くん、今は」
「お前、どうしてあんな事をした?」
「あんな事って、何の事だ」
「どうして一人だけ残ったか聞いてるんだ」
「残った……ああ、あの時か」
仕方ないと思った。
シザーアングにやられて致命傷を負った状態で、俺はもう逃げられないと思った。
助かりたくなかったわけじゃないが、絶対に助からない事を確信してしまっていた。
「今だから言えるが、あの時はもう俺は助からない。そう思ったんだ」
ほんの僅かでも可能性があるならみっともなく足掻いたかもしれない。
だが自分の命はもう助からない、何をしても可能性はゼロだと、どうしようもないくらい実感してしまった。
そんな時、何か少しでもやらなければならない、このまま死ぬよりは何かを成して死んだ方がマシだと思った。
「その結果が、俺たちだけでも逃がそうって考えだったのか」
「あの時の俺が何か出来る事といったら、それしか思いつかなくて……」
顔を上げられない。
誠司はどんな顔で俺を見ているだろう。怒りか、呆れか、失望か……。
「馬鹿だな、お前は」
溜め息と共に言葉が吐かれる。
「それでお前が死んだら、俺は一生悔やむ事になる。どうしてあの時、お前を置いて来てしまったんだって」
顔を上げた。
俺を見下ろす誠司は、困ったような顔で笑っていた。
「俺だけじゃない。特に睦月ちゃんなんか保護されたお前のボロボロになった姿を見て半狂乱になってたんだぞ」
「ちょ、ちょっと辻崎先輩!」
「最初に見た時はもう死んでると思ったから……俺も、ちょっとな」
「辻崎くんも片脚動かせないのに物凄い剣幕で『あの怪物は絶対に許さない、今すぐ俺が殺してやる!』って飛び出して行きそうだったよね」
誠司も八幡もそれだけ心配してくれていたのだろう。
相田は……俺の事を心配してくれていたのだろうか。
「わたしもね、保護された加治くんを見た時はちょっと呆然としたっていうか……ただ、すぐ傍で二人が取り乱してるから、そっちを宥めるのにも必死で」
相田はまるで弟妹を見るような目で誠司と八幡を見る。
たった一晩で人が変わったようだ……いや、これが本来の相田なのかもしれないな。
良くも悪くも衝撃的な夜を過ごした事で、三人の間における精神的な距離が縮まったのだろう。
そこに俺が加わっていない事が少し寂しいが、仕方のない事だ。
「恭護、お前も助けて貰ったのか?」
「そりゃあ、だからこそここにいるんだろう?」
「いや、そうじゃなくて……お前は見てないのか?」
「何がだ?」
「もう一体、キメラが現われただろ」
いきなり心臓を鷲掴みにされたようだった。
思わず表情が強張ったが、それを誠司たちはいい方へ解釈してくれたらしい。
「お前も鳥人キメラに助けられたんじゃないのか?」
「いや、俺は……ほら、死に掛けてたから、俺の相手をしている暇も惜しいって放っておかれたんじゃないかな」
適当に返事をして誤魔化す。
鳥人キメラは俺なんだと、そう告白するのは容易い。
だが俺がキメラだと知った誠司たちはどんな態度をとるだろう。
……案外、何も変わらない気はする。
それでも自分が怪物なのだと、人間ではないのだと告白するのは怖かった。
「助けて貰った時、あいつに恭護の事を頼んだが、はっきりと頷いたんだよな」
「あのキメラがいなかったら、わたし達もこうしていられなかったです」
「そ、それじゃあ俺も意識を失っている間に助けられていたのかもしれないな」
正体を知られたくない一心で適当に話を合わせる。
まだ目覚めたばかりで混乱していると思ってくれたのか、我ながら挙動不審になっていた俺の言動も見咎められなかった。
「君たちの話に、私も加えて貰いたいのだが」
いつの間にか、部屋の入り口に白衣を纏った年配の男性医師が立っていた。
後ろ手にドアを閉じると何故か舌打ちしながら近付いて来る。
医師として患者を前にその態度はどうなのだろうか。
「全く、ナースコールが鳴ったからわざわざ来てやったというのに、忌々しいことこの上無いな」
「いきなり敵意剥き出しにし過ぎでしょ」
