第3話 遭遇と覚醒
「う……」
ぼやけた視界を整えるように何度も瞬きをしながら、顔を上げる。
異常に体が重い。重力が水飴のような粘度で体にまとわりついているようだ。
暗い水底から浮上する様にゆっくりと五感が回復し、少しずつ周囲の状況を把握して行く。
薄暗い森の中で、俺はぬかるみの中に倒れていた。
正確な時刻は分からないが、事故からそれほど時間は経過していないのではないだろう。
視界が霞がかっている。てっきりまだ回復していないのか思ったが、本当に霞がかっていた。
焦げ臭い匂い、僅かに眼球表面への刺激……霞の正体は煙だ。夜なのに薄暗いのは逆に言えば僅かだが光源があるという事だ。
光源は赤橙色の光……炎、だろうか。
近くに岩肌の急斜面がある。見上げれば斜面の上端に裂けたガードレールらしき物がぼんやりと見えた。
殴打された後のような鈍痛が体のあちこちで鐘を鳴らすように響く、まともに動く事も出来ず俺はぬかるみに再び倒れ込んだ。
「俺は、外に放り出されたの、か……」
誠司たちは、八幡と相田は無事なのだろうか。
八幡と相田も外に放り出されているかもしれない。
ぬかるみを這いずり、立ち上がる為に掴まる場所を探して彷徨った手が何かに触れた。
「これは、あのトラックから落ちた……」
トラックが荷台に積んでいたコンテナがそこにあった。
一辺が二メートル強の立方体、崖下まで転がり落ちて来たのだろう。角は潰れ、一つの面が大きく裂けている。
裂け目からは灰色の粘度の高そうな液体が流れ出ており、俺が倒れていたぬかるみはその液体によって出来たものだった。
コンテナに体を押し付けるようにしながら立ち上がり、体に纏わりついている謎の液体を手で拭って払う。
全身の鈍痛に比べれば些細なものだったので今まで気付かなかったが、液体を拭った手に焼けるような刺激を感じた。
塩酸のような劇薬なのかと思ったが、皮膚が溶けたりしている様子は無い。
この液体は一体何なのだろう、有害なものでなければいいのだが……刺激を感じる時点で無害というわけでもないか。
そんな事よりバスは何処だろう。
周囲を見回すと、それほど離れていない地面に大きく抉れた形跡があった。
何か固い物がそこに落下したようだ。そこから重い物が滑ったような跡が森の奥へと続いている。
途中にある木は裂けるように折れている。地面を滑った何かがぶつかった事が原因だろう。
跡にはタイヤ痕のような溝もあるので、落下した後も何とか走行しようとしたのだろうか。
「もしかして、これがバスじゃ……」
崖の麓沿いに離れた場所でドンッ!という爆発音が聞こえた。
その方角を見ると黒煙が立ち上っており、黒煙の根元の方は赤橙色に光が輝いている、火の手が上がっているのだ。
崖を辿るように上を見上げると、峠に何台もの車が停車しているのが見えた。
本来、崖側の縁にあるべきガードレールは、引き千切られたような残骸だけになっている。
崖から落下した車が他にもあるのだ。爆発したのはそのうちの一台だろう。
思っていたよりも事故の規模が大きい。
改めて森の奥を見据え、全身を軽く手で撫でて確認する。
何とか歩けそうだ。どこの骨も折れていない。
全身至る所に血が滲んでおり、謎の液体を浴びたせいで痺れるような痛みが絶えず続いているが、崖から落下してこの程度の怪我ならマシな方かもしれない。
……なんだ、腰の辺りで何かが震えて……。
「……あ、携帯か!」
ズボンのポケットから携帯電話を取り出す。
思い切り謎の液体に浸っていたが、ポケットに入っていたので無事だったのだろう。
着信を告げて震動している携帯の通話ボタンを押し、耳に当てた。
「誠司か!」
『恭護、無事か! 怪我はしていないか!』
聞き慣れた声、だが今まで聞いた事の無い焦りと緊張に満ちた声だ。
「怪我はしているが、大した事は無い。誠司の方こそ無事か?」
『俺はバスごと森の奥に入り込んだんだ。怪我人はいるが何とか出来る限りの手当を済ませたところだ。相田ちゃんと睦月ちゃんはそっちにいるか?』
怪我で体中が熱を持っている筈なのに、肝が冷えた。
誠司がわざわざそんな事を聞くのは何故か、簡単な事だ。
「いないのか!?」
『さっきからお前も含めて順番に電話を掛けてるんだが、二人とは全く繋がらない』
「誠司、俺は今から」
『待て恭護、まずは俺と合流するんだ』
「だけど」
『落ち着け。まずは合流して状況を確認して、それからだ』
「そんな事をしている間に二人は」
『分かってるよ!』
滅多に上げない誠司の怒声に、余裕の無さを痛感した。
