第21話 千尋の波のはてで
一瞬、たしかに自分の身体は宙に浮いた、とメリーナは思った。
だが、その身体をつつむのは冷たい海水ではなく、白い靄のようなものだった。
(え? なに、なんなの、これは?)
霧か靄が視界いっぱいに見える。
やがて物音が聞こえてきた。
はげしい音。水音もあれば、かたい物が割れるような音もある。
それに混じって人声も。怒鳴り声のような、叫び声のような。
(まさか……これって……?)
視界をおおっていた白いものが消えると、そこに信じられない場面が展開した。
凄まじい
海をおおいつくすほどのあまたの船、それも戦闘用の
(ま、まさか……)
青銅の鎧を身につけた男たちが、海上をふたつに分けて死力を尽くして戦っているのだ。
メリーナから向かって左側の船がバリヤーン勢であることはすぐ知れた。そして敵方は……。メリーナは必死に目を凝らして、敵の船の軍旗や船の装飾を見た。
上半身は馬、下半身は魚。伝説の神獣を象徴とするその国は、タルバスだ。まさか……。
(バルバド海戦! まさか、あの歴史で習ったバルバドの戦? わたしのお祖父様が活躍なされ武勲をたてられたという、あの……。でも、あれはずっと、ずっと昔のことのはず)
メリーナはおろか、父太守だとて生まれていなかった大昔のことのはずだ。
海上の覇権を争ってバリヤーンとタルバスが戦い、最初は圧倒的に不利だと言われたバリヤーン海軍が、ほとんどバリヤーン本国の目前まで追いつめられ、祖国が侵略を受けそうになった、そのぎりぎりで踏みとどまり、相手を打ち負かして勝利を得たという、あの戦。
(夢だわ……わたしは、夢を見ているのだわ)
メリーナは年頃の娘のことで戦物語にはあまり興味がないが、それでも自分の祖父に当たる人が国を
(その戦でお
父は少年のように頬を上気させ、熱く昔語りをしたものだ。だが父太守だとてその当時まだ生まれていなかったのだから吟遊詩人や歴史家、
そして、後年、その救国の英雄の子という誇りが、ゆがんだ特権意識となって父をあやまった方向へ押しやってしまったようだが……。
だが、勿論メリーナも父からその話を聞くたびに、顔もおぼえていない祖父を誇らしく思ったものだ。だが、これがその戦なのだろうか。本当に。
ぶつかりあう巨船と巨船。色鮮やかな模様をほどこしたバリヤーンの船頭と、馬の上半身をあしらったタルバスの船頭がぶつかりあい、青い海のうえで銀の火花を散らす。背後からそれぞれの兵が敵をねらって弓を打つ。赤い霧のような
歴史書では、この日たがいの軍はそれぞれ数千人にものぼる犠牲者を
(お祖父様はどこにいらっしゃるのかしら?)
不思議なことに、メリーナは自分の身体というものをほとんど意識できなかった。まるで肉体を持たない魂のようになって、海のうえをただよっているようだ。
(もしかしたら、わたしは死んで、魂が過去の世界へまぎれこんでしまったのかも)
奇妙なほど冷静にそんなことを考えていた。
そして自分の祖父となる人、ダリオ=サヌバをさがした。両親たちから聞いた話では、ダリオ=サヌバは、もとはバリヤーンの海上貿易をまとめる商館の次男で、裕福ではあったが地位は低かったという。
若いころから武芸に秀で、みずから志願して海軍に入り、そこで頭角をあらわし、実家のゆたかな財力の影響もあって、将軍にまでのし上がり、この海戦で一躍勇名を馳せたという。
武勲をみとめられ、大貴族である太守の娘を妻とすることを当時の国王からすすめられた。いくら裕福とはいえ、平民が貴族の家に婿入りすることはめったにない。それほどに国王の信頼があつかった証拠であり、世間もそれをみとめ祝福した。彼は戦の勝利によって栄光、名誉、そして地位や美女をも得たのだ。まさしくその時代の寵児といってもいい。
メリーナがそんなことを考えている間にも、戦はますます激しくなり、悲鳴や怒声が痛いほど、魂となったメリーナに突き刺さる。
あちこちで
タルバスの船はバリヤーンの船にくらべると強大で、ちょうど
衝角とは軍船が敵の船に体当たりして破損をあたえる目的で作られた、いわば船自体が持つ武器だが、青銅のそれはすさまじい巨大な斧のようで、それらが容赦なくバリヤーン船にぶつかり、船腹や櫂をむざんに破壊していく。
見ていて恐ろしくてたまらないが、相変わらずメリーナの身体はふわふわと宙に浮いたような感じで、まるで泡のようにただよっている。
そのうち、メリーナはバリヤーンの戦士たちの群のなかに、高価そうな鎧をまとった男を見つけた。
(もしかして……)
身体が自然にそちらへと引き寄せられていくように、その男の頭上にむかった。
ぬけがらのような身体、もしくは魂が宙をさまよい、ひとつの船におりていく。
(わたしのお祖父様って、どんな方なのかしら?)