笑いながら口を挟む誠司の態度は、親しい人に対するものだ。
男性医師は俺を睨みながら真っ直ぐベッドの脇までやってくると俺の目をこじ開けてペンライトで照らして覗き込む。
「眩しい」
「反応は正常だ。まだ三日しか経っていないから安心は出来んが、回復も早い。これなら」
「ちょ、ちょっと待ってくれ! 三日も経っているのか?」
「事故の夜を一日目としたら、現在は正確には四日目の午後だ。ほら、心音を確認するぞ」
返事を待たずに入院着をはだけられ、八幡と相田が同時に目を逸らした。
男性医師は耳に掛けた聴診器を摘まんだまま、無言で俺の体を見ている。
「……あの……」
「奇跡的に脊椎の損傷は免れたが、片方の肺と胃が裂けていた。消化液が体内に巻き散らされて酷い状態だったのだよ、君は」
「はあ……」
「発見された時は酷いショック状態だった。発見した私がその場で出来る限りの応急処置をしていなければ死んでいただろう」
聴診器を握り締めた手がプルプルと震えている。
何が言いたいのだ、この人は。
「君たちが体験した事は、娘たちから聞いている」
「え」
「君たちを助けたのは、鳥人キメラとかいう得体の知れない輩のようだが、その前に君がいなければ娘がここにいる事も無かったのだろう」
もしかしてこの人は。
思わず八幡を見る……が、八幡は顔を逸らしているので俺の視線に気付いてくれない。
次に誠司を見ると、意地の悪い笑顔を浮かべたまま何度も頷いている。
最後に、男性医師の白衣にクリップで留められた名札を
「私はこの病院の院長、八幡三郎だ。娘の睦月が世話になった」
舌打ちしながら、それでも八幡院長は頭を深々と下げた。
「娘を守ってくれて有難う。君の事は目障りだが本当に感謝している。だから不本意ながら私が君の担当医を引き受けた」
ここまで棘のある感謝の言葉は初めて聞いた。
八幡の父親とは出来れば懇意にしておきたいと思っているのだが。
「辻崎くん、ちょっといいかね」
立ち上がった八幡院長と入れ替わりに相田がベッドの脇に来て、小声で耳打ちする。
「この三日間ね、睦月さんはずっと加治くんの事を心配していたんだよ」
「本当か?」
「院長先生は睦月さんを溺愛してるから、睦月さんが加治くんの事を気に掛けてるのが面白くないんだと思う」
「それにしても少し大人げないんじゃないか」
「わたしもそう思います」
会話に首を突っ込んで来た睦月が同意する。
声を潜めての会話なので仕方ないのだが、とても顔が近い。
「それでも、両親とは不仲の俺にしてみればお父さんとの仲が良いのは羨ましい事だ」
「君に父と呼ばれる筋合いは無い!」
八幡院長の怒声と同時に体温計が突き付けられる。
どうやら話を強引に中断されたらしい、誠司は何かを言い掛けた表情のまま固まっている。
「父さん、あまり加治先輩をいじめないでよ」
「ほら、また仲良さげに!」
小学生か。
言い合っている親娘を見ていると、多少は治まっていた頭痛がぶり返して来たような気がする。
こめかみの辺りを押すと少し痛みが紛れる気がする。
「……どうした、痛むのか」
まるでスイッチを切り替えたかのように、八幡院長が真面目な表情で俺の顔を覗き込む。
先ほど突き付けていた体温計を手渡しながら、俺の肩を押した。
それに抗わず素直に横になると、八幡院長は点滴袋の残量を確認して小さく息を吐く。
「傷のせいで高熱が続いていたからな、体力がだいぶ落ちているだろう、無理せず横になりなさい」
八幡院長は部屋の扉に近付き扉を施錠する。
室内の丸椅子を俺のベッド脇に集めて車座になる。
何か、他人に聞かれたくない話をするという事だ。
「君たちが遭遇した、キメラという怪物の事だ」
事故から三日も眠り続けていた俺は当然知らない事だが、誠司たちは警察に顔が利く八幡院長を通して、事故に関連した情報を幾つか入手していた。
既に予想していた事だが、キメラに関する情報は警察の方から得られなかった。おそらく存在すら知らないのだろう。