『恭護、お前は動けるか?』
「あ、ああ」
『大まかだけどバスのある場所を教えるから来てくれないか。バスを見付けたら決して近付かずに離れたところで連絡を入れてくれ。通話中かもしれないがすぐに折り返す』
事故を起こした車は破損個所からガソリンが漏れる等の原因で爆発、炎上する事がある。
誠司はそれを考え、車内に残っていた部員連れてバスから離れた場所で体を休めているのだという。
『お前の連絡を待つ間に警察に連絡しておく、救急車と消防車を手配したら、相田ちゃんと睦月ちゃんに電話を掛けてみるよ』
「……分かった」
通話を終え、液晶画面を確認する。
旅行に行く前に誠司から貰った八幡の写真が待ち受け画像として表示されている。
どうか無事でいてくれ。
祈る事しか出来ない自分が歯痒かった。
普通に歩けば五分くらいの距離も、負傷した体では数倍の時間が掛かる。
ようやく見付けたバスは、森の中にある岩に乗り上げるように停止していた。
パンクしたのか、ホイールだけになっている車輪もある。そもそもホイールすら失われている箇所もあった。
周囲にはガラスの破片や外れた座席、誰かの物と思しき荷物が散らばっている。
言われた通りにバスが見えた時点で立ち止まり、適当な木に寄り掛かりながら誠司に電話を掛けた。
ビジートーンが鳴った事を確認するとすぐに切り、そのまま待つ。
数分ほど経った頃だ。
「恭護」
「折り返すんじゃなかったのか」
バスを横目にした森の奥から誠司が顔を出す。
俺に負けず劣らず、傷だらけだったが、その顔は安堵に満ちていた。
きっと俺も同じだろう。それどころか俺は気が抜けてその場に座り込みそうだった。
「どうせ近くにいるだろうと思って来てみたらすぐ見付かったからさ」
手招きする誠司に頷き掛け、バスを迂回する様にして合流する。
「意外と元気そうだな」
「お前ほどじゃない」
スマホを取り出した誠司に倣い、俺も携帯電話を開く。
「警察への連絡は既に他の誰かがしてくれてたみたいだ。だけど峠の事故のせいで渋滞していて到着に少し掛かるらしい」
「それまでどうする?」
「全員の安否確認だな。お前と相田ちゃんと睦月ちゃん、他にも何人かが弾みで車外に放り出されてる」
「探さないといけないな」
「今の俺たちの体力じゃ探し回るのにも限界がある。連絡だけでもつけばと思ってたんだが」
誠司は車内にいた部員に協力して貰い、行方不明の部員へ電話を掛け続けていた。
連絡さえ取れれば状況も確認出来るし、通話状態を維持する事で緊急の事態にも対応出来ると考えたのだ。
「……だけど、相田ちゃんと睦月ちゃんだけどうしても繋がらない」
相田のスマホはバスの車内で発見したそうだ。
置きっ放しだったのか、事故の際に落としたのかしたのだろう。
「俺が最後に見た時、二人は同時に外に放り出されそうになっていた……
今も一緒にいるかもしれない。
八幡と連絡がつけば、相田の無事も確認出来るかもしれない。
「俺も掛けてみよう」
「え」
アドレス帳から八幡の名を探し、電話を掛ける。
「睦月ちゃんと連絡先交換していたのか」
「ああ、昨日の宴会でな」
「やったな」
普段なら大騒ぎするであろう誠司も、今の状況では弱々しく笑うだけだ。
耳に当てた受話器からコール音が一度、二度、三度……延々と鳴る。
息が詰まる。誠司も固唾を飲んで見守っていた。
──やがて、コール音が止んだ。
俺の反応から気付いたのか、携帯電話に耳を寄せる。
傍から見れば男二人が頬を寄せ合っているようだ。
思わず誠司の顔を押し退け、通話をスピーカーモードに切り替えた。
『……』
最初に聞こえたのは、激しい息遣いだった。
『加治……先輩……』
弱々しく小さな声だ。
だが八幡の声だ。間違えようがない。
「八幡、無事なのか!? 何処にいるんだ!? 相田は一緒じゃないのか!?」
思わず畳み掛けるように問い掛ける。
返事はすぐには来なかった。ガサガサと音がするのは何故だろう。
まるで何かが被さっているような。
「恭護、静かにしろ、何か変だ」
何が変だと言うのだろう。
誠司の手が携帯電話の通話部分を手で塞ぐ。
「睦月ちゃんは今、通話部分……いや、多分スマホ自体の表面を何かで覆っている」
「どうしてそんな事をするんだ?」
「俺たちの声が漏れる事を恐れているんだろう」
その意味は──聞かれたら不味い相手がいる、という事だ。
周囲の気温が下がったような気がした。
聞かれたら不味い、それってつまり何かから身を隠そうとしているって事じゃないのか?
