第2話 非日常への転落

 旅館に着いたのは日も暮れかけた夕方だった。

 車体脇のトランクから荷物を取り出した俺たちは、予想を遥かに上回るグレードの旅館の雰囲気にのまれていた。

 巨大提灯がぶら下げられている事で有名な都内の寺社仏閣にある総門のような、要するに無駄に巨大な門が入り口だった。ランドマークかよ。

 取り出した荷物も入り口で待っていた仲居(この場合もベルボーイと言っていいのだろうか)がさっさと運んで行き、俺たちは手ぶらのまま落ち着かない気持ちでロビーに入る。

 赤い絨毯が敷かれたロビーは何故か中央を人工の川が横切っており、やたらきらびやかな橋が架けられていた。

「加治先輩、男子の部屋の鍵はこれです」

 何処かへ行ってしまった誠司の代わりに手続きを終えた八幡が差し出した鍵をまじまじと見詰める。

 カードキーではない、よくある棒状のキーホルダーがついた普通の鍵だ。

 但しそのキーホルダーの先端は龍の頭部に彫り込まれている。

 しかも館内の施設で提示するとチェックアウト時の清算に纏める事が出来るもので、俺たちが使うようなホテルや旅館では中々お目に掛かれない物だろう。

「もしかして、ここって高いんじゃないのか?」

「そうでもないですよ」

 教えてもらった宿泊費は予想していたものよりもずっと安い。

 ロビーの内装や雰囲気からして、実際はそんな値段に収まるレベルではないような気がする。

 いっそ訳ありで格安なんだと言ってくれた方が納得出来るのだが、八幡から聞いた真相は予想外のものだった。

「実はここ、オーナーが父なんです」

「え!?」

 予想外の大声が出た。

「八幡の父親は病院の院長だよな?」

「そうなんですけど……『入院患者は病院に宿泊しているのだ、だから宿泊施設である旅館も経営しなければ』って」

 理屈だけなら、ある程度の同意を示す事は出来る。

 一瞬納得し掛けてしまったが、それを実行に移す人間はあまりいないのではないか。

 そもそも、入院を宿泊と言っていいのだろうか。

 全面的には否定し辛いだけに厄介なケースだ。

「申し訳ないが、八幡の父親は少々変わった人なんだな」

「少し辻崎先輩に似てます」

 親指で顎を撫でながら、深いため息をついた。

 なんてことだ、あんな人間が世の中にもう一人いるというのか。

 周囲の人間はさぞ振り回されていることだろうと、見知らぬ人たちに対して共感と同情を覚える。

「相談したら、折角の旅行なんだから高級旅館に泊まれって、値段も格安にしてくれて」

 気前のいい事だ。

 そう言うと、八幡は苦笑いしながら首を横に振った。

「泊まり掛けのイベントに参加する際、父は毎回物凄く反対するんです」

「自分の子供が外泊する事について、いい顔をする親はいないだろう」

「それが父の場合はもう【ザ・過保護】って感じで」

 八幡は父親に溺愛されているようだ。

 確かに彼女のような娘がいて、それが泊まり掛けで遊びに行くとなると心中穏やかではいられないかもしれない。

「八幡がこれまでも泊まり掛けのイベントだけは欠席していたのはそれが理由か。それも仕方ないかもしれないな」

「加治先輩までそんな事を」

「娘が可愛くて仕方ないんだろ、俺だって娘がいたら同じかもしれない」

「娘ですか」

 娘……八幡のような娘が、俺にいたら。

 その娘が他に女性もいるとはいえ男も加えて泊まり掛けで旅行に行くとしたら……。

 うん、暴力は嫌いだがその時ばかりは許されるのではないだろうか。

「八幡は泊まり掛けで旅行に行くべきではないかもしれないな」

「今まさにその真っ最中なんですけど!?」

 そうだった。

 これは大変な事だぞ。俺は慌てて旅行に参加している部員を確認する。

