第22話 仮面の下

「メリーナ、メリーナ、大丈夫か? しっかりしろ」

 メリーナは、頬を軽くはたかれたことに気づいた。

「ああ……、ここは?」

 全身をつつんでいた柔らかな霧のようなものが溶けていくのをメリーナは感じた。

 長く感じていた時間は、実際にはわずかだったようで、船室からは音楽や笑い声がまだ聞こえる。メリーナは首をふった。

「おどろいたぞ。いきなり海へ身を投げようとするから必死に押さえたのだ。そうしたら気をうしなって……どうしたのだ? 夢でも見ていたのか?」

「夢? ああ、そう、夢なのだわ」

 いや、夢ではない。あれは、かつて実際にあった出来事なのだ、とメリーナの直観は告げる。

 リオルネルはメリーナをひきずるようにして、木の椅子につれもどし座らせた。

「まったく、あなたには、はらはらされどおしだ、メリーナ」

 今度はまた〝あなた〟と呼ばれた。

 言葉づかいが変わるたびにリオルネルの雰囲気が変わっていくようだ。そして、あらためて名前を呼ばれメリーナは、さらに鋭くなった直観にひきずられてたずねた。

「あなた……誰? あなたとは、前に会ったことがあるわ」

「今さら何を言う? わたしはリオルネル=バドルだ」

「仮面をとって、素顔を見せてちょうだい」

「仮面の下には醜い傷があるのだ。びっくりするぞ」

 メリーナは首をふった。もう、はぐらかされたり、真実から遠ざけられたりするのは嫌だった。

 しばしの沈黙の後、リオルネルは首をすくめた。

「……仕方ないな。どのみち、ずっと隠しとおせるとは思わなかったが」

 リオルネルは鷹の仮面を取った。

 月星が、彼の素顔を照らした。


「あなたは……」

 メリーナは目を見ひらいて相手を凝視した。

 ほっそりとした顔にすっきりと通った鼻梁、白い肌、そして……暗灰色の双眼。冬の夜空色の瞳……。

「どうせ、わたしの名前など覚えていないだろう、お嬢さん?」

 自嘲のまじった苦笑に、メリーナは声を高くした。

「忘れるものですか! あなたは……たしか、あなたは、小隊長の、エルドラス……だったかしら?」

 メリーナは必死に記憶をさぐった。あまりにも様々なことがあったが、その名は屋敷を出るときの、あの胸を裂くような痛みとともに心に刻みこんである。

「地位はしっかりと覚えていてくれたようだな。エルドラス=アリディアス。あなたに、いつか復讐されると脅かされた、あのときの下っ端軍人だ」

 メリーナはまじまじと月下にエルドラスを見つめた。

 何故もっと早く気が付かなかったのだろう。

 自分の迂闊さに唇をかむ。顔は見えなくとも、声は……似ていたはずだ。その疑問に彼は苦笑しながら答えた。

「あなたと話す前には薬草をかんで、声を変えるようにしていのだ」

「ど、どうしてリオルネル=バドルと名乗ってわたしを買ったの?」 

「本物のバドルに頼まれたのだ」

「わ、わけがわからないわ! 説明して!」

 毛をさかだてた高貴な雌猫のようにいきりたつメリーナに、リオルネル=バドルであったエルドラスはため息をついた。

「正直言うと、理由は私だってわからない」

(わからないわけがないでしょ!)

 怒鳴りつけたくなるのをメリーナはこらえた。

 だれも彼もがメリーナをだましている。そんな気がして仕方ないのだ。

 運命によって翻弄されつづけ、真実やさまざまな事実から遠ざけられ、何も知らされず、周囲にいいようにされている自分が情けない気がする。

「本当にわからないのだ。私は、バドル家とは親戚でね、早くに両親を亡くしたため幼児のころにバドル家にひきとられ、そこで養育された。学舎に入ってからもバドル家からは援助してもらって、そのおかげで軍人になれたのだ。あなたから見たら小隊の隊長など歯牙にもかけないほど低い地位だが、それでも平民がその地位を得ようとすれば、たいへんな努力がいるものなのだよ」

「そ、それじゃ、本当のバドル領主という人はどこにいるの? その人は、どうしてわたしを買ったの?」 

「買った、なんて言い方はやめてほしい」

 エルドラスは黒い眉をしかめた。 

「本当のバドル家当主は理由があって人前に顔を出せないのだ。そのため、どうしても外に出るときは、わたしがバドル家の当主のふりをしていたのだ。いわば、影武者だな」

 メリーナはますます混乱してきた。

「本当のバドル家当主という方に会いたいわ。会って、理由を聞きたいの。どうしてわたしを買った……引き取ってくれたのか」

「訊いてどうする?」

 思案げにエルドラスが訊ねた。

 メリーナのなかで何かが炸裂した。

 理由は知らないといいながら、エルドラスは何か知っているはずだ。それなのに自分を偽ろうとする。

「真実が知りたいだけよ! もう嘘や偽りでごまかされるのが嫌なの! お願い、会わせて! バドル家の当主に会わせてちょうだい!」

「……もう会っている」

「え?」  

「君は、すでに本物のバドル家当主、前国王の庶子、世間からは魔女と呼ばれたジャスミンの方の子と会っているはずだ」

 メリーナは黒い瞳をまたたかせた。いったい誰のことなのか、皆目見当つかない。

「そんな……誰なの? いつ、わたしがバドル家当主と会ったというの?」

「正確に言うと、女当主だが」

 息を飲んだメリーナの背後から、月夜に凛とひびく声が聞こえた。

「エルドラス、そのつづきは、わたしが話すわ」

 メリーナは今宵何度目か、目をまるくした。

 そこにいたのは、吟遊詩人のエレだった。

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