八幡に危害を加えようとしているものがいるって事じゃないのか!?
思わず八幡に呼びかけようとした俺の口を誠司の手が塞ぐ。
そうだ、今は迂闊に騒がない方がいい、落ち着かなければいけない。
やがて──。
『すいません』
消え入りそうなほどの声、黙っていなければ聞き逃していただろう。
結局、俺たちは頬を寄せるように携帯電話に顔を近付け、出来るだけ小声で話をした。
「一人か?」
『晴美さんと』
「怪我は?」
『少し』
「二人とも?」
『はい』
「動けるか?」
『……あまり』
出来るだけ声を抑える為に、会話も最小限にした方がいい。
その意図は八幡にも伝わり、短く切るような会話を繰り返す。
「追われてるのか?」
意を決したように、誠司が切り出す。
受話器を通じて小さく息を呑む音が聞こえた。
『……はい』
携帯電話を握る手に力が篭もり、ミシリと音がした。
一度離れた誠司は大きな深呼吸を何度もしながら、空を見上げて何かを考えている。
『加治先輩』
八幡の震えた声に、俺は携帯電話へ視線を戻した。
『何ですか、あれ……わたし、怖い、です』
何ですか、だって?
八幡たちは何に追われているんだ?
「何に?」
再び顔を寄せた誠司の質問に、返事は無かった。
微かに荒い呼吸音が聞こえて来るから受話器の向こうにいるのは間違いない。
背後に立っていた誠司が何かに気付いたように自らのスマホを取り出す。
「獣か?」
『分かり、ません』
「じゃあ、人間か?」
『分からないんです、あれは……』
──怪物
小さな呟き、その内容を確かめようとしたその時だった。
受話器越しにメキメキとした音が響き、八幡と相田の悲鳴がそこに被さる。
「おい、どうしたんだ!?」
二人の悲鳴、八幡と相田が互いに叫ぶように呼び合い、それらを掻き消すような破壊音
スマホが揺さぶられる乱れた音、その後も断続的に聞こえる二人の荒い呼吸と悲鳴。
呆然としていると、誠司が俺の手から携帯電話を奪い取った。
「睦月ちゃん、聞こえるか!」
大声で怒鳴る。
もう声を潜めている場合ではない。
この通話の向こうで二人は何者かに襲われているのだ。
「GPSをつけろ! もう少し頑張ってくれ!」
投げ返された携帯電話を受け取る。通話は既に途切れていた。
誠司は緊張した表情でスマホを睨んでいる。
横から覗き込むと、俺の携帯を見て覚えたのだろう。電話番号を元にGPSの検索機能を立ち上げていた。
液晶には現在位置を中心にした付近の地図が表示されている。
──数十秒ほど経っただろうか。地図のある一点にフッと目印が表示された。
目印は少しずつ、俺たちから離れるように移動している。
「今から相田ちゃんと睦月ちゃんの所へ行く」
誠司は遠くに見えているバスに向かい歩き出した。俺も後に続く。
近付くにつれて漏れ出ているガソリンの匂いが鼻をつき始める。
軽く眉を顰めた誠司は小走りで車内に駆け込み、荷物を手に戻って来た。
荷物は誠司が大量に購入した土産だ。その中から木刀を二本取り出す。
「お前はどうする?」
「俺は……」
八幡は自分たちを追い掛けるものを怪物と言った。
それが何を意味しているのか分からないが、まともなやつじゃない事だけは分かる。
二人を追い掛けるのならば、その過程で怪物に遭遇する事になるだろう。
野犬だったらまだいい。人間でもいい。だが、例えば野生の熊とかだったら木刀でどうにか出来る相手じゃない。
逃げ切れるだろうか、そもそもこうしている間に二人はもう……。
「くそ、何を考えてるんだ俺は!」
嫌な考えを振り払うように勢いよく頭を左右に振る。
もしも、仮に、例えば、ここで俺が二人を助けに行かなかったとして、もし二人に何かあったら後悔どころでは済まない。
そんな後悔を一生抱えていくなんて、俺には出来ない。
「俺も、行く」
だから俺はこう答えるしかなかった。
それが分かっているからだろう、誠司は「悪いな」と一言呟いた。
