第4話 狂気の追走
逃げて来た方角で上がる爆発音に、誠司は思わず立ち止まり振り返った。
少し後ろを走っていた睦月も足を止めて振り返る。
木々の間で強烈な赤い光が揺らめいていた。
揺らめく赤い光の正体は炎だ。それが木々の隙間から誠司たちを照らしている。真昼には程遠いが、周囲を見回すには充分なほどの光量だった。
地面を這うように吹いて来た熱風が顔の表面を荒々しく撫で、チリチリと産毛が焼かれる。
熱風を受けて涙が浮かんだ目元を思わず拭った。
逃げて来た方角にある爆発のおそれがある物といえば、キメラと遭遇した場所にあったトラック以外に思い当たらない。
そしてその場所は、恭護が残った場所でもある。
「きょ……」
声が出なかった。
開いた口に流れ込んだ熱が、咽喉の水分を一瞬で干上がらせたのだ。
最後に見た恭護の姿をはっきりと覚えている。
腹部を貫かれた恭護は、どう見ても死に掛けていた。
その恭護が残った場所で起こった爆発、恭護がそれに巻き込まれたと想像してしまうのは当然の事だ。
爆発音が聞こえる少し前に、獣の悲鳴のようなものも聞こえた。
あれは彼らを襲ったキメラの悲鳴だったのではないだろか。
もしそうならば、恭護がキメラに傷を負わせたのだろう。
瀕死の体で、誠司たちを逃がす為に残り、そしてキメラと戦ったのだ。
「辻崎先輩」
全身を引き摺るような重い足取りで睦月が追い着く。
(戻りたい)
すぐに恭護を助けに行きたい、そう思った。
なんのかんのと恭護は生きている決まっている。
そして戻った誠司を見て「どうして戻って来た」と怒りながらも、ほっとした顔をしているに違いないのだ。
加治恭護という男は人と接するのが苦手なくせに人一倍寂しがり屋なのだ。
──だが戻るわけにはいかない。
晴美を背負い直し、疲労困憊の睦月の手を引っ張って強引に歩かせる。
可哀想だとは思うが休んでいる暇はない。
恭護の無事を信じて疑わない。だがキメラの脅威から生き延びたという確証はない。
状況が状況なのだ、百パーセントの確証が得られない限り、常に最悪の事態を想定して行動した方が良い。
「びっくりしたなー」
努めて明るい声を出す。が、それでも不安は消えない。
恭護は無事なのか、もし死んだりしていたら地獄まで追い掛けて文句を言ってやろう。そう、心の中で恭護に対する悪態をつく。だがふと思った、恭護は善人だからきっと天国に行くだろう。
大切な友人を見捨ててしまった自分は、果たして天国に行けるのだろうか。
「辻崎くん、顔が怖いよ」
(あの爆発は……そうだ、キメラをやっつける為に恭護がやったんだ)
そうに違いない、そうだといいな、そうであってくれ、そう強く願う。
しかし、キメラがまだ健在だとしたら、どうしたらいいのだろうか。
誠司たちはキメラから逃れる為とはいえ崖の麓から、人の気配から離れるように移動を続けている。
キメラがまだ追い掛けて来ているとして、何処へ逃げたらいいのか分からなくなっていたのだ。
救助を待っている部員と合流するか、何処かで方角を修正して崖の麓を目指し救助を呼ぶか、このまま森の奥へ進むか。
選択肢は三つしかない。しかも実際に選べる選択肢はさらに少ない。
部員と合流するのは論外だ。キメラが追って来ているとしたら部員も巻き込んでしまう。
「峠の方はどうなってるかな」
背中の晴美が身動ぎし、背後を振り返る気配を感じた。
「……赤いライトが沢山あるみたいだけど……ごめん、眼鏡無くしちゃってるから全然見えない」
赤色灯があるという事は救急車とパトカー、消防車も来ているかもしれない。
何れにしても無人では無い、麓に近付けば救助と連絡を取る事も容易になるだろう。
それは同時に、部員の時と同じく現場にいる人たちがキメラに襲われる可能性があるという事だ。
「御免、ちょっと煮詰まって来た」
「どうしたらいいか、ですよね」
睦月の言葉に頷く。
麓に向かう事が最善だと思う。だが他者を巻き込みたくない。その気持ちが誠司たちを森の奥へ誘っていた。
状況は誠司たちが自力で解決出来る範囲を超えている。麓を目指して助けを求めるべきだ。
