第15話 黒鷹屋敷

 メリーナも興味気に窓から目をむけているのにセラミスは気づいた。

 黒鷹と人が呼ぶだけあって、鷹を思わせるように母屋となる屋敷の左右にちいさな造りの屋敷が黒い煉瓦をならべてたっている。田舎の城館らしくこぢんまりとした実用的な造りのようで、都でよく見るような装飾過多な出窓でまど露台バルコニーなどは見られない。鋲をうちつけた木製の扉は、主の帰参を察してあけられている。

「ご主人様、お帰りなさいまし」

 年若い使用人が駆けよってきて、御者をてつだって馬車の扉をあけた。声はまだ変声期をむかえるまえの少年のものだ。

「イルマ、今帰ったぞ。留守中、変わったことはなかったか?」

 扉がひらいた瞬間、セラミスは香辛料の臭いに気づいた。イルマという召使はついさきほどまで厨房で夕餉の支度をしていたのだろう。

「なにもございません。皆、元気です。……そちらの方は?」

 明るい胡桃くるみ色の髪の下から、碧の瞳がものめずしげにセラミスたちを見ている。セラミスはメリーナの身体がこわばっているのを感じた。

「メリーナ姫と、侍女のセラミスだ。今日からこの屋敷に住むことになった」

「ああ……、あの例の」

 それ以上なにも言わないで欲しい。

 セラミスはメリーナが傷つかないことを祈りながら先に下りると、メリーナの手をとった。一瞬、イルマが自分が手を伸ばすべきかどうか躊躇しているのがわかったが、今回はセラミスがする方がいいと判断したのだ。

 清潔な白麻の袖からのびてきた彼の日に焼けた健康そうな手は、しょざいなさそうに宙でゆれている。

 メリーナは使用人ごときにかける言葉などないと言わんばかりに、冷たい月の女王のように背と鼻をそらして御者の用意した台を踏んでしとやかに下りてくる

 〈黒鷹屋敷〉に月の女神の降臨である。

(メリーナ様、そんな態度をとったら嫌われますよ……)

 セラミスは内心気が気ではない。

 どうかバドル家の人々がメリーナを高慢だと嫌わないでほしいと内心心配しながら、セラミスは小声で少年と召使同士の挨拶をかわした。

「こんにちは、イルマ。わたし、セラミスよ。よろしくね」

 セラミスにとっても罪人とその家族、獄吏獄卒、官吏という人種以外の人とつきあうのはほとんど初めてなのだ。何かまちがったことをしていないかと、背がかたくなる。

「あ、ああ。よろしく」

 最初はメリーナを見てあっけにとられていた少年は、セラミスから声をかけられてとまどうような顔をして、つぎに頬を赤く染めた。

 あたりはすでに暗くなってきている。夜の女神ニルベルが黒い衣をひるがえして星の女神サファリアに召集をかけている時間だというのに、それでも相手の褐色の頬がさらに赤くなっていることが知れ、セラミスの方があわてた。

 年の頃はセラミスとおなじか……、一つ二つ下のようだ。同年代の異性と言葉を交わす機会というのは、今までそうなかったのだ。

 しかも間近で見ると、相手は鼻筋の通ったなかなかの美少年だ。首のあたりまでのばしてある巻き毛の髪は、薄闇で目を凝らすとセラミスの髪よりさらに濃い焦げ茶色。セラミスは内心ますますあわてた。

「あの、今日からお世話になります」

「あ、うん。君、バリアの都の人なの?」

「ええ」

 都のどこに住んでいたのだと訊かれたらどう答えようかとセラミスは一瞬悩んだが、すぐにメリーナの声に会話は終わった。

「セラミス、何をしているの?」 

「あ、はい。すぐ参ります」

 いらだたしげに自分を呼ぶメリーナのもとへ足早にむかった。メリーナはすでに石造りの玄関前に立っており、その後ろにはリオルネルが見える。

「ようこそ、我が〈黒鷹屋敷〉へ」

 両びらきの木の扉がひらかれた。メリーナとセラミスの新しい運命がひらけた瞬間だった。


 建物のなかには、黒く古い調度品があちらこちらにならべてある。さすがに壁にかかげられた剣や、鎖帷子きょうかたびら、豹皮の敷物などにひそやかな栄華がしのばれるが、全体に白を基調にした都の貴族の調度趣味に慣れていたメリーナには、この黒を基調にしているような屋敷の雰囲気に気をめいらせられた。

 都の屋敷で見慣れたものは白百合、白絹の衣装、真珠と銀の首飾りだが、ここで目をひくのは黒鷹の置物、黒い覆面に黒い長衣ちょうい、黒曜石をはめこんだ刀剣である。平和な都とちがって、いつ他国と小競こぜり合いになるかわからぬ辺境地方の貴族は、武人趣味にならざるを得ないせいもある。