押し付けられた木刀の中ほどを握って先に走り出した誠司の後を追う。
俺も誠司も傷だらけだ。だが全身の痛みも忘れ、力の限り地面を蹴った。
何も言わずに走る。少ない余計な体力の消耗などしたくない。
夜の森を何度も躓き転びながら、ただひたすら必死に走り続けた。
△▼△▼△▼△▼△▼
やがて、俺たちは八幡たちがいる筈だった場所に到着した。
二人の姿は無い。だがGPSはここに八幡がいる事を示している。
肺が痛くなるほど荒くなった呼吸を整えながら周囲を見回し、地面に転がる小さな明かりを見つけて手を伸ばす。
八幡のスマホだった。
「まだ液晶が点いてるって事は、ついさっきまでここにいたのか」
スマホをポケットに押し込んだ俺は誠司を見た。
彼女たちを見付ける手掛かりが途絶えてしまったのだ、どうすればいいのか考えなければならない。
「これからどうする……誠司?」
誠司はある一方を見たまま、ぽかんと口を開けて呆けている。
気になるものでもあるのかと同じ方角を見た俺は……きっと、同じ顔をしただろう。
「……相田ちゃんたちは、一体何に追われているんだ?」
ここは森だ。
森というくらいだから沢山の木々が煩雑に立ち並んでいる。
だが、俺たちの見ている方角にはその木々は立ち並んでいない。
視線を少し下げると、薙ぎ倒された木々が折り重なるように転がっている。
力任せに根元から引き抜き倒された木、太い幹の途中で無数の繊維質の束となってへし折れている木、恐ろしく鋭利な刃物で幹を横に切断されている木、生物でいう正中線に沿うように縦に断ち割られている木。
一帯にむせ返りそうな生木の青臭さが充満していた。
地面には見た事の無い巨大な足跡と、何かを叩き付けた跡のような陥没痕が無数にあった。
分かり易く言うならば、ゲームに登場するような身の丈を越えるほどの巨大な剣や鎚を、辺り構わず振り回したらこうなるのではないだろうか。
そんな正体不明の、ただ尋常ではない力で暴れた何かが、ここにはいたのだ。
「……」
破壊の跡は一直線に続いていた。
跡が続く方角へ視線を向ける。
その時を待っていたかのように、視線の先から悲鳴が聞こえた。すぐ近くだ。
一瞬躊躇した俺を差し置き、木刀を握り直した誠司が走り出す。
慌てて追い掛けた俺は、誠司に遅れてやや開けた場所へ飛び出した。
その一角には見覚えのあるトラックが横倒しに転がっている、事故の原因となったあのトラックだった。
近くにはトラックが積んでいたもう一つのコンテナも転がっている。
「相田ちゃん! 睦月ちゃん!」
コンテナを背にして、八幡と相田が立っていた。
二人ともあちこち負傷し、血を流している。
八幡は肩を庇い、相田は片足に痛めているらしく片足を引き摺っていた。
「駄目、辻崎くん……来ちゃ駄目……!」
八幡に支えられていた相田は俺たちに気付くと、恐怖に強張らせた表情で首を振る。
そうだ、二人は何かに追われている。
俺たちが二人に追い着いたという事は、二人を追う何かも近くにいるという事だ。
両手で木刀を構えた俺と誠司は周囲を警戒しながら二人へ近付く。
「大丈夫だ、急いでここを離れよう……恭護は睦月ちゃんを、俺は相田ちゃんを背負……」
──ギシ。
サスペンションが軋む音。
発生源はトラックだ。
ピタリと足を止め、錆び付いた歯車を力任せに動かすように、ゆっくりとトラックへと視線を向ける。
やつは、そこにいた。
数は一人だ。
本当は一人と数えていいのか分からないが、他に適当な言葉が思い当たらない。
何故ならそれは、一目で人間ではない事が分かったからだ。
今この時点でそれに名前を付けるとしたら……怪物以外に表現のしようがない。
成程、八幡の言う通りだと場違いに感心してしまうほどに。
体は俺より大柄な誠司よりさらに大きい。身長は三メートル近くあるだろう。
人間のように二本足で立っているが、腕は四本あった。
上側一対の上腕はカマキリの腕によく似ている、鎌腕とでも呼べばいいのだろうか。