だがなまじキメラの脅威を知ってしまった誠司たちは他者を巻き込む事を恐れ、その決断が出来なくなっている。
「くそ……」
脚が止まった。一気に疲れがきたような気がする。
キメラの気配は感じない。追い掛けるのを諦めたのか、それともまだ見付かっていないのか。
(なんて、最低な事を考えているんだ、俺は)
キメラが追って来る事を前提にして誠司は考えている。
それはつまり、恭護が命を落としてしまった事を認めているようなものだ。
大切な友人の死を半ば確定化させている自分が嫌いになった。
それでも、誠司には睦月と晴美を守らなければならない。
恭護は誠司が二人を守ってくれる事を信じ、託してくれたのだ。
「加治先輩、聞いてましたか?」
「え?」
我に返ると、睦月が誠司の後ろに立っていた。
晴美と何か話していたようだ。考え込んでいた誠司の耳には全く入っていなかった。
肩を叩かれ首だけで振り返ると、背中の晴美を耳元に口を寄せる。
「スマホで、警察に連絡しようって」
「あ!」
異常な状況で必死だった為にその考えが頭から抜けていた。
警察に連絡をし、自分たちの状況を伝えればいい。キメラの事は猛獣にでも襲われたと言えばいいだろう。
そうすれば警察もそれなりの準備を以って捜索に参加してくれるに違いない。
「もう、この状況はわたしたちでどうにか出来る事じゃありません」
「他の人を巻き込むのは気が引けるけど、そうしないとわたしたちの方が危ないから。仕方ないって割り切れないかもしれないけど」
誠司が躊躇っていた事を、二人はもう決断していた。
キメラに追われている誠司たちが誰かを頼れば、その誰かもキメラに狙われる事になるかもしれない。
他人の命を危険に晒す事は気が引ける。だが、それでも生き延びたいという気持ちは紛れもない本音だ。
「二人とも、周りを見張ってて」
晴美を下ろした誠司はポケットからスマホを取り出す。
睦月を探す際、ずっとGPSの送受信をしていたせいで充電は大分消耗している。
だが通話をする分には充分だ。電波が届いているのも幸運だった。
三桁の数字を入力し、コール音を聞きながら待つ。二回ほどコール音が鳴ったところで相手が出た。
既に事故の事はニュースにもなっているらしく、事情説明は殆どしないで済んだ。
当初の予定通りキメラの事は誤魔化し、正体は分からないが猛獣のようなものに襲われている、とだけ伝えた。
手短に急ぎの救助を頼み通話を切ってから、晴美を背負い直す。
「辻崎先輩、何処へ行くんですか?」
「崖の麓へ行こう」
気持ちを切り替え、割り切った事で少しだけ誠司の思考も回り始めていた。
キメラは目撃した人間を殺す、そう言った。
だが、どうして殺そうとするのだろうか。
快楽殺人者のように命を奪う事そのものが目的かもしれない。しかしそれならば、わざわざ「目撃者は殺す」なんて言う必要は無い。
つまり目撃してしまった事そのものが、誠司たちを狙う理由なのだ。つまりキメラは人の目を避けたいと思っているのではないだろうか。
崖の麓に行けば自然と人目につき易くなる。事故現場の真下まで辿り着けば、少し騒げば峠にいる人も気付いてくれる筈だ。
誰にも気付かれず、これ以上の目撃者を増やさないようにしながら誠司たちを殺すのが難しければ、襲い難くなるだろう。この場は退いてくれるかもしれない。
キメラに襲われたら戦って勝つのは難しい。
誠司たちに出来るのはキメラが襲い掛かって来ないようにする、或いは襲い掛かって来るまでの時間を一秒でも引き伸ばす事だ。
「安全を確保したら、誠司を迎えに行こう」
そう言いながら後ろの睦月を振り返った誠司の目の前に、いつの間にか一本の木が生えていた。
一呼吸遅れて、いつの間にか巻き上がっていた土砂が誠司たちに降り注ぐ。
なぜ木が生えているのだろう。その場所には睦月がいた筈なのに。
睦月は木のすぐ横で尻餅をつき、ぽかんとした表情で木を見ている。二の腕からは血が流れていた。
「今……降って来たよね……?」
睦月の言っている意味が理解できなかった。
降って来たとはどういう事だ? 何が降って来たのだ? もしかしてこの木が降って来たと言っているのか?
