第13話 茉莉花

 リオヌネル。リオヌネル=バドル殿下。

 それは不吉なひびきを都人に思いおこさせる。

 先の王が側室に生ませた庶子だが、脇腹の王子王女などたくさんおり、一夫多妻が慣例のこの時代、そのようなことはさして問題にならない。

 問題なのは、その側室が〝魔女〟と呼ばれ、その嫌疑を受けて自害した噂のある女だということだ。

 もともとその側室は、北の樹海の辺りにわずかに所領地をもつ中流貴族の娘であり、宮廷に出るようになっても特に目立つことのない女性であったという。

 異国的な風貌は美しいのだが、彼女を知る人の話では、どことなく雰囲気が暗く、あまりぱっとしない貴婦人だったという。性格も内向的で王の関心をひいて寵妃か、あわよくば第二妃、第三妃の座を狙う意気軒昂な貴族の娘たちとはまるでちがっており、いつもにぎやかで派手な後宮の集団から一歩も二歩も退いておとなしくつつましやかにひかえていたという。

 そんな木陰にひっそり咲くジャスミンの花のような風情が、かえって野心や欲望に燃えて強烈な香気をふりまく薔薇や、どぎつい花粉をまき散らす蘭のような貴婦人たちに飽き飽きしていた先王の目を引いたようだ。

 宴の折りに名を問われ、王の隣の椅子に座るように命じられた娘は嬉しげというより、恐ろしげですらあったと、当時宮廷に仕えていた者たちは世の人につたえた。  

 おびえた子猫のようにいつもおどおどして他の姫君や貴婦人たちの目を気にしていた娘は、そうであればあるほど先王の興味をひき、被保護欲をそそったらしい。

娘は本名をリルディ=バドルといったが、誰もその名で呼ぶ人はなく、先王が名づけた〈ジャスミン〉という呼び名で知られ、ジャスミン、もしくはジャスミン=バドルとささやかれ、宮廷で夏をかさねた。

 ジャスミンは宮殿に大理石の床と七色の輝石きせきをはめこんだ壁の、小さな殿舎をあたえられ、宮廷育ちのはえぬきの召使たちにかこまれて、薄青色の絹の帳のなかで夜毎王を待った。

 やがて彼女は懐妊し、月満ちて美しい王子を生んだ。母の懐に抱かれる王子を、「ジャスミンの花びらのうえ露にたわむれる銀珠」と、宮廷詩人はうたったという。

 そこまでなら、大人しく謙虚な娘が国王の愛を受け子を生んで幸せになるという、文字どおり絵に描いたような麗しい宮廷絵巻として年頃の娘たちの胸をときめかせたろう。そこで終わっていれば。

 だが物語はそこで終わらなかった。

 いつごろからか、宮廷ではジャスミンに関して黒い噂が、女たちによって囁かれるようになった。

 ――ジャスミンのお方様は、呪術に通じた魔女ではないか。

 噂のでどころが貴婦人や姫君の朱唇だけであったなら、ただの嫉みと聞き流すことができたろうが、それは料理女たちや掃除婦という下働きの者たちのひからびた唇からこぼれてくるようになり、それだけに信憑性があった。

 事の起こりは正妻が生んだ王子の発病である。そのために宮廷医師をはじめ、国中の名医がよばれ看病にあたっていた。

 そんなときに、料理女が火の始末をしたかどうか気になり、安全のために深夜の厨房に確認に来たとき、そこでジャスミンを見たというのだ。

 最初、女は目の錯覚ではないかと思い、つぎに幽霊ではないかと思った。だが、まちがいなく女は「あれはジャスミンのお方様だ」と言いはった。

 というのも、その影のような女が、茉莉花まつりか、つまりジャスミンの花模様を刺繍したヴェールをかけていたからであり、その花模様を衣にもちいていいのはジャスミンのお方様のみ、という不文律が後宮ではまかりとおっていたからだ。

 宮廷、とくに女たちの住む後宮ではよくあることで、たとえばある妃が薔薇を好めば、他の寵妃側室は衣に薔薇模様をもちいたり薔薇の香水をつかうのをひかえるという、無言の女同士の配慮が慣例としてあった。

