第16話 白昼夢

 〈黒鷹屋敷〉の生活は、メリーナにとって、慣れてくるとそう悪いものではなかった。

 朝はセラミスとともにまだ薄暗いうちに起き、井戸水を汲んだり、掃除をしたり、料理をしたりと大変だったが、それもセラミスやダナ老女に教えてもらったり助けてもらったりしてどうにかこなした。ダナという老女はいたって気さくで親切で、メリーナの境遇に深く同情してくれ、なるべくメリーナにはつらい仕事をさせないように気を遣ってくれているのがわかる。

 最初、どう接していいのかわからずとまどっていたイルマも、三日もたつと礼儀を守りつつも自然に接するようになった。ダナもイルマもメリーナのことをセラミスにならって「お嬢様」と呼んで、親しみを見せつつも敬意をはらってくれている。あの夜、太守家へ押し込んできた兵たちの無礼な態度とくらべると、ふたりの素朴ながらも優しい態度にメリーナの凍てついていた心はだいぶなごんできた。

(それに……あの人もそんなに悪い人じゃないかも)

 屋敷にきて三日目、メリーナは熱をだして寝こんでこしまった。

 おそらく今まで張りつめていた心の緊張がほどけたことが、身体にあらわれたのだろう。

 熱をだしたメリーナをセラミスとダナが必死に看病してくれた。

「これを飲むといいよ」

 ダナが煎じてくれた薬草入りのお茶を飲むと、ぐっすり眠ってしまい、その翌日にはどうにか起き上がることができた。

「イルマが樹海の奥まで行って、薬草をとってきてくれたんですよ」

 セラミスはうれしそうにそう語っていたが、体調が完全にもどってからイルマに礼を言いにいくと、イルマは照れたように笑った。

「薬草の場所はリオルネル様しか知らなくて、ごいっしょに行ってくださったんですよ」

 その言葉はかなりメリーナを驚かせたが、どうにか顔には出さないようにした。

(大金を出して買った召使を死なせるのが惜しかったのかしら?)

 リオルネルにも礼を言うべきかどうか悩んだが、そう思うことであえて何も言いに行かなかった。あとになって、我ながら意地っぱりだとさすがにメリーナもしばらく反省した。

 世間というものがいったん落伍した人間にどれだけ冷酷か、メリーナは身に染みて知らされている。だがこの屋敷の人間は、亡家の遺児を気遣い、じゅうぶんに礼節を守ってくれている。リオルネルの真意はいまのところまだわからないが、少なくともダナやイルマは人なみ以上の情を持っている。

 地位をうしなっても、財も名誉をなくしても、それでも親切にしてくれる人間がいるという事実、それもセラミスやイルマ、ダナのように身分低い人々のなかに、思いもよらず人なみ以上の仁徳をもちあわせた人がいるという事実は、メリーナのかたくなになっていた心をかなりなごませてくれたのだ。

 とはいうものの、それは氷塊のうわべだけがすこし溶けた程度で、相変わらず心の底は凍てついたままだが。

(そうよ……やっぱり、あの人は、まだ、わからないわ)

 あの人、リオルネル=バドルがなぜ自分を買ったのか、その理由が皆目見当つかない。

 今のところメリーナは愛人にしようなどという気はなさそうで、それだけは心底ありがたかったが、大金を出してこのままただの召使として置いておくとは思われない。

 メリーナは無花果いちぢくの木がつづく裏庭を散歩しながら今日も青い空を見上げ、ため息をこぼした。

 日差しをふせごうと腕をあげると、生成り色の袖から伸びる肌がやや日に焼けているのに気付く。庭掃除をこなしているうちに陽に当たることがおおくなったせいだ。この屋敷に来てから月はすでに幾度かめぐった。

 バリヤーンは常夏の国。空はつねに明るく晴れわたり、花は咲き競い、小鳥は歌う。人々は陽気で明るく、いつも笑みを絶やさない……異国の詩人が楽園とうたう夢の王国。

(いいえ、そんなことがあるものですか)