よく見るとその木には枝が一本も無い。枝打ちがされていた。
木の頂点のみ太い枝に分かれているが葉は全て落とされている……違う、頂点だと思っていたのは根だ。
つまり、木が逆さまに地面から生えているのだ。
勿論、木が自然にそのような生え方をするわけがない。そもそも一瞬前までその木は存在していなかったのだ。
降って来た木が逆さに地面へ刺さったのだ。それが睦月の腕を掠めたから、彼女は負傷しているのだろう。
どうして木が降ってきたのか、それが問題だ。
実のところ、誠司たちは答えにとっくに辿り着いていた。
そのうえで考えていた。自分たちが辿り着いてしまった最悪の答えを否定する材料を。
「やレヤれ、思っテイタヨり遠くニイたな」
グブリ、という形容し難い音と共に木は一層深く地面に沈んだ。
木の頂点だと思っていた根の上に、大きな影が立っている。
見上げると、赤く輝く複眼が一つ、誠司たちを見下ろしていた。
「キメラ……」
「ン……お前ニソの名前ヲ言っタカナ……マぁ、ドウデもいイカ」
近付いて来る物音や気配は感じなかった。
いつの間に、どうやってここまで移動して来たのだろう。
だが、そんな事よりも。
「き、恭護はどうしたんだよ……!」
声が震える。キメラが恐ろしい。
それと同じくらい、質問の答えを聞くのが恐ろしい。
「きょウゴ……アア、あの男カ」
触覚をピンと伸ばし、顎を鳴らすその姿はまるで苛立っているようだ。
ギチギチと耳障りな音がキメラの顎から聞こえる。
「アの男は今ゴろ灰ニなっテイるかもシレなイなぁ!」
突き付けられた鎌腕と猿腕には大量の血がこびりついていた。
猿腕の毛皮は血を吸ってグズグズと音をたてている。
その血が何なのか。誰が流した血なのか。理解したくないのに理解してしまった。
「さテ、次はオ前たチダ」
誠司は尻餅をついたまま後ずさる睦月の脇に腕を入れて引き上げた。
傷に響いたのか苦しそうな声を上げたが、気を遣う余裕が無い。
身を寄せ合いながら少しずつ後ずさる誠司たちを、キメラはじっと見詰めている。
その気になれば、キメラは誠司たちを一瞬で殺害出来る。そこからくる余裕だ。
「くそ……こいつが、恭護を……!」
「辻崎先輩」
掴んだ睦月の腕と、背中に添えられた晴美の手の平から震えが伝わって来る。
その震えは本当に二人のものか、もしかしたら誠司自身のものかもしれない。
ここまで必死に逃げて来た。体力も精神も既に限界だ。
苦しむ事無く一瞬で楽にしてくれるのなら、という考えすら浮かんでしまう。
「駄目だ、絶対に俺は諦めないぞ」
つい口に出た言葉に、睦月と晴美が息を呑んだ。
キメラに襲われた誠司たちが、今も生きながらえているのは何故か。
それは恭護が命懸けでここまで逃げる時間を稼いでくれたからだ。
恭護は誠司たちの無事を望んでくれた。それなら誠司は恭護の望みの為に、最後の一瞬まで死力を尽くして抵抗すると決めた。
「……辻崎くん、キメラの眼が」
晴美が指差したキメラの顔では、複眼が一つの赤い光を放っている。
光は一つ。片目だけが光を放っていた。
爆発の炎が逆光になっていたので気付かなかったが、キメラは片目が潰れている。
紙風船に鉛筆を刺した後のように破れて、萎んでいるような潰れ方だ。
誠司たちが逃げ出した時には無かった傷だ。
誠司たちを逃がす為に、恭護が必死に戦った証だ。
「辻崎くん」
小さな囁きと息遣いが首筋に当たる。
後頭部に晴美の額が押し付けられる。
キメラに聴き取られないように、最小限の声量で話をする為だ。
悟った睦月が誠司に寄り添うように密着する。
恭護に恨まれそうだ、とつい思った。
時折柔らかいものがうなじに当たる。晴美の唇だ。むず痒いが我慢する。
「隙を作れるかもしれない」