下側の一対は毛皮に包まれた、まるで風船のように筋肉が膨らんだ猿腕。
胴体はゴリラのように逞しく、胸板を除きほぼ全身が毛皮に包まれている。
首は筋肉に埋もれているのかパッと見で判別は出来ない。
頭は体の割には小さな逆三角形だが、形なんかどうでもよかった。
左右に開く顎、異様に大きい網の目状の目、つまり複眼、眉に当たる場所から伸びる二本の触覚。
頭部の形状といい、よく見ると複眼には偽瞳孔がある事といい、カマキリのようにも見える。
だが顎や触覚の形状は蟻に近い、一体どちらなんだ……いや、どちらでもない、か。
腕や太腿の辺りにぼろきれが纏わりついている。何か衣服を身に着けていたようだが……?
「ゲームのモンスターかよ。着ぐるみ……じゃ、なさそうだよな」
小さな呟きに無言で頷く。
その質感は生々しく、離れていても野生生物特有の獣臭が漂って来ている。
胸板と顎は不規則に動いている。呼吸をしているのだろう。
呼吸をしている、つまり生きているのだ。この怪物はこういう生物として生きているのだ。
見た事のない生き物、獣なのか昆虫なのか分からない。
こんな生き物が存在しているわけがない。だが目の前にいるのだ、事実だと認めるほかない。
咽喉がカラカラに乾いている。唾を飲み込むと、貼り付いていた咽喉の粘膜が軽く痛んだ。
怪物は俺たちを眺めながら地面に飛び降りる。サスペンションが伸縮し、トラックが大きく揺れた。
ズシリと重々しい音を立てて、怪物の足が固い土の地面に軽くめり込む。先ほど見つけた足跡はこいつのものだと確信した。
俺たちと八幡たちを交互に見ながら、怪物は触覚をアンテナのように動かしている。
「ン……」
特に意味は無いだろう、小さな声を発した怪物が八幡たちに狙いを定めた。
二人は咄嗟に逃げようとしたが、相田が苦痛を訴える悲鳴を上げてよろめいた。
相田は脚を負傷している、あの脚では走る事は難しいだろう。
対する怪物は……俺の腰ほどの太さがあるあの脚で、走るのが苦手だとは思えない。
何とか俺たちが気を引いてその間に二人が逃げれば……だが、その場合に俺たちはどうなってしまうだろう。
握り締めた木刀が何とも頼りない手応えを返す。これで、あの怪物を撃退出来るのか?
あの異様に太い猿腕で殴られたら、炎の光を反射するほど鋭利な鎌腕を振り回されたら……。
そうか、先ほどの場所に刻まれていた破壊の痕は、この怪物によるものなのだ。
確信した、八幡たちはこの怪物に追われていたのだ。
「恭護……本気で走ればお前の方が脚、速かったよな」
「変な事を言おうとしていないか」
「俺が変な事を言うのはいつもの事だろ」
「──何ヲ考えテイルのか知ランが、一人も逃ガしハしなイヨ」
怪物が、人間の言葉を、日本語を喋った。
怪物だから、見た目が人間とは全く違う存在だから。
その可能性を全く考えていなかった。
最初は何を言っているのか分からなかった。
蟻の顎では発音が難しいのか、イントネーションが少しおかしい。
ザラザラとノイズが混ざったような酷く不明瞭な声。はっきり言えば不愉快な声質だ。
だがそんな事が理由ではない、単純にこの怪物の口から人間の言葉が発せられるとは思っていなかったから、聞いても意味が理解出来なかったのだ。
誠司も八幡も相田も、俺と同様に意味が理解出来なかったらしく、全員が間の抜けた顔で怪物を見詰める。
もしこれがマンガだったら、俺を含めた四人の頭上にクエスチョンマークが浮いている事だろう。
「……今、喋った、よな」
怪物を挟んだ向こう側で相田が頷く。
状況を理解した誠司と八幡の顔つきが変わった。
「あ、あの、どうして彼女たちを襲ったんだ?」
「そレヲ知っテドウする」
誠司の問い掛けに対して、意外にも怪物は答えを返した。
「もし、あんたが彼女たちを襲った理由があるなら、俺たちなりに解決策を提案出来るかもしれない」
そうか、対話を試みたのか!