 ジャスミンは妃ではないが、側室として殿舎でんしゃをあたえられ、国王の想い女として宮廷で知られていたので、そのような慣例が適用されていたのだ。

 もともと茉莉花自体は薔薇や蘭、百合という高貴な花とちがって、どちらかといえば下々の、庶民の花ということになっていたので、ジャスミンが茉莉花を己の象徴の花として独占したとしても特に反感は出なかったし、それどころか正妃や身分たかい側室たちにつく口の悪い侍女などは「あのお方は宮廷の茉莉花(下流)ですものね」などと皮肉げに嘲笑していたぐらいだ。

 その茉莉花模様のヴェールをまとった不審者の話が、ひとりの料理女の戯言ざれごとですまなくなったのは、目撃者が増えたせいだ。

 洗濯女、掃除婦など後宮の下女だけではなく、やがては門番、宿直の兵士、下級の侍女、宦官のなかにも見たという者がふえ、直接後宮の権力争いにはかかわらない下の者たちの言うことなので、嫌が応にも噂はひろまり、大臣たちもこれは捨ておけぬようになり調査して審議することになった。  

 目撃者たちは、だれしも最初は見まちがいかと思い、幽霊か物の怪ではないかと思ったという。それというのもその妖しい女はまったく音をたてず、また白繻子か白絹のヴェールやかぶりもので顔をかくすようにしており、全体に白霞しらがすみでもまとっているようにぼんやりして見えたせいだ。

 しかも出没するのはたいてい深夜なので、いっそう見分けがつかないが、かすかにヴェールごしに見えた鼻から下にかけての顎や首筋、背は、ほっそりとして品があるようで、とうてい盗み酒や盗み食いにきた下級の侍女には見えなかったという。

 しかもさらに怪しいことに、その女が出た夜にかぎって、王子の熱や癇癪がひどくなる。これはその女が悪い術をもって正妻腹の王子に害をなしているのではないか、水瓶に毒でも入れているのではないか、あの女は王子に呪いをかけている魔女ではないかと宮廷じゅうで囁かれだした。

 王子が母妃とともに寝起きする東の宮殿には、医者のほかにも神官が呼ばれ、王子守護のまじないがほどこされた。やはり彼らが言うには、何者かが東の宮殿に害ある魔術をかけてきているという。正妃は半狂乱になって国王に嘆願した。

 最初、相手にせず聞き流していた国王も、妃の必死の嘆願や、当時西の宮殿で隠居生活をおくっていた王の母である王太后の口添えもあって、無視出来ないようになった。

 なによりも当時の国王には他に寵愛する新たな愛人がおり、自然とジャスミンの殿舎へ足が遠のいており、その事がもしやジャスミンを妖しげな魔術にかりたてたのではないか、という疑惑も彼の胸には生まれていた。

「ジャスミン、わしはそなたを信じたい。だが、正妃のみならず母上までもがこうも疑うようでは調べぬわけにはいかぬ」

 大理石の床に裾を垂らしてひざまずき国王をむかえたジャスミンは、ふるえながらも必死に己の無罪を主張した。

 だが乳飲み子の息子はとりあげられ、別の場所へとうつされ、ジャスミンは三人の宮廷神官の審議を受けることになった。

 調べはきびしく、黒い帳でおおわれた室からは神官たちの怒鳴り声や、ジャスミンの悲しげなすすり泣きが聞こえてきたという。

 それが三日三晩つづき、とうとう執拗な尋問に耐えきれず、ジャスミンは妖術をつかって正妃の生んだ王子に呪いをかけたことを告白した。

 ジャスミンの室から呪術につかった道具が見つかり、室に面する庭からは生贄にささげた子犬の頭などが掘りだされた。花の寵妃は恐ろしい罪人に転じたのだ。

 王室に仇なす術をかけた者は死罪と決まっているが、仮にも王子の生母ということで、国王の格別の恩赦でもって、罪をうちあけた翌日、ジャスミンは息子とともに王宮を追放されただけですんだ。死罪はまぬがれたが生涯実家での謹慎という処罰を宣告された。