 八幡が特定の異性と付き合っているという話は聞いていないが、彼女は密かに人気がある事を俺は知っている。

 もし参加者の仲に、これを機に八幡との仲を深めようと考えている輩がいたとしたら。

 部員だけとは限らない、旅先での出会いを求めているような輩だっているかもしれない。

「……とにかく今回は大事な旅行なんだって言って、反対されても勝手に行くって言ったらようやく許してくれたんです。だけどせめて旅館は自分に決めさせろって」

 父親が経営する旅館ならば、強権を振るえば従業員に俺たちの様子を見張らせて逐一報告する事くらい出来るだろう。

 その執着心には過保護を通り越した偏執的なものを感じるが、ここは大いに応援させて貰いたい。

 この旅行の間、頑張って八幡を守って欲しい。

「つまり、ここの従業員全員が八幡を見守っているんだな」

「考え込み過ぎて事態が大事になってますよね」

「違うのか?」

「……父さんなら、やりかねない、かも」

 実の娘が否定しないのだ。きっとそうに違いない。

 このロビーに点在している従業員が全員、何気なく八幡を見ているような気がして来た。

「どうした恭護、なんか追手を警戒する抜け忍みたいになってるぞ」

 ロビーの一角にある売店から現れた誠司が不思議そうな顔で俺を見ている。

 まだ到着間もないのに早くも購入済みの商品を山のように抱えていた。

 どれだけ土産を買うつもりなんだあの男は。

「……もしかして誠司、お前もか」

 誠司の事だ、既に八幡の父親と連絡を取ってこっそり八幡を見守っていてもおかしくない。

 なんてことだ、一番の友人ですら信用ならないなんて。

 一体、誰が八幡を見張っているんだ。

「お前は何と戦っているんだ?」

 そんなの決まっている。

 何処かに潜んでいる監視者を見付け……あれ?

「仮に、八幡を見張っている奴がいるとして、だ。どうして俺はそれを見付けようとしているんだ?」

「加治先輩がいきなり警戒し始めたんじゃないですか?」

 見付けてどうするつもりだったのだろう。

 排除しようとしていたのだろうか。どうして排除しようとしていたのだろう。

 普通に考えれば、排除したいのは邪魔だからだ。ならば、どうして邪魔なのだろう。何をするのに邪魔なのだろう。

「なんか良く分からないけど、これをやるから落ち着け。睦月ちゃんにもあげよう」

 目の前の売店で購入した土産用の温泉饅頭を受け取る。

「お土産だよ」

「配るならせめて帰宅してからにしてくれ。旅行先でご当地のお土産を貰ってもあまり嬉しくない」

「俺は思い付いた時に思い付いた事をやりたいんだ。後になってから、やっておけばよかったって思うよりいいだろ」

「それでお土産を、一緒に旅行に行った人に渡すんですか?」

「睦月ちゃんも俺に何かお土産買ってくれよ」

「プレゼント交換みたいで楽しそうですね!」

「八幡って案外、誠司の考え方の影響を受けてるよな」

 楽しそうに売店の奥へ入って行く八幡を見送る。

 彼女の姿が展示棚の陰に隠れると、誠司がニヤニヤしながら顔を寄せて来た。

「それで、父親の監視の目を逃れて睦月ちゃんに不埒を働きたい恭護くん、何か作戦はあるのかな?」

 こいつ、どこで聞いていたんだ。そして何を聞いてどう解釈しているのだ。

 しかも勝手に俺を不埒な人間に仕立て上げようとしているぞ。

「そういえば売店の人に教えて貰ったんだけど、ここの温泉はなんか凄く楽しそうだぞ」

「アトラクションでもあるのか?」

「深さ四メートルの温泉があるんだって! 後は大人が吹き飛ぶくらいの間欠泉が出る温泉とか、死人が生き返るほど強力な電気風呂とか、下が底なしの砂になってる蟻地獄温泉とかもあるらしいぞ!」

