第17話 絹と宝石
「お嬢様、お嬢様!」
小走りに奥の庭から逃げるように屋敷近くにもどってきたメリーナの耳に、セラミスのにぎやかな声がひびいてきた。
「どうしたの、セラミス? そんなにあわてて」
本当はあわてていたのはメリーナの方だが、セラミスはありがたいことに気づいていない。彼女の頬は少し赤くなっている。
「あの方が……、領主様がお嬢様のために商人を呼んだのですよ」
意味がわからずとまどっているメリーナの
「とにかく来てくださいまし」
つれていかれたのは屋敷の東端の部屋で、扉をあけたとたん、メリーナはセラミスが興奮している理由がわかった。
「見てください! すごいでしょう?」
おもたそうな緞子がならび、緋色の
衣だけではなく、同じく色とりどりの
顎鬚を生やした商人の中年男が、床に膝をつき裾を垂らしてメリーナに礼をつくす。
「ね、ね、お嬢様! どれがよろしいですか? リオルネル様が、どれでも好きな物を選んでいいと」
今のメリーナは、ダナが出してきてくれた、清潔だが質素な生成り色の衣をまとっているだけで、装飾品はもちろん髪飾りひとつ身につけていない。長い黒髪は仕事をしやすいように後ろで束ねてあるだけだ。自分の身なりに気を使う余裕などなかったし、そもそも身を飾るものなど、すべて奪われて何ひとつ残されていなかったのだ。
メリーナは一瞬、涙ぐみそうになった。
目の前にならぶ
(……いけないわ。お父様とお母様が亡くなられて、まだそんなにたっていないのに)
親族、特に親を亡くしたときは、月が六度めぐるまでは喪にふくす習慣が、バリヤーンにはある。戒律のきびしい他国では一年以上、遺族の女人は黒い喪服しか着れないという話もめずらしくない。メリーナは、ついはずんでしまう胸を必死におさえた。
「駄目よ……いただけないわ。わたしは……喪中の身なの」
断腸の想いでその言葉をつむいだとき、背後から冷たい声がひびいてきた。
「誰もそなたのために選べとは言っていない」
ずかずかと入ってきたのは、言わずと知れたリオルネル=バドルだった。
「さる女人に贈り物をしたいのだ。わたしは女の好みはさっぱりわからないから、そなたに選んでもらいたい」
「え? でも、お嬢様の物を、と」
セラミスがおどろいて声を出したが、リオルネルに睨まれてすぐ口を閉じた。
「そなたは私の召使だろう? これは主の命令だ。自分だったら欲しいと思うものを好きなだけ選ぶがいい。無論、それはすべてある人への贈り物だ」
メリーナは胸に錐をさしこまれたような痛みを必死におさえた。
(どうして傷つくのよ? この人に親切を期待するほうが愚かよ)
顔に感情をださないように努めながら、メリーナは言われたとおりに自分だったら欲しいと思う物をしぶしぶ指さした。
「その淡い紅色の衣。それと、その薔薇模様の
そうやって次々と選んでいきながら、メリーナはあることに気づいて、はたと動きを止めた。
(お金、足りるのかしら? リオルネルはあまりお金持ちじゃないと言っていたし)
この屋敷には居候を置いておく余裕はない、という言葉が耳によみがえった。メリーナは自分がすでに選んでしまっている、いかにも高価そうな品々を目のまえにして後悔の想いがわいてきた。
(どうしよう……これ、全部ちゃんとお金払えるのかしら? ちゃんと確認したほうがいいかしら? でも、そんなこと訊くのは失礼よね)
メリーナの一瞬にして落ち込んでしまった様子に、リオルネルも気づいたのだろう。
「どうしたのだ? もうそれでいいのか? 他のは気に入らないのか?」
「あの……」
思い悩んだものの、商人に聞こえないようにそっとメリーナが小声で訊ねた。
「あの……お金、足りますの?」
「くっ!」
覆面をかぶっていてもリオルネルが笑ったのがわかる。