表向き、事故の原因は運送トラックの運転ミスという事になっているが、肝心のトラックについては行方が分からなくなっていた。
トラックのブレーキ痕などから森へ転落した事、転落したと思われる場所にトラックの一部が僅かに発見された事、何よりも目撃者が多数いたので存在そのものは疑われていない。
だが、ある場所から忽然と痕跡が途絶えているのだという。お蔭でトラックの運転ミスの原因などについては闇の中だ。
おそらく、問題のトラックは俺と誠司がシザーアングに遭遇した場所にあった物だ。
死に掛けた俺がその荷台に放り込まれて、火を点けられたところまでは憶えてるが、あの後どうなったのだろう。
鳥人キメラとして目覚めた時には既に消えていたような気がするが……。
「そういえば辻崎先輩、キメラの事は警察に話したんですか?」
「いや、話していない。院長先生に打ち明けた時に相談したんだけど、取り敢えず話さないことにしたんだ」
「君たちの言う、蟻とカマキリと猿を足して三で割ったような二足歩行する巨大な怪物、なんて信じて貰えると思うかね」
「確かに信じられないかもしれないが、怪物の存在を黙っているよりはいいんじゃないのか?」
ここで誠司は既に猛獣がいるというていで通報をしていた話を俺に聞かせてくれた。
だが、今となってはその通報内容にもリスクを伴っていたのだと言う。
「俺たちが怪物に遭遇した事って、出来るだけ誰にも言わない方がいいと思うんだ」
「何故だ?」
「多分、シザーアングには仲間がいるからさ」
八幡と相田が同意するように頷く。二人も既に理由を把握しているのだ。
どうやら知らないのは俺だけらしい。誠司は自分の考えを整理するように、時折考えながらその理由を説明してくれた。
キメラの情報を隠す根拠は二つある。
一つ目は、シザーアングの生死が不明であることだ。
誠司たちは勿論、鳥人キメラとして直接戦った俺ですが、シザーアングが現在どうなっているか知らないのだ。
全員が生き延びた、特に俺がここにいるという事は少なくとも撃退まではしたのだろう。
だが状況は最悪の場合を考えるべきだ。もしシザーアングがまだ生きていたら、目撃者である俺たちはまだ本当の意味で安全になったわけではない。
二つ目は誠司が言った、シザーアングには仲間がいる、という話だ。
誠司はシザーアングが話していた内容を全て記憶していた。生き延びる為にどんな情報も漏らすまいとしていたのだ。
気付いたのは、シザーアングが鳥人キメラを見て「貴様のようなキメラは知らん」と叫んだ時だ。
そして更にシザーアングは「何故キメラが俺を襲う」と言った。
この言葉が意味するところはつまり『鳥人キメラ以外のキメラが存在し、それはシザーアングの仲間』ということだ。
勿論、裏付けはないから予想でしかないが、シザーアングの発言から考えると間違いはないと思う。
「仮にシザーアングが倒されているとしよう。だけどシザーアングの仲間のキメラ、敵キメラがまだ一人以上いるわけだ」
「その状況でわたしたちがキメラの事を警察に話したとしましょう。何らかの形でキメラの情報が公開されたら……」
「事故の関係者の中に、キメラを目撃した人間がいるという事がバレてしまう、というわけか」
「キメラを目撃しただけで命を狙ってくるような怪物だもの。そうなったら事故の関係者を片っ端から襲ってくるかもしれないのよ」
キメラの存在を知らせずにいるのは、うっかり逃がしてしまった猛獣を放置するようなもので非常に危険だ。
だが、キメラの存在を公表されたら、俺たちの危険度は一気に跳ね上がってしまう。
知らせても、知らせなくても危険の可能性はあるが、俺たちに限って言えば前者の方がまだ危険度は低いというわけだったのだ。
「でも辻崎くん、こうなるとあの時に通報したのは」
「ああ、失敗だったのかもしれない。当時は最善だと思ったし、今更悔やんでも仕方ないけど」
誠司は鳥人キメラと別れた後、警察に追加の通報をしていたのだ。