「世間一般ではそれを罠というのではないだろうか」

「睦月ちゃんの親父さんの遊び心だって、なんか仲良くなれそう!」

「温泉でゆっくりしたいのに、遊び心で吹き飛ばされたら堪らん」

「しかし残念だな、混浴は無いらしいぞ」

「……誰も聞いてない」

 一瞬返事が遅れた。

 残念だと思ったから遅れたわけじゃない。

 残念だと思った事そのものは否定し難いものがあるが。

「だってお前あんなに睦月ちゃんと混浴したいって」

「言ってない!」

 あまりそういう事を言わないで欲しい。

 聞いてしまった事でむしろ想像や期待をしてしまう事だってあるのだから。

「想像したろ」

「お前、そういう勘繰りをやめろ」

「睦月ちゃんくらい可愛ければ想像するよなぁ。俺はもうちょっと胸の大きい子の方が好きだけど」

「別に八幡だって小さくは」

 俺も男だ、女性の体に興味はあるし、気になる子の裸体を一度くらいは思い浮かべる。

 それを否定するつもりはない。

「知ってるの?」

「知らないよ!」

「え、じゃあなんでそんな事を言うの?」

 どんな事にも『なんで?』を繰り返す幼少期の子供のような誠司を努めて無視し、俺は八幡がいる売店を見た。

 いつのまにか相田が合流し、八幡と楽しそうに試食の饅頭を齧っている。

「……そういう事なら、誠司は八幡よりも相田の方が好みなんだろうな」

 大人しいせいで地味な印象を受ける相田だが、実はスタイルがかなり良い。

 その上での俺の精一杯の皮肉を込めた反撃だった。

 しかし本心から誠司をやり込めようとしているわけではなく、キャッチボールのように俺の言葉を受け止め、また軽く返してくれる事を期待していた。

「お、おう……そう、だな」

 だからこそ、誠司の妙に歯切れの悪い態度は俺を大いに戸惑わせた。



     △▼△▼△▼△▼△▼



 荷物を部屋に置くや否や、誠司は俺を含めた男たちを引き連れて早速温泉へと向かった。

 事前に聞いていたアトラクションのような内容に戦々恐々としていたが、広々とした浴場には普通の岩風呂も存在していた。助かった。

 掛け湯を済ませてさっさと岩風呂に退避した俺は、例のアトラクション風呂に挑戦する誠司たちを眺めている。

 何度か、吹き上がる間欠泉に吹っ飛ばされた奴がほんの一、二秒ほど宙を舞ってから深さ四メートルの湯に落下するのを見たが、怪我人が出ないのか不思議な光景だ。

 電気風呂には何人か浮いている。爪先から少しずつ入ればいいものを一気に肩まで浸かり、言葉にならない奇声を上げて失神した連中だ。

 近くに立て掛けてあった竹竿で引き寄せながら、どうか死人だけは出てくれるなと強く願う。

 後ほど八幡に聞いたところによると、謎の安全設計によりこれまでも死人や怪我人が出た事は無いという。その安全設計はオーバーテクノロジーではないだろうか。

 気が休まらん、後で一人こっそりと入り直そう。


 入浴を済ませたところで宴会の時間になり、茹で上がった体を浴衣で包んで宴会場に向かう。

 廊下と宴会場を隔てる襖が何枚も並んでいるが、その枚数が妙に多い。

 不思議に思ったが中に入って納得した。

「こんな広さ、どうしろってんだ?」

 俺ではなく、誠司が思わず呟いた。

 畳が敷き詰められた宴会場は、冗談抜きで百人くらいは入れるだろう。

 その五分の一にも満たない人数の俺たちは宴会場の中央で、広い空間を持て余しながら思い思いの場所に座る。

 さっさと上座を確保した誠司はすっかり写真係の相田を呼び寄せ、宴会場を撮影しながら練り歩いていた。