肖像画で見た祖父は、すでにかなりの高齢でいかめしい黒髭の御仁だった。この戦のころ、たしか二十……六か七だとメリーナは聞いている。
「メドバ将軍、危ない、お下がりを」
メドバ。たしか祖父の旧姓だ。
「ええい、うるさい、邪魔するな!」
「いけません、お下がりを」
部下の制止をふりきり、青銅の胸当てを身に着けている長身の男が剣をぬいた。
「お止めを!」
「出あえ! ドノス!」
タルバス海軍の総大将の名を呼び、ダリオ=メドバ将軍、後の十八代サヌバ太守、メリーナの祖父は果敢に、そして大胆に相手方の船にのりこもうとする。あわてて背後から命知らずの忠臣たちが後を追う。
最初はおどろいた敵兵たちが弓をかまえるのを制して、敵将、ドノスがすすみ出た。
ダリオより頭ひとつ分背が高そうな、黒い甲冑に身をかためたドノスが剣をかざした。
ダリオは躊躇することなく敵の船上をすすむ。
彼につづく部下たちと、敵兵たちがたがいに無言のまま剣で威嚇しあい、そこにちいさな静寂が生まれた。
当時のタルバスは獰猛な軍事国家で、武器はバリヤーンのものより強固ですぐれていたという。メリーナはおろおろしながら二戦士の頭上でなりゆきを見守った。
それは、遠い、五十年以上むかしの出来事のはずだ。たしか、敵兵ドノスはこの日の戦で死ぬことになっている。祖父は勝利して無事のはずだが、それでもメリーナは心配で心細さを感じた。
「敵将、ドノスだな?」
いかにも、というふうに黒い甲がうなずく。
ダリオのみならず、バリヤーン兵は軽装なのだ。それだけ見ても両国の武力の差が思い知らされる。
(でも、それでも、お祖父様は、この戦を勝利にみちびかれて、国を守ったはず)
対峙するふたりからたちのぼる殺気を、魂となって浮遊している今のメリーナは強烈に感じとることができた。
黒い炎がふたりの全身からあふれ出している。
それは……、男だったら、少年だったら、勇ましい、素晴らしいと感じて感動したかもしれないが、少女のメリーナには、ひたすらおぞましく不気味で恐ろしいものだった。
人と人とが殺し合おうとするとき、これほど強烈な負の力をかもし出すのだということを、メリーナは痛烈に感じた。
しかも、一方は自分の祖父なのだ。正直、見たくなかった。
(わたし、どうしてこんなものが見えるのかしら?)
今さらながらそんな疑問が胸にわく。
そういえば、はなれていてもロルカ武相たちの会話が聞こえたりした。あれも今思えば不思議なことだ。
(お母様のおっしゃっていた不思議な力というのは、これのことなのかしら?)