その際、キメラの事は猛獣として話をしたという。
「これで山狩りみたいな事が始まって、そこからキメラの存在が明らかになると不味いよな」
「それはもう、何もない事を祈るしかないですね」
ただの猛獣だったらまだ良かった。キメラに比べてば殆どの猛獣など可愛いものだろう。
あんな生き物がいるなんて知らなかった。
「そもそもさ、あいつは何処から現れたと思う?」
「何処から?」
「つい最近、突然変異で唐突に産まれた生き物だと思うか?」
「遠い未来に存在しているならともかく、現代であんな生き物は有り得ないだろう」
「じゃあ、あれは誰かが作り出したのか?」
そんなの夢物語の話じゃないか、と言い掛けて止める。
実物を見た。自然に産まれる生き物ではないと分かっている。
じゃあどうやって産まれたのか。『何者かが意図的に産み出した』としか考えられない。
それならば、只の人間である俺がキメラになってしまった事も説明がつくだろう。
いつなのか、何処なのか分からないが、俺はキメラになってしまう何かを得てしまったのだろう。
「ところで君たちからキメラの話を聞いた時に、これを思い出したのだが」
八幡院長が取り出したのはA4サイズの大きなハードカバーの本だった。
苦労して体を起こした俺は、八幡の手を介して受け取ったそれを膝の上に乗せてパラパラと捲る。
誠司と相田も集まり、俺を中心に五人で本を覗き込んだ。
内容は動物図鑑のようだが、文章が英語ではないので読めない。
……というか、この動物は。
「こんな動物、見た事が無い」
「存在しない動物だからな」
図鑑に纏められているのは古今東西の伝承や民話などに登場する、空想上の生物だった。
ユニコーン、ドラゴン、鬼、河童など東西問わず無節操に掲載されている。よくこんな本を持っているな。
「キメラという言葉は医学用語にも存在するのだが、その由来はキマイラという魔物だ。キメラというのはキマイラの英語発音だな」
八幡院長の手が付箋が貼ってあるページを開く。
そこには獅子の頭部と体、山羊の頭部、蛇の尾を持つ魔物が描かれていた。
「これがキメラ?」
「あー、ゲームやってると良く出て来るな、こいつ」
しかしシザーアングとは似ても似つかない姿をしている。
こいつがキメラだとしたら、シザーアングは何故キメラと呼ばれているのだろう。
「医学用語におけるキメラとは、簡単に言うと複数の遺伝情報を持ってしまった状態、或いは個体を指すのだ」
「複数の血液型を持っていたりする場合もあるそうですよ」
つまり、複数の遺伝情報を持ってしまう事をキメラと呼ぶのだ。
それを踏まえてキマイラという魔物の姿を見ると、八幡院長の言いたい事が何となく分かる。
キマイラは複数の動物が混ざり合った姿の魔物だ。
俺たちが遭遇したシザーアングというキメラも、複数の動物が混ざり合ったような怪物だという事なのだろう。
「シザーアングはカマキリと蟻、そして猿……猿というよりは多分ゴリラか何かだと思うけど、それのキメラって事になるのかな」
俺たちの考えは合っているような気がした。
何故なら、これらの情報を踏まえて考えると【シザーアング】という名前の意味が分かってくるからだ。
カマキリの鎌から切るという意味のシザー、蟻はアント、ゴリラはおそらくコングだろうか。
コングとは猿やゴリラを意味する言葉ではないが、昔の特撮映画に登場する巨大猿の怪獣の名前なのでイメージとして大きく間違えてはいないだろう。
シザー、アント、コング、それらを合わせてシザーアング、という名前なのだとしたら納得出来る。
「聞けば聞くほど信じられん怪物だな。百歩譲ってカマキリと蟻は同じ昆虫だが、ゴリラは哺乳類だぞ」
「だけど存在したもの」
「睦月の話を嘘だと言っているわけではないが……しかし、シザーアングもそうだが結局【鳥人キメラ】とは何なのだ?」
「鳥人間みたいなキメラだよ。しかもあれは多分、猛禽類辺りのちょっと獰猛な鳥だな」
「その説明で私が納得すると思っているのかね……」