 相田と別れた八幡は暫くきょろきょろし、俺と目が合うと速足でやって来て隣に腰を下ろす。

「ここ、一晩中使えるようにしてありますから」

 浴衣の柄は当然かもしれないが俺と同じだ。

 肩にかかる長さの髪は現在、ヘアピンで軽く留められていて、うなじが露わになっている。

 湯上りの為、上気して顔は少し赤く、目は普段より潤んでいるように見える。

 隣にいると湯上りで上昇している体温が俺にも伝わってきそうだった。

 なんだか湯上りの女性とか、女性のうなじとかに対して特別な嗜好を抱く男の気持ちが、分かった気がする。

「八幡は、姿勢がいいな」

「そうですか?」

 八幡は座布団の上に綺麗な姿勢で正座している。

 浴衣で正座をすると……その、なんだ……太腿から背筋に掛けて、自然と布地が張り付くようになって……つまり、そういうわけだ。

「あれ、お前もう飲んじゃったのか、ってそんなわけないか」

 ビール瓶を手にしてやって来た誠司が正面で不思議そうに聞いて来た。

 正面にある脚付きのお膳に逆さまに置いてあるグラスを起こし、ビールを勢いよく注いだ。

「顔が赤いぞ、のぼせたのなら冷たいビールで冷やせよ」

「俺は酒は飲めないって知ってるだろ」

 絶妙に泡が溢れない位置でビールを注ぐのを止めた誠司は、俺の顔を見て歯を見せて笑い、肩を叩く。

「酒のせいって事にすれば、多少はじろじろ見ても許されるし、赤い顔も誤魔化せるだろ」

「お前、どうしていつもいつも目敏いんだよ」

「睦月ちゃんはまだ二十歳だから烏龍茶でいいかな」

「ニ十歳は成人ですよ」

「じゃあビール飲む? 酔った勢いできょ「辻崎先輩! 烏龍茶を頂きます!」

 いつになく強い語調で誠司から烏龍茶を奪い、ビールの瓶も奪い、俺に向かって差し出した。

 俺は無言でお膳の上にあるグラスを見下ろす。そこには既にビールが注がれていた。

「あ、あれ、そういえば」

 瓶を手にしたまま固まっている八幡の姿に失笑しながら、俺はグラスを手に取った。

 酒には滅法弱い方だが、八幡が折角注いでくれるというのだ、断る理由などない。

「あ」

 ビールの苦味を感じる暇も無く、直接咽喉に放り込むように一気に煽る。

 空になったグラスを突き付けると八幡ははにかみながら、静かにビールを注いでくれた。

「一気飲みは駄目ですよ」

 膳を挟んだ正面には誠司に呼び寄せられた相田が笑いを堪えながらカメラのレンズを俺に向けている。

 小さく「ごめんね」と言いながらも、シャッターを切る指の動きには迷いが無い。

「いやー恭護くん、まだ乾杯もしていないのに張り切り過ぎじゃないかね」

「うるさい」

 早くも酔いが回り始めたのか、顔が熱い。

 何処からグラスをもう一つ持って来た誠司は、烏龍茶を注いで俺のお膳に置く。

「酔い潰れて睦月ちゃんに介抱して貰う作戦は悪くないと思うが、あまり無茶するなよ」

「おい待て、そんな作戦知らないぞ」

 誠司は肩を揺らして笑いながら他の席へと移動して行く。

 周りの連中に次々とちょっかいを出す誠司を眺めながら、相田はスマホを取り出した。

「加治くん、メアド教えて」

「え?」

「写真送るから」

「あ、ああ、そういう事か」

 隣で「あ、そうか」と小さな呟きが聞こえる。

 浴衣の帯に挟んであった携帯電話を開き、赤外線通信で相田と連絡先を交換する。

 俺の携帯電話は殆ど誠司、ひいては辻崎家とのホットラインと化していたので、第三者の連絡先が登録される事なんて久しぶりだ。