「姫君にはいささか荒々しいかな?」

 石の階段をさきに行きながらまたもリオルネルはメリーナをからかい、セラミスは階段を上りながらまたやきもきしてくる。

「べつに。ただ、すこし疲れているだけです」

「こちらがそなたの部屋だ」

 大貴族の屋敷にくらべれば、〈黒鷹屋敷〉はちいさく、二階までしかない。だがそれよりも気になるのは人影が見えないことだ。

 セラミスはやや不思議になった。さきほど挨拶したイルマ以外、誰も見えない。

「使用人は、厨房にいる料理女と、男の従者が一人。あとはイルマ」

「そ、それだけですか?」

 貴族の領主の屋敷に使用人が、たった三人とは。セラミスはつい声を高くしてしまった。ひんやりと暗い廊下の果てへとセラミスの声がすべっていく。使用人は足りていると塔では言っていたはずだが。田舎の屋敷ではあまり使用人を雇わないものなのだろうか。

「我が家では何事も自分ですることになっていてな。この屋敷に住む者は皆働かねばならないのだ。姫君にも明日からさっそく働いてもらおう」

 これには落ち着いて見えていたメリーナも、息を飲むように口をあけた。セラミスも耳を疑った。

 貴族の令嬢に働けとは。まさか皿洗いや掃除をしろというのだろうか。

「あ、あのメリーナ様に働けと?」

「そうだ。メリーナ様に、だ」

「わ、わたくしは働いたことなどありません!」

 メリーナが憤慨して言った。

「これから少しずつ覚えればいい。料理人に教えてもらうといい」

(いったいこの方は、何を言っているの?) 

 セラミスは怒りすら覚えてリオルネルを見た。

 覆面の下の顔がどうなっているのかわからないが、本気でこの不幸な姫君を召使代わりに働かせようというなら、それはとんでもない獣の顔がひそんでいるにちがいない。メリーナはそんなふうに扱っていい人間ではないはずだ。

「あ、あの、お屋敷のことなら全てわたくしがします! メリーナ様を召使あつかいするのはやめてください!」

「何を言っているのだ、お前は? メリーナは従者として買ったのだぞ。屋敷にいて食べさせていく分にはそれだけのことをしてもらわないと。役立たずの居候は我が家には必要ない。……それとも」

 リオルネルはメリーナの顎を指でとらえて意味深な言葉を発した。

「屋敷の仕事が厭なら、べつの仕事をするか? 夜のお相手をしてくれるのかな?」

 メリーナの白い頬が薄絹の被衣かつぎごしにも上気したのが見てとれた。

「わ、わたくしは役立たずの居候にはなりません! 置いていただくだけの仕事はします!」

 セラミスはリオルネルの態度に、メリーナ以上に激しい、それこそ怒髪をつくような怒りを感じたが、怒りの炎は一瞬できえ、煤煙すすけむりのような複雑な安堵が胸をみたした。

(……すくなくとも、メリーナ様をお妾にするつもりはないのだわ)

 〈聖断〉で買われた者は夜の相手とされるのが普通だが、それをゆるされる代わりに屋敷の仕事をしろというなら、まだメリーナにとっては幸いかもしれない。貴族の姫君が使用人の仕事をさせられるのは屈辱かもしれないが、乙女の身体と名誉は守られる。

 メリーナも同じことを考えているのだろう。怒りにふるえながらも、今まで張りつめていた肩がすこし柔らかくなったように見えるのは、閨の相手をさせられることはないと知って安心したからだろう。

「お、お嬢様、大変かもしれませんが、わたくしがお手伝いしますから」

「へ、平気よ。わたしだってその気になれば、料理や掃除ぐらいできるわ」

 ふてくされたように言いながらも一番の危機をさけられたことで、メリーナの黒曜石の瞳には希望がもどってきている。

「では、しばらく部屋で休むがいい。夕食は、今夜だけは部屋にはこばせようか? それとも下の食堂でいっしょに食べるかな? メリーナ姫、いやメリーナ」

 メリーナにとって両親と恋人以外の人間に名前を呼び捨てにされたことは、これが初めてだったかもしれない。

 メリーナの瞳はまた怒りの黒い火の粉をはじけさせたが、それは強気をとりもどした者の生命の息吹を感じさせ、セラミスはたのもしくさえ感じた。

「へ、部屋でいただきます」

「よかろう。だが我がままをゆるすのは今夜だけだと思ってほしい」

 それだけ言うとリオルネルは背をむけ、暗い廊下へすすんだ。

 残されたたふたりは彼の背が屋敷の闇に吸いこまれていくのを見とどけ、同時に息をはいた。

「お嬢様、とにかく部屋に入りましょう」

「そうね」

 セラミスが蔦の模様が彫りこまれた両びらきの扉をそっと押すと、別の闇がふたりの前にあらわれる。おそるおそる足をすすめ少女たちは室内に入った。

 セラミスが壁にとりつけられた燭台に気づいて備えつけの火打石で火をともすと、ほのかな明かりが闇を征服し、二人にわずかながらも安らぎをあたえてくれた。

「このお部屋は、貴婦人の為のものなのですね」

 セラミスが感心するのも道理で、薄青のとばりを垂らした天蓋てんがいつきの寝台、すわり心地の良さそうな紅繻子べにしゅすをはった座椅子、床には白い毛皮の敷物というなかなか贅沢なしつらえだった。