歯を食いしばり、表情が僅かでも変化しないように耐える。
背中で晴美が何かやっているのは分かるが、詳しい事は分からない。
そうしている間にキメラは木から飛び降り、誠司たちに一歩迫る。
「ちょ、ちょっと教えてくれよ!」
一歩後ずさりながら話し掛ける。
彼女は何かを仕掛けようとしているのだ。ならばその時間を稼がなくてはならない。
「お前は俺たちがここにいるってどうして分かったんだよ?」
問い掛けに対し、キメラは触覚をアンテナのように動かす。
溜息を吐くように上半身を大きく上下に揺らしてから、丸太のように太い猿腕を組んだ。
「ガきが俺の事ヲお前呼バワりとハ生意気だナ」
「お前をお前と呼んで何が悪い」
近距離で対面した時は恐怖で咽喉の奥がひくついた。
それでも腹に力を入れて一声発してしまえば、後の言葉はスムーズに出て来た。
「しザーアんぐ、だ」
「しざーあんぐ?」
聞き慣れない単語、最初は意味が分からなかった。
キメラは大袈裟に肩を竦める。誠司たちにも分かり易い形で呆れた態度を見せたのだろう。
「あ……お前の、名前か」
シザーアング。それがキメラの名前だと気付いた。
同時に、シザーアングが誠司との比較的まともな会話を成立させた事に驚いた。
誠司の顔を見たシザーアングがギチギチと粘着質な音を鳴らしながら顎を動かす。
「たダ殺すノハ面白クナイ、とこうイウ場面では良く言ウガ、本当ダな」
どうやら笑っていたらしい。
粘着質な音がひどく不快だ。
蟻とカマキリが混ざったような形状の顔からは表情が読めない。
だが、そんな無機質な昆虫の顔から発せられる不快な笑い声は、背筋を虫が這うような悪意を滲ませていた。
「コンなとキ、ドウせなラ嬲リ殺シテやりたクなるモのなんダナ」
人間と顎の構造が違うからだろう、片言な言葉だ。
だが、表情とは裏腹にその声音はとても感情豊かだった。
その大半が悪意によるものでなければ良かったのだが。
シザーアングにとって、誠司たちを殺す事など簡単な事だ。鎌腕を一度大きく振るうだけで良い。
しかしそれだけでは面白くない。人の命を奪う機会などそうそう無いのだから。
自らの肉体に秘められた力だけで、人の肉体を砕き、潰し、引き裂く。それらの感触をじっくりと楽しみたいと考えていた。
この時、既にシザーアングの心は踊っていた。
例えるならば、性行為の経験が無い若い男が初めての行為に挑む直前のような。
率直に言ってしまえば性的興奮に酷似したものを感じていた。
「キメらの五感ハオ前たチトハ比べモノニならん。ドこへ逃ゲテも無駄ダぞ、必ず見ツケ出すかラな」
刃物を研ぐように、二本の鎌腕は互いの刃を擦り合わせる。
生物的な質感の刃が、金属を擦り合わせるような耳障りな音をたてる。
言葉と態度、そして仕草で誠司たちの恐怖心を煽る。ただそれだけでも興奮が増した。
「特に女ハイい匂いがスルカらなァ、緑ノ匂いガ充満シていタコノ森デは目立ツゾ」
誠司のそれなりに引き締まった体を斬り裂いた時、千切れる筋繊維の束はどんな手応えを返してくれるだろう。
睦月と晴美の柔らかい体は、その感触を楽しむ為にも猿腕でじっくりと引き千切ってやろうか。
想像するだけで絶頂に達してしまいそうだった。
(なんだ、こいつ……様子が……)
外観に変化があったわけではないが、シザーアングは何処かぼんやりとした様子で誠司たちを見ているのが分かる。
まるで陶酔しているようだ。鎌腕も猿腕もだらりと下がり、完全に無防備になっている。
晴美の手が誠司の背中を軽く叩いた。
誠司は黙って腰を落とす。いつでも走り出せるようにする為だ。
シザーアングには弱点があると晴美は言ったが、それはシザーアングを倒せるという意味ではない。
ただの人間である誠司たちでは、今はどう足掻いてもシザーアングを倒せないだろう。