「少なくとも、わたしたちの味方だって事は間違いないと思うよ」
「本当に信用出来るのか? その……怪物、だろう?」
当人として信用してくれるのは嬉しい。
だが同時に、異形の怪物に対する警戒心をもっと強く持って欲しいとも思う。
「恭護、お前は本当に鈍い。そして分かっていないな!」
わざとらしく額を押さえながら誠司が唸る。
どうして八幡と相田もそれに同調しているのだろう。
「こういうのはな、目を見れば分かるんだよ」
「目……だと?」
「あの緑色の瞳、なんか鳥みたいな目だったけど。こう、なんか……いい奴ぽかった」
「根拠がお前の感覚でしかないから説得力がまるで感じられんぞ」
「わたしは何となく分かるなぁ、それ」
「さすが相田ちゃん!」
「目もそうだけどね、何だか人間臭かったのよ」
そりゃあ、シザーアングの複眼と比べれば随分と人間臭いだろう。
俺の言いたい事が伝わったのか、相田は笑いながら首を振る。
「わたしたちの声もしっかり聞いてくれたのよ。シザーアングの前に立ち塞がって、わたしたちを逃がしてくれたのよ」
「……ああ」
「自分の体を盾にして、懸命にわたしたちを守って、戦ってくれたんですよ」
──そうだよ。
誠司と八幡が血だらけになっていて、凄く慌てた。
傷の手当てをしてやりたかったが、指先が鋭く尖ったキメラの手で触れたら余計に傷付けてしまいそうで、躊躇った。
キメラに変わってしまった不安と恐怖を忘れる為に、我武者羅になって三人を守ろうとした。
そんな俺の行動に、三人は人間臭さを見出してくれたのだろう。
「そこまで俺たちの事を守ろうとしてくれたあいつを、俺は味方だと信じるよ」
「……有難う」
言わずにはいられなかった。
だけど聞かれても困るので、発せられた途端に消えてしまうくらい小さな声で言った。
「わたしも、鳥人キメラについては信用してもいいと思います」
「睦月がそこまで言うのであれば、鳥人キメラが味方である事は疑う余地は無いに決まっている。君は何を疑っているのだ?」
「この人、睦月ちゃんが関わると途端に主体性がゼロになるぞ。いい大人がそれでいいのかな」
「俺に意見を求めるな」
「いやいや、そう遠くない未来、お前も無関係じゃなくなるんだしさ」
ギン、と音が聞こえそうなほど強烈な敵意が八幡院長から発せられる。
恐ろしくて彼の方を見る事が出来ない。
「ふん……キメラについては、現場を見た違和感として私の方から警察にそれとなく探りを入れておこう」
「そんな事が出来るんですか?」
「事故原因となったトラックが消えているのでな、ただの事故ではなく事件の可能性を考えているらしい。私も現場に赴いた者なので無関係ではない、と言い張るさ」
話は済んだとばかりに立ち上がった八幡院長が扉を解錠する。
「まずはゆっくり傷を癒したまえ。キメラを警戒するのも大事だが、何をするにもまずは体調を万全にしなければならんからな」
「少し長居しちゃいましたね。すいません」
「あ、いや」
八幡院長に続いて八幡と相田も病室を出て行く。
誠司は病室を出たところでそれを見送り、いつもの意地の悪い笑顔で戻って来た。
「睦月ちゃんならずっと居てもいいんだよ、くらい言えば良かったのに」
似たような事を言ったらどうなるだろうかと考えていただけに、余計ばつが悪い。
目を閉じ、ゆっくりベッドに体を預ける。
隣のベッドでは誠司が骨折した脚を自力で吊るしていた。
「脚は大丈夫なのか?」
「ギプスで指一本動かせないくらい固めてるけど、痛みはまだあるなぁ」
あの時、誠司を見付けた時の事を思い出す。
不自然な位置で折れ曲がった血塗れの脚、何か白い物が血に塗れながら露出していた。
思い出すだけでぞっとする光景だった。
本当に、無事で──
「お前もさ、無事で良かったよ」
心を読まれたような気がして、一瞬息が詰まった。
「俺の脚も酷い怪我だけどさ、お前の方がよっぽど重傷だったんだぞ」
「無事というのもおかしな話だがな」
「ぼろぼろだったもんな。何故か裸だったし」
何だと?