 アドレス帳に友人の名前が増えて行くというのは何とも感慨深い。

「加治先輩、わたしも」

 八幡のスマホが俺の視界に差し出される。

「そういえば連絡先の交換をしてなかったなって」

「え、え」

「いいですか?」

 水飲み鳥のようにコクコクと頷きながら、淡々と携帯電話を操作して八幡と連絡先を交換する。

 アドレス帳に新たに登録された「八幡睦月」の名を眺めているうちに、何だか自分が大きな事を一つ成し遂げたような気がして来た。

 事実、ハードルを一つ越えたようなものではないか。

 とうとう俺はやったのだ。

「辻崎先輩を通して連絡すると、色々なバイアスが掛かってしまいそうだし、これでいつでも連絡が取れますね」

 いつでも連絡が取れる。

 なんて素晴らしい響きの言葉なのだろう。

 アドレス帳に登録された八幡の情報には、電話番号もメールアドレスも表示されている。

 これで、その気になれば声を聞く事すら思いのままなのだ。

 そしてこれは携帯電話だから勿論携帯するのだ。

 つまり、何処にいても彼女と連絡をとる事が出来るのだ。

「よーし、飲み物も行き渡ったし、取り敢えず乾杯しようか」

 乾杯の挨拶を始める誠司の声。

 やがて宴会が始まり、喧騒に包まれた宴会場の中で俺は一人、感動を噛み締め続けた。

「俺、もう機種変しない」

「それはした方がいいと思いますけど。スマホならもっと色んな連絡手段がありますから」

「そうなのか?」

「はい、そうしたら今度はSNSの連絡先を交換しましょう」

「俺、帰ったらすぐ機種変する」

 現金な俺の態度に、八幡は口を押さえながら大笑いする。

 そうだ、帰ったらすぐにスマホにしよう。

 いや、その前にメールを送ってみようか。

 折角この携帯電話で連絡先を交換したのに、一度も使わないまま機種変というのも失礼かもしれない。

 いつもなら話題に窮するところだが、この旅行の事を話題にすればいい、それこそ「旅行お疲れ」とかでもいいだろう。

 そもそも、メールではなく電話をかけてみてもいいかもしれない。

 或いは今夜、思い切って寝る前にメールをしてみるか、しかしいきなりおやすみメールだなんて大胆ではないだろうか。



 思いがけず降って湧いた幸運に俺は浮かれていた。

 だから、この時の俺は予想もしていなかった。

 八幡と初めての交わした連絡が、あのような状況になるとは──。



     △▼△▼△▼△▼△▼



 頭の中に重りを置かれたような感覚。。

 現在、バスはとある観光地の駐車場に駐車されている。

 前日の宴会で飲んだ、たった二杯のビールで重い二日良いになってしまった俺は、一人車内に残って休んでいた。

 名目としては荷物番という事になっている。みんな知っているのだから名目も何もないと思うのだが。

「しかし、少しは整理しておいたらどうなんだ」

 運転席の真後ろの座席には、誠司が買い込んだ数々の土産が積み上がり塔を作り上げていた。

 親指で顎を撫でながら呆れ半分、感心半分でそれを見上げる。少し伸びた髭の感触が指先を刺激した。

 土産は大きさ、形状をまるで無視して積み上げられている為、ちょっとした前衛芸術のような奇跡的なバランスでそびえ立っていた。

 よくここまでの運転で崩れなかったものだ。

 見ているだけで不安になってくるので、一つずつ慎重に取り上げて整理する。

 箱は積み上げ、ビニール生地で密封されている物は立てて並べ、各土産が入っていた紙袋にまとめる。