逃げて生き延びなければならない。その為の弱点がシザーアングには存在していた。
晴美の腕が誠司の肩越しに眼前へ伸びる。その手に握られている物を見た瞬間に、誠司は全てを悟った。
不意を突きつつ、注意をこちらに向けなければならない。
シザーアングが何かに陶酔している今は、その最大のチャンスだった。
「おい!」
腹に力を込めて吼えるように怒鳴る。
シザーアングは驚きに触覚をピンと伸ばし、誠司の顔を見た。
シザーアングと誠司、両者の顔の直線上にある物を、シザーアングは見た。
それは、晴美のデジタルカメラだ。
「──!」
晴美の指がシャッターを押すと同時にフラッシュが炊かれ、一瞬の閃光が暗い森を白く染める。
目を瞑っていた誠司はシザーアングの苦し気な悲鳴を聞きながら踵を返し、睦月の腕を掴んで走り出す。
シザーアングの眼は複眼だ。複眼は閉じる事が出来ない。
さらに片方しかない複眼を強い光で灼かれたのだ。両目が健在の時より効果は大きいだろう。
落ち葉を蹴散らし、ガチガチと怒りに顎を鳴らしながら猛スピードで近付いて来る気配。
振り返る余裕も無い。少しでも足を緩めたら、その瞬間に捕まる気がした。
「辻崎先輩、そっち!」
隣を走る睦月が誠司に掴まれた腕を上げて指差した方角は、木々が密集していた。
三人は木々の隙間に飛び込むようにして擦り抜ける。暗闇の中では非常に危険な行為だが、躊躇っている暇はない。
擦り抜けた直後に背後で何かがぶつかる音が聞こえた。
確認しなくても分かる。誠司たちが擦り抜けた木々の隙間はシザーアングの巨躯には狭すぎたのだ。
大した時間稼ぎにはならないだろうが、たった一秒でも貴重な時間だった。
「このまま、なんとか、麓まで……!」
膝のすぐ下に強い衝撃、同時にグシャリという音が体内で響き、バランスを失った誠司は前転するように地面に倒れた。
咄嗟に晴美を放り投げて巻き込まないようにするのが精一杯で、自身は受け身を取る暇も無かった。
「う……ぐ……」
衝撃を感じた脚から激痛が溢れ出す。
額からはいつの間にか、ねっとりとした汗が垂れるほどの勢いで流れ出していた。
手を太腿からゆっくりと下へ、恐る恐る確認してみる。
脚は爪先までちゃんと存在していた。
「ひ……」
だが、膝と足首の間にもう一つ関節が出来ている。
その新たな関節は血に塗れ、何か固い物が体内から突き出ている。複雑骨折をしていた。
これでは走ることはおろか歩くことも出来ない。立つことでさえ困難だ。
どうしようもないほどに、自分が逃げられない事を自覚してしまった。
「睦月ちゃん……相田ちゃんを連れて、早く……」
痛みと出血が急速に体力と気力を奪っていく。
背後では妨げになっていた木々を鎌腕で切断したシザーアングがこちらを眺めている。
猿腕には切断した木が、枝打ちされた状態で握られていた。
「そう、か……」
追って来た時と同じだ。木を槍のように投擲したのだろう。それが誠司の足を直撃したのだ。
邪魔な木を排除したシザーアングがゆっくりと近付いて来る。
動けなくなった誠司の姿に気力を砕かれたのか、睦月と晴美もまた座り込んだまま呆然としている。
下半身を引き摺りながら、誠司は二人を庇うように抱き締めた。
「誰か……」
もう諦めるしかなかった。
シザーアングから逃げる事は出来ない。
倒す事も出来ない。
誠司たちはこのまま、嬲り殺しにされてしまうだろう。
「誰か……二人を助けてくれ……」
誠司は願った。
動けない自分はきっと助からない。だけど、睦月と晴美は助けて欲しい。
助けてくれるなら誰でもいい、何だっていい。
シザーアングが鎌腕を振り上げ、歩調を速めながら三人に近付く。
(誰か……! 俺は、何だってするから!)