 その後、宮廷人がすっかりジャスミンのことを忘れたころに、病で亡くなったという知らせが後宮にもたらされ、自害ではないかという噂もささやかれた。

 犯罪者の生んだ不幸な王子は、王籍を剥奪されたが、母方の家のわずかな財産と王宮からのいくばくかの扶持ふちを得て、樹海のそばの領地で成人した。

 年に一度は父王も不吉で不幸な我が子のもとへ使者を使わして様子をさぐっていたが、宮殿に呼びよせ、みずから会おうとはしなかった。

 魔女の生んだ子、犯罪人の子。現国王の異母弟でもある王家の黒い染み――。それがリオルネル=バドルであり、おもてむきには樹海地方の領主という中流貴族の地位と、臣籍にくだったというはいうものの王家の庶子ということで〝殿下〟の称号をあたえられているが、宮廷に出ることはいっさいなく、貴族同士の社交にも関わることもほとんどなく、世捨て人同然の生活をしているという。

 正式な妻はおらず、当然家族もいない。まだ二十代のはずだが、彼には暗い森のなかの屋敷にひっそりと住む隠者のような印象がつきまとい、貴族の令嬢たちもその親もだれも相手にしようなどとは思わない。

 なによりも、彼自身にも、魔術を使うのではないか、妖術師ではないかという、おぞましい噂がつきまとっているのだ。

 リオルネルの名は不吉なひびきを帯びて都人のあいだに知られており、母親たちは幼子らが眠らぬときは、「夜更かししていると、樹海の殿様に食べられてしまうよ」などといさめたりする。魔女の血をひく悪魔貴族のように伝えられているのだ。


(よりにもよって、そんな方に買われるなんて)

 セラミスはメリーナが気の毒でたまらなくなった。あの少年貴族に目をやると、彼は従者になだめられながらも、その様子は憤懣やる方ないというふうに、いらだたしげに床を蹴っていた。 

 だれもメリーナを助けてやることができない。たまらなくなったセラミスは、メリーナのそばに駆けよっていた。

「メリーナ様!」

 セラミスの声にメリーナが青ざめた顔をむけ、それからリオルネルの方を向き、唇をひらいた。

「リオルネル様……、お願いがあります」

 メリーナははっきりとした声で話した。

「なんだ?」

 黒布をとおしてひびいたリオルネルの声は、意外にもやわからだった。

「この娘を、わたくしの小間使いとして引き取ってください」

 セラミスはびっくりしてメリーナの白磁器のような肌を見つめた。

「我が家には召使は足りている」

 冷たい声がメリーナの願いをはねかえすが、メリーナはひかない。セラミスの袖を、セラミスが驚くほどの激しさでつかんだ。

「ここを出るときは、この娘もいっしょです。そうでないとわたくしは参りません!」

「そなたに選ぶ権利はない」

 声は冷静で情がまるでない。

「いいえ! いっしょです!」

 メリーナは駄々っ子のようだった。

 道理も理非もなく、ただ己の主張をつらぬこうとするその様子は、激しさよりも痛々しさをにじませ、聞いているセラミスの方が辛くなる。

 天地が変わるような経験をしても、メリーナ=サヌバはメリーナ=サヌバであることを止めないのだ。彼女の黒髪の頭上には目に見えない白銀はくぎんの宝冠が輝いているようで、セラミスは一瞬まぶしささえ感じた。いてもたってもいられない。セラミスは床上に我が身をなげだしていた。

「お願いです、リオルネル様! わたし、こう見えても力持ちです。力仕事でも、草抜きでも、お便所掃除でも、何でもします。どうか、わたしをお屋敷で召し使ってください!」

 目はリオルネルに向け、袖の上のメリーナの手をしっかりとにぎりしめ、こうなったら、どこまでもメリーナといっしょだと決意した。

 相手の覆面の下からあきれたように息をはく音が聞こえ、やがて低い笑い声がひびいて、メリーナとセラミスは同時に肩をふるわせた。

 リオルネル=バドルが笑っている。

「わかった。しかたあるまい。娘、名はなんという?」

「セ、セラミスと申します」

「おまえは今日より私の屋敷で召し使う」

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