巫女であった祖母の血を受け継いだメリーナには神秘の力がそなわっているという母の、今となっては遺言のような言葉が、メリーナの耳によみがえる。だが、今はそれ以上そのことを気にしている余裕がなかった。
将同士の戦いがはじまった。
剣が打ちあう破壊の男がひびく。火花が飛びちる。どちらかが傷を負ったらしく、
いったいどれほど続いたろう。
メリーナは、祖父ダリオの優勢を感じた。ここにきて、たがいの装備の軽重が意味を出してきたのだ。身軽な装いが有利となった。ダリオの動きは隙がなく機敏なのに対し、相手の動きはだんだん遅くなってきている。
敵将ドノスの足がゆらいだ。
「死ね!」
好機を察したダリオが、とどめを指そうとした瞬間、ドノスの背後から彼の部下がダリオめがけて切りかかってきた。
卑怯だぞ! 総大将同士の対決を静観していたバリヤーン兵のだれかが怒鳴ったのを契機に、両兵が剣をかまえて乱戦となった。
ダリオは混戦の中、目当てのドノスを見うしなわなかった。あらためて次の太刀を彼の大きな身体に打ちつける。
冑の間を、これはみごとに貫いた。
(きゃっ……)
メリーナは声にならない悲鳴をあげていた。
「ううっ!」
「敵将、ドノスを討ち取ったぞ!」
バリヤーン兵が気負いたつ。
この瞬間、勝負は決まった。
(早く、早く終わって)
こんな戦は一刻もはやく終わってほしい。
人が殺し合う様子など見たくない。そう必死に祈っていたメリーナは、船上に思いもよらないものを見つけ、気をひかれた。
「いやぁぁぁぁ! ディエ、ディエ! ディエ=ドノス!」
敵将の名を叫びながら船室から飛び出してきたのは、ほっそりとした戦士だった。
よく見ると、細身の甲冑を身につけているが、その姿態からすぐ女性だとメリーナはさとった。
身も世もなく泣きさけぶ彼女は頬当てを取り、ドノスのそばにひざまずき、今にも息絶えようとしている彼に必死に何かささやいている。
二言、三言、虫の息のドノスは彼女と最後の会話をすると、うごかなくなった。
音に聞こえた勇将のあっけない最期だった。
メリーナは呆然と下界の出来事を見つづけた。
(あの人は……たしか……)
メリーナの魂、意識は彼女へとちかづいた。
燃えるような赤毛、海を映したようなエメラルドの碧眼、すらりとした長身の体躯、女ながらに幾多の海戦に出陣し、円海をさわがせた伝説の女貴族にして女戦士。メリーナは歴史書から得た知識や、吟遊詩人たちから聞いた物語を思い出そうとしてみた。
タルバス貴族の娘でありタルバス海軍副将軍の地位を持つ……名は、たしか……。
「ベルタ様、危ない!」
タルバス兵のさけび声がひびいた。そうだ、名はベルタ。ベルタ=ボルドス副将軍。副将軍という地位名よりも、敬意と揶揄をこめて女将軍と呼ばれることがおおいが。
炎のベルタ、赤毛の人食い人魚、タルバスの魔女、ベルタだ。このとき確か十七……八ぐらいだったとか。
「ディエの仇!」
細い剣で勇敢にも彼女はダリオにむかっていったが、勝負は火を見るよりあきらかで、三度も剣を交えないうちにベルタは膝をついた。
いくら女戦士といっても、しょせん貴族の令嬢である。兵士たちに命令し、指揮を取ることはあっても、みずからが剣をふるう実戦の経験などはほとんどなかったにちがいない。そもそもダリオを殺そうとするつもりはなく、ダリオによって殺されようとしたのだろう。
メリーナには彼女の気持ちがわかった。ここでドノスとともに死にたかったのだ。
憎いタルバスの女戦士ではあるが、吟遊詩人たちが彼女について歌うとき、そこにはどこかしら哀切な響きがあった。
歌物語では、彼女はドノス将軍とは恋仲だったというが、ドノスは故郷に妻子がいたというから、愛人、情婦ということになるのだろう。バリヤーンの語り手たちは彼女を
(そうだわ。炎のベルタは戦についてきて、そこで恋人の死を見ることになって……そして……敵将、つまりお祖父様の捕虜となるのだわ。それから……)
捕虜として鎖につながれ凱旋軍によって街を引きまわされ、バリヤーン王へ奉げられるのだ。戦利品のひとつとして。それから、どうなったか――。