 かつては宴の席で笑いなが聞いた歌い手のを、今のメリーナはほろ苦く思い出す。

(バリヤーンにだって雨の日もあれば、曇りの日もあるわ。花は時が過ぎれば枯れるし、道ばたに小鳥の死骸が転がっているときだってあるはず。人も……貴族だって平民だって、不幸な人も苦労している人も大勢いるわ)

 無念の死を遂げたメリーナの両親、リオルネルの母ジャスミンのように。

 今ではメリーナもジャスミンは無罪だったのではないかと思っている。メリーナの父がそうであったように。

 夢の楽園とうたわれるこの国の、その楽園の最奥の秘園である後宮、豪華な白亜の殿舎でんしゃのなか、美衣びいや宝玉につつまれた罪のない貴婦人が陰謀にまきこまれ、汚名を着せられ、のちに非業の最期をとげる悲劇が起こったのだ。

 この、美しい青空の下、神々が支配し、見下ろすこの地上で。

 そう思うと、メリーナの胸に、見たこともないその噂の佳人かじんに、しみじみと同情心がわいてきた。その薄幸の女性に亡母の面影がかさなるのだ。

(お気の毒なジャスミンのお方。可哀想なお母様、お父様、そしてわたし……)

 そんなことを考えていると、ふと庭木のむこうに人影が見えた。

 

 女人のようだ。メリーナは目を凝らした。

 銀紗のヴェールをかぶり、白い衣をまとっているほっそろりとした身体つきは、彼女が召使や近在の村の女でないことをしめしている。そのすらりとした後ろ姿は貴族の女性だ。すくなくとも、宮殿か、相当の大家のかなり高位の侍女、もしくは侍女勤めをしたことのある女人だ。〈黒鷹屋敷〉では見たことがないはずだ。

 メリーナは好奇心にかられて皮沓サンダルをすすめた。

 その女人もまた静かに庭の奥へとすすむ。

 奥の庭はほとんど廃園となっており、まばらな庭木や、かつて離れでもあったのか、石柱だけが幾本かそのままのこっている。小さな泉もあり、それが陽光をうけて白銀の光をはなっている。あたりには白い花がひっそりと咲いていた。 

 やわらかな日差しのもと、その様子はどこか御伽噺おとぎばなしめいていて、メリーナは芝居の一場面を見ているような奇妙な気分になってきて、その女性に声をかけるのも忘れていた。

 古神殿にたたずむ巫女――。そんな幻想的な光景だった。メリーナはなにかに魅入られたように、突っ立って彼女を見ていた。

 なにか腕に持っているようだ。

(え? ……まさか、赤ちゃん?)

 赤子なのか、白布につつんだ〝物〟を、その女性はそっと地面に下ろした。

 布につつまれたその物は、本当に赤子なのかどうかわからないが、様子を見ていたいメリーナの喉はひりついた。

 女性はその白い物体を、土に埋めはじめたのだ。おそらく、土はあらかじめ掘られていたのだろう、その物を埋めやすいように。

 メリーナはもはや黙って見ておれず、勇を鼓して声をかけようとした。

(あの……何をしているの? あなたは、誰なのですか?)

 泉の水面で、光がはじけた。


(え? あら……)

 庭には誰もいなかった。

 メリーナは呆然として周囲を見まわしたが、ついさっきまで腰をおろして土を掘っていた女の姿はどこにもない。

「そんな、まさか」

 泉の近くまで行ってみたが、どちらを向いても人影は見えない。足元を見ると、白いちいさな花が咲いている。茉莉花、ジャスミンだ。

 メリーナの頭に、例の噂がよみがえった。あの、ジャスミンの方にまつわる陰謀、悲劇。ここは、考えてみればジャスミンの方の屋敷であり、嘘か本当かわからないが、ジャスミンの方が自害したといういわくのある屋敷だったのだ。そして、まさにそのジャスミンの方のことを考えていたときに、あの幻のような人影を見たのだ。

「まさか、わたし……」

 まさか、幽霊を見たのだろうか。思い出せば、噂では、ジャスミンの方は小動物の死骸を呪術にもちいていたいという。やはり、あれが……そうだったのだろうか?

 メリーナは背が寒くなった。


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