 おそらくは屋敷の女当主のための部屋として使われていたのだろう。近づいてよく見ると、薄青色の帳も寝台の銀蘭ぎんらんの褥も最近になって新調されたものらしく、新しい主をむかえるにそなえてよく配慮されていたのがしのばれる。

 セラミスは嬉しくなった。けっしてリオルネルは口で言うほどに、メリーナを粗略には扱っていない。

「今日はもう横になりたいわ」

 メリーナの瞳が敷布に恋しげに吸い寄せられている。

「お湯をいただいてきますわ。お身体をおふきしましょうね」

「たのむわ」

 セラミスはこれしきのことで疲れているわけにはいかない。メリーナを清潔にしてやり、ゆっくりと労わってやらねば。  

 廊下を足早にすすみ階段をかけおり、慣れない屋敷のなかを、まごつきながらもどうにか厨房へたどりつくと、老女に湯桶をねだった。

「それを持っていくといい。このきれいな布を使うといいさ」

 老女の後ろでたばねた髪はほとんど白いが、足腰は丈夫そうで灰色の裾を小気味良さそうにゆらしている。セラミスは育ててくれた塔の老女を思い出し、初対面の相手だというのに懐かしさを感じた。

「どうもありがとう。あの、お婆さん」

「あたしゃ、ダナという名だよ」  

「じゃ、ダナお婆さん、ここにはお婆さんと、さっき会ったイルマと、男の人ひとりしかいないっていうのは本当なの?」

「ああ、そうだよ。イルマは私の孫さ」

 若いころはさぞ美しく輝いていたと思える碧の瞳を皺に埋もれさせるようにして、ダナは笑った。

「そ、それでお屋敷の仕事は全部まかなえるの?」

「とくに忙しい時期でもなければなんとかなるさ。まぁ、ときどき通いの家政婦を農家から呼んだりするけどね、ここはあんまり使用人が居つかないのさ。ちょっと湯が熱すぎるね、水を足そう」

 湯の温度を調節しながらダナは説明した。

「ほら、あんたも聞いているだろう? あの噂」

「あ、あの話?」

「そうさ。ここの旦那様は実は血吸ちすい魔だとか悪魔だとか、魔女の子だとかいう、あのやくたいもない噂さ。馬鹿な女たちはそれを信じこんで、あんまり屋敷に住みたがらないんだよ。本当に愚かしい話さね。旦那様がこれほど領民たちの生活に心をくだいてくださるからこそバドル領の者は皆、他の町や村にくらべたら豊かな暮らしができるっていうのに。恩知らずな連中だよ。あんた、暇があったらスープでも飲んでいくかい?」

「ありがとう。メリーナ様のお世話が終わったらいただくわ」

 セラミスは胸をなでおろした。

 やはり噂はあくまでも噂なのだ。とはいうものの、まだリオルネルを完全には信用できない。メリーナにとって良い人なのか悪い人なのか、判断できる条件が少なすぎる。

 いったいどういう思惑でメリーナを引き取ったのだろう。

 セラミスはそれが一番知りたい。まさか召使にするためだけに大枚はたいとは到底信じられない。どうやら今すぐメリーナをどうこうしようというつもりはないようだが、この先どうなるかもわからない。

 もしかしたらメリーナがもうすこし落ち着いて、もっと大人っぽくなったときに――、乙女のセラミスにとっては厭な想像だが、つまり食べ頃になるまで熟してから、じっくり賞味しようという考えなのかもしれない。

「ねぇ、ダナおばあさん、リオルネル様は、いったいどういうお考えでお嬢様を……引き取ってくださったのかしら?」

 買った、という言葉は使いたくなかった。

「それよ。あたしも旦那様が〈聖断〉で若い娘を身請けするって聞いたときは、てっきり愛人にでもするのかと思って苦い気持ちになったものだけれど、どうやらそのつもりはないようだね。身のまわりの世話をさせるために置くんじゃないかい? 親を反逆罪でうしなって塔に入れられた娘にしたら、そう悪くない話だろう」 

 本当に身のまわりの世話だけですんだら確かに幸運なのだが、身のまわりの世話をするというその言葉には、ときに主人の閨の相手という意味もふくまれている。高級侍女兼妾でもあるのだ。

「まぁ、あたしにゃ、どのみち旦那様のお心はわからないさ。とにかく今日はゆっくり休むといいさ、あんたもお姫さんも」

「ありがとう」

 やはり塔の老女を思い出す。優しい人なのだ。セラミスは、素朴な言葉にひそむ情に感謝しながら湯桶をはこんだ。


 セラミスはぐったりとしているメリーナの着ているものを脱がし、軽くしぼった布で身体を拭いてやり、寝台に入れた。

 メリーナとちがってセラミスは疲れても食欲は健在なので階下へむかい、ダナからスープをふるまわれてやっと人心地ついた。

 明日からのことを思うとセラミスは自分のことよりメリーナのことで頭がいっぱいになるが、きっとどうにかなるだろうと無理に、楽天的に考えた。ザザルの声が聞こえないことがやはり寂しいが、足りないものより有るものに思いをめぐらしながら、その夜は使用人用の小部屋で眠りについた。

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