「俺は裸だったのか?」
「一応、服の切れ端みたいのは体に巻き付いていたけどな。森のあちこちで火が上がってたから、それに巻き込まれたんじゃないかって院長先生は言ってたよ」
「見たのか?」
「お前の裸なんて正直見慣れてるぞ」
「いや、そうじゃなくて……」
「睦月ちゃんになら多分見られたと思うよ」
「な!?」
ちょっと待て、冷静になれ。
俺は男だ、別に裸を見られても何ともないだろう。
問題は俺がそれほど大した体つきじゃない事だろうか。
いや、そういう問題でもない。何を考えているのだ俺は。
「ただ、お前が裸だった事なんかより、全身血塗れでボロボロのお前を見た院長先生がえらい険しい顔でお前の応急手当てを始めた事の方が怖かったよ」
「……心配かけた、悪かったよ」
「もう、ああいうのは勘弁してくれよ」
ああいうの、というのは俺が残って誠司たちを逃がした事だろう。
二度とやりたくないが、二度としないとは言い切れない。
同じ状況になったら、俺はどうするだろうか。
やりたくはないが……それでも……。
「俺たちだけでも逃げて欲しい、って思ってくれたのかもしれないけどさ」
何処からかスケッチブックを取り出しながら、誠司はこちらを見ずにしんみりと言った。
鉛筆をスケッチブックの上に滑らせる、鉛筆の芯が紙と擦れ合う微かな音が聞こえた。
「次があったら、絶対に最後まで諦めないでくれよ」
手を止めた誠司が俺を見た。
「正直、堪らないからさ」
逆の立場だったら、俺はどう思っただろう。考えてみた。
死に掛けた誠司が最後の力で俺たちを逃がしたとしたら。
俺は素直にそこから逃げただろうか。逃げたとして、素直に「ああ助かった」と喜ぶだろうか。
……考えるまでも無かったな。
「本当に、悪かった。だけど約束は出来ない、すまん」
「馬鹿だな、そこまで正直に言わなくてもいいんだよ」
俺が何と答えるか分かっていた風に誠司は笑う。
何も出来なかったとしても、何も出来なかった事も含めて、絶対に後悔する。
そんな思いをさせてしまうところだったのだ。
後悔はしたくない。勿論させたくもない。
それはきっと、一生消えないものなのだから。
「それとさ、口止めされてたけど一応言っておくよ」
「何がだ?」
「お前が眠っている間にさ、お前の両親が来たよ」
「……え?」
「お袋さんも親父さんも、血相変えて飛んで来たぞ。仕事の都合がつかなかったとかで昨日、帰っちゃったけど」
まさか、母さんはともかく父さんまで来るなんて。
いや、しかし当然か。俺だって父親が倒れたなんて聞いたら流石に駆け付けるし心配にもなる。
仲が拗れて険悪だとはいえ、別に死んで欲しいとは思っていないのだから。
「見舞いに来た事は言わないでくれ、ってお前の親父さんに言われたけど」
「心配した事を息子に知られたくないのだろう」
「お前もそうだけど、ひょっとしたら親父さんも仲直りするタイミング無くして困ってるのかもな」
そうだといいのだけど。
俺だって別に、仲良くしたくないわけではないし、ずっとこのままでいいとも思っていない。
「退院したらでいいからさ、一報くらい入れとけよ」
「……ああ、分かってるよ」
命を落としかけて、全てを失い掛けたから、だろうか。
誠司の言葉は、自分でも意外なほど素直に受け入れる事が出来た。
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