対話が成立するなら、怪物から無事に逃げ切る方法を模索する事が出来るかもしれない。
「成程……死にタクナい、トイうわけダナ」
怪物は鎌腕の先端を八幡たちに向けながら、猿腕を組んで考え込む仕草を見せる。
考えるという事は、誠司の提案に対して譲歩する余地があるという事かもしれない。
同じ事を考えたのか、誠司と八幡はあからさまにほっとした表情を浮かべている。
だが俺は、根がネガティブなせいだろうか、ある事が気に掛かっていた。
今の怪物の言葉は、八幡たちを殺すつもりだった事を認める発言ではないだろうか。
人間の言葉を理解し、はっきりと意思の疎通が可能な怪物が、それでも殺すつもりだったという事ではないだろうか。
野生動物が日々の糧を得る為に、或いは縄張りや群れを守る為に、狩りをしたり外敵を排除したりするのとは違う。
殺す為に殺す、そういう事ではないだろうか。
怪物の首が捻られ、俺たちをじっと見詰める。
得体の知れない恐怖に膝が笑いだしそうだ。この場に座り込みたい。
「いいダロう、別にアノ女を殺スコとヲ最優先ニシなケレばならナいわけデハない」
まるで道を譲るように、怪物が大きく一歩横に退いた。
二人の元へ行けという事だろう。
その為にはあの怪物のすぐ目の前を横切らなければならない。
大丈夫だろうか、目の前に来た途端に襲い掛かってきたりはしないだろうか。
「悩んでる暇はないぞ」
誠司がゆっくりと歩き出す。
そうだ、ここでもたもたしていたら怪物の機嫌を損ねるかもしれない。
距離にして一メートルほど遅れて、俺も歩き出す。
誠司の足跡を正確に辿りながら、少しずつ怪物に近付く。
近付くにつれて、怪物の顎が鳴らす音がギチギチと聞こえて来た。
粘液が絡んでいるのか水音が混じる耳障りな音だ。
ほぼ怪物の正面に来た辺りで、上目遣いに様子を窺う。
ハンドボール大の複眼と目が合った、ような気がした。
顎が大きく開かれ、粘ついた液体が糸を引き滴る。
もしかして今、笑ったのか……?
「──あ」
八幡と相田が同時に声を上げる。
何故だろう、彼女たちが何に声を上げたのか即座に理解した。
俺は怪物の前で立ち止まった。正確には立ち止まらざるを得なかった。
目の前を歩く誠司は怪物の前を通り過ぎた事で気が緩んだのか、少し弛緩した様子で歩調を速めて二人に近付く。
「優先順位ハ守らナクチゃな!」
その時、既に鎌の先端が俺の鳩尾辺りから生えていた。
まるで衝撃を感じなかった。最初から存在していた隙間にすっと挿し込むように、鎌腕は何の抵抗も無く俺を背中から貫いていた。
じわ、と血が傷口から滲み出てシャツを染める。
血と共に痛みも若干のタイムラグをもって脳に到達する。
「え?」
二人の元に駆け寄り、相田の肩を抱いた誠司が振り返った。
鎌が引き抜かれた事で一気に出血した俺が地面に倒れたのは、それと同時だ。
「最初に言ッタダろう? 一人も逃がシハしナイって!」
傷口をやすりで擦られ続けているような痛み。
腹の筋肉が痛みで痙攣し、呼吸が上手く出来ない。
痛みに耐えようと歯を食いしばると腹筋に力が入り、そのせいで傷口が一層広がる。
不味い……これは不味い……!