田舎にちいさな屋敷をあたえられ静かに暮らしたとか、牢獄で処刑されたとか、病気で亡くなったとか、いろいろ言われているが、はっきりとした足跡が語られないのは、時の政府が彼女にかんして箝口令を敷いたからだという。メリーナの知識はそれまでだ。
海戦にかんしては饒舌な家庭教師も、ベルタにかんしてはあまり詳しく教えてくれず、屋敷にまねかれる吟遊詩人や歌い手たちも、炎のベルタの物語はあまり口にしなかった。サヌバ太守家では、一種の禁忌になっていたのだ。今ならその事情がよくわかる。
ベルタは、戦の勝利者として華々しい栄光を得た祖父の、いわば〝犠牲者〟だったからだ。彼女は勝利の影にある敗北の屈辱と痛み、悲惨の象徴のような存在だったからだ。
戦の優劣はすでにあきらかになり、船の甲板にはタルバス兵の死骸が増えつづけていった。戦が長びくにつれて重い装備が負担になっていったのは、下級の兵士たちにも共通していた。少しでもよろめいたり、転んだりしようものなら、もはや立つこともできず、タルバス兵は敏捷なバリヤーン兵たちの手にかかっていった。そこかしこで阿鼻叫喚の地獄絵がえがかれていく。
天空はるかかなたでは、運命の女神メグルヌスが彼女の金髪の髪とおなじく黄金色の
もはや夕暮れかと思うほどにあたり一面に
海の神ラミダスの耳にも、その勝利の雄叫びはしっかりととどいたろう。戦は、終わったのだ。
史上名高いバルバド海戦は、あまたの犠牲者を出し終息し、これ以降、海上の覇権はおおきくバリヤーンがにぎることになった。小国バリヤーンは、この海戦から一躍、円海諸国の交易の
メリーナは悲しくなったが、なす術はない。生者も死者もタルバス兵たちは身体をまさぐられ、護符の貴石などの貴重品はすべて戦利品として、バリヤーンの下級兵たちの懐にうばわれていく。それらはタルバス兵らの恋人や妻が愛をこめて贈ったものだったろう。敗者の血にまみれたそれらは、今度は勝利の記念品としてバリヤーン兵たちの妻や恋人たちの胸でかがやくのかもしれない。それをメリーナはただ見ていた。吟遊詩人たちの語らない小さな歴史がそこにあった。
やがて鎧甲をはぎとった死骸があつめられ、一番被害のおおきかった一艘の船に積みかさねられると、そこへ油の樽が乗せられた。距離があいてから弓の名手が火矢をはなつ。あとの弔いは海神ラミダスの妻、海の女神ラミリアにまかせるのだ。海の戦では、戦うときはラミダスの守護をねがい、終わったあとはラミリアの慰撫をもとめるという慣例にしたがって。
死人をおくる船は一艘だけでは足らず、二つ目、三つ目とつづく。こうして、男たちの戦は終わっていくのだ。
だが、この後、愛する者の死を知った妻や恋人たちは、敵味方問わず喪失の苦しみの戦いをむかえねばならない。
そしてベルタも。彼女のさらにむごい戦いはこの後もつづく。縄目の恥辱を受け、敵国人の蔑視に耐え、さらには……王宮の
バリヤーン宮殿で彼女はどんな目に合わせられるのだろう。メリーナは
愛する者をうしない、地位も財もうばわれ、屈辱の痛みに耐える日々の辛さを、メリーナは身を切られるほどに深く味わっている。
ベルタ、炎のベルタ、赤い魔女、海からやってきた魔女
けっして泣かない女戦士 おまえの弔いか 今日も海が泣いている
雨の日に、そんな
メリーナの胸に、五十年以上もの昔に生きて、戦い、人を愛し、その愛ゆえにまた戦い、故郷をうしない、異国の地でむなしくなった一人の女戦士への、同情と共感が、切ないほどに沸きあがってきた。本当は一度も会ったことがないはずなのだが、この海のうえの奇跡によって、メリーナは彼女の慟哭と叫びをたしかに耳にした。
あきらめきったように目をとじ、弔い船を見おくるベルタのまぶたから白く涙が頬をつたい、日焼けした
(ああ……でも、そうやってバリヤーンやタルバスで歴史物語として語られるまでに……、あの人はどれだけ辛い、厭な想いをしなければならないのかしら……)
伝説になる女勇士が、これから死ぬまでにたどるであろう苦痛の時間を思って、メリーナの魂はふるえた。
やがて、燃えゆく
(ああ……まただわ)
メリーナの意識はうすれていく。
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