黒衣を揺らして背を反らせて笑っているのだ。セラミスも商人もびっくりした顔をしている。
「い、いや失礼」
どうにか笑うのを止め、リオルネスは小声でメリーナにささやいた。
「私の懐の心配はしないでいいから、好きなものを選ぶといい。ほら、あのサフランをあしらった髪飾りなど、そなたに似合いそうだ」
リオルネルは、他の女性への贈り物だと言ったことも忘れて、メリーナに似合う髪飾りをすすめる。
メリーナは何故か気恥ずかしくなってうつむき、あわててすすめられた髪飾りを取った。
そんなメリーナの様子をセラミスも商人も微笑ましげに見ている。
午後の数刻が、またたく間に過ぎていく。
「今夜は出かけるから、準備をしておくがいい」
商人とセラミスを下がらせた室は、つい先ほどのあたたかな雰囲気が一瞬にして消えてしまったようになった。それはリオルネルがむっつりといつも以上に無口になってしまったせいだろう。
「出かけるって? どこへですか?」
メリーナは急に不安な心持ちになった。積まれた買い物の山が、宴の後の冷めた料理を前にしているように、突然つまらない物に思えてしまう。
「バリアだ」
リオルネルの声は冷たい。何か考えこんでいるようだ。
「そこへ、わたしは婚約者の女人を連れていく」
「え?」
許婚者がいたとはまったく知らなかった。メリーナは驚愕のあまり硬直してしまった。
「ちがう! ……いや、つまり、その婚約者としてあなたを連れていく」
メリーナは沈黙してしまった。
驚愕で思考が一瞬、停止してしまっているようだ。
「あ……、あの、わたし」
これは……そうなのだろうか? そういう意味なのだろうか?
(も、もしかしてリオルネルは、わたしに求婚しているの?)
メリーナは背がこわばるのを自覚した。まったく心の準備ができていない。
(そ、それにわたしには、ダルシスが)
ダルシスの、あの最後に見たときの悲痛な表情が胸にうかんで、メリーナの胸をゆさぶる。あのときの胸の痛みをメリーナは今もわすれていない。
「つまりだな! 婚約者のふりをして欲しいのだ。今夜の夜会には女人の相手が必要なのだ。偽名も用意してある。エレニアだ」
もどかしそうにリオルネルは口早になって説明した。
「エレニアというのは……わたしの許婚者だった遠縁の娘なのだが、その……
最後に主の特権を活かして横暴に命令してきたリオルネルに、メリーナは複雑ながらうなずいた。だが……心配になってきた。
メリーナ=サヌバがリオルネル=バドルに買われたことは噂になっているかもしれない。リオルネルが連れている女性はメリーナではないかと人々は見当をつけるだろう。
無神経な都人の針のような視線を想像して、今からメリーナは背が痛くなってきた。
メリーナの心配をさとったのか、リオルネルは念を押した。
「大丈夫だ。今夜の宴は小さいものだし、被衣をはおって仮面をつければ女人の顔など判別できない。エレニアは流行病にかかったときの後遺症で声が出なくなったことにしてあるから、無言でいればいい」
ふと……、気になったことをメリーナは口に出してみた。
「そのエレニア様のこと、好きでしたの?」
一瞬の沈黙。
メリーナは唇を噛んだ。
(馬鹿なことを訊いてしまったわ……)
赤い花毯の上を、木窓からさしこむ
天上でくりひろげられる悲恋物語をよそに、リオルネルは語る。
「……亡くなったときは……十三歳だったから……妹のように愛していた。いや、下手すれば娘かもしれない」
総じて早婚のこの時代、十三で嫁に行く者もなくはない。
「とにかく、今宵の宴の件、たのんだぞ」
気を取りなおしたように声をかたくして、リオルネルは室を去っていった。
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