「加治先輩!」
左腕を掴まれ、吊るすように立たされる。痛みに耐えるのが精一杯で抵抗出来ない。
八幡が何か叫んでいるが、頭がガンガンして何を言っているのか聞こえない。
「まズハこいツ、次ハ……女ヲ一人、そノ次は残リノ男、最後ニ残っタ女ヲ殺す!」
猿腕の太い指が鳩尾の傷をほじくるように捻じ込まれる。
脳に直接張り手を浴びせたような、視界が真っ白になるほどの痛みに声が出ない。
胃の奥から競り上がって来るものを堪えきれず嘔吐すると、大量の血が地面に撒き散らされた。
怪我があまりにも酷いと痛みすら感じない、なんて話を聞く事があるけど、まだ痛いじゃないか。
痛みを感じないほどの怪我ってのはどれだけ酷いんだ。
ああ……それでもこの傷は、素人目に見ても分かるくらいの致命傷だ。
すぐに病院で治療を受けられるなら分からないが、今の状況ではまず助からないだろう。
そんな事を冷静に判断している俺が、意識の片隅にいた。
──死ぬ。
俺はもうすぐ死ぬ。
おそらく変えようの無い事実を冷静に判断した俺は渋々、嫌々受け入れた。
じゃあどうする? と冷静に判断している俺は考えている。
このまま死ぬのを待つか。じっとしていればこの怪物はこれ以上、俺に危害を加えないかもしれない。
それなら俺は、残り数分か数秒か引き伸ばされた命を、心を鎮めて過ごす事に注力出来るかもしれない。
痛い思いをしながら死ぬのは御免だ、少しでも痛みを和らげよう、なんて事を考えながら。
ぼやけて来た視界の向こうで泣き叫んでいる誠司たちには申し訳ないが、お前たちだけでも無事に帰って……。
……帰れる、のか?
「こノきメラを見タ不運を呪イナがら、殺サレろ!」
キメラ……この怪物はキメラというのか。
今、お前は何て言った?
殺されろと言ったのか?
誰に対して?
誠司たちに言ったのか?
誠司たちを殺すと、そう言ったのか?
誠司たちは帰れないのか?
誠司たちを帰さないのか?
「そん、な……こと……!」
そんな事が……許されるものか……!
「ぐ……う……!」
「加治くん!」
身を捩った際の激痛で遠退いていた意識とぼやけた視界が少しだけクリアになった。
しかし、痛みが波及しているのか頭痛が酷い。眼球の奥が圧縮されているような鈍痛が響いている。
「せい……じ……」
「恭護、すぐに助けてやるからな!」
木刀を握って怪物に飛び掛かろうとしている誠司に、俺は右手に握っていた木刀を向ける。
先ほど吐いた血が掛かったのか、それとも遠くから辺りを照らす炎なのか、木刀は光を照り返して赤黒く輝いていた。
「お前、は……行け……!」
嫌だ。
本当は助けて欲しい。
早く手当てをして欲しい。
置いて行かないで欲しい。
それを言わなかったのは、俺に出来る精一杯の強がりだ。
誰もが多かれ少なかれ持っている英雄願望みたいなもの、だったかもしれない。
ここは俺に任せて行け、なんてやつだろうか。
「きょ……」
目が合った誠司が何かを言い掛けた。
何も言うな、黙ってお前は逃げてくれ。
これ以上、俺を困らせるな……!
「~~っ!」
今にも叫び出しそうな顔をしていた誠司は、相田を強引に背負うと八幡の腕を掴んで走り出した。
木々が林立する森の奥へ、キメラという怪物から逃れるように。
不思議な事にキメラはその姿を黙って見送っていた。
「おい、かけなくて……いい、のか」
「キメらの五感ナラすぐニ追い着ク」
「く……そ……」
このままじゃあ、誠司たちは逃げ切れない。
何とかこいつを行動不能にする事は出来ないか。
痛みで考えが纏まらない。先ほどから感じている頭痛は一層激しくなっている。
腹の傷のせいで呼吸が殆ど出来ず、酸素が足りない。
「お前ヲ殺すノガ最優先ダ」
俺の血で汚れた指が、何かを掬うような手付きで俺の頬を撫でる。
覗き込んできた顔が近い。人間の顔よりも大きな蟻の顔は酷く不気味だ。だがここが最初で最後のチャンスだ。
残された力を全て、木刀を握り締める手に込めて突き出す。
巨大な顎の間、咽喉目掛けて突き入れる。
木刀はメキリと音を立てながら噛み砕かれた。
文字通り必死の攻撃は通用しなかったが、俺の抵抗を予想していなかったのかキメラは触覚をピンと伸ばして驚いている。
それなら、こっちはどうだ……!