 小さな震動音がする、俺の携帯電話が着信を告げていた。

 折り畳み式のそれを開くとメール受信画面が表示され、そこに何通かメールが溜まっていた。

 差出人は、現地で撮影した写真を一々送ってくれているのだ。

「これはやっぱり、返事をした方がいいんだよな」

「そりゃそうだろ」

「うわっ!?」

 いつの間に戻って来たのか、誠司が俺の肩越しにメールを覗き込んでいた。

 両手には大量の紙袋を持っており「これもよろしく」と押し付けられる。

「その紙袋はお前の両親宛てな、どうせ買ってないだろ」

「別に、わざわざ送るようなもんじゃないだろ」

「こういうのがないと、お前は連絡もしないだろ」

「連絡するような事も無いし」

「そんな事言って、いつから連絡していないんだ?」

 両親は公務員だ。

 俺の中学卒業を機に、遠方の都市へ転勤している。

 公務員としては引っ越しの多い業種なのだが、俺が産まれてからは引っ越しが必要な異動は拒否していた。

 子供時代に引っ越しが多いと人付き合いに影響が出るいう話を聞いたからだそうだ。

 引っ越ししていなくても人付き合いが下手で大変申し訳ない。

 やがて月日は流れ、晴れて俺が義務教育を終える中学卒業を機に、今まで拒否していた内示を受け入れる事にした。

 それを明かされた中三の夏に俺は少々荒れた。

 小・中学校をそれなりに楽しく過ごし、誠司のような気の置けない友人が出来たこの町を離れたくなかった。

 抵抗する俺と両親の仲は拗れ、特に父親との関係は一触即発の状態にまで悪化しており、まだ解決していない。

 両親を無視して地元の高校を勝手に受験した俺の態度に激怒した両親は、高校の合格発表の日に新天地へと引っ越して行った。

 さらに父親はマンションの賃貸契約を解約し、一人残ろうとしていた俺の住居を奪っていた。

 そこまですれば俺が泣き付いて来ると思ったのだろう。その頃の俺は経済力も生活能力も殆ど持ち合わせていなかったのだから。

 困った俺を助けてくれたのは誠司だった。正確には誠司の両親だった。

 俺の考えを尊重してくれた誠司の両親、司小父さんと佳織小母さんにより、俺は卒業式の日まで辻崎家に厄介になった。

 その裏で二人は俺の両親に連絡を取って説得してくれていた。

 結果として態度を軟化させた母親が、祖父母を経由する事で父親の目を誤魔化しつつ仕送りを始めてくれた。

 お蔭でなんとかこの町で生活している。今は仕送りに頼ってしまっているが、就職してゆくゆくは完全に自立したい。

 ……ともあれそれ以来、両親とは直接顔を合わせていない。

 母親からは季節が変わるごとに電話が掛かって来るが、父親とはもう何年も会話をしていなかった。

「当時のゴタゴタを知ってるから、俺も両親と仲良くしろとはちょっと言い難いけどさ、近況連絡くらいはしとけよ」

「祖父ちゃんと祖母ちゃんにはしてるから、母さんには伝わってると思う」

「きっと、お前自身からの連絡を待ってるよ」

 普段ふざけた事ばかり言ってる誠司だが、たまにこの話題になると妙に年上風を吹かせて俺を諭す。

 誠司の言う通りなのは分かる。俺だって両親の安否くらいは知りたいと思うからだ。

 その気持ちに素直になれないのは、やはりわだかまりを上手く飲み下せていないからだろう。

「お前の言いたい事は分かるよ……ちょっと考えてみる」

「そうだな、行動するかしないか、まずは選択肢に入れるところから始めろよ。お前の親父さんは確かにちょっと酷いが、別に好き好んでお前と喧嘩してるわけじゃないんだからな」