────ォォォォォオオオオオオオオオオオオンッ!!
きつく目を閉じた誠司たちに固いものがぶつかる。
爆風が地面を丸ごと引き剥がさんばかりに吹き荒れた。
三人があげる悲鳴も聞こえないほどの爆音。
不思議な事に、爆音は聞こえるのに伴う爆風が誠司たちを襲う事は無かった。
(……?)
不審に思った睦月が目を開ける。既に風は止んでいた。
身を寄せ合う三人に、何か硬いものが抱き締めるように巻き付いている。
それが腕だと気付くのに、少しの時間を要した。
顔を上げると正面に晴美の顔がある。
晴美は頭上を見上げたまま、表情を凍り付かせていた。
視線を辿って同じように顔を上げた睦月は、そこで二つの緑色の瞳と目が合う。
「え」
三人は見た事のない人型の生物に抱きかかえられていた。
ようやく顔を上げた誠司と、その生物は三人の顔を順番に確認するように見詰めてから、腕の力を緩める。
支えを失った誠司が痛みに表情を歪めながらよろめくと、その生物は再び腕を伸ばして誠司を支えた。
身長が二メートル半くらいのその生物はしかし、およそ生物らしからぬ外観をしていた。
全身が金属のような質感の外殻に覆われている。
かなりの重量があるのか、足は甲の辺りまで地面に沈んでいた。
まるで鎧のような外殻は触れてみると血が脈打つ感触と体温を感じる。
鳥を模した兜のような頭部外殻、その頂からはポニーテールのように長毛が一房、背中の方へ垂れていた。
頭部外殻のスリットから覗く緑色の瞳はほぼ真円で猛禽類のようだ。僅かに見える目の周囲は短い毛皮で覆われている。
おそらく、外殻の下は獣のように毛皮に覆われた肉体があるのだろう。
見た事の無い生物だ、異形の怪物と言ってもいい。
しかし誠司たちは、その怪物に心当たりがあった。
外見は全く似ていないが、雰囲気のようなものが似ていた。
「キ……メラ……」
晴美の呟きに睦月が小さく頷く。
そう、この生物はキメラだ。差し詰め鳥人キメラとでも言うべきだろうか。
異形の怪物、だけど何処か彼らの知る生き物の特徴を持つ怪物、そのような生物はキメラ以外に思い付かない。
彼か、彼女か……性別は分からないが、鳥人キメラは誠司たちを支える程度に腕に力を込めたまま、無言で三人を見下ろしている。
「……!?」
鳥人キメラが何かに驚いた様子で軽く屈んだ。
鳥の鉤爪のように鋭く尖った指先が伸び、誠司の脚の傷に触れる直前で止まる。
鳥人キメラはおろおろしながら、まるで助けを求めるように睦月を見て、彼女の腕の傷を見てまた動きを止める。
「あ、あの」
意を決して睦月は鳥人キメラに声を掛けた。
鳥人キメラの瞳が睦月を見る。その瞳は猛禽類のそれだったが、何処かで見た事があるような気がした。
「わたしの傷は大丈夫です。それより辻崎先輩の手当をしたいんですけど、いいですか?」
意外にも鳥人キメラは睦月の言葉にはっきりと頷き、三人から一歩離れた。
驚きながらも睦月は足元で手頃な枝を数本拾い、服の袖を千切って添え木を作ると誠司の脚を固定する。
応急手当の最中、誠司が激痛に悲鳴を上げる度に鳥人キメラが狼狽えているのが滑稽に思えた。
「も、もっと優しく……」
鳥人キメラは、そんな誠司たちを見て大きく肩を上下させながら深い息を吐く。
安堵しているように見えたのは、晴美の気のせいだろうか。
「!」
鳥人キメラが三人に覆い被さる。同時に破砕音が鳥人キメラの背中で響き、その体が大きく揺れる。