長さが半分ほどになった木刀を握り締め、もう一度突き出す。
通用しないとはいえ、口内に突き入れられるのは不快なのか、反射的に顎が閉じられる。
だが俺が狙ったのは顎ではない、もっと上の部分……複眼だ。
片方の複眼に木刀の先端がめり込む感触、若干の抵抗の後にブツリと低い破裂音を立て、先端が複眼の中に沈んでいく。
「オ……ガ、ギィィィィアアアアァァァァァァァァァ!」
錆びの浮いた鉄板を目の粗いやすりで擦るような、ざらついた悲鳴が森の空気を震わせた。
猿腕が掴んでいた俺の左腕は握り潰され、骨が砕ける音が体内を通じて耳に届く。
痛みを感じる暇も無く、俺の体は振り回されて力任せにコンテナに叩き付けられた。
全身の骨が軋み、折れる鈍い音があちこちから聞こえる。
悲鳴を上げる暇も無く、キメラの拳が鳩尾に食い込んだ。
皮膚一枚内側のあらゆる全てが潰れ、爆ぜるような感覚。
既に空いていた刺創から内臓が絞り出されそうなほどの激痛に、切れかかった電球のように意識が明滅した。
衝撃に耐え切れなくなったコンテナに幾つもの亀裂が入る音が、接している背中に振動となって伝わる。
「しマッた」
丁度、俺の体が蓋の役割を果たしていたのだろう。
コンテナから剥がれるように俺が倒れたことで、押さえられていた亀裂が広がり、亀裂同士が繋がって穴となる。
一気に溢れ出した液体は瞬く間に水溜りとなり、動けなくなった俺はその中心でうつ伏せに倒れた。
「……仕方ガナい、このマまにしテオクよりは」
キメラの鎌腕がコンテナを真っ二つにする。
割れたコンテナからは中に残っていた液体が濁流となって溢れ出し、俺の全身を一瞬飲み込む。
この時、鼻腔まで浸っていた俺は溺れていた……のだろうか。
既に自分が呼吸しているのかどうかも分からない。
意識も少しずつもやが掛かって来ている。睡魔と違うのは不快な感覚というところだろう。
キメラは猿腕の怪力でコンテナを丸めて一抱えの鉄塊にすると、トラックの荷台へ放り込んだ。
(どうして、こんな事になってしまったのだろう)
このような目に遭うほど罪深い事をしたのだろうか。
ただ、楽しい旅行を終えたかっただけなのに。
……昨日の楽しかった宴会が遠い幻のようだ。
既に動かない俺の体も、猿腕によってトラックの荷台に放り込まれる。
固い荷台に叩き付けられた際、ぶつけた体が嫌な音を立てたが、何処をぶつけたのかもよく分からない。
(情けない)
友人を守りたかった。
命より大事な、なんて安易な事を言うつもりは無い。
だけど、俺にとって友人の存在は、少なくとも命との秤に乗せるに足るくらいの価値がある。
それくらい俺にとっては大切なものなのだ。
大切なものすら守れない自分の不甲斐なさが情けなかった。
そんな自分が許せなかった。
「きメらに出会ッタ不運を呪エヨ?」
同じ事をもう一度言ったキメラの顔は、笑っていたのだと思う。
キメラはトラックの扉を引き剥がして運転席に上半身を突っ込み、幾つかのガソリン缶とマッチを取り出す。
鎌腕の先端をガソリン缶に突き刺して穴を空けると、中を満たしていた揮発性が高く強い臭気の……要するにガソリンを振り撒く。
全てのガソリンを撒き終えると少し離れ、猿腕の太い指で器用にマッチを一本摘まみ出し、擦って火を点けた。
「キメ……ラ……」
おそらく、その呟きは声にならなかっただろう。
火が点いたマッチが放られて落ち、気化し始めていたガソリンに引火する。
一瞬で燃え広がった火は炎となり、トラックを完全に飲み込んだ。
痛みも、熱さも感じない。
既に俺の肉体は生命活動を停止していたのかもしれない。
炎に飲まれ灰になりかけた意識で、俺はキメラの名を胸に刻み込んだ。
燃え盛る炎の向こうで、怪物──キメラが立ち去る気配。
何処へ行くつもりだ。
誠司たちを追いかけるつもりなのか。
キメラに遭遇した。
ただそれだけの理由で、俺は死ぬのか。
ただそれだけの理由で、誠司たちも殺そうというのか……!
許せるものか……許して堪るものか……!
燃料タンクに引火したのは、この時だ。
炎に染まっていた視界が一層赤くなり、俺のいし──。
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