 その言葉には余裕がある。親子が本気で仲違いする事など無いと思っているからだろう。

 誠司の両親はとても大らかでいい人たちだ。そんな人たちに育てられたからこその考えなのだと思う。

 そう思えるような環境で育った誠司をとても羨ましく感じ、そんな環境を作り出している誠司の両親が俺の事を気に掛けてくれているのが嬉しかった。

「お前の両親には感謝してるよ、本当に。何かの形で恩返しをしたいと思ってる」

「みんなしてお前の事が好き過ぎるんだよ、親父もお袋もお前をって言ってるけど最近は冗談に聞こえないんだよな」

 中学卒業を機に、俺は元々住んでいたマンションに戻った(幸いにも同じ部屋を借りる事が出来た)。

 しかしマンションへは眠る為に帰るだけで、高校に入学してから一年度が終わる頃までは辻崎家に通い続けていた。

 料理に洗濯、それと何故か学生生活に関する相談と、長い間世話になった。

 二年度になる頃には佳織小母さんに最低限の家事を教え込まれ、今は何とか自活している。

 誠司の言葉ではないが、明らかに現在の俺という存在の形成について、辻崎家の影響は俺の両親よりも影響が大きい。

「もし妹がお前の事を好きだったら、まじで【加治恭護を婿養子にして辻崎恭護にしようプロジェクト】が発足するところだったぞ」

「佳澄は俺にとっても妹みたいなもんだから、それはさすがに」

「大体お前はになるんだもんな。いや、かな」

 語呂としては八幡恭護の方がいいような……。

「ってお前、まだそういうのは早いだろ!」

「まだ、ね……将来の展望として考えなくはないってところか」

「そういうお前はどうなんだよ」

「え、俺? 俺は、別に、そういうのって、興味は無い、わけでもない、かな」

 おそろしく挙動不審になった。

 そういえば誠司の浮ついた話は今まで聞いた事が無い。

 こいつくらいなら恋人の一人、いた事があってもおかしくないのだが、長い付き合いだがそういった気配を感じた事は全く無かった。

 胸の大きな子が好きだと度々言っているし、誠司の部屋にはその手の雑誌やBDがあるので、女好きではある事は間違いないと思うのだが。

 誠司は挙動を見張る俺から逃れるように運転席に座り込み、エンジンに火を入れた。

 バスのアイドリングが始まり、その震動でまだ崩していない土産の塔がゆっくりと揺れる。

 慌てて片づけを再開すると、程なくして部員たちがバスに戻って来た。

「加治先輩、写真見てくれました?」

 戻ってきた八幡が俺の前で立ち止まる。

 そうだ、メールの返事をすっかり忘れていた。

「返事出来なくて悪かった」

「いえ、わたしがいきなり送りましたから」

「折角送ってくれたのに失礼だろう。いつでも出来る誠司の相手なんかより優先すべきだった」

「最近、恭護の中で俺の優先度がぐんぐん下がってないかな」

 運転席にいる誠司がぼやき、八幡と一緒に戻って来てデジタルカメラで撮影した写真を誠司に見せていた相田が笑う。

 居心地のいい一時、このままずっと続けばいいのにと願う。

「いや……このままではなく、もう少し」

「もう少し、なんですか?」

 土産の整理を手伝い始めた八幡が俺の呟きに反応する。

 もう少し、八幡と仲良くなりたい。

 それだけではない、俺はもう少し人間関係を改善させる事に努力するべきだろう。

 居心地の良い空間をより良くする努力は怠るべきではない。

「もう少し、色々頑張らなくちゃいけない、とな」



     △▼△▼△▼△▼△▼



 帰路の峠道をバスが走る。

 既に時刻は二十時を回っており、日は完全に暮れていた。

 街灯、バス自身のライト、柔らかい月明かり、三つも光源があるのに見通しは不安だ。

 荷物整理を終えて中程の座席に移動した俺の前方には八幡と相田の姿しかない。

 残りの部員はみんな後方に固まっており、先ほどまでは賑やかだったが今は静かだ。

 そっと確認すると半数は眠っており、残りの半数も小声で会話をしているか、スマホを弄っている。

 この弛緩した空気が旅行の終わりを意識させた。

 みんなと一緒に騒いで楽しむのはまだまだ高いハードルであったが、それでも楽しい旅行だった。