鳥人キメラの背中に何かがぶつかったのだ。衝撃に耐え切れず砕けた、その何かの破片が誠司たちの頭上に降り掛かる。
「木片だ……」
三人はすぐに気付いた。これは誠司の脚を砕いた木の槍の破片だと。
鳥人キメラは覆い被さった姿勢から三人を抱きかかえて地面を蹴る。
真横に跳んだ鳥人キメラは滑り込むように着地した。その勢いで地面が削れて大量の土が舞う。
「オノれぇぇェェェェェっ!」
一瞬前まで誠司たちがいた場所にシザーアングがいた。木の槍を投げた後で間髪入れずに飛び掛かって来ていたのを、鳥人キメラが三人を抱えて跳んでかわしたのだ。
両手を組んだ猿腕が地面に叩き付けられている。プロレスでダブル・スレッジ・ハンマーなどと呼ばれている技に似ていた。
振り下ろされた拳は地面に大きな窪みを作っている。まともに浴びたらただでは済まないだろう。
「キサま、なニモのだッ! きサマのよウなきメラは知ランぞ! なぜきめラガ俺を襲ウ!?」
シザーアングの鎌腕が一本、折れ曲がっている。
左右に割れた顎も片方が欠損していて、ただでさえ不明瞭な言葉が余計に聴き取り辛い。
何故、負傷しているのか。誰が傷を負わせたのか。
考えるまでも無いだろう。鳥人キメラがやったのだ。
「どうして」
睦月が言い掛けて止める。
人間の目撃者を許さないキメラが、どうして助けてくれたのか知りたかった。
シザーアングは人間を殺せる事を喜んでいた。その理屈で言うと鳥人キメラもまた、人間を殺したいと考えていてもおかしくない。
そうだとするならば、人間という獲物の取り合いで争っているのだろうか。
(違う)
見上げると鳥人キメラと目が合った。鳥を模した頭部外殻のスリットから覗く緑色の瞳には、理性の輝きを感じた。
敵意は全く感じない。それどころか三人の身を案じている気配を感じた。
キメラについては何も分からない。だがたった一つ、分かった事がある。
「……」
鳥人キメラは三人を地面に下ろすと、彼らに背を向ける。
シザーアングよりも小柄な鳥人キメラは、両手を左右に広げてシザーアングの前に立ちはだかる。
「俺たちを……守って……?」
唸り声を上げて突進するシザーアングを正面から迎え撃ち、組み合った。
体格的に不利な鳥人キメラは少しずつ後退している。
このままでは押し切られてしまう。その時、キリキリと回転する歯車のような音が鳥人キメラの背中から発せられた。
音の出所は左右の肩甲骨の辺りに縦に貼り付いている細長い板金だ。板金の大きさは誠司の肘から手首までくらいの幅・長さだろうか。
それが歯車の音に合わせてゆっくりと、上端を支点に浮き上がるように展開していた。
板金は同じ幅・長さの物が幾重にも折り畳まれており、上端を支点にアコーディオンと扇子を足したような構造をしているようだ。
内部に格納されていた板金が一枚置きに小さなスライド音と共に数センチほど伸びた。横から見ると並ぶ板金の先端が凸凹になっている。
「翼……か?」
板金の先端面に、カード挿入口のようなスリットがあった。
歯車の音は止み、代わりにヒュウウゥゥゥゥゥゥ……と、何かが高速で回転するような音が翼から聞こえる。
回転音は徐々に速く、そして高くなる。まるで何かをチャージしているかのようだ。
「やば……二人とも、こいつの後ろから離れないと!」
切羽詰まった誠司の言葉に驚いた睦月はもたつきながら誠司を引き摺り、晴美と共に鳥人キメラの真後ろから移動する。
鳥人キメラの視線が移動する三人を追った。
「あのさ!」
睦月に引き摺られながら意を決して話し掛けた誠司を、鳥人キメラの瞳が捉える。
感情が読み取れない瞳に一瞬言葉が詰まった。
「あんたは……鳥人キメラは、俺たちを助けてくれる……んだよな」
返答は無い。
それでも言葉を続ける。
「もう一人、助けて欲しい奴がいるんだ。俺たちを逃がす為に死に掛けてる奴がいるんだ」
やはり返答は無い。
それでも、言葉を続ける。
「お願いだから……あいつを、恭護も助けて……ください」
睦月の手を振り解き、傷付いた足も厭わず土下座の姿勢を取る。
必死に懇願する誠司を、鳥人キメラはシザーアングと組み合ったまま見詰めた。
無言で見詰め──僅かに、しかし確かに首肯したのを、睦月と晴美は確かに見た。
次の瞬間、爆音と爆風が空間を引き裂く。
翼の先端面にあるスリットから高圧縮空気が凄まじい勢いで噴射されていた。
ビリビリと空間が裂ける音がいびつに鳴り響き、その全てを押し流す空気の奔流が、鳥人キメラの翼から放たれる。
さながらジェットエンジンの如き推進力を得た鳥人キメラは、そのパワーでシザーアングの怪力を巨体ごと押し返す。
吹き荒れる爆風に、誠司たちは地面に伏せる事も出来ず吹き飛ばされて転がる。
途中で巨木に背中から激突した誠司は傷の痛みに悲鳴を上げながら、必死に手を伸ばして睦月と晴美を捕まえて引き寄せた。
鳥人キメラは地面を転がる三人が無事だった事に安堵しつつ、さらに翼に力を込める。
ズドン!という爆発音と同時に、翼から一際大量の高圧縮空気が噴射された。
耐え切れなくなったシザーアングの巨体が僅かに浮くと同時に地面を蹴る。
「コレは……うオ……おおオオオオぉぉぉぉッ!?」
鳥人キメラはシザーアングより小柄だが、鋼鉄の外殻もあって体重は何倍も重い。
それが翼のジェット噴射による推進力で突進するのだ。シザーアングがいかに怪力だろうと抑えられるものではなかった。
相撲の押し出しのような体当たりを受け、二体のキメラはもつれ合い、木々を薙ぎ倒しながら森の奥へと消えていく。
残された誠司たちは、草木が薙ぎ倒されて巨大な獣道となった跡を暫くのあいだ息を呑んで見詰めていた。
獣道の先にある森の闇から、二体の怪物が争う音が聞こえて来る。
徐々に遠のき、徐々に激しさを増す戦いの音だ。
睦月の手を借りて立ち上がりながら、誠司はぽつりと呟く。
その表情は先ほどまでと違い、明るい。
「俺たちを助けてくれたんだよな」
「そうですね」
「どうして助けてくれたのかな」
「分かりませんけど……同じキメラでも、雰囲気が違った気がします」
「俺たちだけじゃない、恭護の事も助けてくれるって」
それが誠司には嬉しかった。
置き去りにしてしまった恭護を助けられるという事が。
そして、誠司の懇願を鳥人キメラが受け入れてくれた事が。
あの反応で分かった事がある。
鳥人キメラは、偶然その場に居合わせたから助けてくれたのではないのだ。
助ける為に、あの場に駆け付けてくれたのだ。
満身創痍の三人は、崖の麓へ向かい歩き出した。
目的地を目指して進む三人の、無防備な背中を守って戦う者がいる。
彼らの歩く速度は牛歩のようだが、三人の胸には無事に辿り着けるという確信があった。
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