 企画してくれた誠司にこっそりと感謝しておこうと思う。

 苦労も多いが楽しい日々を過ごせているのも誠司のお蔭だろう。

 昼間に、両親について誠司と話した事を思い出す。

 女々しいと思われるかもしれないが、こういう友人と疎遠になりたくないからこの町に残った、というのは責められるような事なのだろうか。

 心の底から信頼出来る友人など、長い人生といえどそうそう出来るものじゃないだろう。

 それを言えれば結果がもう少し違ったかもしれない。あの頃は互いに感情ばかりが先走って言いたい事をきちんと言えなかった。

 今なら頭も冷えている。折角出来た縁を守りたい気持ちを理解してくれているのだろうか。

 物理的な距離が出来、時間も経った事で、もう一度話をしてみるべきだろうか。

 話をするとまた拗れるかもしれないからメールで伝えてみるのもいいかもしれない。

 それとなく促してくれた誠司にも一言、言っておいた方がいいだろう。

 そう思って腰を浮かせた、その時だった。



 強い光がバスを正面から貫いた。



「──危ないっ!」

 運転席から悲鳴のような声、バスが大きく左に振られる。

 腰を浮かせていたところでバランスを崩した俺は横に倒れかけ、慌てて背もたれを掴んで踏み止まる。

 フロントガラスの向こうには、左向きのカーブから反対車線を越えて飛び出して来るトラックの姿があった。

 後ろに積んでいる大きな二つのコンテナが弾んでいた、固定が緩んだせいでバランスを崩してしまったのだ。

 崖に落ちまいとハンドルを切っているのか、トラックは蛇行しながら吸い寄せられるようにバスに向かって来る。

「左側に寄れ!」

 誠司の叫び声と共にバスが急加速した。

 このままでは正面衝突してしまう、それならば加速してトラックと岩壁の隙間に滑り込み、側面で受け止めようとしたのだろう。

 八幡と相田は慌てて席を立ち、座席の背もたれを手繰るように掴まりながら後部へ移動を始めていた。

「駄目だ、二人とも座っているんだ!」

 トラックの荷台からコンテナが一つ転がり落ちた。

 重量のバランスが変わったトラックが頭を振るように運転席をバスの側面に叩き付ける。

 押し込まれるように、バスは岩壁を保護する擁壁に乗り上げた。

 右側の窓ガラスが一斉に割れ、破片が車内に散らばる。

 トラックは衝突の反動でバスから離れたが、その際に何処かが引っ掛かったのか側面の外壁が大きく引き剥がされた。

 席を移動する為にシートベルトをしていなかった俺たちは車中で弄ばれるように跳ね回り、全身を強かに打ち据える。

 誠司が何か叫んでいた。

 同時に、トラックが落としたコンテナにバスが衝突する。

 一体何が詰まっているのか、バスが衝突してもコンテナは破壊出来なかった。

 制御を失ったバスはコンテナを巻き込みながら、峠のガードレールを突き破る。

 一瞬だけ浮いているような感覚、すぐにバスは崖下に広がる森目掛けて滑落を始めた。

 滑り落ちる途中で岩の突起を踏み、大きくバウンドしたバスは滑落から転落へとその挙動を変える。

 上下が逆転し、車内はミキサーにかけられたように掻き回された。

 電灯が点滅するように視界が明滅する、自分がいま何処を向いているのかも分からない。

「────!」

 地面と車体が激しく擦れる甲高い音で聴覚がどうにかなりそうな中、八幡の悲鳴が聞こえた。

 目まぐるしく変わる視界の中で一瞬、外に放り出されようとしている八幡と相田の姿が見えた。

 天井か床か、何処か分からないが足場になっていた場所を蹴り、視界が定まらない中で悲鳴が聞こえた方向に手を伸ばす。

 一瞬、宙を舞うような解放感の後、固くゴツゴツした物に全身が叩き付けられた。

 全身に力が入らない。意識が遠退いていく。それと共に痛覚も麻痺してきた。

 それなのに全身を何度も打ち付ける鈍い感覚だけは妙にはっきりと伝わっていた。。



 自分が今何処にいるのか、自分が今どうなっているのか。

 それすら分からないまま、俺の意識は途切れた。

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